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壱
冬姫との出逢い
しおりを挟む暦の上では夏に入るというのに、美濃の空気は涼しいというよりむしろ冷たく、身をキッと引き締めさせる。昨日までつづいていた卯の花くたしの名残だろうか、若干、地面がぬかるんでいて足を滑らせる。
「帆波、はやくしないと鶴千代さまの宴が終わってしまうわ!」
だというのに帆波が仕える女主人は慣れた足さばきでぬかるみを突っ走って行く。歩きづらいと文句を言っても知らん顔だ。
九州豊後国から南蛮の宣教師たちとともに通詞として上洛したはずの少女は、げんざい織田信長の居城である稲葉山の岐阜城で生活している。
養父の大友宗麟に「煮るなり焼くなりすきにしろ」という意味に近い形の手紙とともに信長に献上されるかたちで追い出された少女は渋々、帰城する彼とともに岐阜へ渡った。
そこで自分の名を「帆波」と改めさせられた。なぜ帆波なのかと尋ねると「いまの名では仰々しすぎる」かららしい。南蛮文化が受け入れられている豊後国にいた頃は気にもしていなかったが、こちらで名乗るにはたしかに仰々しいかもしれない。特に不足もないので少女は頷き、その日から帆波となった。
金髪碧眼の帆波を、岐阜城のひとびとは驚きながらも優しく迎えてくれた。整備された城下町に賑わう活気溢れるひとびとの声もまた、事態に混乱していた帆波を正気へと戻してくれた。
この国の主の力量を目の当たりにした帆波は、彼に反発する気力を失っていた。彼が自分を側室に望まないと言いながら連れ帰ったのはなぜか、行く当てがないから仕方なくなのか、それとも単にこの容姿が珍しいから傍に置いておこうとでも思ったのか、理由などもはやどうでもいいとぼんやり考えていたときに、帆波は出逢ったのだ。
「お待ちください、冬姫さま!」
――織田信長の娘、冬姫。
帆波は彼女の侍女として、仕えることになったのである。
* * *
それは、帆波が岐阜城に連れられた翌朝のこと。自分が寝泊まりしていた室に、前触れなしに少女が訪ねてきたのだ。
「帆波、旅の疲れはもう取れたかしら?」
ぬばたまのような円らな瞳を潤ませる幼さの残る少女を前に、帆波は硬直する。誰だ、この子は。
着ているものは瑠璃紺に小手毬の白花模様をあしらった上品ながらも地味な小袖で、艶を帯びた長い黒髪は使いの女童がするように左右に分けて結われていたが、気品ある物言いと仕草が彼女はひとを使う人間だと言わしめていた。たぶん、この城の主である信長の娘のひとりだろう。帆波はこくりと頷き、少女の前に物音を立てずに跪く。
「お父さまから聞いたの。今日から、あなたがわたしの面倒を見てくださるのでしょう?」
数えで十五になる自分よりみっつよっつ年下であろう少女は、その名を冬といった。父親の信長が「冬に生まれたから冬だ」という理由でついた名前らしいが、兄姉たちのなかには道具などからとられた個性的な名前を持っているものも多いため、彼女のその名はひどくまともに思えてしまう。
「とても変わった髪と瞳を持っているのね、綺麗……」
彼女は帆波の容姿を怖がらなかった。父親から前もって伝えられていたからなのか、素直に帆波の黄金色の髪と碧の双眸を受け止め、綺麗だと褒めてくれた。
美しいと感嘆され畏怖されることはあっても綺麗だと心から褒められることのなかった帆波は冬姫の言葉に胸が疼く。
「ほんとうに? あたしのこの異相が、怖くないのですか?」
冬姫は何を言っているのと帆波を窘め、やわらかく微笑む。
「そんな風に言わないで。わたしはあなたを気に入ったわ。晴れ渡る空や海を彷彿させる碧い眼に輝く太陽や天に浮かぶ月を思わせる黄金色の髪。お父さまったら煮るなり焼くなりすきにしろなんて仰っていたからいったいどんな女の人を連れて帰ってきたのか心配だったけれど……」
煮るなり焼くなりすきにしろ、という言葉を耳にしたのは二度目である。どうやら帆波の養父だった宗麟の手紙の文言を信長はいたく気に入っていたようだ。
「煮るなり焼くなり……」
帆波は呆れて何も言えなくなる。たしかに自分はいわくつきの亡国の姫君で利用価値なんかほとんどないむしろ厄介な人間だが……それにしたって煮るなり焼くなりすきにしろと各国の大名たちに放り出されるのはどうかと思う。
黙り込んでしまった帆波を元気づけるように、冬姫は彼女の顔をのぞきこむ。世界をまるごと飲み込みそうな漆黒の瞳が、帆波の碧眼に映りこむ。
「心配しないで。わたしはあなたを煮たり焼いたりなんかしないもの」
くすくす笑う邪気のない冬姫に、険しくなっていた帆波の表情も、しぜんと緩む。
「詳しい事情はわからないけれど、わたしは帆波を侍女として仕えさせたいわ。異存はなくて?」
「――ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします!」
愛らしい姫君の言葉に、帆波は即応していた。豊後国から上洛し、そのまま春の嵐に巻き込まれるように岐阜に来てしまった帆波にとって、冬姫の提案は、渡りに船だったのだ。
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