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chapter,2
シューベルトと初夏の愛人 + 2 +
しおりを挟む「――もう二度と、お前を他の男のモノになんかさせないからな」
抗おうと思えば抗えたはずなのに、わたしはアキフミの口づけを受け入れていた。死んだばかりの夫の骨が置かれた部屋で、わけがわからないまま、若い男に求められて、きつく、きつく抱き合っていた。
喪服のスカートがくしゃくしゃになることも気にしないで、逞しい腕に身体を締めつけられたわたしは、アキフミからのキスに翻弄されつづける。
「ゃ……ダメ、こんな、ところで」
「ネメ。いまからこの屋敷の主は俺だ。おとなしく、俺の言うことをきけ」
「はぅ……ン」
高校時代は唇をふれあわせるだけのキスだったのに、九年経ったわたしたちは、そこから先の、舌先と唾液を絡ませる深いキスをしている。やり方なんかわからないのに、アキフミに舌を差し出すよう要求されて、吸い取られて、甘い疼きを与えられてしまう。
夫との間でキスをしたことはなかった。肌を重ねたことも。「白い結婚」という言葉があるが、まさにわたしと夫のためにあるような言葉だと思っていた。
唇を重ねて舌先を這わせているだけなのに、いけないことをしているみたいで、立っている感覚が危うくなってくる。腰が砕けそうになって、アキフミの腕に甘えてしまう。酩酊するようなキスを与えてきた彼は、満足そうにわたしを抱えて、うっとりした表情で改めて告白する。
「ずっと、探してた……三年前に忽然と公から姿を消したあのときから」
「アキフミ」
「約束を叶えたくて、必死になっていた俺が、莫迦みたいじゃないか……お前が異国のパトロンに拾われたなんて噂を耳にした日には気が狂いそうになった……けど、まさかこんな形で再会するなんて」
「……立派になったね、アキフミ」
それに比べて自分は、なんというザマだろう。フリーのピアノ調律師として活動しながら、紫葉リゾートの社長の椅子に座り、鮮やかなまでにわたしと夫が守っていた軽井沢の土地とピアノをかっさらっていったアキフミを前に、恥ずかしさで身体を震わせる。
「たまたま、運が良かっただけさ。お袋の再婚がなかったら、俺は自分のために勉強をすることもできなかったし、お前を探すこともできなかったはずだ。だから、こんな形だけど、純粋に逢えたのは、嬉しい」
「わたしも」
柔らかい表情で逢えて嬉しいと口にするアキフミに絆されるように、わたしも頷いていた。
けれど、彼は悲しそうに顔を曇らせて、わたしを抱き寄せる。
「須磨寺が死ぬまでは、黙ってろって言われたから、言えなかったんだ」
「……そう、だったの?」
「俺は昨年の調律でこの屋敷に来たときに、お前がここで暮らしていることを知った。二階の寝室の写真を見つけたとき……ショックだった。けれど、お前を守るために選択されたことだと知って、反論できなかった」
自分はまだ何も知らない子どもだと、彼は強く思い知らされたという。彼女を守るために、父親の師が結婚という形を選び、ピアニストではなくなってからも賢く生き抜くために新たな仕事を与えたことは、アキフミには信じられないことだったのだろう。
「けど、あの男が死んだらネメはまたひとりぼっちになってしまう。この土地での暮らしに愛着を持ち始めたお前を、俺は守りたくなったんだ」
それなのに、須磨寺が死んだらこの別荘地とピアノは売りに出されるなんて噂が独り歩きしていたから、彼は義姉を出し抜く形で紫葉リゾートの社長になったのだと独白する。
わたしと対等でいたいと調律師の資格を取っただけでなく、社長の肩書まで手に入れた彼を前に、目が点になる。
わたしが親族間でつまみ出され、ピアノだけを持って絶縁し、たったひとり彷徨っていたのを拾ってくれた夫のことを知って、アキフミは悔しいけれど、感謝していると言った。
だからこれからは夫に代わって自分がネメの傍にいたいと、アキフミは一息に告げる。
「お前が須磨寺のことを悪く想っていないことも知っている。けれど、俺はずっとずっとお前が欲しかった。心が彼の方に向いているのなら、俺の方に向くまで待ってやる」
夫を亡くしたばかりのわたしを悼むように、アキフミは言い放つ。けれど、そのつづきの言葉に、わたしは絶句する。
「が、身体の方はそうもいかない……これから一緒に別荘管理の仕事をしながら暮らしていく。そのことを考えると、この先、俺の劣情を沈めてくれるのは、お前しかいないんだ」
「?」
わかるな? と目で訴えられてもわたしは理解できずに硬直する。
つまりこの男は、わたしの心が自分に向いていなくても、身体だけは自分のモノにしたいと、そう言っているのだろうか。夫を亡くしたばかりのわたしに、身体で慰めあおうと?
「つまり、アキフミは……この土地とピアノを守ってくれる代わりに、わたしの身体が欲しいの?」
「ネメ?」
「……別に構わないよ」
投げやりに応えれば、アキフミが唖然とした表情を浮かべる。
まさかわたしが気安く応じるとは思わなかったのだろう。幻滅したかもしれない。だって彼が知るあたしは九年前の、青臭いだけのピアニストの卵だったわたしで、いまの腐りきったわたしではない。生まれて二十六年来男を許したことはないけれど、彼がこの軽井沢の土地とピアノを守ってくれる代わりにわたしを求めるのならば、別に愛人扱いされても構わない。
いまさら初々しい約束を添い遂げたくても、わたしはバツのついた未亡人。成り上がったシューベルトの妻に相応しいのは、落ちぶれた元ピアニストのわたしではない。
紫葉リゾートの社長になった彼はただ、初恋を美化しすぎているだけ。
「わたしでよければ、シューベルトの愛人になってあげる」
だから、きっぱりと言い放つ。
せいぜい飽きるまで、わたしを傍に置けばいい。
どうせ、夫を亡くしたわたしにはこの軽井沢の土地とピアノしか縋るものが残されていないのだから……
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