虚実の時

神在琉葵(かみありるき)

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「母さん…思い出してよ。
 今までに父さんが母さんのことを裏切ったことが一度でもあった?
 母さんを悲しませるようなことを、父さんがやったことがあるかい?
そんなことは一度たりともないはずだ。
 父さんは母さんのことをとても愛していて、母さんも父さんのことを同じように愛していたはずなのに……母さん……どうして父さんのことを信じてあげられなかったんだよ!」

 涙混じりの声でローランは腹立たしげにそう叫んだ。



 「だ…だって……そんな……」

 「馬鹿だよ…母さんは大馬鹿者だよ。
 父さんはね、そのうちエレナさんに僕達を紹介するって言ってたし、本当にただ何かを謝りたいだけだったんだ。
それにね……父さんはどうせエレナさんに会うことは出来なかったんだ。」

 「……どういうことなの?」

 「エレナさんはもうこの世にいないんだ……」

 「え……」

アニエスの濡れた瞳が、ローランをじっとみつめた。



 「二年前に病気で亡くなられたそうだよ。
あの絵を描いた画家は、エレナさんのご主人だった。
あれは亡くなったエレナさんと出会った頃を思い出して描かれた絵なんだって……」

 「そんな……そんなこと……
それじゃあ、それじゃあ、あの人は……」



アニエスの視線が、横たわるミカエルに注がれた。



 「あ…あぁ…ミカエル……
私…私は……」

 彼の亡骸にしがみついたアニエスの狂ったような絶叫と悔恨の涙は止まらなかった。



ミカエルの屈託のない笑顔が……
長い年月の間に二人で積み重ねて来た思い出の数々が、アニエスの頭の中をかすめては消えていく。
 愛情とやすらぎに包まれていた幸せなあの時は、もう二度と取り戻すことは出来ない。

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