Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

ささゆき細雪

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chapter,2

シューベルトと初夏の愛人 + 1 +

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 夫、須磨寺喜一が亡くなったのはその日のお昼前だった。明け方に会話をして、寝室でピアノを弾きつづけたわたしは彼の意識がなくなっていることにも気づかずにいた。
 昼ごはんをどうするかと部屋に訪れた添田が、夫の異変にまず気づいた。医師と牧師を部屋に招き、危篤状態の夫の消えゆく呼吸を確認し、聖餐式が執り行われる。
 聖書の一説が読み上げられ、永遠の安息を祈る言葉が、臨終の場に響く……
 ひんやりとした寝台のシーツと、死後硬直のはじまった身体を前に、わたしはピアノ曲を捧げた。今日はショパンの気分……そのとおりだ。
 長調でありながら悲しい音色を奏でる、世界で一番美しいといわれているエチュード。

 ――別れの曲。

 ばたつく周囲をよそに、わたしは必死になってピアノを弾きつづけた。
 感情を露わにして、鬼気迫る表情でいまにも泣きそうなわたしのピアノ。
 生きている音色とは、こういうことなのだなと、今になって痛感した。
 彼のように軽井沢の土地を守りながら、ピアノを愛した人生を、わたしは引き継げるだろうか。
 問いかけるように、ショパンの別れの曲を、奏でつづけた。それくらいしか、いまの自分にできることはなかったから。
 最後の最後まで「愛している」とは誓わなかったし言わなかった、年老いた夫に向けて。


   * * *


 葬儀は必要ないと口を酸っぱくしていた夫だったが、添田が事前に手配していた教会の牧師によって葬儀式が淡々と進められていった。臨終の聖餐式の後は末期の水とり、それから遺体を清めた後に祈りとともに行われる納棺式……
 遺体には白いガウンをかけられ、白い花で包んだ彼の身体を自分たちの手で棺へ納めた。黒い布で覆われた棺には白い花で作られた十字架が飾られた。そのままなだれ込むように屋敷の人間のみで前夜祭が行われ、賛美歌の斉唱と聖書朗読、そして故人を偲ぶ想い出話をして、慌ただしい一日が過ぎていった。
 敬虔な信徒ではないと夫は言っていたが、牧師がいうには、むかしから礼拝に訪れていたという。彼は教会のパイプオルガンで賛美歌の演奏もした経験があるんだとか。三年近く一緒に生活していたというのに、わたしは夫のことを知らないままだったのだなと、呆れてしまった。
 こんなにもわたしを守っていてくれたのに。

 翌日もわたしがはじめて軽井沢に降り立った際に連れて行かれた教会で、葬儀式のつづきが行われた。仏教式でいうと昨夜の前夜祭がお通夜で、今日が告別式になるわけだ。
 両親が亡くなったときに着て以来の喪服を身にまとったわたしは、喪主として、最初に献花を行った後、数少ない参列者を見つめ、息を飲む。

 ――調律師さん、来てくださったんだ。

 ブラックスーツ姿の紫葉は、祭壇前で一輪の薔薇をくるりと回し、慣れない手つきで献花をしていた。わたしが凝視していることに気づいたのか、ふいとこちらに顔を向けて会釈する……ほんの数日前に屋敷のピアノを調律してくれた彼が、夫の葬儀に当たり前のように参列していたのが不思議に思えたが、きっと添田が報せたのだろうと判断して、わたしは無言で頭を垂れた。

 キリスト教での死は不幸なものではない。
 そのため、参列者たちは口を揃えて神への感謝の言葉と祈りを捧げる。
 出棺式を行った後、火葬場にて故人との最期の別れをする際にも、牧師による聖書朗読が行われた。
 骨揚げを待つ間に参列者に挨拶すれば、彼らは若い後妻を憐れむような視線を向けた。
 これでも添田が厳選した参列者だ、血のつながりのある人間は殆どおらず、生前彼が懇意にしていた近隣の人間と、別荘管理や屋敷に務めていた従業員、合わせても二十人弱。もし盛大な葬式を行うとなったら、わたしが喪主などつとまらなかっただろう。

 すべての儀式が終わり、屋敷に戻ったのは夕方だった。

 骨になった夫はとても軽い。
 応接間の、峰子さんのピアノのとなりに祭壇を設置して、骨壷を置く。
 わたしは「安らかな眠りをお祈りいたします」と言いながら帰っていく参列者をひとり、またひとりと見送った。そのなかに調律師の紫葉の姿はない。何も言わずに帰ってしまったのだろうか、ときょろきょろ視線を動かせば、真剣な表情で添田と話している彼の姿が見つかる。いったい何を話しているのだろう……?

 やがて、添田が部屋からはなれ、彼がくるりとこちらを向く。琥珀色に見えた瞳の色は、今日は漆黒だった。黒はレイヴンクロウのアキフミを彷彿させる色。まるで死者を迎えに来たワタリガラスのように見えて、わたしの心臓は早鐘をうちはじめる。
 いつの間にか、応接間にいる人間はわたしと紫葉のふたりきりになっていた。
 ゆっくりと、こちらに近づいてくる。
 わたしは思わず顔を俯かせていた。夫を亡くしたばかりなのに、彼にときめいてしまう自分がいたたまれなくて。
 だってだって、いま目の前にいる彼はこんなにも。



「ねね子さん……いや、ネメだろう?」
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