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chapter,1
シューベルトと春の再会 + 5 +
しおりを挟む“星月夜のまほろば”には五棟の平屋の別荘が距離を置いて建っている。管理人が暮らす邸宅はその土地よりもすこしだけ標高の高い場所にある二階建てのこぢんまりとした洋館だ。
契約している会社の厚生施設として使用されているこれらの別荘にはふだん鍵がかけられており、シーズンがはじまるまでは通いの家政婦が週に数回掃除をするためだけに扉を開いている。白樺並木に並ぶログハウスは、夏休みになると会社の家族連れの利用でより賑やかなものになる。
夫とわたし、添田らが暮らす洋館には、玄関ホールにグランドピアノ、応接間にアップライトピアノ、そして二階の寝室にわたしが運ばせた父親のアップライトピアノが設置されている。冬場は寒いから全室床暖房完備。夏は涼しいのでこちらで暮らしはじめてからはエアコンの風が苦手になってしまった。
四月のいまの季節は夜間だけストーブを使っているが、調律師が玄関先での作業を先に行うというので、ストーブの用意をした。すべての調律が終わるまで待っているように言われたわたしは、手持ち無沙汰になって、二階の寝室で不貞腐れている。
――調律師さんの作業、見たいのにな。見られるの、イヤなのかな。
自分だって人前でピアノを弾くことができない身の上なのに、そんなことを思ってしまった。
ただ、ピアノの調律がはじまったのは、音だけで判断できる。
ポーン。と軽やかな音が玄関先から響き出す。
グランドピアノの調律がはじまったのだ。
弦楽器にあたるピアノの調律はアクションの整調をはじめハンマーの整音など、複雑で精度を要する作業が多い。ピアニストのクセみたいなものもあるから、同じ調律師の手によって合わせてもらわないとイマイチになってしまうこともある。
夫や添田が信頼しているという紫葉は、昨年もその前もピアノの調律を担当しているのだという。昨年は家政婦と一緒に買い出しにでかけている間に調律が終わってしまったらしく、帰っていく黒い車しか見ることが叶わなかった。その前の年はまだ、わたしが軽井沢にいなかった。
「……あれ、この曲」
鍵盤を叩く柔らかな音に、耳を傾ける。ベートーヴェンの第一番第四楽章。暗譜しているのだろうか。だとしたら、たしかに只者ではない。
玄関のグランドピアノの調律が終わったのだろう、ピアノの音が消える。
次は、大広間のアップライト。こっそり後ろ姿を覗きに行こうかな。
調律師の作業を邪魔しないように、こっそり。
* * *
男の人の話し声に、思わずドキッとしてしまった。
添田と熱心に話し込んでいた男の背中を見て、彼が調律師の紫葉なのかと理解する。
何を話しているのかはわからなかったけれど、一通りの調律が終わったみたいだ。彼が深呼吸をしてピアノを奏ではじめる。
これ――シューベルトの、セレナーデだ!
わたしがピアニストとしてデビューした際に音大ホールで弾いた曲を、彼が演奏していた。
夢と希望で満ち溢れていた頃の自分を彷彿させる、彼の流れるような演奏から、目がはなせない。
だから。
「奥様? 終わったらお呼びすると言いましたのに」
「奥様?」
添田の声で、わたしは我に却る。
その瞬間、紫葉がこちらに顔を向けて――……
「帰ったぞ、ねね子や。おや、紫葉くんもまだいたのか」
「ご無沙汰しております、旦那様」
「お久しぶりだな、すっかり男前になりおって」
「恐縮です……ところで、そちらの方は?」
「ねね子、紫葉くんの演奏はすばらしかろう?」
わたしは紫葉の顔を見て、固まっていた。
シューベルトを演奏した調律師が、かつての初恋のひと――柊礼文にそっくりだったから。違うのは、瞳の色くらい……アキフミは漆黒の瞳だったけれど、彼の双眸は、琥珀色みたいに、明るかったから。
それに彼は、わたしを見ても無表情のままだった。だから他人の空似だと思ったのだ。
* * *
夫は紫葉に「可愛いだろう? ねね子のピアノはわしだけのものなのさ」とわたしの自慢をはじめていた。もうすぐ三年になりますと告げる添田の言葉にも興味なさそうに、彼は黙々と次のピアノの調律に向かう。
身近で調律を見るのは久しぶりだ。器用な紫葉の手の動きを追いかけるうちに、そういえば、ともに連弾した彼の手もこんな風に器用だったなと、場違いなことを思い出してしまった。
彼は別人だと心の中で何度も念じながら、紫葉の作業を背後で見守る。
やがて、彼が調律を終え、一曲披露するからとこちらを向き、わたしの方へ、ぶっきらぼうに声をかける。
「――奥様、リクエストは?」
その声は、かつての初恋のひとにそっくりで。
わたしは思わず口にしていた。
「もういちど、シューベルトの、セレナーデを……お願いできますか、調律師さん」
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