クリームオンザミソスープ

片里 狛

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 撮影日の朝、環は五時に目覚ましをセットして始発に乗る。
 新調した安物のイヤホンを耳につっこみ、到着したのは馴染みのハウススタジオだった。
 今日はこれからこのスタジオで、撮影が行われる。普通の映画でもドラマでもドキュメンタリーでもない。環がアシスタントとして働くのは、アダルトビデオの撮影現場だった。
 アダルトビデオの撮影は基本的に、一日ですべてを終わらせてしまう。出演者が到着するまでに、制作スタッフはすぐにでも撮影が開始できるように準備を整えておく必要があるのだ。
 制作班は朝一番でスタジオに向かい、小物や衣装を揃え、一日のスケジュールを確認する。
 アンダーグランドなイメージが強いAV業界だが、一般的なメーカーは世間が思う以上にクリーンだ。少なくともこの業界に入った直後の環は『割とちゃんとしてんだな』と思ったし、新人女優の口からも同じような感想を聞くことが多い。
 アダルトコンテンツは、社会や自治体に目を付けられやすい。とにかく文句を言われる前に自衛する事が大切なのだろう。
 就職した映像制作会社が倒産し、どうにか辿ったツテでAV制作メーカー『アッパーズキャスト』に採用されてから、約二年。
 希望の職種だったわけではないものの、今ではそれなりに仕事をこなせるようになってきた。
 現場は人の出入りが激しく、常に人手不足だ。ADである環はスタジオの予約からロケハン、小物や衣装の調達から汚れ物の洗濯まで、カメラ撮影と監督の仕事以外のほぼすべてをこなす。ローションでべっとりと濡れた下着の洗濯も、もう慣れたものだ。
 仕事はハードで、シンプルに忙しい。だが幸いなことに同僚は基本的に信頼できる人間ばかりで、人間関係に悩むようなことはない。
 慌ただしい朝の準備を終えると女優が到着し、必要書類と身分証明を提示してくれる。今日の撮影は馴染みの女優だったが、それでも毎回、性病検査のシートは必ず確認が必要だ。
 女優がメイクしている間に男優も到着し、先と同じように書類と身分証明のチェック。年齢の詐称を防ぐことも、メーカー側の自衛として大切な作業だ。
 出演者に台本を渡し、軽い打ち合わせを済ませ、カメラマンとカメラアシスタントを交えて、ついに撮影が始まる。何度経験しても、この慌ただしさには慣れる気がしない。
「お。めっずらしーじゃん弁当」
 午前中の撮影をどうにか終え、昼休憩になったタイミングだった。
 他のスタッフには手配した弁当を配り、環自身はこっそりとタッパを取り出したところで、目ざとい監督に見つかってしまった。
「自作? 自作か柊也。それともカノジョ……じゃねえカレシか? ついに恋にうつつをぬかしはじめたのか若人」
「若人って言うのやめてください一応もう二十四なんで……あと恋人作る暇……ないんで……」
「そりゃそうだろうが、じゃあメシ作る暇なんかもっとねーだろ」
「色々あっておすそ分けをいただいたんです。なんかの試作品らしくて、俺はこの飯の感想を求められているんで、ちょ、やめ、……箸と、メシで、遊ばない!」
「旨そうじゃねーか、よこせ」
「嫌です。瀬羽さんはおとなしくコンビニ弁当食ってください」
「この~言うように~なりやがって~」
 にやにやと口の端を歪める瀬羽の言葉からは、過度な揶揄は感じ取れない。明るめのもじゃっとしたパーマに強そうな眼鏡とにやけた顔が、環の上司である瀬羽のトレードマークだ。
 この業界、やる気とこだわりと体力が勝負だ。
 瀬羽がよく口にするこの言葉は、折々で環に気合を入れてくれる。流れで就職したものの、環自身はこの仕事が嫌いではない。できることならば、長く勤めたいと思っている。
 その為には、六つ上の大先輩である瀬羽監督に学ぶことは多い。ありがたいことに瀬羽も環のことを殊更気にかけ、逐一声をかけてくれる。環がゲイだと知っても態度を変えることなく、AVの現場でチンコおったてない男は使いやすい、と笑った男だ。スタッフの中でも、一番信頼のおける人間だと思う。
 自分の意見はしっかり言え。適当に誤魔化すな別にオレは怒らない。間違ったと思ったらまず謝れ。いやそれ違くね? と思ったらまあ言ってみろ。
 このあたりの瀬羽の言葉は、環の人格形成にも大いに干渉しているだろう。
 瀬羽と適当に気を抜きながら食べる昼食は、数少ないリラックスできる時間である、が、今日はお互いにため息が多い休息となった。
「なんだよ料理上手なカレシ捕まえたわけじゃねーのか……おまえのツレが家庭料理のプロフェッショナルなら目下オレの悩みはスッキリすっかり解消するってのに……」
 非常に勝手なことを口走る瀬羽に、タッパの中の南蛮漬けを口に放り込んだ環は眉を寄せる。南蛮漬けと言えば人参と玉ねぎ、のイメージだったが、しっとりと漬け込まれた鶏肉に絡むのは、甘酸っぱい長ネギと水菜だ。
 瀬羽のこのところの悩みは、贔屓の総菜屋が唐突に閉店してしまったことに由来する。
 個人的に好んでいた、という単純な悲嘆ではない。
 曰く、彼の肝いりの代表作『料理上手な彼女と朝から晩までお家デート』シリーズに欠かせない、ちょうどいい塩梅の総菜を取り揃えていたスペシャルな店だった、らしい。
 AVと言っても、ただ服を脱いで致して終わりというわけではない。コンセプト風俗が存在するように、AVにもドラマ風のものやシチュエーションを絞った作品が数多く存在する。
 料理上手シリーズには、数多くの料理が小物として登場する。別にそんなもの無くてもいい、と多くの視聴者が思うことだろう。客が見たいものは女優の顔と身体であり、決してテーブルの上の料理ではない。
 と環は思うのだが、何故か瀬羽は料理小物に異常なこだわりを見せていた。
 ああいう小物がちゃっちいとしらけるんだよ、と瀬羽は言うのだが。
「……コンビニの総菜じゃダメなんですか……?」
 何度目かの抵抗を試みる環だが、瀬羽は取りつく島もない。
「嫌だ。好かねえ。オレはあの妙に味の濃いやたらとうまいコンビニ総菜を憎んでいるから嫌だ。なんか見た目もぎっとりしてるし」
「はあ、まあ……やたらと色が綺麗なのは、同意しますけど」
「つか独り身の男に身近過ぎて厳しいんだよコンビニ総菜。しらける。確実にしらける。あれ? いまのセブンのサラダじゃね? って思うだけで抜く前に賢者が訪れちまうんだよ……」
「ええー……じゃあ瀬羽さんが探してくださいよ、手ごろで素敵な総菜屋……」
「うるっせーそんな暇ねーっつの。お前と同じくらい忙しいっつの」
 それなら文句を言わずにおとなしくコンビニ飯で我慢してほしい、と思う。
 拘り自体は悪い事ではないだろうが、あまりにも我儘をぶつけられると流石にため息の量も増える。
「いっそお前が料理に挑戦してみるってのはどうよ。自炊が身につけば~モテるぞ~たぶん」
「別にモテなくてもいいですホントいま暇ないんで……編集日に定時で上がっていいなら、自炊の勉強してもいいですけど」
「っあー……うーん……まあ、そうかーそうだなー……そんな条件でいいなら、まあ、検討すっけど」
「え、マジっすか。上がっていいの? 瀬羽さん、一人で編集できるんです?」
「ばーか佐塚に頼みますぅー。この前麻雀で勝った分あるから若干ならこき使えんだよ」
「薄暗い大人の取引だ……」
「汚れちまったオレタチがお仕事頑張るから、柊也はぜひ飯づくりを取得してくれ頼んだぞ期待してっから」
 とはいうものの、瀬羽はそこまで期待した風でもない。独身男性の自炊など丼か麺類だということを、先人として嫌という程理解しているのだろう。
 さて困った。
 環は不器用ではない、筈だ。包丁も普通程度には使えるし、リンゴの皮くらいならなんとなく剥ける。
 とはいえ魚をおろせと言われたら固まるし、今口にしている南蛮漬けがどんな調味料の配合で作られているのか、口にした程度では想像もつかない。
 自炊など、不味くない程度に食える丼ものや炒め物ができるくらいのものだ。料理名がついた品を作れる自信は全くない。
 まずは本屋で適当に、料理の本買ってみようかな。
 ネットに頼るよりも、その方が確実そうだ。初心者向けの家庭料理本なら、トライしてみる価値はあるだろう。
 黙々とタッパの中の南蛮漬けを食べながら思案する。そんな環を現実の世界に戻したのは、びりびりと耳に響く、女性の叫び声だった。
「っあーーーー! それ! イトメシの限定タッパじゃん!?」
 ギン、と耳に響く。
 鼓膜の震えにびくりと飛び上がった環が顔を上げると、メイクを直した女優がこちらを凝視していた。
「……っくりしたぁー。るりはちゃーん急に叫ぶのおやめなさいよー。うちのADが女性恐怖症になっちゃうでしょーがよー」
「女性恐怖症の子がAVの現場にいるわけないっしょ。てかそれ、あたし欲しかったやつなんだけど! えーーーーいいなーーーーあたしいまハマってんの、イトメシ! キミも好きなの!?」
「えっと……いや、その、これは借り物、で……」
「なーんだそうなの。同志かと思ったのに~」
 ずいずいと乗り出してくるメイクバッチリの女性の迫力に、思わず身体を引いてしまう。
 午後は女優のパッケージ撮影から始まる。下着の上からバスローブを羽織った彼女からは、甘い香水の匂いがして性的興奮を感じないと言えど普通に気まずい。
 ゲイだということを特別隠していないし、瀬羽を含め知っている人間は多い。ゲイだからと言って、殊更女性が苦手なわけではない。
 けれどこうも強めに迫られると、つい身体ごと引いてしまう。
「えー、限定タッパずるいなぁー……メルカリで転売されてんのマジ腹立つんだよねー。そのタッパもし、もしだけどー、……もしさ、ほしい! って言ったら……持ち主さんに交渉してくれたりとかぁ……」
「…………」
 環は、一昨日の深夜の出来事を思い返す。
 捨ててもええで、と、赤い髪の変人は言った。別に捨ててもいい。返さなくていい。彼はそう言ったが、環としては洗って本人に返すつもりだ。行きずりの人間だったらまだしも、相手は同じアパートの住人である。
 大量の料理をいただいた真意はイマイチわからないが、きちんと美味しい品々を味わえば、決して嫌がらせやゴミ箱扱いをされたわけではないことくらいはわかる。タッパにはそれぞれ付箋が貼ってあり、簡単な賞味期限が乱雑な字で記されていた。
 変人だがいいひとだ。その認識がますます強くなる。
 捨てて良いとは言われたものの、環的にはいま勝手にどうぞ差し上げます、と言うつもりにはなれない。ただ、タッパ一つに本気で身を乗り出すバッチリメイクの女性が、なんとなく微笑ましくも思える。
「……返すときに、他のものと交換できないか、一応、交渉しときます」
 結局勢いに押されてしまった。
「え!? まじで!? いいの!? うっそ、ありがとえーと何クンだっけ!?」
「環です。それはそうと、あのー……イトメシって、何です?」
「イトメシはイトメシっしょ。え、知らないの?」
 当たり前の知識のように言われても、環には心当たりはない。
 瀬羽の方を見ても、なにそれ、という顔で首を傾げるばかりだ。
「うっそぉ、たまにバズってんじゃん。このまえ甘里リンネちゃんがおすすめしててさーAV女優界隈でいま空前のブームよ、ブーム。ほら、これ、イトメシ」
 派手なネイルの指でサッと携帯を撫でた彼女は、とある動画を環に向けて差し出した。
 軽快な音楽の後に、画面中央に男が立つ。
 見覚えのあるキャラクターが印刷された、ベージュのエプロン。大きめの三角巾をキュッとしめた頭は、目が覚めるような赤髪。
 すっきりとした顔はたぶん、イケメンと持て囃されるに違いない。背が高く、腕が長いからエプロン姿が妙に似合う。
『えーと……そしたら今日はーあれや、あの、あれ。うん。ゆずちゃんカンペもうちょい手前に出してんか。あーそのへんそのへん……はい、ちゅーわけで今日は憂鬱な社会人にピッタリのー……ぴったりかな? いやぴったりやわ! 強めに行こう。憂鬱な社会人にピッタリの、野菜マシマシキーマカレー、やってこ』
 だらり、と平坦に零れる声は、聞き覚えのある関西弁だった。
「………………うっそ……」
 ド深夜に、自分の部屋と間違えた。穴があったら入りたい、という気持ちを久しぶりに体感した。
 迷惑をかけた一階下の住人は見た目よりも寛容で、見た目通り変人で、何故か『試作品やからもっていけ』と大量の料理を押し付けて来たのだが。
 どうやらその変人は、巷で大人気の、料理系配信者らしかった。


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