罪滅ぼしのマッチ

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罪滅ぼしのマッチ

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安岡龍彦は泣いていた。

狭いワンルームの部屋、フローリングの床にひざをついて。

恐ろしい後悔にさいなまれ、泣くよりほかなくてただ泣いていた。

夜だった。カーテンは厚く閉じられ、蛍光灯の青白い光に包まれていた。

声を出して?龍彦は今になって耳をそばだてた。

あたりは静まり返っていた。通りのさんざめきも聞こえない。

顔をおおっていた両手を離す。濡れているのを確認するためだ。

手のひらを見て、驚いた。全く濡れていない。

(ウソ泣きか?)

龍彦は立ち上がろうとした。バランスを崩してよろけそうになる。

足がしびれていた。しばらくそのままじっとしていた。

(いったいいつから、俺はここにうずくまっていた?)

薄れゆくしびれに意識を集中しながら、自分に問いかける。

記憶が定まらない。1時間前か?2時間前か?

ものの2分でしびれは消えた。龍彦は立ち上がる。

洗面所まで行く。顔の表面に違和感があって確認したかった。

灯りをつけてまた驚いた。血だらけなのだ。

乾ききった血液だった。すでにあちこちヒビが入っている。

真っ白いパーカーを羽織っていたが、血の1滴も飛んではいない。

何が何だかわからない。あわてて蛇口をひねる。

すぐにお湯が出た。じゃぶじゃぶと顔を洗った。

しかしー。

排水溝へと渦を巻くお湯が、一向に濁らない。なぜだ?

顔を上げ、鏡を見つめる。そのはずだ。血まみれのまま。全く落ちていない。

(ペンキなのか?)

洗顔液をつけてゴシゴシこすってみた。

結果は変わらず。

(何か特殊な薬品でも必要なのか?)




ネットでペンキの落し方を調べる。

いろいろわかったが、今日はもう遅い。

歩いて10分ほどのホームセンターまで、明日必要なものを買いに行こう。

しかしこの顔で表に出るのは…。

野球帽を深々とかぶり、マスクをすれば目立たないだろうか。

天気予報を見ると、都合の良いことに明日は雨だ。

傘をさせば、道中はごまかせる。

あらかじめホームセンターに電話して、在庫があるか確かめよう。

ついでに事情を伝え、店員が驚かないよう段取りをつけよう。

我ながらすばらしいアイデアだ。

ほっとしたら腹が減ってきた。

冷蔵庫にベーコンの残りとトマトがあった。

パスタを1人分ゆでて、フライパンでソースを作った。

ありあわせの料理だが、空腹だったせいか無性にうまい。

コーヒーをいれて一服。

(おかしい)

たらふく食ったはずなのに、胃がきゅるきゅると鳴っている。

子どもの頃から、これは俺の空腹のサインだ。

(いま食ったところじゃないか)

あとはカップ焼きそばしかない。

立て続けに麺類か。3分待つ間に、満腹になったりしないか。

しかし体は勝手に動く。

キューピーマヨネーズをたっぷりかけてペロリとたいらげた。

食い終わって、ふと思い出した。

(俺はいったい何で、泣いていたんだ?)

涙は流れていなかったとしても、心は確かに泣いていた。

胸をえぐる罪悪感が、足のしびれといっしょに消えていた。

(悪夢でも見たのか?)

ベッドが苦手で、俺はいちいち布団を出し入れする派だ。

布団はたたんでしまってあって、寝ていた形跡はない。

仕事から帰宅したのが6時前だ。いまは9時少し前。

(空白の…3時間?)

記憶が定まらない。シマ性健忘症というやつだろうか?

飯を食ったら眠くなった。

考えがまったくまとまらない。




叩き起こされた。

「もう3時だよ!」

誰かが言った。俺は出発の時間だと悟った。

夢の中で、俺はまずいことをやらかして、警察に追われていた。

バレないはずだった。

年端もゆかぬ子で、しかも口がきけなかった。

どこから面が割れたのだろう。

ひどく恥ずかしい罪状で問い詰められる予定だった。

事実をありのまま話す気はなかった。

(どこかに防犯カメラでもあったか?)

うかつだった。一部始終を撮られていたらアウトだ。

アウトなこともバレなければOK。そう思って生きてきたのに。

「もう2時だよ!」

声にせかされ、俺は布団から飛び起きた。

窓の外が真っ赤だ。火事か?しかしサイレンの音は聞こえない。

声の主はどこにもいない。

「もう1時だよ!」

時間経過がバカみたいに早い。それに巻き戻ってる。

俺は帰宅したときの格好で寝ていた。また同じパーカーを羽織る。

出がけにトイレを済ませ、鏡でもう1度顔を見る。

真っ赤だ。ぶ厚く塗られた赤いペンキ。ヒビがさらに増えていた。

ドアを開けると、もう朝だった。いや昼間のようだ。

相変わらず物音がしない。俺以外だれもいないみたいだ。

5月だが、少し肌寒い。野球帽もマスクも忘れてきた。

鍵もかけてこなかった。

いったい、どこへ行こうとしているのか?


0

マンションの前の道。突然、大風が吹いた。

ものすごいスピードで雲が走っている。真っ黒い影がいくつもいくつもアスファルトを転がり抜けていく。

道路に立って気づいたが、俺の足はやせ細っていた。

見ると腕もマッチ棒のように細い。

木くずのようにささくれて、からっからに乾いている。

(何だこれは?)

俺の胸に巨大な後悔がせり上がる。

胃の中のすべての麺が喉元までせり上がる。

再び大風。俺はゆっくりと倒れながら吐いた。

吐いた、つもりだった。

しかし大きく開けたつもりの俺の口はぴっちり閉じていた。

ゲロが逆流して胃へ戻っていく。

その刹那、再逆流して口いっぱいに戻ってきた。

足首をつかまれ、空へと急上昇していた。逆さまなのだ。

大通りを走る市営バスが、ビーズみたいに小さい。

と、俺の頭はこげ茶の硬い板に打ちつけられた。よく首の骨が折れなかったと思う。

そのまま激しくひとこすり。こめかみの皮膚が一気にめくれた。

点々と落ちていく真っ赤な鮮血を目で追った。気が遠くなるほど高い。

焦げる匂いがした。摩擦熱でほおが焼けたのだろうか。

チリチリと髪の毛も。カルシウムの悪臭が一瞬鼻をかすめた。

こげ茶の硬い板に押しつけられ、何往復もさせられる。

もう首がもげそうだ。目はつぶれ、視界がゼロに。鼻がもげ、でも血の匂いがした。

俺の頭は炎。

いや俺は炎。

くわえタバコに巨人が火をつけた。

放り投げられ、地面に落下した。

俺は死んだ。
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