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第三章
第六十三話 私の望んだ繋がり
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私はみんなに背を向け、イリューゼさんと師匠に向けて足を踏み出した。
「別れを告げなくて良いのかい?」
隣に並んだイリューゼさんが、そっと小声で尋ねてくる。
「本当のことを言ったら雰囲気が重くなっちゃいますし。ミレーネさんとかは、多分反対します」
「キミが救ったという、あの弓使いの女の子だね。経緯を考えればそうだろうけど、別に彼女に限った話じゃないだろう」
イリューゼさんは、イタズラっぽい目で私の顔を覗き込む。
「此処に集った者達は、多かれ少なかれキミと縁がある。キミが自分の身を犠牲に儀式を完遂すると知れば、是非を考えるよりも先に止めようと思うのが人の情というものだよ。全く関わりの無い赤の他人であっても、目の前で死なれるのはキツい。それが知り合いとなれば、言わずもがなだ」
「なんで今、そんなことを言うんですか?」
私はムッとしてイリューゼさんを睨んだ。
「せっかく私が決意してきたっていうのに、それを鈍らせたいんですか?」
しかし彼女の飄然とした態度は変わらない。
「よく言うよ、此処での死なんて全然怖がってないくせに」
口元に手を当ててクスクスと笑う。幼い外見と相まって、生意気で背伸びした子供がからかっているように見えた。
「キミはボクの話を聴いて、ショックを受けていただろう? 何もかもが無意味に思えて、目を閉じ耳を塞ぎただ問題から遠ざかりたいと思っていた筈だ。でもそれは、別に死を迎えるのが怖いからから、という理由じゃない。現実に戻ったら、この世界で“シッスル・ハイフィールド”として生きた記憶を全て喪ってしまうからだ。それでも今、キミは此処に立っている。さて、どんな心境の変化があったのやら」
私は師匠を見た。彼女はただ肩を竦めて首を振っただけだ。さっきの話を、イリューゼさんにはしていないということだろう。
それでもイリューゼさんは、気付いている。私が何を恐れていたのか、そして何の為に〈究極幻術〉の儀式を引き受けるのか。
「【幽幻世界】を再構築するのが〈究極幻術〉、イリューゼさんは私にそう教えてくれましたね」
「ああ、そう説明したよ。それで?」
「再構築ということは、全てが元通りになるとは限らないわけです。仮に術者が何らかの手を加えたら、以前とは違う世界が出来上がる」
「理論上では、そういうことも可能だろうね。これまでの歴史で、〈究極幻術〉を引き受けた幻術士達は、誰もがセオリーから外れることなくこの【幽幻世界】を元通りに復旧させてきた。聖リングマードが、主神ロノクスとの契りによってこの世界を定義したように、以後の術者達も律儀に前例を踏襲してきたのさ」
古の聖人とされたリングマードの業績が、総主教の口から初めて語られた。なるほど、【幽幻世界】の成り立ちに深く関わっていたからこそ聖人とされてきたのか。
「誰もが、夢を壊したくなかったのさ。【幽幻世界】は秘められた楽園。現実の辛さを忘れて、別の人間として一時の夢を見たい者達の受け皿だからね。歴代の幻術士達は全員その理念を理解を示し、運命を受け入れた。……でもキミは、少し違うようだね」
楽しげなクスクス笑いを続けながら、イリューゼさんは核心に踏み込んだ。
私もまた、彼女の飄々とした佇まいに導かれるように本心を伝える。
「私は、此処での日々を忘れるなんて嫌です。それじゃあ結局、現実に戻っても何も残らないじゃないですか」
「それで良い、と主神も聖人も思ったんだよ。夢と現実は交わらず、別々に成り立っているのが正しいあり方だ、とね。もし両者が互いに干渉し合えば、せっかくの夢を壊してしまう恐れがある。前にも言ったけど、仮にこの【幽幻世界】で悠久の時を過ごそうと、現実での時間は一秒たりとも動いていないんだ。夢での記憶に、無駄も何も無いとボクだって思うけど?」
「いいえ、私はそう思いません」
きっぱりと私は告げた。
「“高原薊”としての私は、確かに物語の世界に憧れていました。空想の中で遊ばせている世界に、いつか本当に行けたら良いな――と、本来なら絶対に叶わない願望を持っていたのも否定はしません。それは、想像で済んでいる間は一種の逃避に過ぎなかったのでしょう。でも、実際に私はこの【幽幻世界】に呼ばれました」
「うんうん、それで?」
イリューゼさんは、あくまでも楽しげな姿勢を崩さず先を促した。
「“高原薊”であった事実を忘れて、こちらでの時間を重ねて、私なりに頑張って生きてきた。でも全てが夢で、最後には無かったことにされてしまうのなら、所詮こっちでの人生なんてどこまでいっても虚構でしかないということになる。それでも、シッスル・ハイフィールドとして生きた軌跡は、間違いなく本物なんです」
自分の言葉に熱が籠もってゆくのが分かる。それは制御しようとしても出来ない、心から迸る私の情動だった。
「この世界で過ごした日々を、そこから得た数々の学びを、一時の夢だからという理由で、私は捨て去りたくない。私にとってマゴリア教国での人生は、掛け替えのない体験なんです。忘れるなんて、絶対に嫌だ」
「夢はいつか醒め、見た内容も次第に薄れていく。それが自然であり、夢に意味を求めるのは愚か者の所業である。……現実ではこれが一般的な認識だと思うけど、それでもかい?」
「どんな夢でも、幻でも、想い続ければ現実になります。必ず」
私は真っ直ぐにイリューゼさんを見つめ、そう言い切った。
イリューゼさんの口角が更に上がる。それとは逆に、彼女の目からは笑みが消えていく。
「つまりキミは、此処で生きた記憶を忘れないように、この【幽幻世界】を再定義するつもりなんだね?」
「はい」
「それがとんでもないエゴだと、自分で気付いているかい?」
「はい」
「此処での人生が、逆に苦痛だったという者だって居る。そんな者達が、記憶を現実に持ち帰りたいと望むとは思えない。それでもかい?」
「はい」
イリューゼさんの指摘は至極当然のものだった。それでも私は、自分の選択を改めようとは思わない。
「【幽幻世界】の自分も、自分です。なら、此処で過ごした日々もきちんと受け止めなくちゃダメです。これはひとりで見る夢ではなく、あらゆる人々が共有するもうひとつの世界なんですから。それに――」
私は深く息を吸った。そして、胸に溜めた傲慢の極みみたいな言葉を吐き出す。
「自分の生命と引き換えに世界を救うんです。ちょっとルールを捻じ曲げるくらい、許して頂きます」
「……ぷっ、あっはっは!」
イリューゼさんは、堪えていたものを解放するかのように吹き出した。
「やれやれ、まったく何と言う身勝手な幻術士だ。だが、それで構わない。キミの好きにすると良いさ。キミの言う通り、世界の命運そのものを委ねるんだ。どんなワガママだろうと、見守るボクらは受け入れざるを得ないよ」
「良いんですか?」
「ああ。ただし、自分の選択にちゃんと責任を持つこと。それが出来て初めて、キミの決断に価値が生まれる。ゆめゆめ、それは忘れないでおくれよ」
「勿論です。私は私の意志で、この道を選びました。迷いも、後悔も、絶対にありません」
「良い覚悟だ、それでこそ救世主に相応しい。存分にやるといいさ。キミのその独立不羈の姿勢こそが、きっと奇跡を呼び起こす」
その時、広大な礼拝堂に厳かな鐘の音が響き渡った。
――ゴーン! ゴーン! ゴーン! ゴーン……!
身体の芯から揺さぶるような重厚な鐘音が、私達の立つこの場の空気を一層の高みへ引き上げる。
巨大なクリスタル、【聖なる護り石】の原石が眩い光を放ち始めた。
「時間だ、〈究極幻術〉を執り行おう」
イリューゼさんの宣言と共に、彼女と師匠がそれぞれクリスタルを間に挟んで対角線上に立つ。二人の足元、クリスタルの真下には巨大で複雑な魔法陣のような術式が描かれており、それもまた鐘の音とクリスタルに呼応するように強く発光していた。
「クリスタルの前に立ち給え、シッスル・ハイフィールド」
促されるまま、私はイリューゼさんと師匠と三角形を結ぶように魔法陣の端に立つ。純白の光が一層輝きを増し、鳴り続ける鐘の音が大きくなる。
「万物を創りし父なる神、ロノクスよ。審判の時が来たるこの瞬間において、我ら古の聖約に基づき世界の救済を望まんとす。夢と幻の狭間で屹立せし大いなる現し身に依りて、我らが清拭を祝したまへ――」
アンク十字を両手で胸の前に添えたイリューゼさんが、厳かな調子で呪文を……いや、聖なる術の秘文を唱える。
それを聴きながら、私はそっと後ろを振り返った。
みんな、負傷したシェーナに寄り添いながらも惹き付けられるようにこちらを見つめている。私はその顔をひとつひとつ網膜に焼き付け、心の中でそっと告げた。
――さようなら、みんな。もし、現実の世界でも出会えたら、その時はどうか宜しくお願いします。
最後にシェーナに目線を移した時、礼拝堂の椅子に横たわった彼女の目蓋がピクリと動いた。
シェーナの目が僅かに、しかし確かな意思を感じさせて開かれる。所在を探るように彷徨っていた眼差しが私と重なった時、彼女の口元に微かな笑みが浮かんだ。
――さようなら、シェーナ。そして、向こうで待っててね、詩絵菜。
【幽幻世界】における親友と最後の別れを交わし、私は全てを振り切るように正面へ向き直る。
「さあシッスル、思い浮かべて。貴女の望む、新しい世界の形を」
師匠の声が、私を導く。
「ボク達の詠唱を復唱し、心の中で念じるんだ。良いかい、いくよ」
私は目を閉じ、続く二人の言葉に従った。
「遥かなる夢、【幽幻世界】よ。理を司る主の御名において、汝が綻びを匡さん」
「主の定められた聖性と魔性、崩れた両者を今ふたたびひとつにまとめ、おぞましき【闇】を祓うべし」
「我、幻術士として命ずる。聖よ魔よ、あるべき器に収まり不動の均衡を為したまへ――!」
一言一句淀み無く唱え終わった時、魔法陣とクリスタルから発せられる純白の光が一層強くなり、太い柱となって天へと伸びた。
そして、今の今まで目の前にあった光景が全て透明となり、空気に溶けるように掻き消える。
代わって見えてきたのは、世界を覆い尽くさんとしている【闇】と、それに今にも取り込まれそうになっているアヌルーンの街並み。
そこへ一条の光柱が迸り、一直線に【闇】を貫いた。
膨張に次ぐ膨張を繰り返していた【闇】が、たちまち真っ二つへと割れる。光は【闇】を切り裂きながら、世界をぐるりと一周するように巨大な円を描く。
光の通った後から生じてくる大波のような白銀色のベール。それは紛れもなく、私達がいつも目にしていた本物のオーロラだった。
【闇】の侵食が終わり、光が再生を導く。世界は、在るべき形を取り戻そうとしていた。
同時に、私の存在が希薄になっていくことが分かる。手元を見ると、透けた手の平の先に、光明で照らし出されていくアヌルーンの街が映っている。
――ゴーン! ゴーン! ゴーン! ゴーン! ゴーン……!
大鐘楼の鐘が、その音をより鮮明に、より高らかに響かせる。澄み切った福音が世界に広がり、残ったケガレを洗い流して新たな秩序を完全なものにしてゆく。
私は目を閉じた。これで最後だ。
動揺は、無い。消えゆく自分の身体と同じように何処までも透き通った心意で、私は想いの丈を世界に託す。
――どうか、夢で生きた軌跡が無意味なものとなりませんように。【幽幻世界】で積み重ねた記憶を、現実に持ち帰れる。再生した新たな世界に、その理を組み込むことを、私は望みます。
薄れていく意識の中で、私はそれだけを願い続けた。
「別れを告げなくて良いのかい?」
隣に並んだイリューゼさんが、そっと小声で尋ねてくる。
「本当のことを言ったら雰囲気が重くなっちゃいますし。ミレーネさんとかは、多分反対します」
「キミが救ったという、あの弓使いの女の子だね。経緯を考えればそうだろうけど、別に彼女に限った話じゃないだろう」
イリューゼさんは、イタズラっぽい目で私の顔を覗き込む。
「此処に集った者達は、多かれ少なかれキミと縁がある。キミが自分の身を犠牲に儀式を完遂すると知れば、是非を考えるよりも先に止めようと思うのが人の情というものだよ。全く関わりの無い赤の他人であっても、目の前で死なれるのはキツい。それが知り合いとなれば、言わずもがなだ」
「なんで今、そんなことを言うんですか?」
私はムッとしてイリューゼさんを睨んだ。
「せっかく私が決意してきたっていうのに、それを鈍らせたいんですか?」
しかし彼女の飄然とした態度は変わらない。
「よく言うよ、此処での死なんて全然怖がってないくせに」
口元に手を当ててクスクスと笑う。幼い外見と相まって、生意気で背伸びした子供がからかっているように見えた。
「キミはボクの話を聴いて、ショックを受けていただろう? 何もかもが無意味に思えて、目を閉じ耳を塞ぎただ問題から遠ざかりたいと思っていた筈だ。でもそれは、別に死を迎えるのが怖いからから、という理由じゃない。現実に戻ったら、この世界で“シッスル・ハイフィールド”として生きた記憶を全て喪ってしまうからだ。それでも今、キミは此処に立っている。さて、どんな心境の変化があったのやら」
私は師匠を見た。彼女はただ肩を竦めて首を振っただけだ。さっきの話を、イリューゼさんにはしていないということだろう。
それでもイリューゼさんは、気付いている。私が何を恐れていたのか、そして何の為に〈究極幻術〉の儀式を引き受けるのか。
「【幽幻世界】を再構築するのが〈究極幻術〉、イリューゼさんは私にそう教えてくれましたね」
「ああ、そう説明したよ。それで?」
「再構築ということは、全てが元通りになるとは限らないわけです。仮に術者が何らかの手を加えたら、以前とは違う世界が出来上がる」
「理論上では、そういうことも可能だろうね。これまでの歴史で、〈究極幻術〉を引き受けた幻術士達は、誰もがセオリーから外れることなくこの【幽幻世界】を元通りに復旧させてきた。聖リングマードが、主神ロノクスとの契りによってこの世界を定義したように、以後の術者達も律儀に前例を踏襲してきたのさ」
古の聖人とされたリングマードの業績が、総主教の口から初めて語られた。なるほど、【幽幻世界】の成り立ちに深く関わっていたからこそ聖人とされてきたのか。
「誰もが、夢を壊したくなかったのさ。【幽幻世界】は秘められた楽園。現実の辛さを忘れて、別の人間として一時の夢を見たい者達の受け皿だからね。歴代の幻術士達は全員その理念を理解を示し、運命を受け入れた。……でもキミは、少し違うようだね」
楽しげなクスクス笑いを続けながら、イリューゼさんは核心に踏み込んだ。
私もまた、彼女の飄々とした佇まいに導かれるように本心を伝える。
「私は、此処での日々を忘れるなんて嫌です。それじゃあ結局、現実に戻っても何も残らないじゃないですか」
「それで良い、と主神も聖人も思ったんだよ。夢と現実は交わらず、別々に成り立っているのが正しいあり方だ、とね。もし両者が互いに干渉し合えば、せっかくの夢を壊してしまう恐れがある。前にも言ったけど、仮にこの【幽幻世界】で悠久の時を過ごそうと、現実での時間は一秒たりとも動いていないんだ。夢での記憶に、無駄も何も無いとボクだって思うけど?」
「いいえ、私はそう思いません」
きっぱりと私は告げた。
「“高原薊”としての私は、確かに物語の世界に憧れていました。空想の中で遊ばせている世界に、いつか本当に行けたら良いな――と、本来なら絶対に叶わない願望を持っていたのも否定はしません。それは、想像で済んでいる間は一種の逃避に過ぎなかったのでしょう。でも、実際に私はこの【幽幻世界】に呼ばれました」
「うんうん、それで?」
イリューゼさんは、あくまでも楽しげな姿勢を崩さず先を促した。
「“高原薊”であった事実を忘れて、こちらでの時間を重ねて、私なりに頑張って生きてきた。でも全てが夢で、最後には無かったことにされてしまうのなら、所詮こっちでの人生なんてどこまでいっても虚構でしかないということになる。それでも、シッスル・ハイフィールドとして生きた軌跡は、間違いなく本物なんです」
自分の言葉に熱が籠もってゆくのが分かる。それは制御しようとしても出来ない、心から迸る私の情動だった。
「この世界で過ごした日々を、そこから得た数々の学びを、一時の夢だからという理由で、私は捨て去りたくない。私にとってマゴリア教国での人生は、掛け替えのない体験なんです。忘れるなんて、絶対に嫌だ」
「夢はいつか醒め、見た内容も次第に薄れていく。それが自然であり、夢に意味を求めるのは愚か者の所業である。……現実ではこれが一般的な認識だと思うけど、それでもかい?」
「どんな夢でも、幻でも、想い続ければ現実になります。必ず」
私は真っ直ぐにイリューゼさんを見つめ、そう言い切った。
イリューゼさんの口角が更に上がる。それとは逆に、彼女の目からは笑みが消えていく。
「つまりキミは、此処で生きた記憶を忘れないように、この【幽幻世界】を再定義するつもりなんだね?」
「はい」
「それがとんでもないエゴだと、自分で気付いているかい?」
「はい」
「此処での人生が、逆に苦痛だったという者だって居る。そんな者達が、記憶を現実に持ち帰りたいと望むとは思えない。それでもかい?」
「はい」
イリューゼさんの指摘は至極当然のものだった。それでも私は、自分の選択を改めようとは思わない。
「【幽幻世界】の自分も、自分です。なら、此処で過ごした日々もきちんと受け止めなくちゃダメです。これはひとりで見る夢ではなく、あらゆる人々が共有するもうひとつの世界なんですから。それに――」
私は深く息を吸った。そして、胸に溜めた傲慢の極みみたいな言葉を吐き出す。
「自分の生命と引き換えに世界を救うんです。ちょっとルールを捻じ曲げるくらい、許して頂きます」
「……ぷっ、あっはっは!」
イリューゼさんは、堪えていたものを解放するかのように吹き出した。
「やれやれ、まったく何と言う身勝手な幻術士だ。だが、それで構わない。キミの好きにすると良いさ。キミの言う通り、世界の命運そのものを委ねるんだ。どんなワガママだろうと、見守るボクらは受け入れざるを得ないよ」
「良いんですか?」
「ああ。ただし、自分の選択にちゃんと責任を持つこと。それが出来て初めて、キミの決断に価値が生まれる。ゆめゆめ、それは忘れないでおくれよ」
「勿論です。私は私の意志で、この道を選びました。迷いも、後悔も、絶対にありません」
「良い覚悟だ、それでこそ救世主に相応しい。存分にやるといいさ。キミのその独立不羈の姿勢こそが、きっと奇跡を呼び起こす」
その時、広大な礼拝堂に厳かな鐘の音が響き渡った。
――ゴーン! ゴーン! ゴーン! ゴーン……!
身体の芯から揺さぶるような重厚な鐘音が、私達の立つこの場の空気を一層の高みへ引き上げる。
巨大なクリスタル、【聖なる護り石】の原石が眩い光を放ち始めた。
「時間だ、〈究極幻術〉を執り行おう」
イリューゼさんの宣言と共に、彼女と師匠がそれぞれクリスタルを間に挟んで対角線上に立つ。二人の足元、クリスタルの真下には巨大で複雑な魔法陣のような術式が描かれており、それもまた鐘の音とクリスタルに呼応するように強く発光していた。
「クリスタルの前に立ち給え、シッスル・ハイフィールド」
促されるまま、私はイリューゼさんと師匠と三角形を結ぶように魔法陣の端に立つ。純白の光が一層輝きを増し、鳴り続ける鐘の音が大きくなる。
「万物を創りし父なる神、ロノクスよ。審判の時が来たるこの瞬間において、我ら古の聖約に基づき世界の救済を望まんとす。夢と幻の狭間で屹立せし大いなる現し身に依りて、我らが清拭を祝したまへ――」
アンク十字を両手で胸の前に添えたイリューゼさんが、厳かな調子で呪文を……いや、聖なる術の秘文を唱える。
それを聴きながら、私はそっと後ろを振り返った。
みんな、負傷したシェーナに寄り添いながらも惹き付けられるようにこちらを見つめている。私はその顔をひとつひとつ網膜に焼き付け、心の中でそっと告げた。
――さようなら、みんな。もし、現実の世界でも出会えたら、その時はどうか宜しくお願いします。
最後にシェーナに目線を移した時、礼拝堂の椅子に横たわった彼女の目蓋がピクリと動いた。
シェーナの目が僅かに、しかし確かな意思を感じさせて開かれる。所在を探るように彷徨っていた眼差しが私と重なった時、彼女の口元に微かな笑みが浮かんだ。
――さようなら、シェーナ。そして、向こうで待っててね、詩絵菜。
【幽幻世界】における親友と最後の別れを交わし、私は全てを振り切るように正面へ向き直る。
「さあシッスル、思い浮かべて。貴女の望む、新しい世界の形を」
師匠の声が、私を導く。
「ボク達の詠唱を復唱し、心の中で念じるんだ。良いかい、いくよ」
私は目を閉じ、続く二人の言葉に従った。
「遥かなる夢、【幽幻世界】よ。理を司る主の御名において、汝が綻びを匡さん」
「主の定められた聖性と魔性、崩れた両者を今ふたたびひとつにまとめ、おぞましき【闇】を祓うべし」
「我、幻術士として命ずる。聖よ魔よ、あるべき器に収まり不動の均衡を為したまへ――!」
一言一句淀み無く唱え終わった時、魔法陣とクリスタルから発せられる純白の光が一層強くなり、太い柱となって天へと伸びた。
そして、今の今まで目の前にあった光景が全て透明となり、空気に溶けるように掻き消える。
代わって見えてきたのは、世界を覆い尽くさんとしている【闇】と、それに今にも取り込まれそうになっているアヌルーンの街並み。
そこへ一条の光柱が迸り、一直線に【闇】を貫いた。
膨張に次ぐ膨張を繰り返していた【闇】が、たちまち真っ二つへと割れる。光は【闇】を切り裂きながら、世界をぐるりと一周するように巨大な円を描く。
光の通った後から生じてくる大波のような白銀色のベール。それは紛れもなく、私達がいつも目にしていた本物のオーロラだった。
【闇】の侵食が終わり、光が再生を導く。世界は、在るべき形を取り戻そうとしていた。
同時に、私の存在が希薄になっていくことが分かる。手元を見ると、透けた手の平の先に、光明で照らし出されていくアヌルーンの街が映っている。
――ゴーン! ゴーン! ゴーン! ゴーン! ゴーン……!
大鐘楼の鐘が、その音をより鮮明に、より高らかに響かせる。澄み切った福音が世界に広がり、残ったケガレを洗い流して新たな秩序を完全なものにしてゆく。
私は目を閉じた。これで最後だ。
動揺は、無い。消えゆく自分の身体と同じように何処までも透き通った心意で、私は想いの丈を世界に託す。
――どうか、夢で生きた軌跡が無意味なものとなりませんように。【幽幻世界】で積み重ねた記憶を、現実に持ち帰れる。再生した新たな世界に、その理を組み込むことを、私は望みます。
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