4 / 56
prologue
シューベルトの妻 + 4 +
しおりを挟む重たい。
鍵盤に乗せた指は弾きたくないと喘ぎながら渋々動き出す。
自分が卑屈になっているのはわかる。父親が偉大なピアニストであるのは事実だから、それを認めて誇ればいいのに、わたしはそれをできずにいる。要するにまだ、反抗期は続いているんだろう。
昨日の夜、いつもより少しだけ遅く帰ってきたわたしだが、ママは何も言わなかった。レッスンを仮病で休んだなんて、言う必要もない。
寝る前に鍵盤に向かった。今日聴いた音を、自分が思ったように弾いてみた。
クラシックとは異なる音の動き。柊の奏でた生きた音色。それはまるで、寄せては返す、波のよう。
ふぅ、と息をつく。
……何、自棄になってるんだろう。
明日、どんな顔して柊と会えばいいんだろう。どういう風にグラン・デュオを奏でればいいんだろう。
せっかく、柊がわたしのために連れて行ってくれたのに。逃げるように帰ってしまった。
飛び出した自分に非があることは事実。周囲から鏑木壮太の娘として期待されているのもまた事実。だけど。
舞台で演奏していた柊の姿を見た時、わたしは確かに感じていた。嫉妬や羨望や悔しさよりも真っ先に感じていたじゃないか。
「すきになっていたんだ……だから」
心の中でくすぶっていた不協和音の原因。それを認めるのは怖い。怖いけど、それがわたしの本当の気持ち。
柊に、恋したわたしの気持ち。
硬くなっていた蕾が、綻ぶようなそんな感覚。
だから嫌だったんだ。彼に、自分のことを鏑木壮太の娘って呼ばれるのが。ママですら、わたしのことをピアニストの娘だからできて当然だと音楽を押し付けたのだから。だけど、柊は違うと思った……いや、思いたかった。
柊にだけは、わたしのことをわたしとして見て欲しかった。だけど、裏切られたような言葉にわたしは傷ついてしまったんだ。
おそるおそる黒鍵にふれる。
凹凸部分をなぞりながら、紡ぎだす。リストの愛の夢第三番。柊のことを想いながら。
……一箇所も間違えなかった。皮肉だ。
* * *
恋心を自覚した女の子が、すきな人に接近すると、今まで自然にできたことができなくなるような気がする。
練習室で柊と二人っきり。当たり前のシチュエーションに今更ながらどきどきするわたし。
あれから柊は何も話さない。わたしも何も話さない。無言で椅子に腰掛けピアノに向かい、互いのパートをギブアンドテイク。
二人の演奏は機械のようだ。オルゴール工場のオルゴールみたい。そんなことを考えたら少しだけ笑えてきた。だから、不審そうな顔をしている柊に声をかけた。二日ぶりに。
「知ってる? シューベルトって腸チフスで死んだって言われてるけど、実際は梅毒の治療に使われた水銀による中毒だって説があるんだ」
柊は首を縦に振る。そして逆に聞き返す。
「じゃあこれは知ってるか? シューベルトの初恋の女性はパン職人と結婚したんだ」
「どうして?」
「芸術家は金がないからさ」
自嘲するように言って、彼はピアノに向かう。先日ライブハウスで弾いた曲の低音部。
わたしはそのときの状況を思い出して、指を滑らせる。わからないところはアドリブで。彼の音楽に、自分が合わせる。
いつの間にか無言で指を動かしていた。お互いに張り合うようにパートを交換しながら、同じ曲を何度も何度も繰り返す。繰り返しているうちに曲の調子が変化していく。アレンジされた新しい曲。それは化学実験を繰り返して生まれた新種の鉱物みたい。
どちらからともなく、笑い声が零れる。わたしたちが奏でたのは、シューベルトが作曲した偉大なる二重奏ではない。自分たちで作ってしまったグラン・デュオ。
「そういう顔もできるんだ」
弾き終えて、くすくす笑いつづけるわたしの耳元で柊が囁く。耳朶を優しく揺する低い彼の声は、わたしの頬を赤らめるには充分すぎる。
「何」
「楽しかったよ」
そのときは、彼が口にした一言の重さに気づけなかった。弾き終えた達成感が、わたしの感覚を麻痺させる。だから深く考えなかった。
繊細な彼の指が、わたしの顎骨にふれる。甘い疼き。彼の指が、震えている。
柊の双眸を見つめながら、首を縦に振る。
「わたしも」
そして、どちらからともなく、片方の手を握り、指を絡める。彼の顔が近づくのを見ながら、瞳を閉じる。
共にした感覚は、一瞬。
0
あなたにおすすめの小説
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています
紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、
ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。
「もう君は、僕の管理下だよ」
退院と同時に退職手続きは完了。
住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。
外出制限、健康管理、過保護な独占欲。
甘くて危険な“保護生活”の中で、
私は少しずつ彼に心を奪われていく――。
元社畜OL×執着気味の溺愛社長
囲い込み同棲ラブストーリー。
【完結】泡になった約束
山田森湖
恋愛
三十九歳、専業主婦。
夫と娘を送り出し、静まり返ったキッチンで食器を洗う朝。
洗剤の泡が立っては消えるその繰り返しに、自分の人生を重ねながら、彼女は「ごく普通」の日常を受け入れている。
愛がないわけではない。けれど、満たされているとも言い切れない。
そんな午前中、何気なく出かけたスーパーで、背後から名前を呼ばれる。
振り返った先にいたのは、かつて確かに愛した男――元恋人・佐々木拓也。
平穏だったはずの毎日に、静かな波紋が広がり始める。
苦手な冷徹専務が義兄になったかと思ったら極あま顔で迫ってくるんですが、なんででしょう?~偽家族恋愛~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「こちら、再婚相手の息子の仁さん」
母に紹介され、なにかの間違いだと思った。
だってそこにいたのは、私が敵視している専務だったから。
それだけでもかなりな不安案件なのに。
私の住んでいるマンションに下着泥が出た話題から、さらに。
「そうだ、仁のマンションに引っ越せばいい」
なーんて義父になる人が言い出して。
結局、反対できないまま専務と同居する羽目に。
前途多難な同居生活。
相変わらず専務はなに考えているかわからない。
……かと思えば。
「兄妹ならするだろ、これくらい」
当たり前のように落とされる、額へのキス。
いったい、どうなってんのー!?
三ツ森涼夏
24歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務
背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。
小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。
たまにその頑張りが空回りすることも?
恋愛、苦手というより、嫌い。
淋しい、をちゃんと言えずにきた人。
×
八雲仁
30歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』専務
背が高く、眼鏡のイケメン。
ただし、いつも無表情。
集中すると周りが見えなくなる。
そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。
小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。
ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!?
*****
千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』
*****
表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101
フリーランスエンジニアの優しすぎる無償の愛
春咲さゆ
恋愛
26歳OLの木崎茉莉は人生のどん底にいた。上手くいかないことに慣れ、心を凍らせることで自分を守る毎日に絶望した茉莉は、雨の夜に思わず人生の終わりを願ってしまう。そんな茉莉に手を差し伸べたかっこいい彼。茉莉は、なぜか無償の愛のような優しさをくれる不思議な男性に少しずつ救われ、前を向いていく。けれど、疑ってしまうほど親切な彼には、親切であり続ける理由があって……。雨の夜の出会いがもたらした、優しくも切ない物語。
カモフラ婚~CEOは溺愛したくてたまらない!~
伊吹美香
恋愛
ウエディングプランナーとして働く菱崎由華
結婚式当日に花嫁に逃げられた建築会社CEOの月城蒼空
幼馴染の二人が偶然再会し、花嫁に逃げられた蒼空のメンツのために、カモフラージュ婚をしてしまう二人。
割り切った結婚かと思いきや、小さいころからずっと由華のことを想っていた蒼空が、このチャンスを逃すはずがない。
思いっきり溺愛する蒼空に、由華は翻弄されまくりでパニック。
二人の結婚生活は一体どうなる?
押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました
cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。
そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。
双子の妹、澪に縁談を押し付ける。
両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。
「はじめまして」
そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。
なんてカッコイイ人なの……。
戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。
「澪、キミを探していたんだ」
「キミ以外はいらない」
氷の上司に、好きがバレたら終わりや
naomikoryo
恋愛
──地方から本社に異動してきた29歳独身OL・舞子。
お調子者で明るく、ちょっとおせっかいな彼女の前に現れたのは、
“氷のように冷たい”と社内で噂される40歳のイケメン上司・本庄誠。
最初は「怖い」としか思えなかったはずのその人が、
実は誰よりもまっすぐで、優しくて、不器用な人だと知ったとき――
舞子の中で、恋が芽生えはじめる。
でも、彼には誰も知らない過去があった。
そして舞子は、自分の恋心を隠しながら、ゆっくりとその心の氷を溶かしていく。
◆恋って、“バレたら終わり”なんやろか?
◆それとも、“言わな、始まらへん”んやろか?
そんな揺れる想いを抱えながら、仕事も恋も全力投球。
笑って、泣いて、つまずいて――それでも、前を向く彼女の姿に、きっとあなたも自分を重ねたくなる。
関西出身のヒロイン×無口な年上上司の、20話で完結するライト文芸ラブストーリー。
仕事に恋に揺れるすべてのOLさんたちへ。
「この恋、うちのことかも」と思わず呟きたくなる、等身大の恋を、ぜひ読んでみてください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる