シガー×シュガー

片里 狛

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シガー×シュガー×キス

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『ああもう最悪の休暇よ。悪夢で何度か目が覚めて寝れやしないわ。吐き気がしそう』
 朝早くから憂鬱な声を出す女上司は、本当に滅入っているようで不思議な感覚だった。
 オリビア・メイスンは判断を間違えない。オリビア・メイスンは完璧で、一片の隙もない。そんな風に社内で恐れられ信仰されていると言っても過言ではない上司は、ニールの記憶上で一番かもしれないというくらいに頼りない様子だった。
 夫と離婚を決めた時も、彼相手に裁判を起こした時も、メイスンは泣きごとひとつ言わなかった。エイミーが生まれて間もない頃だった記憶がある。五年程前の事だろうか。
 その頃ニールはまだカリテス社に入社したばかりで、本社勤めだった。メイスンと頻繁に顔を合わせる機会は無かったが、姉が定期的に連絡してくるついでのように、いつの間にかクロエの家にいるメイスンとはよく電話で話した。
 第二の姉のようだ。とは本人に言った事は無い。あまり他人に心を許さないニールが、そんな風に誰かを受け入れている事実は恥ずかしいものだったし、そんな照れくさい告白をするタイミングも無かった。
 そのメイスンがへこたれている、という事実はニールを多少焦らせる。きちんとした両親がいる家庭で例えるならば、絶対的だった親も人の子だと気が付く瞬間に似ているのかもしれない。
 そうか、メイスンも弱気になったりするのか、という感慨と、そわそわした不安の様なものが湧きあがる。それを隠す為に二本目の煙草に火をつけた。
 クロエの家には相変わらず灰皿がない。子供も居ることだし、なるべく吸わないようにと気を使ってはいるものの、急に禁煙が出来る筈もない。
 ここの所喫煙本数は減っているが、それは確実に恋人と一緒に居る時間が増えたからだ。アマミヤの唇は煙草以上の興奮を与えてくれることを知っている。口寂しくなると細い腰を抱き甘えるようにキスをする癖が付いてしまった。
 昨日も何度か煙草が吸いたくなる度に手を伸ばしかけ、アマミヤの隣にちょこんと座ったエイミーに気が付くと漏れそうになる溜息を呑み込んだ。
 煙草が吸いたい。アマミヤにキスがしたい。けれど、どちらも子供の前では避けるべきだ。
 理性と本能の戦いをこんな所でするとは思わなかった。結局誘惑に勝てない駄目な大人は、せめて子供の害にならないようにと外に出て煙草を吸った。ご近所に怪しい目で見られるかもしれないが、部屋に匂いが付くのも避けたい。ここはニールの家では無く、クロエの住居だ。
 電話を肩で押さえるニールが居るのは、キッチンだが、エイミーはまだ寝ている。換気扇を回せば怒られないだろうと判断し、オイルサーディンの空き缶を灰皿代わりにした。
「人生好調ばっかりだと釣りあい取れないんだろ。たまには不運を満喫したらいいんじゃない?」
『いままでの人生がそんなにハッピーだったように見える?』
「十分ハッピーだろ。金はある、仕事は好調、稼ぎ頭は今年も予算大幅に達成であんたは表彰もんだ。娘は美人でものわかりがいい。絵にかいたように母親を愛してる。昨日なんてママが居ないって年相応にぐずりだすまで、この子は本当に六歳児かってくらい大人しかったんだぞ。愛する母親不在をどうにか埋める為に、俺は恋人を取られる羽目になった」
『やだ、うちの可愛い子はドクター・キャンディの方にご執心なのね。ニールが振られるなんて珍しいわ』
「流石あんたの子だよ。良い男の見分け方を知ってる。まあ、やらないけどな。そんで、引っ越しはどうなんだ? ほんとにそっち手伝わなくていいの?」
『男手は業者がやってくれるのよ。今はいろんな会社があって便利だわ。なんでもビジネスになるのね。――あの男が何か仕掛けるなら私じゃなくて、エイミーの方よ。だから私はいいから、うちの子と一緒に居てちょうだい』
 電話の向こうでメイスンは頭を抱えたようだった。オレンジジュースのパックを開けたニールは、携帯を持ち直して煙草を咥える。
「……そっちは女二人で不用心じゃないの?」
『夜はホテルよ。セキュリティに問題はないわ。エイミーを引っ越しのばたばたした現場に付き合わせるわけにもいかないでしょう。引っ越し作業をしながら子守りをして尚且つ夫から身を守るよりは、貴方に任せた方が良い』
「随分と信頼されてて怖いよ。子供はそこまで得意じゃないんだけど」
『でも、エイミーの事は好きでしょ?』
「……恋のライバルになりそうな予感がするけどね」
 疲れた声のメイスンは、ニールの軽口に少しだけ笑う。誰かと話すのは気分転換に良い、というのは彼女の持論だ。アマミヤと一緒に居るようになって、ニールもその効果を実感していた。
 定期的にニールが電話をするのは、エイミーの報告以上に、メイスンを気づかっての事だ。
 彼女の自宅に元夫が侵入したのは、エイミーもメイスンも外出していた時だった。それでも、その恐怖は耐え難いものだろう。
 二本目の煙草を吸い終えたニールの耳元で、私が悪かったのねとメイスンは弱気に呟いた。
『良い人でも、悪い人でも無かったわ。ただ、とても私を好いてくれていた。私は彼の事が好きでも嫌いでもなかったけれど、子供は欲しかったの。だから、まあ彼でも良いかしら、なんておこがましい選択をしたのね。馬鹿としか言いようがないわ。自分を愛した事がただの「手段」だったなんて知れば、誰だって良い気はしないのに』
 馬鹿だったの、と彼女は繰り返す。その声は耳に重い。
『馬鹿だったのよ、わたし。世界人類が自分と同じように冷たいものだと信じていた。世界には同じ人間なんて居ないし、想像もできない感情や言葉が存在するなんてことを、ほんの少しでも考えなかったのよ』
 それはニールも感じる事だった。世界人類全てとは言わないが、大概は自分と同じ感覚で生きていると思い込む。それだから、コミュニケーションがうまくいかない。
 譲る事と思いやる事を覚えなければいけない。ニールがそれに気がついたのは就職してからの事で、それも仕事上仕方なく身についたテクニックのようなものだった。もっと根本的な感覚で他人に譲る、という事に重きを置くようになったのは、アマミヤと出会ってからかもしれない。
 時折、メイスンは驚くほどニールと似ている時がある。その似通った部分のせいで、彼女の事を親類のように錯覚してしまうのかもしれない。
「いくら相手が愛していなかったとわかっても、いきなりストーカーになったり、子供を殴ろうとしたりする男は気が狂ってるとしか言えないだろ。アンタは結婚する際の手段を間違えたかもしれないけど、向こうはそもそも考え方がおかしいしアクションが間違っている。どっちが悪いとかそもそもの原因とか置いといても、エイミーが危険に晒されるのは絶対におかしい。何も考えずに引っ越し終わらせろよ。こっちはわりとなんとかなってるからな」
 明日時間が出来たら庭で肉でも焼こう、と励ますと、メイスンが感慨深く笑った気配がした。
『……ニール・ノーマンに気を使われるとは思わなかったわ。うちの社員達がのけぞって慄く』
「告げ口はやめろよ。客に愛想を振りまくのは仕事だと思って我慢できるけど、同僚にまでジョークを求められるのは面倒すぎる」
『あなた、喋るのは好きなのに、どうしてそこで面倒がっちゃうのかしら……人間不信は相変わらずなのね』
 そういうところも私に似ていて嫌だわと零し、メイスンは朝の長い電話を切った。
 まったくその通りだと言いかえすのはやめて、キッチンで長い溜息をつく。
 今頃はカナダの朝を満喫していたのに、とは思わない。ひまわり畑で笑う恋人の妄想は楽しいものだが、正直煙草と恋人以外に大した興味を持てないニールは、アマミヤが居てゆっくりうまいものでも食えれば場所は何処だって構わない、と本気で思っている。
 成り行きで決まったブロンクス動物園行きも、アマミヤ自身楽しみにしている様子だった。男二人でテーマパークに行くのもどうなんだと思って誘わなかったが、アマミヤが気にしないのならば美術館や博物館もデートの予定に加えてもいい。
 家の中のアマミヤは全力で甘えてくるから可愛い。けれど、様々な物に興味を示しくるくると表情を変えるアマミヤも可愛い。外でのデートは少し刺激的で、ニールの煙草への欲求を薄れさせた。
 今日も日中はほぼ禁煙だろう。湯を沸かしながらもう一本くらい吸っておこうかと煙草に手を伸ばした所で、寝室からアマミヤが出てきた。
 昨日は寂しいと泣くエイミーと宥めるアマミヤに寝室を譲った。客間で一人寝をした事を恨んでは居ないしへそを曲げる程子供ではないが、ほんの少しくらいはサービスしてもらってもいいとは思う。
 そんな言い訳を隠しながら、ニールは寝起きの恋人におはようと声をかけた。
「お姫様の隣の寝心地はどうだった?」
「……別に、夜泣きするとかそういうのは全然なかったけど。あんまり他人と一緒に寝るってことないし、子供と一緒なんて生まれて初めてだったし、変に気を使っちゃって、寝たような寝てないような……」
「センセイは枕変わると寝れないタイプだもんな。俺のベッドではいつも爆睡してるけれど」
「あれは、ニールが体力を奪うからだって……気絶してるみたいなもんだよ。もうちょっと手加減してくれないと、その内途中で寝ちゃいそうなんだから」
「それは困る。でもそこにセンセイが居ると理性なんかくそくらえって気分になるから落ちつけない。お姫さまはまだ寝てる? センセイにキスしても、誰も見てない?」
「……見てない。平気。僕もキスしたい」
 照れた顔で腕の中に収まる恋人は、いつだって最高に可愛らしい。肉付きの悪い腰を抱き、なめらかな頬に指をかける。顎を上げるときの視線がセクシーで好きだ、と声に出すと、僕はキミのキスの前の吐息が好きだと反撃された。
 言葉の痒さが心地よい。柔らかい唇に触れると、ゆっくりと口が開き舌が絡む。寝起きのアマミヤの体温は少しだけ低い。冷たく感じる舌を夢中でむさぼるようにキスを繰り返していると、息を荒げた恋人が先にギブアップと腕を叩いた。
「……しんじゃうから、息させて……ニール、煙草吸った?」
「うん。今日はほぼ一日禁煙だろうと思って、まあ、景気づけに。電話の最中って手持無沙汰で何かしたくなるだろ?」
「それは、わかるけど。電話は、メイスンさん?」
「そう。珍しく弱ってたからこっちはすっかり仲良しさってアピールしといたよ。仲良しなのは俺じゃなくて姫さまとセンセイだけど。このままじゃ本当にセンセイを取られそうだ。子供相手にセンセイの膝の上をかけて大人げなく喧嘩しそうで怖い」
「そんな事言ってもエイミーに優しいからニールが好きだよ。今日は三人で寝たらいいんじゃないかな」
「……無垢な少女を挟んでセンセイと一緒のベッドとか、なんだその拷問……」
 大げさに眉を寄せてみせると、アマミヤは軽やかに笑う。言う程ニールが嫌がっていないことは、アマミヤにも伝わっている。
 もう一度名残惜しくキスをして、お姫さまを起こしてこようとコンロの火を止めた。
「まずはガソリン。この家の車は普段締め切ったガレージの中だし、引っ越しの時にちょっと使ったくらいだから、ちゃんと動くのかも心配だ。買いだしは帰りにしよう。動物園に着く前にエイミーが疲れたら可哀想だ。朝飯はパンケーキで良い? どっかで食べる?」
「個人的にはパンケーキを焼くかっこいい恋人を眺めていたい」
「かっこいいか? 種を流して焼くだけだぞ。しかもフライパンがないから鍋でやるしかない」
 フライ返しはあるのに、と憎々しげに呟くと、アマミヤは声を上げて笑った。
 世界は憂鬱に満ちているし、メイスンもその真っ只中だ。だからと言って、皆憂鬱になる事も無い。
 エイミーも、今日は声を上げて笑うくらい楽しめたらいいと、ニールは珍しく他人の幸福に思いを馳せた。


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