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第一章 夢ですか? それとも現実?
都内某所にある居酒屋では、広告会社アドネットクラフトの新入社員歓迎会が行われていた。
金曜の夜らしく、店内は仕事帰りの会社員が大勢おり、騒がしい。そんな中、座敷を貸し切り、二十人ほどの参加者が二つの座卓に分かれて座っている。
(今日は、『先輩の初めてを俺にくださいⅡ』の配信日なのに……)
葵はちらちらと腕時計に視線を落としながら、カクテルを一口飲んだ。ここから帰るには葵の自宅は少し遠い。JR線で一本ではあるものの、一時間以上かかる。
家に帰ってから配信を聴くため、飲みすぎないようにしなくては。
「芽衣もこのあと帰るよね?」
葵は腕時計から顔を上げて、隣に座る同期の桜田芽衣に声を掛けた。
こうして友人と顔を合わせて食事ができるのは嬉しいが、プライベートに踏み込むほどの仲でもない同僚たちとの食事は少し気疲れしてしまう。
普段リモートが多く、週に一度しか出社しないからよけいにそう思うのかもしれない。
「うん、もう少ししたら彼が迎えに来てくれるみたい」
「相変わらず恋人と仲いいよね」
感心したような口調で葵は言った。恋人など長い間いないが、羨ましさを感じたことはない。
「まぁね。付き合いも長いし」
「そうだったね」
頷きながら、葵は斜めに下ろした前髪を指先で軽く払い、背中まである緩く巻いた髪を耳にかけた。
長いまつげはなにもしていなくともくるりと反り返っており、葵の大きな目をよりぱっちりと見せている。小ぶりでありながら鼻梁は高く、形良く厚めの唇は艶めかしささえ感じるほど。
食べても太れない体質のせいで、すらりと背が高く、腰は細い。
どこからどう見ても隙のない完璧な美人――周囲からそう評される美貌を、本人だけは〝母や兄たちに比べたら平凡〟だと思っている。
母によく似ていると言われても、兄たちのような華やかさはないし、人を惹きつける魅力もない。目立つことも好きではない。そんな性格が見た目に滲み出ている気がする。
「結婚するって話も出てるんだっけ?」
「ふふ、三十歳までに私をもらってって言ってあるから」
嬉しそうに言う芽衣に『男性と四六時中一緒に過ごさなければならない結婚のなにがいいの?』とは聞けない。羨ましさはないものの、大学時代にあんなことがなければ、きっと自分も人並みに恋に憧れていただろうな、と思うから。
葵と同い年の芽衣は二十八歳。結婚式の準備期間を考えると、近々プロポーズされるだろう。
「葵は――」
「小早川さん、飲んでる~?」
芽衣が言いかけたところで、斜め後ろに座る同僚、宮岡淳がビール瓶を片手に葵に声をかけてきた。歓迎会が始まってすでに二時間。すっかり酔いが回っている。
「ええ、いただいてます」
穏やかに答えるものの、話に割って入られた苛立ちで、無意識に葵の眉間にしわが寄る。
宮岡は葵の四つ上の三十二歳で、中途採用のため社歴はまだ一年と、マネージャー職に就いている葵や芽衣よりも下。ただ、前職で大手広告会社に勤めていたからか、妙に自尊心が高い。口癖は「俺があっちにいた頃は」だ。
勤務中にも頻繁に絡んでくるし、薄気味悪い目でこちらを見つめてくる。他にも、自分でやるのが面倒な雑用を頼んできたり、なぜか先輩風を吹かせてランチを奢りたがったり。
こちらの冷ややかな態度に気づいているはずなのに、執拗に話しかけてくるため、葵はこの男が苦手だった。
「うちの会社、リモートが多いからさ。みんなで飲む機会ないんだし、そうツンケンしてないで仲良くしようぜ」
「私がこうなのは、いつものことです」
にこりともせずに言っても、宮岡は気に留める様子もない。
「女は愛嬌がないと出世できないだろ。マネージャー止まりで終わるぞ?」
隣に座る芽衣も、宮岡のその言葉に眉を顰めた。後輩で、いまだ役職付きでもない宮岡には言われたくないだろう。
「それならそれで構いません。男性に媚びたいとも思いませんし」
「んなこと言わずにさ~ちょっと酔っ払って、その石みたいにがちがちなガードを緩めようぜ。俺が葵ちゃんに酌の仕方を教えてやるよ」
「名前で呼ぶのをやめてください」
瓶ビールをこちらに向けられ、葵は「けっこうです」とグラスに手を当てる。
「べつにいいだろ。同じ部署で仲良くするくらい。ほかにも名前で呼んでる社員いるよな?」
宮岡が葵の隣に座る芽衣にちらりと視線を向けた。
芽衣は同僚だけれど、友人だから名前で呼び合っているだけだ。けれど、酔っている宮岡にそんな話をしたところで聞く耳を持つとも思えない。相手にするだけ時間の無駄だ。
「なぁ、聞いてんの?」
「はぁ」
無視をし続けて酔った宮岡に激高されるのは避けたい。さらなる面倒を回避するため、葵は仕方なく相槌を打つしかなかった。
「いやいや『はぁ』じゃなくてさぁ。ほら、そういうところだろ。ムスッとしてないで笑顔笑顔! なんなら俺が笑わせてやろうか?」
宮岡が葵の身体に手を伸ばそうとしてくる。
(なんの冗談! セクハラまでするのっ!?)
葵は宮岡の手を避けようと、その場で勢いよく立ち上がりバッグを掴んだ。
「どこ行くんだよ」
「化粧室です」
酔いが回っている宮岡も、さすがに化粧室に行く葵を引き止めはしなかった。
葵は芽衣にごめんと目配せし、座敷を抜け出す。靴を履き、外の空気でも吸いに行こうと、こっそり店から出た。
このあたりは飲食店が軒を連ねており、金曜の夜ともなれば通りを歩く人も多い。葵が店の前で少し時間を潰していても、目立ちはしないだろう。
外に立っていると自然と深い息が漏れた。酔っぱらった宮岡に言い寄られ、なんとか強気の姿勢で拒絶していたものの、本当はかなり腰が引けていたのだ。
(早く帰りたい……)
葵はもう一度ため息を漏らし、駅の方に視線を向けた。年に一度程度しか参加しないとはいえ、こういう日の帰りは億劫になる。
(リモートが多くて助かるし、仕事も好きだけど……ああいう人だけはちょっとね)
葵は宮岡に触れられそうになったことを思い出し、両腕をさすった。
大学卒業後、アドネットクラフトに就職した葵は今、六年目だ。
東京都新宿区に本社を置くアドネットクラフトは、大企業ADグループの子会社の一つで、インターネット広告事業を中心に行っている。
ADグループも創業三十年とまだ若い会社だ。グループ全体で年功序列制度を取り入れず、若手でも才能のある者に役職と権限を与えており、アドネットクラフトの社長も副社長も、複数いる取締役も皆、三十代である。
社員数は全国で千人ほどいるが、事業がほぼオンライン化されているため、リモートワークの地方在住の社員が多かった。
仕事はやりがいがあるし、月給も高く福利厚生も手厚い。売り上げや自分の評価がボーナスという形で還元されるためモチベーションも高くいられる。なにより無駄な通勤時間がない。
葵がこの会社に就職を決めたのも、リモートワークの多さが理由の一つ。通勤は週に一度程度のため、人付き合い――特に男性との関わりを面倒だと思っている葵にはうってつけだった。
ただ、四月に行われるこの新入社員歓迎会だけは、皆なるべく出席し、他部署の人間とも交流を図るように、というお達しがある。そうでもなければ、いつものごとくスルーしていただろう。
(社長も副社長もいらっしゃるから、さすがに断れないし……)
それに、リモートで普段は直接顔を合わせないからこそ、飲み会を楽しみにしている社員も多い。苦手な男性社員に絡まれそうだから欠席します、とはさすがに言えない。
仕事が終わったら、葵の推しである声優、日下部潤のシチュエーションCD『先輩の初めてを俺にくださいⅡ』を聴こうと、一ヶ月も前から楽しみにしていたのに。
宮岡のせいで溜まった鬱憤を、潤さまで癒やすしかない。
(芽衣、ごめん……少しだけ許して)
葵はバッグからBluetoothイヤホンを取りだし、耳に差し込む。すでにダウンロードはしてあるから、あとは専用アプリの再生ボタンをタップするだけ。
宮岡の興味がべつのところに移っていればいいが、芽衣に相手をさせていたら申し訳ないと思いつつ、五分でやめるから、と心の中で言い訳をする。
アプリの再生画面には、美青年がこちらをじっと見つめるジャケットが表示されている。楽しみすぎて、再生ボタンを押す指が震えた。
目を瞑ると、蕩けるほどの美声が頭の中にまで響いてくる。
『もう遅いし、同じ方向なんで送っていきます』
『なに言ってんですか。俺が心配だから、送ってくって言ってんの』
『だから……ったく、勘違いしてほしくて言ってるんですけど。ねぇ先輩、俺の気持ちに、そろそろ気づいてくれません?』
リアルな三次元の男性が苦手な葵は、実のところ、声優と二次元の恋愛ものが大好きなアニメ系オタクだった。
ジャケットに写る美青年――タクミの隣を歩く自分を想像して、口元が緩みニヤニヤしてしまいそうになる。早く家に帰って最後まで楽しみたいものだ。
(Ⅱも最高! 早く誰にも見られずニヤニヤしたい……っ)
このシリーズのイラストを担当しているイラストレーターも神がかっており、ファン待望のⅡだといえる。興奮で涙の滲んだ目を軽く伏せて、あと少しだけと耳に届く音に集中する。
『ねぇ……もう少し一緒にいたいんだけど。このまま俺の部屋に来ない?』
『なにもしないから、なんて言えない。来るなら覚悟してね』
『なんの覚悟って……わからない? 帰したくなくなるってこと』
『誰にでも? まさか! 帰したくないなんて、先輩にしか言わないよ』
緩んだ口から「ぐふっ」と怪しげな声が漏れて、思わず口元を覆った。
葵は顔を赤らめ、周囲を窺う。
これ以上推しの声を聞いていたら、現実逃避から戻ってこられなくなりそうだ。
(芽衣が待ってるからもう戻らないと。あと一時間も我慢すれば解散だろうし)
葵はイヤホンを外しバッグにしまうと、自分を落ち着けるように何度か深呼吸を繰り返した。戻ろうと店に足を向けたタイミングで、手に持ったままのスマートフォンが振動する。
歩きながらチェックすると、予想通りメッセージの送信相手は芽衣だった。
『さっさと戻ってきて、酔っ払いの相手、ほんと無理』
先程の宮岡の態度を思い出して、葵は急いで店に入った。
葵が戻ると、宮岡はすでにべつのテーブルの女性と話していた。胸を撫で下ろし、もう絡まれませんようにと祈りつつ元の席に腰を下ろす。
「ごめんね」
「遅いわよ」
芽衣が文句を言いながら、葵を見据えた。
逆のことをされたら葵も「早く戻って」と芽衣にメッセージを送るだろう。葵はもう一度、ごめんと芽衣に謝罪した。ストレス発散に潤さまの声を聞いていたなんて言えないが。
「化粧室が混んでて」
葵がそっと目を逸らしながら言うと、付き合いの長い友人はなにかに勘づいたのか、訝しむような目を向けてくる。
「そんなこと言って、愛しの潤の声でも聞いてたんでしょう」
「なんでわか……っ、ちょっと、こんなところで言わないでっ」
葵は彼女の口を慌てて塞ぐ。芽衣の声は喧噪の中でもそれなりに大きく響いていた。
芽衣は、オタクな葵に理解のある奇特な友人だ。出社日は仕事帰りに二人で食事に行くことも多く、その際には葵のオタク話を呆れつつもすべて聞いてくれる。
周囲にオタバレしないように注意しているのを知っているはずだから、聞こえる声量で言ったのは葵への意趣返しだろう。
「まぁ、さっきの見てたら癒やされたい気持ちはわかるけど」
「でしょう?」
そうだよね、と頷けば、芽衣に冷ややかな目で睨まれた。
「葵は見た目と中身のギャップが激しすぎるのよ。何人もの男を手玉に取ってそうな見た目でバリキャリなのに、三次元の男はNGなんて。むしろ『オタクです』って言って回れば、あの人も引くんじゃないの?」
「何人もの男を手玉に取ったことなんてないし。でも、『オタクです』って言って回るのはありか……だめ、痛すぎるでしょ」
「だから〝鉄壁〟だなんて呼ばれるんでしょうに」
「〝鉄壁〟と〝オタク〟なら、不本意だけど〝鉄壁〟を選ぶ」
ちゃんと仕事のやりとりはしているし、べつに無視しているわけでもないのに、男性相手にニコリともしない葵を揶揄して、守りが堅すぎる〝鉄壁〟だなんて。
「学生の頃の話を聞けば仕方がないとは思うけど、元彼とか宮岡さんみたいな男ばかりじゃないってば」
芽衣の言いたいことはわかっている。過去のトラウマがあるからといって、男性に対して誰彼構わず警戒しなくてもと葵も思う。でも――
(やっぱりまだ……男の人には気を許せないよ。まぁ、理由はそれだけじゃないけど)
葵は生身の男性が苦手になった原因を思い出し、目の前に置かれたグラスを手に取った。葵が席を外している間に新しいドリンクを頼んでくれたらしい。
一口飲むと、それなりに酒精の強いカクテルだったのか、アルコールの味が口の中に広がる。
「芽衣の言う通りだと思うよ。ただね、今はリアルの男性に興味が持てなくなっちゃったの。リアルには、二次元から与えられる胸キュンと高揚感がまったくないっていうか」
潤さまは青年から上司まで幅広い役柄で人気を博しているのだが、葵は特に彼の演じる後輩もの――『先輩の初めてを俺にください』のヒーロー、タクミが好きだった。
可愛くて素直で、ちょっと腹黒いところもあるが、ヒロインだけを一途に愛している。そんなところがいい。身体の付き合いから始まったけれど、タクミは最初からヒロインに夢中。そんなタクミの気持ちに気づかない〝私〟にやきもきし、それでも先輩と後輩の垣根をなかなか取り払えず、ほかの男に奪われそうになったところで、タクミが行動に出る。
脳髄にまで染み渡る潤さまの甘い声で『帰したくない』などと言われたら。
(三次元の男がかっこいいと思えなくなるのも、当然っていうか……)
顔だけではない。行動とセリフがすべてイイ。二次元に勝るものはない。それに、絶対に裏切らないとわかっているから安心できる。
声を潜めてそう語ると、芽衣は呆れた顔でため息をつきつつも、「好きにすれば」と言った。彼女は葵のオタクトークなど聞き飽きている。
「人から言われてどうにかなるものでもないわよねぇ。でも、そんなに潤の声が好きなら、あの人はないわけ?」
あの人、と言いながら芽衣が目を向けたのは上座だ。そこには、アドネットクラフトの社長と副社長の二人が肩を並べて座っていた。
「潤に声が似てるんでしょう?」
葵は社長、澄川の隣に座る副社長、吉良湊斗をそっと覗き見た。
どこにいても目立つ男だと思う。
染められていない黒髪は真っ直ぐで、やや長い前髪は横に流すように整えられている。
前髪から覗く太い眉は凜々しく、目元は涼やかながら男らしくキリッとしていた。高く真っ直ぐに通る鼻梁、やや厚めの唇も、上品さを兼ね備えながら男らしい魅力をこれでもかというほどに溢れさせている。
葵の三人の兄たちもかなりの美形なのだが、その兄たちと張るほど――いや、兄たちを凌駕するほどの顔の良さだ。さらに言えば、体躯もよく、身長は百八十を超えている。
そんな男がモテないはずもない。隣に並ぶ社長もまた目を瞠るほどの美形のため、二人揃うとその強烈な存在感から目を逸らせず、思わず見入ってしまう。
(いつだったか、女性社員たちが、『彼らの隣に立つ勇気のある女なんてそうそういない』って言ってたのも頷けるわ)
広告塔にもなっている社長の澄川は、様々なメディアに顔を出しており、彼女が百人はいると噂されている。そのサポートをする湊斗も似たようなものだろうというのが女性社員たちの見解だ。遊ばれるだけとわかっていて彼らに近づこうとするチャレンジャーは少ない。
「声が似てるからって、そういうのはないよ。まぁ、いつも耳を澄ませちゃうけど」
葵は湊斗に意識を向けたまま、芽衣に視線を戻す。
彼の声は席が離れていてもよく通る。葵は歓迎会が始まってから、芽衣と話しつつも、ずっと湊斗の声に耳を傾けていた。
(やっぱり……そっくり)
低すぎず高すぎない甘いバリトン。同じ日本語を話しているとは思えないほどの発音の綺麗さ。淀みなく発せられる言葉を聞いているだけで、なぜだか安心できる。
似ているのは声だけだから、まさか血縁関係ではないと思うが、潤さまを推しだと豪語する葵ですら、この二人の声の違いがわからなくなるときがある。
「あの見た目にはなんの興味もなく、声だけが好きなんてね」
「見た目もいいとは思ってるけど、それはべつに……そもそも声だって潤さまに似てるから好きなだけだし」
兄たちで美形を見慣れているからか、リアルな男に興味がないからか、見目の良さに魅力をまったく感じないだけで。
「ほんと、あんたの世界は潤を中心に回ってるわ」
「ふふ、そうかも」
「じゃあもう、いっそのこと潤に好きですって手紙でも出してみたら? 葵は美人だし、ワンチャンあるんじゃないの?」
呆れたように言う芽衣に、葵は苦笑を返した。
すぐに恋愛方面の話に持っていきたがるのは、芽衣がいい恋をしているからだろう。
葵は潤さまを推しているが、交際したいかと聞かれたらNOである。
潤さまが出演するアニメ、映画は必ずチェックし、宣伝のために出演したラジオも追いかけている。イベントチケットを手に入れるため出演作の円盤は必ずゲット。金を惜しむことなくオタク活動につぎ込んでいるし、毎年、誕生日にはプレゼントと共に熱の籠もった手紙を事務所に送っているが、それは一ファンとして応援する気持ちからだ。
「ないってば。彼は、私の人生を豊かにしてくれた人っていうだけなの」
「ふぅん、そんなもの?」
「そうよ」
ただ、『先輩の初めてを俺にください』のタクミなら……と思ってしまうオタクな自分が怖い。残念ながらタクミと付き合える日は一生来ないけれど。
そもそも葵は、リアルな男と交際したいとは思っていない。
恋愛ものの二次元ヒーローは、ただただ葵を甘やかし愛してくれるが、現実は違う。愛が憎しみに変わり、愛する相手を傷つけることもあると、もう知っている。
だから誰かと恋人関係になり、その相手に気を許すことが葵にはできない――
過去の弱い自分に引きずられそうになった瞬間、強い酒の匂いに現実に引き戻される。肩になにかがあたりそちらを向くと、酔って顔を赤くした宮岡がまたもやすぐ近くにいた。
「なぁ、さっきからこそこそ、なんの話してんの?」
葵は周囲に聞かれないように芽衣の方に身体を寄せて話をしていたため、右隣が三十センチほど空いていた。宮岡はその隙間に膝を差し入れて、強引に割って入ってくる。
「宮岡さんには関係のない話です」
「またまたぁ~」
葵が冷ややかな態度で言うが、宮岡は酒に酔った顔でニヤニヤと笑い、べつのテーブルから持ってきたジョッキを呷る。彼が話すたびに酒臭い息が漂い、ただただ不快だった。
「俺の噂話してたんだろ? 葵ちゃんって、恋愛なんて興味ありませんって顔してんのになぁ。なら、俺と付き合ってみる?」
「宮岡さん、だから名前呼びはやめてくださいって言ってますよね?」
「葵ちゃん、葵ちゃん、葵ちゃ~ん」
宮岡はゲラゲラと笑いながら葵の名前を連呼する。酔っていてまともに話が通じない。
「飲みすぎだと思いますけど」
芽衣も窘めてくれたが、宮岡はまったく意に介さない。またかとうんざりするが、先程のように席を立てば、今度こそ芽衣に恨まれそうだ。
「お互い様なんだからいいだろ。恥ずかしがってないで、素直になれよ。可愛げないなぁ。もしかしてベッドでは豹変するタイプか?」
お互い様の意味がわからない。酔っているのはお互い様という意味だろうか。きっと酔っ払いの戯れ言だろう。
「それセクハラですよ。可愛くなくてけっこうです」
「酒の席での冗談だろ、セクハラだの、パワハラだの。ほんとうぜぇ」
葵は宮岡をぎろりと睨みつけた。しかし彼は葵の苦言を軽く流し、さらに赤ら顔を近づけてくる。どうやらここに居座る気満々らしく、すでに葵の隣に腰を下ろしていた。
宮岡とこれ以上話をしたくなくて仕方なくグラスを空けていく。そこまで酒に弱くはないが、宮岡の隣にいるだけで悪酔いしそうだ。
「さっき俺の話してただろ? ツンデレも行きすぎると可愛くないぞ」
「……宮岡さんの話なんてしていません」
葵がなにを言っても聞いているのかいないのか、酔っ払った宮岡は勝手に自慢話を始めた。前の会社では課長だったとか、部下がどれだけいたとか、女にモテたとか、自分の指示で数億の金が動くんだとか。本当にどうでもいい話ばかり。
(もうそろそろお開きの時間だと思うんだけど)
葵は五分置きに時間をチェックしてはため息をつく。グラスを空けたのと同時に宮岡から新しいグラスが手渡されて、すでに何杯飲んだのかわからなくなってきた。
宮岡の話を聞き流しながら、葵は現実逃避で湊斗の声に耳を澄ませた。芽衣はといえば、恋人とのメッセージのやり取りに夢中である。
「社長と副社長は二次会行かれます?」
「もう帰るよ。三十過ぎるとさ、夜遅いのが明日に響くわけ。なぁ、湊斗?」
「まぁな……酒はほどほどに、の年齢だからな」
澄川の声のあとに湊斗の声が聞こえてくる。
湊斗の少し疲れたような声は、多分に色香を含んでいる。葵の好きなキャラであるタクミとは違うものの、これはこれでいいような気がして、葵はうっとりと目を細めた。
「ジジ臭いこと言わないでくださいよ、お二人ともまだ三十三歳じゃないですか! 仕事も恋も楽しめる年齢ですよ」
楽しそうに話しているのは、同僚の男性社員だ。澄川も湊斗も経営者として厳しい面を見せることもあるが、年若いからか近づきがたさはない。
特に湊斗は、インターネット広告事業本部の長として、副社長という立場にいながら現場の陣頭指揮を執っており、葵も話すことが多かった。そのたびに彼の声に聴き入っているのは内緒だ。
もともとアドネットクラフトは、友人同士だった湊斗と澄川が大学在学中に起ち上げた会社である。
彼らは、ダイナミックリターゲティングの広告効果が高くなるように、AIに効果を予測させ最適な広告を選択するプログラムを開発した。その会社がADグループに買収され今に至る。
また、その頃に集めた人材がアドネットクラフトの経営陣に多くいて、年齢も若いため、皆、自分たちとそう年の離れていない二人に対して、酒が入るとつい気安い態度を取ってしまいがちだった。
「副社長って、そもそもどういう女性が好きなんですか? 社長もですけど、二人とも別世界すぎて、芸能人の恋人がいるって言われても驚きませんよ」
「別世界ってそんな、普通だろう。澄川の近くにいると、女性は全員こっちに寄っていくぞ」
湊斗の笑い声もまた潤さまにそっくりだ。
「湊斗は俺を隠れ蓑にしてるだけ。うちの副社長は見た目で騒がれるの嫌いだからね」
「え~俺が副社長と同じ顔で生まれたら、遊び放題しますけど!」
「遊び放題ね……俺の性格的に無理だな。それなりでいい」
都内某所にある居酒屋では、広告会社アドネットクラフトの新入社員歓迎会が行われていた。
金曜の夜らしく、店内は仕事帰りの会社員が大勢おり、騒がしい。そんな中、座敷を貸し切り、二十人ほどの参加者が二つの座卓に分かれて座っている。
(今日は、『先輩の初めてを俺にくださいⅡ』の配信日なのに……)
葵はちらちらと腕時計に視線を落としながら、カクテルを一口飲んだ。ここから帰るには葵の自宅は少し遠い。JR線で一本ではあるものの、一時間以上かかる。
家に帰ってから配信を聴くため、飲みすぎないようにしなくては。
「芽衣もこのあと帰るよね?」
葵は腕時計から顔を上げて、隣に座る同期の桜田芽衣に声を掛けた。
こうして友人と顔を合わせて食事ができるのは嬉しいが、プライベートに踏み込むほどの仲でもない同僚たちとの食事は少し気疲れしてしまう。
普段リモートが多く、週に一度しか出社しないからよけいにそう思うのかもしれない。
「うん、もう少ししたら彼が迎えに来てくれるみたい」
「相変わらず恋人と仲いいよね」
感心したような口調で葵は言った。恋人など長い間いないが、羨ましさを感じたことはない。
「まぁね。付き合いも長いし」
「そうだったね」
頷きながら、葵は斜めに下ろした前髪を指先で軽く払い、背中まである緩く巻いた髪を耳にかけた。
長いまつげはなにもしていなくともくるりと反り返っており、葵の大きな目をよりぱっちりと見せている。小ぶりでありながら鼻梁は高く、形良く厚めの唇は艶めかしささえ感じるほど。
食べても太れない体質のせいで、すらりと背が高く、腰は細い。
どこからどう見ても隙のない完璧な美人――周囲からそう評される美貌を、本人だけは〝母や兄たちに比べたら平凡〟だと思っている。
母によく似ていると言われても、兄たちのような華やかさはないし、人を惹きつける魅力もない。目立つことも好きではない。そんな性格が見た目に滲み出ている気がする。
「結婚するって話も出てるんだっけ?」
「ふふ、三十歳までに私をもらってって言ってあるから」
嬉しそうに言う芽衣に『男性と四六時中一緒に過ごさなければならない結婚のなにがいいの?』とは聞けない。羨ましさはないものの、大学時代にあんなことがなければ、きっと自分も人並みに恋に憧れていただろうな、と思うから。
葵と同い年の芽衣は二十八歳。結婚式の準備期間を考えると、近々プロポーズされるだろう。
「葵は――」
「小早川さん、飲んでる~?」
芽衣が言いかけたところで、斜め後ろに座る同僚、宮岡淳がビール瓶を片手に葵に声をかけてきた。歓迎会が始まってすでに二時間。すっかり酔いが回っている。
「ええ、いただいてます」
穏やかに答えるものの、話に割って入られた苛立ちで、無意識に葵の眉間にしわが寄る。
宮岡は葵の四つ上の三十二歳で、中途採用のため社歴はまだ一年と、マネージャー職に就いている葵や芽衣よりも下。ただ、前職で大手広告会社に勤めていたからか、妙に自尊心が高い。口癖は「俺があっちにいた頃は」だ。
勤務中にも頻繁に絡んでくるし、薄気味悪い目でこちらを見つめてくる。他にも、自分でやるのが面倒な雑用を頼んできたり、なぜか先輩風を吹かせてランチを奢りたがったり。
こちらの冷ややかな態度に気づいているはずなのに、執拗に話しかけてくるため、葵はこの男が苦手だった。
「うちの会社、リモートが多いからさ。みんなで飲む機会ないんだし、そうツンケンしてないで仲良くしようぜ」
「私がこうなのは、いつものことです」
にこりともせずに言っても、宮岡は気に留める様子もない。
「女は愛嬌がないと出世できないだろ。マネージャー止まりで終わるぞ?」
隣に座る芽衣も、宮岡のその言葉に眉を顰めた。後輩で、いまだ役職付きでもない宮岡には言われたくないだろう。
「それならそれで構いません。男性に媚びたいとも思いませんし」
「んなこと言わずにさ~ちょっと酔っ払って、その石みたいにがちがちなガードを緩めようぜ。俺が葵ちゃんに酌の仕方を教えてやるよ」
「名前で呼ぶのをやめてください」
瓶ビールをこちらに向けられ、葵は「けっこうです」とグラスに手を当てる。
「べつにいいだろ。同じ部署で仲良くするくらい。ほかにも名前で呼んでる社員いるよな?」
宮岡が葵の隣に座る芽衣にちらりと視線を向けた。
芽衣は同僚だけれど、友人だから名前で呼び合っているだけだ。けれど、酔っている宮岡にそんな話をしたところで聞く耳を持つとも思えない。相手にするだけ時間の無駄だ。
「なぁ、聞いてんの?」
「はぁ」
無視をし続けて酔った宮岡に激高されるのは避けたい。さらなる面倒を回避するため、葵は仕方なく相槌を打つしかなかった。
「いやいや『はぁ』じゃなくてさぁ。ほら、そういうところだろ。ムスッとしてないで笑顔笑顔! なんなら俺が笑わせてやろうか?」
宮岡が葵の身体に手を伸ばそうとしてくる。
(なんの冗談! セクハラまでするのっ!?)
葵は宮岡の手を避けようと、その場で勢いよく立ち上がりバッグを掴んだ。
「どこ行くんだよ」
「化粧室です」
酔いが回っている宮岡も、さすがに化粧室に行く葵を引き止めはしなかった。
葵は芽衣にごめんと目配せし、座敷を抜け出す。靴を履き、外の空気でも吸いに行こうと、こっそり店から出た。
このあたりは飲食店が軒を連ねており、金曜の夜ともなれば通りを歩く人も多い。葵が店の前で少し時間を潰していても、目立ちはしないだろう。
外に立っていると自然と深い息が漏れた。酔っぱらった宮岡に言い寄られ、なんとか強気の姿勢で拒絶していたものの、本当はかなり腰が引けていたのだ。
(早く帰りたい……)
葵はもう一度ため息を漏らし、駅の方に視線を向けた。年に一度程度しか参加しないとはいえ、こういう日の帰りは億劫になる。
(リモートが多くて助かるし、仕事も好きだけど……ああいう人だけはちょっとね)
葵は宮岡に触れられそうになったことを思い出し、両腕をさすった。
大学卒業後、アドネットクラフトに就職した葵は今、六年目だ。
東京都新宿区に本社を置くアドネットクラフトは、大企業ADグループの子会社の一つで、インターネット広告事業を中心に行っている。
ADグループも創業三十年とまだ若い会社だ。グループ全体で年功序列制度を取り入れず、若手でも才能のある者に役職と権限を与えており、アドネットクラフトの社長も副社長も、複数いる取締役も皆、三十代である。
社員数は全国で千人ほどいるが、事業がほぼオンライン化されているため、リモートワークの地方在住の社員が多かった。
仕事はやりがいがあるし、月給も高く福利厚生も手厚い。売り上げや自分の評価がボーナスという形で還元されるためモチベーションも高くいられる。なにより無駄な通勤時間がない。
葵がこの会社に就職を決めたのも、リモートワークの多さが理由の一つ。通勤は週に一度程度のため、人付き合い――特に男性との関わりを面倒だと思っている葵にはうってつけだった。
ただ、四月に行われるこの新入社員歓迎会だけは、皆なるべく出席し、他部署の人間とも交流を図るように、というお達しがある。そうでもなければ、いつものごとくスルーしていただろう。
(社長も副社長もいらっしゃるから、さすがに断れないし……)
それに、リモートで普段は直接顔を合わせないからこそ、飲み会を楽しみにしている社員も多い。苦手な男性社員に絡まれそうだから欠席します、とはさすがに言えない。
仕事が終わったら、葵の推しである声優、日下部潤のシチュエーションCD『先輩の初めてを俺にくださいⅡ』を聴こうと、一ヶ月も前から楽しみにしていたのに。
宮岡のせいで溜まった鬱憤を、潤さまで癒やすしかない。
(芽衣、ごめん……少しだけ許して)
葵はバッグからBluetoothイヤホンを取りだし、耳に差し込む。すでにダウンロードはしてあるから、あとは専用アプリの再生ボタンをタップするだけ。
宮岡の興味がべつのところに移っていればいいが、芽衣に相手をさせていたら申し訳ないと思いつつ、五分でやめるから、と心の中で言い訳をする。
アプリの再生画面には、美青年がこちらをじっと見つめるジャケットが表示されている。楽しみすぎて、再生ボタンを押す指が震えた。
目を瞑ると、蕩けるほどの美声が頭の中にまで響いてくる。
『もう遅いし、同じ方向なんで送っていきます』
『なに言ってんですか。俺が心配だから、送ってくって言ってんの』
『だから……ったく、勘違いしてほしくて言ってるんですけど。ねぇ先輩、俺の気持ちに、そろそろ気づいてくれません?』
リアルな三次元の男性が苦手な葵は、実のところ、声優と二次元の恋愛ものが大好きなアニメ系オタクだった。
ジャケットに写る美青年――タクミの隣を歩く自分を想像して、口元が緩みニヤニヤしてしまいそうになる。早く家に帰って最後まで楽しみたいものだ。
(Ⅱも最高! 早く誰にも見られずニヤニヤしたい……っ)
このシリーズのイラストを担当しているイラストレーターも神がかっており、ファン待望のⅡだといえる。興奮で涙の滲んだ目を軽く伏せて、あと少しだけと耳に届く音に集中する。
『ねぇ……もう少し一緒にいたいんだけど。このまま俺の部屋に来ない?』
『なにもしないから、なんて言えない。来るなら覚悟してね』
『なんの覚悟って……わからない? 帰したくなくなるってこと』
『誰にでも? まさか! 帰したくないなんて、先輩にしか言わないよ』
緩んだ口から「ぐふっ」と怪しげな声が漏れて、思わず口元を覆った。
葵は顔を赤らめ、周囲を窺う。
これ以上推しの声を聞いていたら、現実逃避から戻ってこられなくなりそうだ。
(芽衣が待ってるからもう戻らないと。あと一時間も我慢すれば解散だろうし)
葵はイヤホンを外しバッグにしまうと、自分を落ち着けるように何度か深呼吸を繰り返した。戻ろうと店に足を向けたタイミングで、手に持ったままのスマートフォンが振動する。
歩きながらチェックすると、予想通りメッセージの送信相手は芽衣だった。
『さっさと戻ってきて、酔っ払いの相手、ほんと無理』
先程の宮岡の態度を思い出して、葵は急いで店に入った。
葵が戻ると、宮岡はすでにべつのテーブルの女性と話していた。胸を撫で下ろし、もう絡まれませんようにと祈りつつ元の席に腰を下ろす。
「ごめんね」
「遅いわよ」
芽衣が文句を言いながら、葵を見据えた。
逆のことをされたら葵も「早く戻って」と芽衣にメッセージを送るだろう。葵はもう一度、ごめんと芽衣に謝罪した。ストレス発散に潤さまの声を聞いていたなんて言えないが。
「化粧室が混んでて」
葵がそっと目を逸らしながら言うと、付き合いの長い友人はなにかに勘づいたのか、訝しむような目を向けてくる。
「そんなこと言って、愛しの潤の声でも聞いてたんでしょう」
「なんでわか……っ、ちょっと、こんなところで言わないでっ」
葵は彼女の口を慌てて塞ぐ。芽衣の声は喧噪の中でもそれなりに大きく響いていた。
芽衣は、オタクな葵に理解のある奇特な友人だ。出社日は仕事帰りに二人で食事に行くことも多く、その際には葵のオタク話を呆れつつもすべて聞いてくれる。
周囲にオタバレしないように注意しているのを知っているはずだから、聞こえる声量で言ったのは葵への意趣返しだろう。
「まぁ、さっきの見てたら癒やされたい気持ちはわかるけど」
「でしょう?」
そうだよね、と頷けば、芽衣に冷ややかな目で睨まれた。
「葵は見た目と中身のギャップが激しすぎるのよ。何人もの男を手玉に取ってそうな見た目でバリキャリなのに、三次元の男はNGなんて。むしろ『オタクです』って言って回れば、あの人も引くんじゃないの?」
「何人もの男を手玉に取ったことなんてないし。でも、『オタクです』って言って回るのはありか……だめ、痛すぎるでしょ」
「だから〝鉄壁〟だなんて呼ばれるんでしょうに」
「〝鉄壁〟と〝オタク〟なら、不本意だけど〝鉄壁〟を選ぶ」
ちゃんと仕事のやりとりはしているし、べつに無視しているわけでもないのに、男性相手にニコリともしない葵を揶揄して、守りが堅すぎる〝鉄壁〟だなんて。
「学生の頃の話を聞けば仕方がないとは思うけど、元彼とか宮岡さんみたいな男ばかりじゃないってば」
芽衣の言いたいことはわかっている。過去のトラウマがあるからといって、男性に対して誰彼構わず警戒しなくてもと葵も思う。でも――
(やっぱりまだ……男の人には気を許せないよ。まぁ、理由はそれだけじゃないけど)
葵は生身の男性が苦手になった原因を思い出し、目の前に置かれたグラスを手に取った。葵が席を外している間に新しいドリンクを頼んでくれたらしい。
一口飲むと、それなりに酒精の強いカクテルだったのか、アルコールの味が口の中に広がる。
「芽衣の言う通りだと思うよ。ただね、今はリアルの男性に興味が持てなくなっちゃったの。リアルには、二次元から与えられる胸キュンと高揚感がまったくないっていうか」
潤さまは青年から上司まで幅広い役柄で人気を博しているのだが、葵は特に彼の演じる後輩もの――『先輩の初めてを俺にください』のヒーロー、タクミが好きだった。
可愛くて素直で、ちょっと腹黒いところもあるが、ヒロインだけを一途に愛している。そんなところがいい。身体の付き合いから始まったけれど、タクミは最初からヒロインに夢中。そんなタクミの気持ちに気づかない〝私〟にやきもきし、それでも先輩と後輩の垣根をなかなか取り払えず、ほかの男に奪われそうになったところで、タクミが行動に出る。
脳髄にまで染み渡る潤さまの甘い声で『帰したくない』などと言われたら。
(三次元の男がかっこいいと思えなくなるのも、当然っていうか……)
顔だけではない。行動とセリフがすべてイイ。二次元に勝るものはない。それに、絶対に裏切らないとわかっているから安心できる。
声を潜めてそう語ると、芽衣は呆れた顔でため息をつきつつも、「好きにすれば」と言った。彼女は葵のオタクトークなど聞き飽きている。
「人から言われてどうにかなるものでもないわよねぇ。でも、そんなに潤の声が好きなら、あの人はないわけ?」
あの人、と言いながら芽衣が目を向けたのは上座だ。そこには、アドネットクラフトの社長と副社長の二人が肩を並べて座っていた。
「潤に声が似てるんでしょう?」
葵は社長、澄川の隣に座る副社長、吉良湊斗をそっと覗き見た。
どこにいても目立つ男だと思う。
染められていない黒髪は真っ直ぐで、やや長い前髪は横に流すように整えられている。
前髪から覗く太い眉は凜々しく、目元は涼やかながら男らしくキリッとしていた。高く真っ直ぐに通る鼻梁、やや厚めの唇も、上品さを兼ね備えながら男らしい魅力をこれでもかというほどに溢れさせている。
葵の三人の兄たちもかなりの美形なのだが、その兄たちと張るほど――いや、兄たちを凌駕するほどの顔の良さだ。さらに言えば、体躯もよく、身長は百八十を超えている。
そんな男がモテないはずもない。隣に並ぶ社長もまた目を瞠るほどの美形のため、二人揃うとその強烈な存在感から目を逸らせず、思わず見入ってしまう。
(いつだったか、女性社員たちが、『彼らの隣に立つ勇気のある女なんてそうそういない』って言ってたのも頷けるわ)
広告塔にもなっている社長の澄川は、様々なメディアに顔を出しており、彼女が百人はいると噂されている。そのサポートをする湊斗も似たようなものだろうというのが女性社員たちの見解だ。遊ばれるだけとわかっていて彼らに近づこうとするチャレンジャーは少ない。
「声が似てるからって、そういうのはないよ。まぁ、いつも耳を澄ませちゃうけど」
葵は湊斗に意識を向けたまま、芽衣に視線を戻す。
彼の声は席が離れていてもよく通る。葵は歓迎会が始まってから、芽衣と話しつつも、ずっと湊斗の声に耳を傾けていた。
(やっぱり……そっくり)
低すぎず高すぎない甘いバリトン。同じ日本語を話しているとは思えないほどの発音の綺麗さ。淀みなく発せられる言葉を聞いているだけで、なぜだか安心できる。
似ているのは声だけだから、まさか血縁関係ではないと思うが、潤さまを推しだと豪語する葵ですら、この二人の声の違いがわからなくなるときがある。
「あの見た目にはなんの興味もなく、声だけが好きなんてね」
「見た目もいいとは思ってるけど、それはべつに……そもそも声だって潤さまに似てるから好きなだけだし」
兄たちで美形を見慣れているからか、リアルな男に興味がないからか、見目の良さに魅力をまったく感じないだけで。
「ほんと、あんたの世界は潤を中心に回ってるわ」
「ふふ、そうかも」
「じゃあもう、いっそのこと潤に好きですって手紙でも出してみたら? 葵は美人だし、ワンチャンあるんじゃないの?」
呆れたように言う芽衣に、葵は苦笑を返した。
すぐに恋愛方面の話に持っていきたがるのは、芽衣がいい恋をしているからだろう。
葵は潤さまを推しているが、交際したいかと聞かれたらNOである。
潤さまが出演するアニメ、映画は必ずチェックし、宣伝のために出演したラジオも追いかけている。イベントチケットを手に入れるため出演作の円盤は必ずゲット。金を惜しむことなくオタク活動につぎ込んでいるし、毎年、誕生日にはプレゼントと共に熱の籠もった手紙を事務所に送っているが、それは一ファンとして応援する気持ちからだ。
「ないってば。彼は、私の人生を豊かにしてくれた人っていうだけなの」
「ふぅん、そんなもの?」
「そうよ」
ただ、『先輩の初めてを俺にください』のタクミなら……と思ってしまうオタクな自分が怖い。残念ながらタクミと付き合える日は一生来ないけれど。
そもそも葵は、リアルな男と交際したいとは思っていない。
恋愛ものの二次元ヒーローは、ただただ葵を甘やかし愛してくれるが、現実は違う。愛が憎しみに変わり、愛する相手を傷つけることもあると、もう知っている。
だから誰かと恋人関係になり、その相手に気を許すことが葵にはできない――
過去の弱い自分に引きずられそうになった瞬間、強い酒の匂いに現実に引き戻される。肩になにかがあたりそちらを向くと、酔って顔を赤くした宮岡がまたもやすぐ近くにいた。
「なぁ、さっきからこそこそ、なんの話してんの?」
葵は周囲に聞かれないように芽衣の方に身体を寄せて話をしていたため、右隣が三十センチほど空いていた。宮岡はその隙間に膝を差し入れて、強引に割って入ってくる。
「宮岡さんには関係のない話です」
「またまたぁ~」
葵が冷ややかな態度で言うが、宮岡は酒に酔った顔でニヤニヤと笑い、べつのテーブルから持ってきたジョッキを呷る。彼が話すたびに酒臭い息が漂い、ただただ不快だった。
「俺の噂話してたんだろ? 葵ちゃんって、恋愛なんて興味ありませんって顔してんのになぁ。なら、俺と付き合ってみる?」
「宮岡さん、だから名前呼びはやめてくださいって言ってますよね?」
「葵ちゃん、葵ちゃん、葵ちゃ~ん」
宮岡はゲラゲラと笑いながら葵の名前を連呼する。酔っていてまともに話が通じない。
「飲みすぎだと思いますけど」
芽衣も窘めてくれたが、宮岡はまったく意に介さない。またかとうんざりするが、先程のように席を立てば、今度こそ芽衣に恨まれそうだ。
「お互い様なんだからいいだろ。恥ずかしがってないで、素直になれよ。可愛げないなぁ。もしかしてベッドでは豹変するタイプか?」
お互い様の意味がわからない。酔っているのはお互い様という意味だろうか。きっと酔っ払いの戯れ言だろう。
「それセクハラですよ。可愛くなくてけっこうです」
「酒の席での冗談だろ、セクハラだの、パワハラだの。ほんとうぜぇ」
葵は宮岡をぎろりと睨みつけた。しかし彼は葵の苦言を軽く流し、さらに赤ら顔を近づけてくる。どうやらここに居座る気満々らしく、すでに葵の隣に腰を下ろしていた。
宮岡とこれ以上話をしたくなくて仕方なくグラスを空けていく。そこまで酒に弱くはないが、宮岡の隣にいるだけで悪酔いしそうだ。
「さっき俺の話してただろ? ツンデレも行きすぎると可愛くないぞ」
「……宮岡さんの話なんてしていません」
葵がなにを言っても聞いているのかいないのか、酔っ払った宮岡は勝手に自慢話を始めた。前の会社では課長だったとか、部下がどれだけいたとか、女にモテたとか、自分の指示で数億の金が動くんだとか。本当にどうでもいい話ばかり。
(もうそろそろお開きの時間だと思うんだけど)
葵は五分置きに時間をチェックしてはため息をつく。グラスを空けたのと同時に宮岡から新しいグラスが手渡されて、すでに何杯飲んだのかわからなくなってきた。
宮岡の話を聞き流しながら、葵は現実逃避で湊斗の声に耳を澄ませた。芽衣はといえば、恋人とのメッセージのやり取りに夢中である。
「社長と副社長は二次会行かれます?」
「もう帰るよ。三十過ぎるとさ、夜遅いのが明日に響くわけ。なぁ、湊斗?」
「まぁな……酒はほどほどに、の年齢だからな」
澄川の声のあとに湊斗の声が聞こえてくる。
湊斗の少し疲れたような声は、多分に色香を含んでいる。葵の好きなキャラであるタクミとは違うものの、これはこれでいいような気がして、葵はうっとりと目を細めた。
「ジジ臭いこと言わないでくださいよ、お二人ともまだ三十三歳じゃないですか! 仕事も恋も楽しめる年齢ですよ」
楽しそうに話しているのは、同僚の男性社員だ。澄川も湊斗も経営者として厳しい面を見せることもあるが、年若いからか近づきがたさはない。
特に湊斗は、インターネット広告事業本部の長として、副社長という立場にいながら現場の陣頭指揮を執っており、葵も話すことが多かった。そのたびに彼の声に聴き入っているのは内緒だ。
もともとアドネットクラフトは、友人同士だった湊斗と澄川が大学在学中に起ち上げた会社である。
彼らは、ダイナミックリターゲティングの広告効果が高くなるように、AIに効果を予測させ最適な広告を選択するプログラムを開発した。その会社がADグループに買収され今に至る。
また、その頃に集めた人材がアドネットクラフトの経営陣に多くいて、年齢も若いため、皆、自分たちとそう年の離れていない二人に対して、酒が入るとつい気安い態度を取ってしまいがちだった。
「副社長って、そもそもどういう女性が好きなんですか? 社長もですけど、二人とも別世界すぎて、芸能人の恋人がいるって言われても驚きませんよ」
「別世界ってそんな、普通だろう。澄川の近くにいると、女性は全員こっちに寄っていくぞ」
湊斗の笑い声もまた潤さまにそっくりだ。
「湊斗は俺を隠れ蓑にしてるだけ。うちの副社長は見た目で騒がれるの嫌いだからね」
「え~俺が副社長と同じ顔で生まれたら、遊び放題しますけど!」
「遊び放題ね……俺の性格的に無理だな。それなりでいい」
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