Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

ささゆき細雪

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chapter,1

シューベルトと春の再会 + 4 +

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「何を笑っているんだい」
「……死ぬ死ぬ言いながら、お互い図太く生きてますね」
「そうだな。ねね子も軽井沢の空気が合ったみたいで良かったよ。添田も貴女の仕事っぷりを褒めていたし」
「そう、なのですか?」

 三年前の夏、上野から新幹線に乗って軽井沢の駅へ降りたったわたしを迎えてくれたのは、ホテルマンのようななりをした初老の男性だった。添田、と名乗った彼は須磨寺一族が所有している別荘地“星月夜のまほろば”の実質上の支配人だった。
 執事として夫に仕えているという彼は、わたしを見て「奥様?」とたいそう驚いた顔をしていた。このときになって、自分は須磨寺喜一の妻になることを意識したのだ。

「峰子はピアノだけが取り柄の箱入りお嬢様でね。家事はからっきしダメだった。ねね子もはじめはそうだったが、いまじゃあ家政婦と一緒に一通りの仕事ができるようになったんだものなあ。若いと覚えが早いんだろうな」
「だけどはじめは驚きましたよ。軽井沢に着いたとたん、ウェディングドレスを準備されるんですもの」

 わしを看取れ、それが彼のプロポーズの言葉だったのだ。
 そして添田に用意されたドレスに袖を通し、教会へ連れていかれた。自分ひとりの写真を撮られた。その写真はわたしを金づるとしか思っていない親族へ送り付け、もう二度と近づくなとけん制するために撮影したのだという。現に都内のマンションを引き払ってから、彼らと接触することはなくなった。それだけで、ずいぶん気持ちが楽になったのを覚えている。

 花嫁姿の写真撮影を終えた教会で誓いの言葉を交わすことはしなかった。
 けれどもその場でサインを求められた――婚姻届の。

「写真を撮って、鏑木って名字じゃなくなったからなのか……憑き物が落ちたかのように、身体が軽くなったんですよ」
「……ねね子、なぜあのとき拒まなかった?」
「拒む? なぜ?」
「……貴女はまだ若い。こんな老いぼれを看取るためだけに婚姻届にサインするなんて、莫迦げたことだと思わなかったのか?」
「だって、旦那様が望まれたからでしょう?」
 何をいまさらそのようなことを言っているのだろう。ピアノの弾けないピアニストなど無価値で、誰からも必要とされるわけがないと言っていたわたしを、必要だと引き留めてくれたのは目の前にいる夫だけだ。父のピアノを預ける代わりに、婚姻届にサインしたわたしを夫は無表情で見つめていた。

「……そうだったっけな」

 言葉を濁しながら、寝台からゆっくりと立ち上がった夫はわたしの隣に座る。
 父親が遺してくれたアップライトピアノは、すこし音が飛んでいる。

「調律は?」
「添田が手配してくれたよ。今回はわしは病院の日だから立ち会えないだろうが……前回も来てくれた紫葉って男の調律師だ。若いが、とても腕がいい」

 ポンポーン、と白鍵に指を置いた夫は、わたしの出方を確認するように即興でメロディラインを奏ではじめる。ジャズセッションみたいに、一台のピアノで語り合うのが、さいきんのわたしたちの夫婦の戯れ方だ。

「若くていい男がいたら、わしのことなどとっとと見限っていいんだぞ」
「看取ってから考えます」
「それでいい。ただ、遺産相続は添田に任せろ。貴女の存在はヒミツにしているからな」
「まあ」
「若い後妻がいるなんて知られてみろ。遺産目当てだと騒ぎ立てられて無一文で追い出されるに決まってる。せっかくわしが死にそうな貴女を拾ったんだ。この土地も、ピアノも……にしか渡さないから……」

 売っぱらって構わないと言いながら、わたしにしか渡さないなんて矛盾したことを言って、夫は指を黒鍵へ滑らせる。
 ポロロン、と奏でられた即興曲は、どこかもの悲し気なイ短調へと移り変わっていた。


   * * *


 夫は月に一度、病院へ定期診断を受けに行く。
 もうすぐ死ぬ死ぬと言いながら、まだ大丈夫ですよと迎えに着たヘルパーさんたちに囲まれて、車に乗せられていく。どのような病気かは詳しく教えてもらっていないが、心臓に爆弾を抱えているようなものだと彼は言う。循環器系も廃れてきたため、寿命が近いのは事実だと嗤う。
 残されたわたしは今日やってくるという調律師のために、添田とともに別荘地に設置している三台のピアノを確認していた。

「以前、コンサートチューナーによる調律を見たことがあります。会社が委託した調律師さんがホールのピアノを演奏前に調律されてて」
「紫葉さまでしたら前回もこちらのピアノを調律されておりますので、奥様がはじめからこの場にいる必要はありませんよ。終わる頃にわたくしがお呼びいたします」
「わかりました。添田さんいつもありがとうございます」

 涼しい顔をしている添田は、音楽で生計を立ててきた夫と異なり、ピアノの知識は殆ど持っていない。ピアニストだった頃のわたしを知らない彼だが、わたしが音大でピアノを学んだことは夫から知らされているのだろう、調律が終わったら顔を出して欲しいと頼まれる。

「終わる頃には旦那様もお戻りになるでしょう。ぜひ、紫葉さまの演奏をお聴きください」

 彼のピアノの腕は耳の肥えた夫をも唸らせるものだという。
 添田もどこか嬉しそうな表情をしているし、その調律師、只者ではない気がする。
 わたしは「楽しみにしています」とだけ応え、自分が暮らす屋敷へと戻るのだった。
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