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罪滅ぼしのマッチ
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3
安岡龍彦は泣いていた。
狭いワンルームの部屋、フローリングの床にひざをついて。
恐ろしい後悔にさいなまれ、泣くよりほかなくてただ泣いていた。
夜だった。カーテンは厚く閉じられ、蛍光灯の青白い光に包まれていた。
声を出して?龍彦は今になって耳をそばだてた。
あたりは静まり返っていた。通りのさんざめきも聞こえない。
顔をおおっていた両手を離す。濡れているのを確認するためだ。
手のひらを見て、驚いた。全く濡れていない。
(ウソ泣きか?)
龍彦は立ち上がろうとした。バランスを崩してよろけそうになる。
足がしびれていた。しばらくそのままじっとしていた。
(いったいいつから、俺はここにうずくまっていた?)
薄れゆくしびれに意識を集中しながら、自分に問いかける。
記憶が定まらない。1時間前か?2時間前か?
ものの2分でしびれは消えた。龍彦は立ち上がる。
洗面所まで行く。顔の表面に違和感があって確認したかった。
灯りをつけてまた驚いた。血だらけなのだ。
乾ききった血液だった。すでにあちこちヒビが入っている。
真っ白いパーカーを羽織っていたが、血の1滴も飛んではいない。
何が何だかわからない。あわてて蛇口をひねる。
すぐにお湯が出た。じゃぶじゃぶと顔を洗った。
しかしー。
排水溝へと渦を巻くお湯が、一向に濁らない。なぜだ?
顔を上げ、鏡を見つめる。そのはずだ。血まみれのまま。全く落ちていない。
(ペンキなのか?)
洗顔液をつけてゴシゴシこすってみた。
結果は変わらず。
(何か特殊な薬品でも必要なのか?)
2
ネットでペンキの落し方を調べる。
いろいろわかったが、今日はもう遅い。
歩いて10分ほどのホームセンターまで、明日必要なものを買いに行こう。
しかしこの顔で表に出るのは…。
野球帽を深々とかぶり、マスクをすれば目立たないだろうか。
天気予報を見ると、都合の良いことに明日は雨だ。
傘をさせば、道中はごまかせる。
あらかじめホームセンターに電話して、在庫があるか確かめよう。
ついでに事情を伝え、店員が驚かないよう段取りをつけよう。
我ながらすばらしいアイデアだ。
ほっとしたら腹が減ってきた。
冷蔵庫にベーコンの残りとトマトがあった。
パスタを1人分ゆでて、フライパンでソースを作った。
ありあわせの料理だが、空腹だったせいか無性にうまい。
コーヒーをいれて一服。
(おかしい)
たらふく食ったはずなのに、胃がきゅるきゅると鳴っている。
子どもの頃から、これは俺の空腹のサインだ。
(いま食ったところじゃないか)
あとはカップ焼きそばしかない。
立て続けに麺類か。3分待つ間に、満腹になったりしないか。
しかし体は勝手に動く。
キューピーマヨネーズをたっぷりかけてペロリとたいらげた。
食い終わって、ふと思い出した。
(俺はいったい何で、泣いていたんだ?)
涙は流れていなかったとしても、心は確かに泣いていた。
胸をえぐる罪悪感が、足のしびれといっしょに消えていた。
(悪夢でも見たのか?)
ベッドが苦手で、俺はいちいち布団を出し入れする派だ。
布団はたたんでしまってあって、寝ていた形跡はない。
仕事から帰宅したのが6時前だ。いまは9時少し前。
(空白の…3時間?)
記憶が定まらない。シマ性健忘症というやつだろうか?
飯を食ったら眠くなった。
考えがまったくまとまらない。
1
叩き起こされた。
「もう3時だよ!」
誰かが言った。俺は出発の時間だと悟った。
夢の中で、俺はまずいことをやらかして、警察に追われていた。
バレないはずだった。
年端もゆかぬ子で、しかも口がきけなかった。
どこから面が割れたのだろう。
ひどく恥ずかしい罪状で問い詰められる予定だった。
事実をありのまま話す気はなかった。
(どこかに防犯カメラでもあったか?)
うかつだった。一部始終を撮られていたらアウトだ。
アウトなこともバレなければOK。そう思って生きてきたのに。
「もう2時だよ!」
声にせかされ、俺は布団から飛び起きた。
窓の外が真っ赤だ。火事か?しかしサイレンの音は聞こえない。
声の主はどこにもいない。
「もう1時だよ!」
時間経過がバカみたいに早い。それに巻き戻ってる。
俺は帰宅したときの格好で寝ていた。また同じパーカーを羽織る。
出がけにトイレを済ませ、鏡でもう1度顔を見る。
真っ赤だ。ぶ厚く塗られた赤いペンキ。ヒビがさらに増えていた。
ドアを開けると、もう朝だった。いや昼間のようだ。
相変わらず物音がしない。俺以外だれもいないみたいだ。
5月だが、少し肌寒い。野球帽もマスクも忘れてきた。
鍵もかけてこなかった。
いったい、どこへ行こうとしているのか?
0
マンションの前の道。突然、大風が吹いた。
ものすごいスピードで雲が走っている。真っ黒い影がいくつもいくつもアスファルトを転がり抜けていく。
道路に立って気づいたが、俺の足はやせ細っていた。
見ると腕もマッチ棒のように細い。
木くずのようにささくれて、からっからに乾いている。
(何だこれは?)
俺の胸に巨大な後悔がせり上がる。
胃の中のすべての麺が喉元までせり上がる。
再び大風。俺はゆっくりと倒れながら吐いた。
吐いた、つもりだった。
しかし大きく開けたつもりの俺の口はぴっちり閉じていた。
ゲロが逆流して胃へ戻っていく。
その刹那、再逆流して口いっぱいに戻ってきた。
足首をつかまれ、空へと急上昇していた。逆さまなのだ。
大通りを走る市営バスが、ビーズみたいに小さい。
と、俺の頭はこげ茶の硬い板に打ちつけられた。よく首の骨が折れなかったと思う。
そのまま激しくひとこすり。こめかみの皮膚が一気にめくれた。
点々と落ちていく真っ赤な鮮血を目で追った。気が遠くなるほど高い。
焦げる匂いがした。摩擦熱でほおが焼けたのだろうか。
チリチリと髪の毛も。カルシウムの悪臭が一瞬鼻をかすめた。
こげ茶の硬い板に押しつけられ、何往復もさせられる。
もう首がもげそうだ。目はつぶれ、視界がゼロに。鼻がもげ、でも血の匂いがした。
俺の頭は炎。
いや俺は炎。
くわえタバコに巨人が火をつけた。
放り投げられ、地面に落下した。
俺は死んだ。
安岡龍彦は泣いていた。
狭いワンルームの部屋、フローリングの床にひざをついて。
恐ろしい後悔にさいなまれ、泣くよりほかなくてただ泣いていた。
夜だった。カーテンは厚く閉じられ、蛍光灯の青白い光に包まれていた。
声を出して?龍彦は今になって耳をそばだてた。
あたりは静まり返っていた。通りのさんざめきも聞こえない。
顔をおおっていた両手を離す。濡れているのを確認するためだ。
手のひらを見て、驚いた。全く濡れていない。
(ウソ泣きか?)
龍彦は立ち上がろうとした。バランスを崩してよろけそうになる。
足がしびれていた。しばらくそのままじっとしていた。
(いったいいつから、俺はここにうずくまっていた?)
薄れゆくしびれに意識を集中しながら、自分に問いかける。
記憶が定まらない。1時間前か?2時間前か?
ものの2分でしびれは消えた。龍彦は立ち上がる。
洗面所まで行く。顔の表面に違和感があって確認したかった。
灯りをつけてまた驚いた。血だらけなのだ。
乾ききった血液だった。すでにあちこちヒビが入っている。
真っ白いパーカーを羽織っていたが、血の1滴も飛んではいない。
何が何だかわからない。あわてて蛇口をひねる。
すぐにお湯が出た。じゃぶじゃぶと顔を洗った。
しかしー。
排水溝へと渦を巻くお湯が、一向に濁らない。なぜだ?
顔を上げ、鏡を見つめる。そのはずだ。血まみれのまま。全く落ちていない。
(ペンキなのか?)
洗顔液をつけてゴシゴシこすってみた。
結果は変わらず。
(何か特殊な薬品でも必要なのか?)
2
ネットでペンキの落し方を調べる。
いろいろわかったが、今日はもう遅い。
歩いて10分ほどのホームセンターまで、明日必要なものを買いに行こう。
しかしこの顔で表に出るのは…。
野球帽を深々とかぶり、マスクをすれば目立たないだろうか。
天気予報を見ると、都合の良いことに明日は雨だ。
傘をさせば、道中はごまかせる。
あらかじめホームセンターに電話して、在庫があるか確かめよう。
ついでに事情を伝え、店員が驚かないよう段取りをつけよう。
我ながらすばらしいアイデアだ。
ほっとしたら腹が減ってきた。
冷蔵庫にベーコンの残りとトマトがあった。
パスタを1人分ゆでて、フライパンでソースを作った。
ありあわせの料理だが、空腹だったせいか無性にうまい。
コーヒーをいれて一服。
(おかしい)
たらふく食ったはずなのに、胃がきゅるきゅると鳴っている。
子どもの頃から、これは俺の空腹のサインだ。
(いま食ったところじゃないか)
あとはカップ焼きそばしかない。
立て続けに麺類か。3分待つ間に、満腹になったりしないか。
しかし体は勝手に動く。
キューピーマヨネーズをたっぷりかけてペロリとたいらげた。
食い終わって、ふと思い出した。
(俺はいったい何で、泣いていたんだ?)
涙は流れていなかったとしても、心は確かに泣いていた。
胸をえぐる罪悪感が、足のしびれといっしょに消えていた。
(悪夢でも見たのか?)
ベッドが苦手で、俺はいちいち布団を出し入れする派だ。
布団はたたんでしまってあって、寝ていた形跡はない。
仕事から帰宅したのが6時前だ。いまは9時少し前。
(空白の…3時間?)
記憶が定まらない。シマ性健忘症というやつだろうか?
飯を食ったら眠くなった。
考えがまったくまとまらない。
1
叩き起こされた。
「もう3時だよ!」
誰かが言った。俺は出発の時間だと悟った。
夢の中で、俺はまずいことをやらかして、警察に追われていた。
バレないはずだった。
年端もゆかぬ子で、しかも口がきけなかった。
どこから面が割れたのだろう。
ひどく恥ずかしい罪状で問い詰められる予定だった。
事実をありのまま話す気はなかった。
(どこかに防犯カメラでもあったか?)
うかつだった。一部始終を撮られていたらアウトだ。
アウトなこともバレなければOK。そう思って生きてきたのに。
「もう2時だよ!」
声にせかされ、俺は布団から飛び起きた。
窓の外が真っ赤だ。火事か?しかしサイレンの音は聞こえない。
声の主はどこにもいない。
「もう1時だよ!」
時間経過がバカみたいに早い。それに巻き戻ってる。
俺は帰宅したときの格好で寝ていた。また同じパーカーを羽織る。
出がけにトイレを済ませ、鏡でもう1度顔を見る。
真っ赤だ。ぶ厚く塗られた赤いペンキ。ヒビがさらに増えていた。
ドアを開けると、もう朝だった。いや昼間のようだ。
相変わらず物音がしない。俺以外だれもいないみたいだ。
5月だが、少し肌寒い。野球帽もマスクも忘れてきた。
鍵もかけてこなかった。
いったい、どこへ行こうとしているのか?
0
マンションの前の道。突然、大風が吹いた。
ものすごいスピードで雲が走っている。真っ黒い影がいくつもいくつもアスファルトを転がり抜けていく。
道路に立って気づいたが、俺の足はやせ細っていた。
見ると腕もマッチ棒のように細い。
木くずのようにささくれて、からっからに乾いている。
(何だこれは?)
俺の胸に巨大な後悔がせり上がる。
胃の中のすべての麺が喉元までせり上がる。
再び大風。俺はゆっくりと倒れながら吐いた。
吐いた、つもりだった。
しかし大きく開けたつもりの俺の口はぴっちり閉じていた。
ゲロが逆流して胃へ戻っていく。
その刹那、再逆流して口いっぱいに戻ってきた。
足首をつかまれ、空へと急上昇していた。逆さまなのだ。
大通りを走る市営バスが、ビーズみたいに小さい。
と、俺の頭はこげ茶の硬い板に打ちつけられた。よく首の骨が折れなかったと思う。
そのまま激しくひとこすり。こめかみの皮膚が一気にめくれた。
点々と落ちていく真っ赤な鮮血を目で追った。気が遠くなるほど高い。
焦げる匂いがした。摩擦熱でほおが焼けたのだろうか。
チリチリと髪の毛も。カルシウムの悪臭が一瞬鼻をかすめた。
こげ茶の硬い板に押しつけられ、何往復もさせられる。
もう首がもげそうだ。目はつぶれ、視界がゼロに。鼻がもげ、でも血の匂いがした。
俺の頭は炎。
いや俺は炎。
くわえタバコに巨人が火をつけた。
放り投げられ、地面に落下した。
俺は死んだ。
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