戯れて朝顔咲きし江戸の夏

ささゆき細雪

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大御所様おおごっさんが?」

 北町奉行所へ出所した嘉一郎は、上司である定町廻同心、平野七兵衛から思いがけない話をきく。

「ああ、隠密に事を処理してほしいとの話だ。嘉一郎、手伝ってくれ」

 快く頷いた後、嘉一郎は首を傾げる。

「秘密裏にってことですが、隠密廻同心とも協力する形ですか?」

 同心といっても種類は様々で、なかには用部屋手付、隠密廻り、定町廻り、臨時廻り、下馬廻り、門前廻り、御出座御帳掛り、定触役、引纏役、定中役、両御組姓名掛り……のような、与力を長としない奉行直行の業務が存在している。嘉一郎は定町廻同心の見習として町の巡回を手伝う立場にいる。
 その、江戸の治安維持に勤める定町廻同心に対して、大御所……隠居された元将軍が命をだすとは、どういうことだろう?
 嘉一郎の腑に落ちない表情を見て、七兵衛も困惑を隠すことなく告げる。

「いや、幕命ではない。大御所様個人のご命令だ」
「というのは?」
「厄介なことで……」

 溜め息ひとつ、吐き出した七兵衛が続けた次の言葉に、嘉一郎も唖然とする。

「江戸城で育てられていた将来の正室が消えたんだと。日本橋に迷子札立てるのも憚れるからお前たちで探してくれ、とな」
「迷子探し?」

 将来の正室と七兵衛は言葉を濁しているが要するに、十一代将軍家斉の生まれた頃から決められた許婚のことだろう。
つまり、大御所様は将軍の花嫁が行方不明になったことを露見させずにこっそり探し出せと、ご所望なのだ。

「姫君の名は近衛寔子このえただこ。公家の娘ということになってはいるが、実際のところ血縁関係はない」
「え」
「彼女の父親は薩摩藩主、島津重豪だ。彼の義祖母の遺言によりこの縁談は調えられたのだが、その頃、家斉殿は将軍継嗣の扱いを受けていなかったんだ」

 それは嘉一郎も覚えがある。当時、継嗣とされていたのは十代将軍家治の息子、家基であった。十八歳の彼が鷹狩りの最中に急死したことで、一橋家の家斉に白羽の矢が立ったのだから。

「将軍の正室は家光以降から公家と決まっている。だから幕府は外様大名の娘を正室にするのを渋ったのだが」
「近衛右大臣家の養女ということにして、婚礼を行うことにされたのですね」
「そうだ。歳の頃は十四、十五。背丈は五尺にも満たない、小柄だ。だが、薩摩の娘らしく目鼻立ちがしっかりし、誰もが美しいと口にしている」

 屋敷で育てられている大輪朝顔の花を思い浮かべ、嘉一郎は呟く。

「大輪の花のように?」
「そうかもしれんな」

 妻子のある七兵衛は興味なさそうに呟く。嘉一郎はまさかと顔を顰め、七兵衛に尋ねる。

「その、姫君の呼称は?」

 近衛寔子という名はあくまで形式上のものであり、実際には違う名があるはずだ。だとすると……
 七兵衛はどこにでもあるような名さ、と困ったように口にする。

「茂姫」


   * * *


 八丁堀町御組屋敷といえば、与力町と同心町。だが実際のところ、八丁堀で暮らす人間すべてが奉行所に関係ある仕事をしているというわけではない。

「まぁどちらの奉行所からも近いから与力や同心が暮らしているってのは間違いじゃないんだけど、同心だけが暮らすには敷地がおおきいから、他の職の人間も暮らしているのよ。お兄ちゃんは形式上あたいたち夫婦に土地を貸してるわけ」
「はぁ」
「だから同心や与力しか八丁堀にはいない、ってわけじゃないのよ」
「勉強になります」
「勉強って……常識だと思うんだけどなぁ」

 たわいもないことを話しながら、木戸門を抜けると、大量の朝顔がふたりを迎える。
思わず茂が感嘆の声を漏らす。

「……ゎ」

 淡い紫、薄桃の絞り、空を映したような水色、白地に群青……いろとりどりの朝顔。眼を輝かせた茂を見て、久音は満足そうに世話をしている少年に声をかける。

「おはよう三太、精が出るわね」

 三太と呼ばれた少年は久音の姿を認めると如雨露を傾けていた腕を止め、向き直る。

「おはようございます久音さま」
「さまはいらないって言ってるのに」

 苦笑を浮かべる久音を、三太はにこにこしながら見つめている。茂はふたりのやりとりを気にすることなく、朝顔が咲く数多の鉢植えに夢中になっている。

「……そちらのお客人は?」

 すこし、顔を赤らめながら三太が訊く。上質な縹の小袖を纏った少女は大輪の朝顔から眼をはなさない。

「お兄ちゃんが拾ってきたの」
「久音さまが僕を拾ってきたように?」

 三太は同じ年頃であろう茂をまじまじと見つめている。茂はその視線に気づかず白い朝顔に顔を近づけ、仄かに香る花の匂いに酔いしれている。

「うーん、それとは違うかなぁ」

 嘉一郎が茂を拾ってきたのは事実だが、久音が三太を拾ったのとは状況が異なる気がする。

「ですよね」

 三太は渋る久音に対してあっさり頷いている。下町で両親を亡くした後、乞食として一年生き延びた少年は、縁あって石和家の敷地を間借りしている老夫婦の養子となった。そのため彼は恩を返すべく屋敷での下働きを自ら行っている。この少女も三太と同じように天涯孤独になってしまったのだろうか。だが久音の反応を見るとそうではないようだ。
事情はわからないが、彼女のために何かできればいいなと三太は思う。自分が丹精こめて育てている朝顔にも負けないくらいきれいな女の子を前に、三太は淡く頬を染める。

「……きれいなおんなのこですね」

 そう言って、茂を見つめつづける。ようやく三太の視線を察したのか、茂が顔をあげる。
 ふたりの視線が絡む。
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