佐塚さんに落とされたい

片里 狛

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「鶏豆花たべたい……」
 ぼそり、と呟いた佐塚の声は、タイプ音だけがカチャカチャと鳴る室内に、思いのほか大きく響いた。
 指示と報告以外の言葉は、基本的に独り言としてスルーされるのがこの部屋の日常だ。しかし今日はあまりにも人手が足りず、猫の手ならず他チームの手を借りていた。
「じー……なんぞそれ」
 普段ならば暗黙の了解で流される独り言も、耳ざとい瀬羽は律儀に拾ってしまう。
 佐塚も瀬羽も、口を動かしながら作業が出来るタイプなので問題はないが、会話をするつもりで呟いたわけではなかった為、若干ながら後悔した。
 本当に、シンプルに思った事が口から垂れ流されただけだったのだ。
「ジードゥファ。四川のスープ料理。なんかふわふわして白い奴」
「あーぜんっぜんわっかんねえわ……おまえの説明普通にわからん上に検索する暇もねえし頭に余計なリソースねえから想像もできねえわ。つか佐塚、そんな中華とか好きだった?」
「最近よく食う。好きかはわかんないけど美味いと思う」
「おうおう、どうしたどうした……急に人間っぽいこと言うじゃねえの……」
「時々失礼のハードル飛び越えていくよね瀬羽……別にいいんだけどさ」
「俺ァおまえのその大概適当に流してくれるとこ、好きだぜぇ」
 けたけたと笑う。相変わらず瀬羽の笑い声はでかくて頭に響く。耳の奥が痛く感じる程だ。それが絶妙に心地よく感じるので、佐塚はシンプルに疲れているのだと思う。
 久しぶりに進捗がまずい。
 別に何か特別なトラブルがあったわけではない。女優のスケジュールが合わなかったり、行き違いで連絡が滞っていたり、パソコンのアップデートが失敗して作業が中断したり。そういう細かなあれこれが重なり、結果作業進捗が押しに押していた。
 この仕事をしていると時折こうやって『別に普通に仕事していたはずなのに気がついたら修羅場になっていた』という事がある。佐塚や瀬羽にしてみればいつものことだが、昨日夕飯を作りに来てくれた汀はひどく心配していた。
 科学博物館に行った日から、はや一か月。
 あれから佐塚は週一でフェティッシュを利用していた。と言っても指名は常に汀だ。二人の予定が空いた時間を見計らい、コースは一泊で予約する。
 駅で待ち合わせて買い出しをして、夕飯はいつも汀が作ってくれた。
 中華しかできないんですけど、と謙遜する彼の腕前はプロ並みで、店の厨房に一人で立っても問題ないのではないかと思わせる程だ。
 佐塚が人間未満の語彙力でおいしいと褒める度、汀は微妙に申し訳なさそうに苦笑する。
 彼はあれだけの料理の腕前を持ちながらも、厨房に一人で立つことは禁じられているらしい。勿論、その命令を下しているのは店の主である姉だ。
 ――たぶん、僕が一人でなんでもこなしてしまうのが嫌なんだ、と思います。
 ――別に、店を乗っ取る気なんかこれっぽっちもないんですけどね。
 本当に心から善良な青年は、自らを振り回し縛り付ける身内の言葉に抗えず、いつも何かを諦めながら苦笑する。
 逃げればいい、などと言うのは外野だから言える言葉だ。彼がすべてを放り投げて被る不幸を肩代わりしてくれる人は、誰もいない。
 ましてや子供が関わるとなると、更に問題は複雑になる。
 親ではない佐塚でさえ『青少年は守るべきもの』だと認識している。アダルトビデオ界隈に身を置いているからこそ、性犯罪や子供への影響はいつも頭の隅にある。
(だからって、汀くんが犠牲になるのも違うと思うんだけど)
 とはいえ、佐塚が汀に対して言えることなどほとんどない。
 仕方がないので口出しする代わりに、いつも多めにお金を握らせた。完全にパパ活すぎて笑えないが、他に出来ることが思い浮かばない。
 相談に乗る、と安請け合いできない。何故ならば佐塚は他人の機微に関して鈍感だ。
 ご飯くらい作るよ、と労うこともできない。何故ならば佐塚は料理全般ほとんどできない。
 いっそ性欲のはけ口に……と馬鹿な事を考えたが、彼にとって自分の身体が魅力的だとはどうしても思えない。汀は同性が見て少しどきりとする程のイケメンだが、佐塚は単なる普通の三十代男性だ。当たり前だが、性的サービスを受けて佐塚が何度達しても、汀が射精するようなことは一度もない。
 どうしよう、何も上げられるものがない。
 仕方なく――本当に仕方なく、金と共に『良かったら使って』と自作品のDVDを数枚押し付けてしまったが、思いのほか喜んでくれたのでまだすこし留飲は下がった。
 佐塚はすらりとした足が好きなので美脚系女優を中心に採用しがちだが、汀の好みもスレンダー美人なのかもしれない。
 背の高い汀と、スレンダーな女性が肩を並べる姿を想像して、若干ながら首をひねる。どうにもしっくりこないのは何故だろう。きっとお似合いだろうに、佐塚の脳はそれ以上の想像を拒否している。
 だめだ、頭が働かない――。
 普段ならばもう少し思考出来る筈なのに、寝不足で言葉が一切浮かばない。単純作業はこなせるので、仕事はどうにか出来ているものの、そのうち瀬羽に対するレスポンスでさえもおざなりになった。
 パソコンの画面上では、男女が濃厚なキスを繰り広げている。
 苦しそうなキスだなぁ、と思う。今まではほとんど気にしなかったが、汀との戯れるような柔らかなキスを経験した後だと、貪るような激しいキスは女性の方がすこし苦しそうだ。
(……汀くん会いたいなぁ)
 ぼんやりと、ただ欲望のままに思う。
 昨日会ったばかりだし、次の予約は取っていないので、しばらく会う予定もない。この修羅場がいつまで尾を引くのかわからない。女性向けAVの制作も同時進行で行っている。シンプルに暇がない。
 いい加減作業を中断して、何か食べた方がいいかもしれない――。
 佐塚が動画を止めて天井を見上げて息を吐いた時、バタバタと、狭い廊下を走る音が聞こえた。
「佐塚さ――うっわ!? ちょ、入口に箱積まないでくださいよ……! なんすかこれ、瀬羽さんのトラップ?」
 ひょっこりと顔を出した瞬間入口の箱につまずいたのは、ADの青年、柊也だった。
「ちっげーよ、しらねーよ小坪じゃねえの? なんでもかんでも俺のせいにすんのやめろよ柊也ァ~」
「ウチの現場で一番散らかすの瀬羽さんだから」
「言うようになりやがって柊也ァ……」
「いや瀬羽さんはどうでもいいんです。佐塚さん、お昼中華の出前頼みましたか?」
「…………は? 何……もっかい言ってシュウ」
「えーとですね、なんか三幸さんてお店の人が、佐塚さんに出前だって来てるんですけど、受け取っちゃって大丈夫ですか? っていう確認で――」
「――ごめん、今行く」
 頭が回っていないので、正直柊也が何を言っているのかわからない。わからないが、とりあえず席を立ち、段ボール箱を跨ぎ、狭い廊下を早足で進む。
 事務所、というよりはほとんど物置のような玄関先には、ぽつんと立ちすくむ見慣れた青年が居た。
「…………え、宇宙人……?」
 思わず口から出た佐塚の第一声に、所在なさげだった汀は軽やかに噴き出す。
「なんですかそれ。全然意味がわかんなくて怖いですよ」
「いや、だって、なんでおれが考えたことわかったのかなぁって……鶏豆花食いたいって、テレパシーで送っちゃってたとしか思えない……」
「僕も佐塚さんも宇宙人じゃないので、普通に携帯のメッセージで受信しました。えーと……そのご様子だと自覚なく送信しちゃったのかもしれないんですけど、二時間前くらいに『中華食べたい』ってLINE来てましたよ」
「ええーうそ……うっわ、ほんとだ信じられない……」
 言われて確認した携帯の画面には、確かに汀にあてたメッセージが残っている。正確には『なぎさくんのつくったちゅうかたべたい』という本当に穴があったら三か月くらいは出てきたくないような文言だった。
「店の方も今日は閉めたし、凌空の迎えのついでなんでちょっとだけ寄れるかなぁと思って。ご迷惑じゃなければ、差し入れだと思って受け取ってもらえると嬉しいです。……鶏豆花じゃなくて申し訳ないんですが」
 そう言って汀が差し出したのは、ずっしりと重いスーパーの袋だ。ちらりと中を覗くと、使い捨てのフードパックに入った春巻きとチャーハンが見える。
「一応、持ち帰れるメニューにしたんで、いま要らないよって場合は皆さんで分けて夕飯の足しにでもしていただけたら……」
「気が利きすぎてこわい……え、汀くんは天使か何かなの……?」
「人間ですってば」
「待って、財布取ってくる、お金……」
「お代は大丈夫ですよ。昨日いただいたお金、五千円くらい多かったから、その分です」
 つくづく気が利く上に、優しい。優しすぎてわけがわからないし、くらくらする。いやこの眩暈はおそらく、汀のせいではなくただの過労だ。
 お仕事中に失礼しましたと、軽やかに礼をする青年の手を取ったのは衝動だった。
 ん? という顔をした汀は、しかしすぐに真剣に顔を曇らせる。
「佐塚さん、手、熱――」
「シュウ! ちょっとこれ、みんなで食ってて。おれ一瞬抜けるけど十分で戻るから。汀くんごめん、十分だけ時間ほしい」
「えっ、え!?」
 慌てる汀の手を引き、ずかずかと廊下を進む。途中箱の奥の瀬羽に『エビ焼売食ったら向こう三か月ヘルプ断るから』とだけ言い捨てて、資料まみれの小部屋に汀ごとするりと身を滑り込ませて扉を閉めた。
 元々は喫煙室兼休憩所だったが、今やすっかり過去作品の資料や衣装、アダルトグッズで埋め尽くされてしまい、時折佐塚と瀬羽がだらだらと瞑想する時に使うだけの部屋だ。
「こんなとこでごめんすぎるんだけど、もううちの会社どこ切り取ってもいかがわしいから我慢して……あ、だめ、そっちは封印されしSMレーベル時代の遺物だから見ちゃだめ」
「佐塚さん、あの、もしかして熱あるんじゃないですか? なんか手がすごい熱かった――」
「あるかも。でも今おれがぶっ倒れたらさすがにやばいから、ちょっとだけ補給させて」
「補給、って、」
「ごめん、キスして。……キス、したい。お金払うから」
 他人のキスシーンを繰り返し見ている内に、耐えられなくなった。興奮したというわけではない。さすがにAV序盤のキス程度で期待に股間を膨らます程初心ではない。何より自分が撮った映像だ。
 ただ、汀とキスがしたくなった。
 疲労と眠気と熱のせいで、自分がどれだけ言葉を吐いたかもわからない。身に覚えのないメッセージを送信している程疲れているのだから、自分の口から出る言葉すらも信用できない。
 汀は何も言わなかった、と思う。
 ただ苦しそうに息を吐き、佐塚がその表情に気が付く前に抱き寄せて口づけた。
 いつもは熱い汀の舌が妙に冷たく感じる。自分の息がとにかく熱い。柔らかく舌を舌で愛撫され、何度も唇を優しく甘噛みされる。汀のキスはいつも驚くほどに優しく甘い。あの男優とはくらべものにならない程の丁寧なキスだ。
 十分と言わず、一時間くらいこうしていたい。汀に抱きかかえられていると、笑えるほどに安心する。
 もういいよありがとう、と言えなくて、促されるまま舌を差し出す。愛撫のようなキスは徐々に深く貪欲になり、そのうち佐塚はほとんどすべての体重を汀に預けた。
 しばらく後、異変に気が付いたのは汀の方だった。
「…………佐塚さん……?」
 唇を少し離して名前を呼ぶ。しかし、佐塚は答えない。――答える体力が、無い。
 馬鹿だなぁと思ったことは覚えていた。馬鹿だなー大人なのに、自分の限界もわかんないなんて。
「え、ちょっと……佐塚さん、大丈夫ですか!? 待ってて、今、他の人呼んできますから――!」
 佐塚の身体をひとまずゆっくりと床に降ろし、優しい青年はバタバタとあわただしく部屋を出る。すいません誰か――と叫ぶ彼の声を遠くに聞きながら佐塚は、『いろんなひとに謝らなきゃ』と思った。

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