つきにむらくも

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つきにむらくも 第一部

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氷鏡に叢雲

 熱田。この尾張の宮は湊としても物の流れの拠点である。慶長十七年、河口から川を行く船は今、朝から夕と盛んにその物資を通していた。船の通行のため川幅を拡げてから二年、熱田に水の被害はなく将軍家による事業が滞りなく進んでいた。
「養父上、宮寺からお呼びです」
 まだうら若い養女の声だ。楼門の望楼まで小さな足で駆け上がってくる。川を行き交う船に風の音。いつもと変わらぬ景色が晩夏の熱田にあった。
 熱田の宮の一角にある寺、それが統寺だ。熱田宮寺の一寺である。宮寺としてはさほど大きなものではないが楼門だけは立派なもので尾張各地から用向きの人が訪れていた。
「船が襲われたと」
「會安に行く途中でした。船は帰ってきたのですが」
「そうですな。まあ、ご心配なさらずに。またお貸ししますので」
「それはありがたいのですが利子のほうは」
「もう一年そのままで待ちましょう。何ならうちの者もお付けしますよ。少し割高になりますが」
 相談に来た客人は渋々返事を遅らせたものの結局は投銀証文を書かされ帰って行った。宮寺では交易する商船に対して俗に言う高利貸を行っており、統寺は尾張伊勢を代表する窓口だったのである。

 木曾から丹後守がやって来たのは遠く瀬戸内からの船が少なくなってきたころだった。
「尾張守さま。一年ぶりになりますか。大きくなられて」
「丹後か。いつ来るかと。今日は何用か」
「統上府にお伝えしたいことがありまして」
 尾張守はもともと津嶋宮寺で養育されていたが、この熱田宮寺に養女に出されたのである。丹後守とはそのころからの仲であった。
「熱田に檜を運んでいるのに、ここにはしばらく顔も見せなかったが」
「いえ、統上府。木曾での商いに忙しく」
「丹後が来ぬので寂しがっていたぞ。のう、津島」
「義父上、そんなことは」
「それで、わざわざこの寺に来たということは金の入り用か」
 このころ、木曾では京の商人が独占して材木を買い入れていたこともあり、将軍家の事業にも支障が出るようになっていたのだ。その窮状を何とかしたいと丹後守は統寺を頼ってきたことになる。

 木曾川、いわずとしれた信濃に源流を発する長大な河川である。今、その河口から船が上っていく。
「京の商人は犬山に留まっているのだな」
「はい、こちらでは交渉のしようがなく会うこともままならずで」
「津島よ、犬山に着いたら城下で丹後と散策するがよい」
「養父上、すみません。犬山に行くのは初めてなので。どうしても」
「尾張守さま、いろいろとよきところがございますので。着いたらご案内いたしましょう」
 犬山は今は尾張藩の城代だが領主が変遷する前はある者が城代であった。尾張守はそのころを知らない。かつての時と向き合う。そのような場所に今、向かおうとしていた。
「あれは城ですか」
 尾張守が木曾川沿いの小高い山に見える天守に声を上げた。
「ええ、あれが武蔵守さまがつくられた犬山城です」
「お爺様が…」
「いつ見ても見事な城よ。やはり川から船で眺めるのがよい。まあこればかりは武蔵守の傑作よ」
 武蔵守は尾張守の祖父にあたる。熱田宮寺に養女に出したのも武蔵守の意向であった。
 船着場に着くと丹後守は尾張守を連れて町へ出る。
「統上府、それではお願いいたします」
「うむ。猪子のあたりだったな。まあ、話はしてみるが」
 犬山の街道を南へ行くと猪子にある寺に着く。そこに京の商人が滞在しているとのことだった。
 寺に入ると寺侍が何人かいる。京から来たというのはもしや…。
「統上府。こちらです」
「やはり、貂寺か。ずいぶん手広いな。こんなところまで来るとは」
 本堂から離れた庫裏では京から連れてきたであろう者もいる。かなりの人数だ。
「こちらの味はやや甘いところが…。といってもさすがに統寺のように当代一とまでは」
「京から呼ぶにはたいそう金がかかるからな。まあ、うちだけだろうて。それより白木をかなり買い占めているようだな」
「杢目のものだけで。商家の新築がつづき木曾のほうまで」
「どうせ朱印船で儲けた鷹峰だろう。今、尾張では将軍家がいろいろとご入用だ。何とかならんか」
「将軍家は光明寺に山門では。統寺は七条寄りかと」
「化野こそ護国寺であろうが。まさか鳴滝のように五山にまで手を出しているわけではあるまい」
 貂寺はしばらく考え込んでいたが、
「それでは尾張の商家の分は木曾で。あとは紀伊で賄いましょう」
「おお、そうか。無理を言ってすまんな」
「いえ、武蔵守さまからは一任されておりますので」
「そういえばせっかくの犬山というに武蔵は来ていないのだな」
「そのあたりはいろいろと」
 貂寺の様子では何やら隠しているようなところもみえる。犬山城天守完成から二十年の年月が流れていた。

 庫裏から運ばれてきた料理にいろいろと注文をつけながら味を調えさせ食事を終えると貂寺が思い出したように、
「統上府。元号ですが…」
「元号…。元号なら化野の案件だろう」
「二十年元号がそろそろ」
「ああ、そうそう。実はな。将軍家から次の元号を頼まれていてな。なにせ美濃口の戦の後に元号を変えられないというのでそれはもう驚いておったぞ」
「武蔵守さまが買われましたので」
「そうよ。あんな高いもの、よう買ったぞ。何しろそれまで山門しか買ったことがないからの。それも二度も。まあ山門だからできたことよ」
「武蔵守さまも一度で十分だと。これで名も残りますし」
「織田右府が元亀。羽柴相国が文禄。そういえば天正のときも待たせたのだったな」
「二十年元号がそれと分かるのは十年以上続いたときですから」
「その時、その意味を知る。それまでは安い元号と思っていたら実は高い買い物だったと。実によくできたものだ」

転法輪

 初秋、熱田の河口から石を運ぶ船が姿を消すころ、統寺の門前には毛車が止められ、さながら都を思わせる様相となっていた。それというのも池鯉鮒宮寺からの来客のため用意されたもので、その屋根には檳榔を葺き車箱の板には絵文様と、この雅な風情からしてこれに乗る来客はただならぬ要人である。
「津島、新しい城の落成があるのでな。行ってみるか」
「ついにできたのですか」
「おお、この前見てきたがそれは大きな城だぞ」
「大坂よりですか」
「そうか、津島は大坂城を知っておるのだったな。まあ、それに劣らぬ城よ」
「それは早く見とうございます」
「統上府。ここにおられたのですか」
 僧坊に入ってきたのは尾張守と歳もさほど変わらない若い女子である。
「さっそく来よったか。池立。この津島も行くゆえ連れ立って行こうではないか」
「三河守さま、お久しぶりで」
「そなたも行くのか。統上府。早く参りましょう。この日をどれだけ待ったことか」

 熱田から毛車が大津通りを北へと行く。台地からはなだらかな高低とはいえその動きはさほど早いものではない。その後ろをこれまた大きな荷車に大傘を立てた車が行く。
「養父上。随分と大きな車ですね」
「藩に特別に許しを請うたのよ。乗り心地は悪いがこれもまた一興じゃろう」
「ええ、道行く人もこちらを」
「はははっ。荷を運ぶ牛車も京や江戸、駿府のほかでは物珍しいからのう。まあ、尾張もこれからこのような荷車が主になるて」
「あの毛車も養父上が用立てたもので」
「うむ。池立を乗せるのじゃからな。大枚をはたかんと」
 一行を乗せた車が初秋の暖かい日差しの中、まだ新しくできた町並みを通り過ぎる。沿道の物見の人をよそに車列は那古屋城へと向かっていた。
「津島、池立をどう思う」
「えっ…。三河守ですか。陰豹の中でも群を抜いている方だと思いますが」
「うむ。鳴滝の跡目となるのでな。それゆえに津島も心してかからぬとな。まあ、鳴滝も元は公家の金貸しじゃったが」
「はい…たしかその昔は三條が元鳴滝と」
「そうじゃ。周防の乱で家が途絶えてのう。そこを山城守さまが取り込んだのよ。三河守がこれから残った三條の血筋を伸ばしてゆけばさらに長うなってゆくはずじゃ。おそらく津島が統寺を継ぐ折には最早かなわぬ力を持っておるかもしれぬ」
「社家だけでは到底かなわぬと」
「うむ。そうじゃ。化野にしても大名家だけでは太刀打ちできぬとみておる。それゆえ統寺は丹後の一族を取り込まぬと先はない。無論、伏見の津田もだ」
「それで尾張家は志水を」
「まあ、そういうことだ。尾張だけは守らねばならぬからな。ただ鳴滝が池鯉鮒宮寺と懇意にしているとはなあ。まさか池立を養女に入れるとは。こればかりは考えもせぬことだったわ」
「養父上。あれは…」
 それまで激しく揺れていた車が輻の回転を緩やかに回りだす。
「ああ、見えてきたか。あれが那古屋城の天守よ」
 その大きさたるや、それまでの城を凌駕する。高さもこの上なく高い。最上階の屋根は赤褐色で光り輝いている。
 慶長十七年、尾張那古屋には熱田を古くから支える湊の物流が作り出した新しい城下の風景がそこにあった。

 京の洛外にあたる山科の馬借では越前から淡海を船で渡り大津から運ばれてきた積荷を載せ替えていた。また、荷を運ぶ牛車も主に米を積み、この山科で西に南へ分かれ洛中へ運ばれていた。
 慶長十七年晩秋、越前家から塗輿を伴った一行がこの山科にある寺を訪れた。
「左長さま。お迎えに上がりました。貂寺と申します」
 現れたのは黒に金の模様をあしらい赤袖口の若衆姿をした三十路近い女人のような男である。
「では、こちらを」
 差し出したのは市女笠だ。よくよくみれば貂寺のほかの連れ立ちも鳥追笠に若衆姿と来ている。
と「まさか、山科から歩けというのか」
「その通りで。ここより化野まで」
「馬鹿を申せ。これまで輿で来たというに」
「あのような女乗物に乗れるのも越前家においてまで。これよりは化野にお住まいになれば」
「それなら馬があろうが。なぜ馬には乗れぬ」
「山科の馬借は鳴滝のものでありまして。化野の者には乗せてはもらえず」
 「それは話には聞いていたが。まさかそこまでうまくいっていないのか。鳴滝とは」
 「先代とは仲が悪うございましたので」

 一行が化野に着く頃には日も落ちる間際、東山に赤々とした日差しが残る刻となっていた。この化野は鳴滝と同じく門跡寺院であり入道親王の住まいでもあるが、これも鳴滝と同様、土倉が寺院の中に居を構えていた。これはいうまでもなく寺院内にあることでその特権を有することにある。
「僧坊のようなところと思っていたが随分と趣が違うような」
「高殿になります。鳴滝はここよりも広く三階まで。といっても三階は望楼で狭いですが」
「ここは二階建てか。眺めは…」
 階段を登ってゆくと外の景色が見える。もう辺りは薄暗く山の尾根をわずかに望む夜景となっていた。

 高殿の夜明けからの景色は眩しさから始まる。目も眩むほどなので晴れた日は昼からに限る。日が照らす大きな池は時折、風が吹くとその水面に小さな波を立てていた。
「左長さま。ご客人です」
 貂寺が二階に上がってきて呼びに来る。
「誰か」
「統上府です」
「来たか。墓参りを終えてこちらへ寄ったか」

 下へ降りて一階の広間へ向かうと社僧とその隣に小さい女子がいる。
「左長さま。三輪執行にございます。長らくご無沙汰で」
「執行。その女子は」
「津田尾張守。左長さまに初見えさせていただきます」
「尾張守か。そちはどこの生まれか」 
「はい。土佐に生まれ津嶋宮寺に預けられておりました」
 執行の隣で小さく座る尾張守が答える。
「この子は亡き武蔵の孫でして母は近江の津田の出なれば」
「そうか。父上が近江の領国のときの」
「ええ。鳴滝ともそのころからの。ところで左長さま。治部少輔は来ましたか」
「いや、来ぬ」
「やはり来ませぬか。武蔵とは仲違いしたままでしたな。これからこちらが鳴滝に行っても駄目でしょうな。よい返事はせぬでしょう」
「執行には世話をかける。まあ、今日は馳走するゆえ、ゆるりとしていってくれ」

 高殿の二階に秋風が吹く。遠く音羽山は霞みその向こうに広がる雲は日の光を受けやや赤く染まっていた。
「どうです。この玄楼からの眺めは」
 執行が二階の廻縁に立ちながら尋ねる。尾張守は高欄から頭がやっと上に出た小さな体で外を見つめている。
「玄楼というのか。この高殿の名は」
「武蔵がつけました。鳴滝にあるのは蒼楼で。まあ、言ってはなんですが治部少輔が建てた蒼楼のほうが」
「統寺のほうはどうなのだ」
「楼門。その前に池があって橋が架かっています」
 尾張守が答えた。
「いやいや。ここと比べたら。うちは宮寺ですから」
「しかし統寺といえば京から当代一の料理人を連れてきて抱えておるとか。ここの食はあまり進まなかっただろう」
「それは…。犬山の寺のほうでもいろいろと」
「まあ、そうだろうな。しかし、やはり食は都に限る。越前では海のものしか食せなかった」

 洛中一条。化野からそこにある門跡の御里坊に執行と尾張守は訪れていた。尾張から京に来たのには化野へ向かい新たな武蔵守を迎えるためだったが、わざわざ来た以上、寄るところもあったのだ。
「御前、息災であったか」
「統上府。わざわざのお越し。子らも大きな病もなく」
「そろそろ寝かしておるかと思っての。こっちは尾張守だ」
「大きくなりましたな。うちの子らもこのように」
「御前が桑名に来たのもちょうどこの年頃でなかったか。しばらくこちらが預かって結局京へ帰って行きおった」
「たしかに。あのころはまだ何も知らぬまま船に乗っていました」
「寺領復興には伊勢の船が必要だったのでな。羽柴相国が禁令を出してからというもの我等を護ろうとする大名も少なくなったゆえ」
「統上府にはそれはもう、ご尽力くださり」
「まあ、美濃口の戦があればこそのことじゃが」
「むしろその戦のあとのほうが長うございました。先に根来でしたので」
「我等より紀伊の船を先にしたのでな。将軍家もまあ伊勢の船には及び腰で困ったものよ。まあ、それも事の起こりは明国との交易のために我等を廃そうとしたことじゃ」
「今、船で残っているのは伊勢と紀伊…」
「あとは淡路。もうこの三つしか残っておらぬ」

 宵の口、御里坊を執行と尾張守が出る。これから泊まりは鳴滝の蒼楼だ。
「津島、御前のことはよく覚えていないか」
「はい、養父上」
「まあ、まだ小さかったからのう。じゃが統寺にとって御前は何よりも得難い後ろ盾になる。こうして会わせておく意味はあるのでな」
「はい、しかしあそこは門番もいませんし。どういうところで」
「うむ。そうだな。実は御前は夫と離縁をしてのう。そこに住む前は公家の邸で侍らもおったのじゃが。あれではいざというときに心配でならぬ」
 この執行の気がかりは七条の内輪もめによって起こることになる。慶長十七年、洛中に吹く夜風は初冬を思わせる冷たさとなっていた。

豊後町

 慶長十八年、年が明けると化野では南旺に向かう船の準備に追われていた。
「左長さま。堺までお越し願えますか。船の出航に立ち会っていただきたいので」
「とすると朱印状無き船だな」
「お察しのとおりで。猊下の許可を引き継ぐ形になります」
「なるほど。先代は金貸しだけでなく密航にも関わっていたのか」
 伏見に着くと川湊にはたくさんの船が停留している。主に堺からの荷を京に運ぶ船だ。
「ここは豊後橋といいます」
「向こうに見える橋からであろう」
「まあ、そうですがその昔、豊後の大名の屋敷があったところで。今では神宮寺と鳴滝、そして化野の船溜となりました」
「ほとんど津田の蔵が並んでいるのだな」
「ええ。伏見津田の問丸は神宮寺の下での荷揚げを。まあ、いろいろと事情がありまして。さあ、左長さま。こちらです」
 乗船した船は化野が堺との航行に使用している高瀬船だ。これで木津川を下って堺に出ることになる。
「豊後の大名は周防の大名による明国との交易を引き継いだのですが、それがこちらに回ってきまして」
「先代が取り込んだのだな」
「いかにも。鳴滝は阿波の大名の経路をそのまま。これは山城守さまが阿波の大名の息女を養女にしたことから取り込んだものです」
「それが鳴滝の治部少輔か」
「そうです。天正の変までは織田右府の山門破却により神宮寺は磯野検校の差配にあったのですが…」
「それは聞いたことがある。堺で磔にされたとか」
「山城守さまも磯野検校には格別の計らいで自らの支配を託すつもりであったのですがあのようなことに。それゆえ神宮寺は津嶋宮寺を介して統寺の傘に」
「山城守は子息の先代を差し置いて検校のほうを」
「実利を重んじる方でしたので」
 羽柴右府の大坂城が見えると木津川口、高瀬船は海に出て南へ下っていった。

 堺の湊には朱印船さらに弁才船が所狭しと桟橋に停留している。桟橋に船から下りると脇に太刀を差した一人の稚児がこちらに近寄ってきた。
「貂寺。この堺に何用だ。洛中洛外の外でその若衆姿とは」
「所用だ。別にこの姿は上方では特段何も言われることはない」
「ところでそちらの女人は」
「武蔵守さまだ」
「九條左府の息女の…。鳴滝の比休院と申します」
 比休院は貂寺と変わらぬ身の丈五尺五寸はあろうかという大女にやや驚いたようだが六尺もある比休院が怯むほどではない。その貴人の血筋に面食らったようだ。
「比休院。そちらの船はもう出たのか」
「ああ、比丘尼さまは先に帰られた。武蔵守さま。それではこれにて」
 そう言うと比休院は鳴滝の小早船に乗り込んでいった。
「どうやら土佐の下田へ行くようですな」
「下田に何かあるのか」
「鳴滝が抱える阿波淡路の八幡が赤珊瑚の取引を」
「八幡は今はもう禁じられているのでは」
「いえ、うちも和泉紀伊の八幡を抱えております」
「では統寺も」
「統寺は尾張伊勢です。勢力ではここが他より優勢です」
「それはどうして」
「統上府が全ての八幡の頭目だからです」
「えっ…。あの執行が」
「統上府はかつて木曾川の河口での戦に手を貸しておりました」
「それであの復興した寺と縁が深いのか」

 堺の湊にある化野の桟橋へ行くととても朱印船とはいえない小船がある。
「あれか」
「そうです。十二万斤ほどで。明国で購入したものです」
「密航とはいえ千石船ほどはあるかと」
 船の近くへ行くと多数の者が乗船している。みな八幡らしく荒くれ者ばかりだ。そのうちから一人、貂寺と話している者がいる。どうやら貂寺の知りうる者らしいが…。
「左長さま。では出航します」
「あの者は」
「あれは隠の者です。平戸まで道案内を。安芸伊予の八幡は滅されたとはいえ、まだ残党がいるやも知れぬゆえ。平戸のあとは瓊の浦の豊後町にて探りを」
「瓊の浦は統寺が押さえておるのだったな」
「ええ幕府とともに。こちらも湊を九州で考えねばならないのですが」
「博多は商家が押さえておるし難しいのう」
「鳴滝はどうなのだ」
「油津と坊津のほうを」
「そうか。佐賀関だと途中、陸路を使うことになるし」
「そのあたりはこれからの左長さまの差配にかかっておりますので」

 堺での宿は山城守に由縁がある寺に泊まるのが先代の武蔵守のころから続いていた。寺に入ると巨大な何か異様なものに目を奪われる。
「蘇鉄か。驚いた。大蘇鉄ではないか」
「この寺の宝です。高麗から移されたとか」
「しかし見事だ。これは」
 翌日、寺を出ると京へそのまま帰るのではなく大坂へ向かうことになった。
「大坂の唐物屋に伽羅が入ったということで」
「珍しいな。それは。ぜひ聞いてみたい」
「あのあたりの荷揚げ場もご覧になるとよいかと」
 堺から大坂へはすぐに着いた。木津川口から城下のほうへ向かう水路に入ってゆくと高瀬船の船溜となっている。そこで荷揚げが行われていた。
「ここは豊後町。専ら抜け荷の品ばかりで」
「この大坂で売るというわけか」
「まあ、入ってきたものには何も咎めはありませんので」
「さあ、唐物屋へ行きましょう」
 川の向かい側は唐物町だ。通りを行けば右も左もいくつも店が軒を連ねている。そのうちの一軒に貂寺の足先が向かった。
「角に漢方。あれは蘇木か。いろいろあるな」
「香木もいいものが大量に。あっ、ありました」
 店の奥の棚にそれはひっそりと置かれていた。
「買うのか」
「はい。公家への贈り物にもなりますし」
「たしかに京の唐物屋ではあまり見ない品だな」
 店を出ると他の店にも向かう。主に陶磁器、さらに鹿皮の店に立ち寄り品を買って船へ積むと木津川を遡上し京へ帰っていった。

慶長京洛の変

 慶長十八年晩夏、商家の朱印船の帰航が終わるころ、物の値に価格変動が起きていた。それは瓊の浦の豊後町から化野へと届いていた。
「鮫皮の値が上がっています」
「刀の柄に使うものでは」
「商家では早くも秋の朱印船の出航に向けて大泥や六崑あたりまでの航海も考えているとか」
「随分と遠くなるが。小さい商家は高砂の鹿皮か馬尼刺の陶磁器がせいぜいなのでは」
「それが麻刺加の陶磁器を扱う商家までそちらに向かうとか」
「しかし、大泥といえば沈香であろう。鮫皮のためにそこまで行くのか」
「東京や占城で明国との交易をしている商家も乗り出して来るようで」
「いったいどうなっているのだ。何が起こっている」

 それは江戸と大坂との関係に亀裂が生じたことによる。次なる関白を羽柴右府にと考えている大坂方は九條から養子を入れた二條に関白の座が移るという噂を聞き江戸方と険悪になっているというのだ。そもそも羽柴相国のあと九條が再び就いたことには大坂方も異を唱えなかったが、ここにきての二條の再就任には同意できるはずもなく何のために備前守の子を九條に嫁がせたか全く意味を成さないことになってきたのだ。
 慶長十九年晩冬、商家の朱印船の出航が終わるころ事の仔細がようやく分かってきた。それは隠の者を通して化野に伝わることになる。
「どうやら鳴滝が絡んでいるようです」
「貂寺。今、鳴滝と言ったか。治部少輔が動いていると」
「実は鳴滝の跡目である三河守が京へお越しになることになりまして。統寺からも化野に饗応してほしいと」
「池鯉鮒宮寺に入った備前守の子か。また執行もいろいろと世話をしてくれるものだ。鳴滝との軋轢を和らげようという」
「左長さま。その三河守ですが驚くことに越前家のほうへ」
「何だと。越前…。ああ、もう言わなくても分かっている。そういうことだな」
「ええ。鳴滝としても大坂方より越前家の家格を上げねばなりませぬから」
「しかし位としては正二位と従三位。たしかに大坂方が反発するのも無理はない」

: 慶長十九年晩春、化野は三河守の来訪に備え寺侍だけでなく隠の者も動員し万全の体制で臨んでいた。門前の土倉から町衆の家に至るまで化野一帯は重々しい雰囲気となっていたのである。
「貂寺。まさかこんなものまで用意することになるとはな」
 門前にあるのは車箱の上から赤糸で飾った糸毛車だ。
「何分急でしたのでこれしか用意できず」
「執行はかなり金を使ったとみえて、どうも新しく作らせたらしい」
「まあ、こちらは借り物ですが致し方ないでしょう」
「ではそろそろ、伏見へ行くか。午の刻には着くのだったな」

 伏見豊後橋の船溜へ着くと停留する高瀬船の向こうに木津川を遡上してくる御座船が見えた。
「どこぞの大名家か分かるか。貂寺」
「左長さま。どうやらあの船のようです」
 破風に段々重ねの屋根、朱塗りの柱と高欄。大坂や伏見でもあまり見ない御座船だ。
「まさか。また執行が大見得を切ったか」
 乗り物でも執行に先を越され化野に不利になっているというのに御座船となると最早立つ瀬がない。果たしてその実情は御座船から降りた要人から聞くことになった。
「結城武蔵守にて。この度、ご饗応を」
「永見三河守」
「三河守さま。この御座船はどこの家のもので」
「堺に統上府がつくらせた御座船があるというでな。それよりあれか。あそこに見える」
「はい、あの糸毛車にて」

 予定ではこのまま化野へ向かうことになっていたが、いざ糸毛車に乗ろうとする三河守が思い出したように、
「護国寺に寄れ」
「はい、護国寺ならば化野と親しい寺でもあるので」
「塔に登らせてほしい」
「はい、では手配を」
 いきなりの予定変更に武蔵守も驚いたがそこのところは想定内だ。早速、貂寺を先に使いに出すことになった。三河守の糸毛車を先頭に武蔵守を乗せた馬借の馬が行く。
 一行は稲荷から禅寺、根来、神宮寺を経て三条大橋を渡る。左に見えていた高い塔は七条に出るころには右に大きくその姿を現していた。

「左長さま。全て調いましたので」
 貂寺が護国寺の前にて武蔵守に告げる。
「三河守さま。こちらで」
 武蔵守が護国寺の塔へ案内する。塔への登り口へ着くと三河守は颯爽と階段を上がっていった。
「正面に二条城か」
「はい、護国寺とはやや斜めに建てられており、天守も映えが良いかと」
「やはり低く見えるな。この護国寺に配慮したとみえる」
「江戸の眺めと比べて如何で」
「江戸はつまらぬ。どれも同じに見える。海から見たほうが良い。やはり町中から見るなら京か」

 護国寺を去ると化野へと向かうことになっていたが、ここでも変更が起こった。寂光寺に行きたいというのだ。たしかに山の中腹なので化野の玄楼より眺めはいいが、それにしてもである。武蔵守はまたしても貂寺を先に行かせ一行は西へと向かうことになった。
 桂川沿いを進んでいくと向かいは嵐山だ。今は新緑に覆われ春の日差しが木々を照らしている。目指す寂光寺はもうすぐであった。この小倉山にある寂光寺は信濃守家によって建てられた寺で、これには化野も先代の武蔵守から継続して援助している。いわば化野にとって重要な寺なのだ。
 さて、寺の門前に着き糸毛車から三河守が降りようとしたそのときであった。
「……」
 三河守が頭から前のめりに倒れたのだ。まるで意識を失ったかのように。
 すぐに武蔵守が駆け寄るも三河守は朦朧としている。が、一瞬で立ち直り自らの足で立とうとするがおぼつかない。事態は騒然となった。ここでやっと貂寺が駆けつけ化野へ急ぎ戻ることになるのだった。

 化野では頭を打った三河守を治療し休ませていた。幸い大事には至らず意識もある。しかし、倒れてからというもの三河守は一言も話さず黙ったままだった。
「上野治部少輔である」
 夜に鳴くあやかしのような声が化野に轟いた。
「左長さま。治部少輔です」
「このようなときに来るのか」
 治部少輔は三河守の無事を確認すると武蔵守のいる広間へとやって来た。
「どういうことなのか説明してもらいたい」
「治部少輔殿、まず伏見から護国寺へ向かいまして。それから寂光寺に着いたところで起こったことでして」
「武蔵守殿。先代はこのような落ち度は一度も。それを分かっておいでか」
「申し訳ないかぎりで。この度はお詫びの仕様もなく」
「治部少輔さま。これは開閉術の類です」
 ここで貂寺が事の次第の見解を話し出す。
「開閉と申したか」
「はい、太陰の扉を開き陰豹を月へ送る術でございます。ただ自ら扉を閉じられたので事なきを得ましたが」
「そのような術が」
「おそらく前日には。つまり堺で何かしらあったものと」

 慶長十九年初冬、三河守が江戸へ発つと江戸方と大坂方の諍いはますます激しさを増していった。そして遂にそのときを迎えるのである。それは尾張の統寺から始まった。
「養父上。養父上」
 僧坊に響き渡る声に執行が文を書く手を止める。
「どうした。津島。何があった」
「京から。鳴滝から」
 そう言って尾張守に続いて僧坊に入ってきたのは比休院であった。
「比休院。何だ。どうしたというのだ」
「別院をお連れしました。統上府」
「何っ。御前を」
 比休院の後ろを見ると何ということか。京にいるはずの別院が、さも憔悴しきった表情で現れたのだ。
「ただ事ではないな。何が起こった」
「実は別院が襲われまして。追手もかけられたものですからこうして統寺までお連れすることに」
「追手じゃと。鳴滝なら八妻の者を二十人は動かせるはず。この戦の最中という時によく国境を越えられたな」
「事情を話しましたら亀山藩が通してくれまして」
「下総守か。後で礼をせねばならぬな。それでなぜこのようなことに」
「どうも七条門跡が亡くなったようでして」
「そのような話は届いてないぞ」
「止められております。七条に」
 ここでようやく落ち着いたのか。別院が事の仔細を話した。
「いや、しかし七条の繋ぎはかなりの剣の使い手だぞ。それがやられたというか」
「父上の跡目を巡る争いです。わたくしの子を門主にしようとする者らがおりまして」
「おお、そうじゃ。子らはどうした」
「鳴滝にて。七条が狙うは子ではなくこのわたくしです。母がいなければ子は門主にもなれませぬから」
「統上府。比丘尼さまも事の次第によっては手を貸すと。では言付けもお伝えしましたので。これにて」
「うむ。治部少輔に子らをしっかり預かっておいてくれと」

 翌朝、執行とともに上洛する八幡衆九十人が集められていた。みな戦支度で様子もものものしい。
「津島よ。丹後はこの度の戦に駆り出されておるゆえ、そなたに留守を任せる。よいな」
「はい。養父上。しかとこの統寺を」
「うむ。では頼む」
 そういうと執行は八幡衆を引き連れ小早船に乗る。桑名からは二条城へ集結する藩の軍と合流し京に入る予定だ。戦でなければできない行軍である。慶長十九年初冬。今、全国から兵が続々と大坂へと向かおうとしていた。

 京では二条城に集まる藩兵にこの洛中でも戦の火の粉がかかるのではと洛外から外へと避難する町衆も少なくなく化野の門前もいつになく静まり返っていた。
「左長さま。到着しました。統上府です」
「来たか。しかし、この戦の最中」
 外を見ると空は雲が覆い今にも時雨がありそうだ。そんな中、門跡の僧坊へ入ってきたのはいずれも兵の身なりで、今から戦に出陣しようという者たちだ。それも数が多い。
「左長さま。暫くぶりで」
「執行。これだけの数、どうやって京まで」
「何ということは。藩に根回しして藩兵の後からついてきただけで。昨日も二条城に泊まらせてもらいまして」
「しかし、これほど統寺が抱えていたとは」
「戦を見越して船は出航せずに備えておったのですが。いやはや、まさか京に来るとは。残りは統寺に置いてきました。ここにいる者たちは精鋭揃いで」
「統上府。七条ですが五人雇い入れたようで」
 貂寺が隠の者からもたらされた動向を伝える。
「五人か。するといずれも手練れだな」
 すると執行はこの日のために堺から化野に運ばれてきたべか車から、積み荷の箱を中に運び入れるよう八幡衆に指示する。
「いいか。これで三人は仕留めるのだ」
 執行は八幡衆にそう言うと箱の中から銃を取り出し渡していった。
「統上府。この銃は…」
「ああ、澳門で仕入れたものだ。今から決行するのでな」
「澳門に日本船は…」
「ああ。統寺の船しか無理だな」
「……」
「この空では雨が降るだろう。丁度いい。向こうは雨の中での戦は慣れておらぬはずだ」
「しかし、七条には寺侍が…」
「三十人もおらぬ。まあ、京洛で最も多いが…」
「執行…」
「では、行ってくる」

 七条に着くころには雨が降り始めた。時雨の中、六条の裏から事前に手配した内通者を使い門を開けさせる。堀にかかった橋を渡り、寺内に八幡衆八十人が侵入した。残りの十人は門にて退路を確保する。
 鳥銃の十人は本堂に上がると出て来る手練れに狙いを定め、長刀を手にした衆は応戦してくる寺侍に刀を振らせることなくその弧を振るう。
 開戦から半刻、鳥銃から火が打たれる。ようやく手練れが現れたのだ。寺侍のほとんどを斬り、八幡衆にも疲れが見え始めたころである。次々放たれる銃弾に手練れが逃げ出すと残った八幡衆は追い討ちをかけていった。
 宵の口、時雨も止むころ、門にて報告を待つ執行に全ての討ち取りが伝えられる。七条への侵入から一刻が経とうとしていた。

新元号は何年続くのか

 慶長二十年晩夏、堺へ向かう高瀬船は武蔵守と貂寺を乗せ焼け跡となった大坂城を通り過ぎていった。
「慶長も終わるのか。先代が残した二十年の最後があれとは」
「将軍家も慶長二十年の区切りで終わりにしたかったのでしょう。やや高い買い物をされていきましたし」
「公家も久々に金の入りがあったことであるしな」
 堺に近づくと町並みが姿をなくしているのが分かる。焼き討ちにあったのだ。桟橋には化野の船をはじめ何艘も停留しているが堺の町は多くが灰となっていた。山城守由縁の寺も例外ではなく建物は跡形もなく焼き失せている。
「左長さま。やはり蘇鉄は。大蘇鉄は残っております」
 珍しく貂寺が大きな声を上げる。
「話を聞いたときはどうなっているか心配であったが」
 武蔵守が灰を被った大蘇鉄のそばに近寄る。曇天の空の下、熱さに耐え忍んできた寺宝の荘厳な姿がそこにあった。

 堺から大坂へ向かう船の中、一艘の小早船が追い抜いてゆく。
「あれは統寺のものか」
「そのようですね。大坂へ行くようですが」
 豊後町の荷揚げ場に着くと一人の男がこちらを待っていた。
「春日丹後守にございます。統上府より総代を務めさせていただいております」
「執行は来ておらぬのか」
「このところ病に臥せっておいでで…」
「丹後守殿。その話は左長さまの耳には入れぬようにと」
 貂寺が丹後守の話に割って入る。
「ああ。これはそうでしたな。実は大坂に臨時の藩ができましたのでこの度こうして尾張から」
「早速、御用聞きということか」
「ええ。下総守とは何かとご縁がありまして。大坂復興のためいろいろと物入りでしょうから」
「相変わらず抜け目がないな。さすが執行だ」
「いえ、とんでもない。化野も堺復興で金を貸す商家もありましょうし」

 元和元年初秋、化野に比休院が使いに来て武蔵守は鳴滝の蒼楼へ行くことになる。三階建ての蒼楼にはまだ一度も訪れたことのない武蔵守は望楼から眺める景色を 楽しみにしていた。
「こちらで」
 比休院がそう言って門跡に入るとすぐ目に見える楼閣ではなく、前に広がる大きな池に案内する。そこには小舟があった。
「ここは入り口はどこになるのだ。舟に乗るとは」
 武蔵守が小舟に乗ると比休院は池の対岸まで漕いでいき楼閣の下へと潜り込んでいった。舟から降りるとそこには階段があり上につづいている。そこを登ると楼閣の一階であった。
「このようなところは見たことがない。これは凄い」
 三階へ上がると治部少輔が待っていた。望楼は聞いていた通り狭いが二人は座れる広さだ。雨戸を上げた華頭窓から見える洛中は寺の屋根と岡の間に護国寺の塔がはっきり見えた。
「気に入ったか。武蔵守殿」
「玄楼は二階なので。楼閣では蒼楼が天下一かと」
「まあ、とくとご覧あれ。さて、話というのはほかでもない。元号のことだ」
「元和が何か…」
「新元号は何年続くか」
「それは言えないことに…」
「分かっている。公家らの金の使いようを見れば大体のところは…。そこで次なる元号を頼みたいと思うてな。二十年元号を」
「えっ…。二十年元号。物の値も上がっているのでそのころにはかなり高い買い物になるかと」
「構わぬ。三河守のためならば惜しくはない」
「はあ、分かりました。そうまでおっしゃるのであれば」

「比丘尼さま。別院が参りました」
 比休院が上がってきて伝える。と、そこに望楼まで上がってきた別院が現れた。
「三崎別院にございます。この度はわたくしの子らを今までお預かりいただき感謝の念に堪えませぬ」
「ああ、もうよい。もう連れて帰ってゆけばよい。そろそろ子らの面倒を見るのも飽きてきたところでの」
「治部少輔さま。面目次第もございませぬ」
 治部少輔が左手を返すと比休院が別院を連れて下へ降りていった。
「七条は方がついたので」
「執行がまとめた。別院の子は七条ではない寺に入れるらしい。もう一人は絶家の公家を継ぐとか。まあ、これも母あってこそだが」

 望楼に初秋の風が通り抜ける。窓から見える寺の屋根には陽炎のような揺らめきが見えていた。
「実は山城守のことをお聞きしたいのですが。跡目を磯野検校にしようとしていのは事実で」
「その話か。その前に左京大夫のことから話さぬとな」
「織田右府により滅されたと」
「うむ。織田右府が弾正少弼を使い山城守さまを陥れたのよ」
「それはまた…」
「事の次第は弾正少弼が足利将軍に味方するよう誘い、事が露見しそうになった山城守さまが左京大夫を討ったというわけだ」
「謀反の嫌疑をかけられたと」
「詰まるところ織田右府は堺の権益が欲しかったのだ。それが山城守さまを支える力となっていたのでな」
「そして重用されていった」
「無論だ。渡海する関船から小早船。さらに造船する湊も有していたからな。ただ、機会は狙っていたのだ。それゆえの跡目相続の話だ」
「それはつまりその話そのものが…」
「そう、腹づもりは九條禅閤に預けた左京大夫の子だったのだ。それが思わぬ形で現れたのが天正の変になる」
「あの堺での磔…」
「この謀反の首謀が山城守さまとみて、そのつながりで検校を亡き者にしたのだろう。しかし、山城守さまが四国から堺に着いたころには土佐の大名と謀った大軍が来ると聞き兵は離散していたらしい。それで山城守さまはすぐに上洛して神宮寺を接収することができたのだ」
「先代が児島に向かったのはそのときですね」
「そういうことになる」
「ではあの変の真相は一体どういうことに」
「それは分からぬ。ただうまく行き過ぎているのでな。何かしら計略があったのは間違いない」

高砂出兵

 元和元年晩秋、化野に病で臥せっていたという執行が訪れた。事前に文をよこしてくるのがこれまでであったが今回は突然の来訪である。
「執行。病と聞いていたが」
「はははっ。あれはこちらにも事情がありましてな。貂寺。まだ船は出しておらぬな」
「はい。統上府の仰せの通りに」
「うむ。実は左長さま。幕府がとんでもないことをやらかしおると耳にしましたのでな。詳しく掴むまではと」
「一体何があるというのだ」
「驚きなさるな。高砂に兵を送ると」
「高砂に。しかしあそこはもう…」
「鹿皮で取引しておる商家からも朱印状が出されぬので、こちらにも何とかしてほしいといわれましてな」
「執行。その鹿皮のほうもだいぶ狩りつくしたとか」
「そのようですな。しかし、明国との繋ぎには澎湖が欠かせませぬゆえ見過ごすわけにもいかぬというわけで」
「たしかに琉球は薩摩藩の支配であるし、東京まで行くには遠い」
「八幡衆としてもここは手を取り合わねばということで鳴滝にも話をして参ったところでしてな」
「それで派遣されるのは」
 ここで貂寺が隠の者から入った報せを伝える。
「馬尼刺の日本町を取り仕切っている瓊の浦の代官でござりますれば。九月九日に高砂行きの朱印状が下付されております」
「それも七月二十四日に添状を出しておるで改元からわずか十日。慶長も終わって我等を廃そうと本腰になったとみえる」
「しかしこのような。幕府は領国を広げる気なのか」
「それは半島も同じこと。まあ、あれは大陸との交易を独占することが目的ですからな。あっさり引き上げたのはそのためで」
「つまり此度は幕府が高砂を支配し全てを属すると」
「そこですな。琉球のように監護下に置かれますとこちらは出て行かざるを得ない。無論、出入りする商家も一握りしか」
「では、集められる八幡衆だが」
「丹後が多く抱えておりますので合わせれば千は。あとは東埔寨に広南や文莱からも集めれば二千はゆうに」

 元和二年三月末、瓊の浦から幕府の安宅船、関船合わせ十三艘が出航した。そのころ、執行率いる八幡衆は堺にあった。
「左長さま。わざわざお見送りを」
「船を出すには許しが必要であろう」
「いえ、この執行がおりますれば。丹後は所領がある身ゆえ行くわけには参りませぬが」
 桟橋には八幡衆が乗る明で購入した船が二十艘、その出航のときを待っていた。
「しかし、熱田にこれだけあったとは。しかも大きい船も」
「大福船ですな。草撇船よりは。楼も三重にありますので。中は四層にて」
「今から出航で間に合うのか。それに向こうも相当強かろう」
「幕府の船は一旦五島にて停泊しておるとのことで。まあ、船底を改造してありますのでこちらのほうが早いでしょうな。文莱からもすでに集まり船は出たと。あちらも長刀の使い手が揃うていますれば」
 そういうと執行は腰に差す太刀を抜き武蔵守に見せる。
「この村正はこの二十年、切れ味も鋭い刀ですので必ずや」
「その腰の物、二十年も使っているのか」
「ええ、九條左府から拝領されたもので。治部少輔も受け取っております。今は比休院が使うているようですが」
 執行は太刀を切先から鞘に入れて収めると、
「左長さま。村雲という太刀をご存知か」
「……」
「かつて九條左府が戦で総崩れになり敵中突破で社から統寺まで来たことがありましてな。そのときに見せてもろうたのが村雲で」
「そのようなことが…」
「この村雲は抜きますと蜘蛛の足が見えましてな。まあ柄で見えぬほうに女郎蜘蛛が彫ってあるそうですが。聞くところによると網にかかった獲物を捕らえにいくそのさまだそうで。それが横向きに」
「そうか。斑の蜘蛛で村雲というわけか」
「その村雲ですが九條左府から武蔵に渡ったのではないかと考えておりまして」
「……」
「左長さま。七条での討伐ですが貂寺から聞いた手練は五人。しかし鳥獣で仕留めたのは二人で、残りは一人でした。もしやとは思いますがあとの二人はすでに左長さまがお斬りになっていたのでないかと」

 元和二年八月八日、幕府は唐船以外の外国船を平戸と瓊の浦の二つの湊に制限する措置を下した。明国は海禁として日本への渡航は認めていなかったがそれを掻い潜って来る船は後を絶たず、領国の湊に入れさせる藩も少なくなかった。これは黒船や紅毛船も同じである。
「左長さま。早速ですが幕府もいろいろとこれから引き締めにかかるのではと」
「今は平戸でつないでいるが果たしてどうなるか。唐船もとなると取引をしている大名家は厳しくなるだろう」
「それよりもこちらに火の粉が降りかかるのではと」
「やはり厳しくしてくるとみるか」
「どこもそのときの備えはしていると思われますが」
 高砂での海戦はあっけなく終わった。八幡衆の船、四十餘に幕府の船は東京へ逃げたのである。余勢を駆った八幡衆はいつも通りの航路に進み、荷を船に積むとそれぞれの湊へ帰っていったのだ。このとき高砂は幕府による征討は避けられたものの、のちにVOCに占拠されることになる。

南蛮と紅毛

 元和八年晩夏、化野に別院が訪れた。別院の長子が大僧正に見出されたというのである。
「しかしこれはまた門跡どころではないのでは」
「ええ、何でも江戸に新しく寺を開山するとかでその後継にと」
「いや驚きました。それならばこの先も」
「はい。これもすべて統上府がおられたゆえ」
「まあ、執行の置き土産でしょう。寺社にはいろいろと顔が利きましたから」
「左長さま。平戸からです」
 貂寺が平戸にいる隠の者からの文を武蔵守に渡す。
「……」
「巴達維亜が動きました」
「澳門占領は失敗したので澎湖へ向かうとある」
「巴達維亜ならば交易のほうは確保できますので問題はないのですが明国がどう出るか」
「しばらくは入れないということか」
「武蔵守殿。呂宋はもう入れなくなりましたし八幡のほうにも…」
 別院の寺がある桑名は八幡の根拠でもある。
「左長さま。これは幕府が出した紅毛への海での掠奪禁止が響いているかと」
「それで南蛮との争いか」
「やはり生糸でしょうか。糸割符で商家に独占させていますが全て南蛮からの取引で」
「別院殿。実のところ紅毛はあまり日本との交易では利を得てはいませぬゆえ。平戸もこのままでは…。貂寺。鳴滝に繋ぎを」
「はい。津嶋宮寺のほうは」
「丹後守はもう瓊の浦から届いているだろう。二日は早いはずだからな」

 鳴滝では八幡の航路変更を考えねばならない状況となっていた。呂宋から南蛮も高砂に拠点進出を図り、巴達維亜と同じく占拠するのではとみられていたからだ。
「どこなら抜けられる」
「明国との戦になれば少なくとも東京から海南島を抜けて大陸の海岸沿いは無理かと。文莱からか茫加薩から摩鹿加を抜けるしかないと思われますが」
「やはりそこしかないか。鄭氏との諍いも避けたいところではあるしな」
「鄭氏というと平戸の…」
「そう。唐人八幡の頭目だ」
「平戸からの報せではかなりの傑物と」
「これからのことを考えると平戸に誰か行ってもらわねばならなくなるやもしれぬ」

 初秋、化野に津嶋宮寺から丹後守が訪れた。子息の左京亮も同行してである。
「武蔵守殿。八幡の航路のほうは」
「治部少輔とも話したが福州は避けるしかあるまい」
「うむ。そうですな。ただそれでは航路が長くなりますゆえ。そこで平戸にこれから左京亮と参ろうかと」
「行ってくれるのか。鄭氏と会うのだな」
「その通りで。尾張守さまは郡山に行かれることになりましたので後々のことを考え左京亮を」
「お初にお見えに。春日左京亮にございます」
 年の頃でいうと武蔵守より十は若い男だ。
「丹後守。孫はまだなのか」
「いや、それが困ったことに。もう見れぬものと」
「まあ。焦らせてもな。もしかすると尾張守のほうが早いかもしれぬぞ」

 元和九年晩冬、紅毛の摩鹿加での争いによりEICは平戸の商館を閉鎖することになった。化野が最も恐れていたことである。丹後守により鄭氏との話し合いがもたれVOCが高砂を占拠後も澎湖は交易拠点として残すことが確認されたがVOCの勢力がこのままどこまで拡大していくかはこの先も懸念することであった。そして元和十年二月三十日、ついにそのときを迎える。
「西班牙の船が来るのを禁じるとか」
 鳴滝蒼楼では武蔵守が改元の祝いのため治部少輔のもとを訪れていた。
「もともと呂宋を拠点としていましたし。こちらから呂宋への船も出せないとなれば、こうなることは」
「ところで新元号の意味は分かるか」
「慶長より長い二十一年としか」
「慶長は誰でも分かる。どうだ。この寛永は」
「後ろからですと……。永見…」
「はっはっはっ。やっと分かったようだの」
「これはやられました。まったくもって」
「十年経てば分かる者も出てくるであろう」
「どうでしょう。それよりかかるのでは。ああ、そういえば治部少輔殿。しばらく比休院を見かけませぬが」
「今、澎湖におる」
「何をして…。まさか」
「いろいろと仕掛けねばならぬのでな。武蔵守殿。これはそなたにもやってもらわねばならぬことがある」
「しかし…」
「この先、八幡が生き残っていくにはこれは避けられぬ。執行もそうしたであろう。貂寺にもこれは話してある」
「貂寺にも」
「貂寺はわれわれ隠豹とは違い白猗なのでな」
「白猗とははじめて聞きましたが」
「あれは太白の翳だ。ゆえに歳を取らぬ」
 たしかに貂寺の若衆姿に見慣れているせいか歳に気づかなかったがこの十年、武蔵守が歳を重ねても貂寺はその気配さえない。
「山城守さまによると貞観のころから生きておるらしい」
「貞観…。それはあまりにも」
「まあ、それはどうだが知らぬが少なくともこの尼が見てきた限り若いままだ」

 寛永二年晩夏、夏の暑さもこのところの雨つづきで涼しく感じられる中、武蔵守は別院とともに禅寺へ墓参りに訪れていた。
「この寺に武蔵守殿の祖母の墓があるとは」
「別院殿は」
「わたくしの祖母は三條家ですが本門のほうで」
「ああ、元鳴滝の流れを汲むのでしたね」
「そちらはどういう関わりだったので」
「祖母は祖父に先立たれて兄である鞆公方のもとに寄せられていたのですが、駿河へ再び嫁ぐことになりまして」
「それはつまり」
「ええ、足利再興に向けての策です。小さい頃に亡くなったので覚えてはおりませぬが」
「月へ帰られたのですね」
「ええ、あの世へ旅立ちました」
「人間はこの世を輪のように廻り続けるだけですが、われわれは時を線で抜けられますゆえ」
「門徒にはそのようなこと一切説かぬというに」
「往生とは決してこの世から抜け出せぬ理ですから」

 寛永五年初秋、化野に平戸にあるVOCの商館閉鎖の報せが隠の者により届いた。
「左長さま。遂にそのときが来たようです」
「といっても一時的なものだと思うが。高砂における関税はなくしたのであろう」
「それはこちらの思惑通りで。比休院がうまくやってくれたようです」
「近々江戸に行くことになりそうだな」
「ええ、それもありますが、まずは暹羅での朱印船拿捕の仔細ですが」
「瓊の浦の奉行に権限が移るという話か」
「はい。どうも呂宋と話をつけたような節が」
「津嶋宮寺が関わっていると」
「そうです。このところ丹後守も京には来ませんし」
「統寺のころから澳門との取引を独占しているし南蛮とは関わりが深い」
「それに瓊の浦の前の代官が取り仕切っていた馬尼刺の日本町も引き継いでいます」
「そうか。執行もそれがあったゆえ八幡を集めさせたか。ということは馬尼刺も今は津嶋宮寺のみ…」
「かなり広げられた形に。ただ幕府は今後南蛮とは交易を止めるのではないかと」
「生糸をなくしてもか」
「白糸は明国との繋ぎの湊があれば十分確保できますので」
「つまり裏では抜け荷を認めると」
「白糸だけは認めさせるということです」
「しかし、こちらが抑えないとかなりの銀が出て行くのではないか。南蛮、紅毛それに唐人もそれが目的だからな」

 寛永六年初秋、前年暹羅で拿捕され馬尼刺に連行されていた日本人を送還する船が呂宋沖で沈められたという報せが化野に入る。これは日本での取調べを危惧したものと思われたが呂宋の詳しい事情が入りづらい化野ではただ成り行きを静観するしかなかった。そして明けて寛永七年、武蔵守は江戸へ向かうことになる。

朱楼

 寛永七年初夏、江戸の麻布にある京極屋敷前の古川一之橋河岸に古川河口から高瀬船が着いた。江戸での荷揚げ場となっていたのである。
「左長さま。荷を降ろしましたら浅草御蔵まで参ります」
「化野の江戸での豊後といったところか」
「まあ、そういうことになります」
「米を扱うところでのう」
 沖に停泊してある弁才船から荷を積み込むと高瀬船は隅田川から浅草へ、ずらりと並べられた船が入る堀を通り過ぎると御厩河岸だ。伏見の豊後橋の隣は平戸町だがここは黒船町となっている。
「貂寺。久方ぶりだな。江戸に来るとは」
 そう言って近づいてきたのは丹後守である。このところずっと江戸にいるらしく武蔵守の顔も忘れてしまったようだ。
「これは武蔵守殿ではないか。どういった出で立ちで」
 武蔵守の寺侍姿に驚いているようだ。
「江戸は辻斬りが多いと聞いてな。しかし黒船とは南蛮のことか。実に分かりやすい」
「統上府も平戸町というなら黒船町といったほうが誰でも分かると買った土地にそのように」
「この隣一帯を買ったのか」
「左長さま。猊下も河岸からこちらの土地をお買い上げに」
「そうか。先代も江戸で一番良いところを」
 先代の武蔵守と執行の並外れた先見性には武蔵守もただただ感心するよりなかった。
「一族の者が瓊の浦の奉行になったようだな」
「ええ、丹上の大名ですが。まあ、向こうは向こうでやっておれば」
「その奉行の下におる代官だが。高砂征討の上申を出しておる…」
「今、江戸におります。まあ、困ったものですな。高砂は今、巴達維亜と呂宋の西班牙ですので。ここを幕府がなど有り得ぬこと。澎湖は絶対に死守せねば」
 呂宋との関係が強い津嶋宮寺にこれまでの事の次第を聞きたいところではあったがさすがに武蔵守もそこまでは踏み込めず、
「文禄二年から三十七年になるが、どうだろう。羽柴右府の行方についてだが」
「それはどういう意味で」
「わたしの腹違いの弟は文禄二年二月一日生まれだ。決して八月三日ではない」
「たしかに母は我等一族の者。父は九條左府です。しかし武蔵守殿とはもはや関わりなき事。それについては答えられませぬ」
「羽柴相国は織田右府からの養子が半島で亡くなるとすぐに織田右府の嫡孫に継がせたが、父が亡くなるとすぐ大和羽柴家に入れていた木下家からの養子を今度は小早川へ…」
「それで大和羽柴家も尾張九條家も改易されましたが、大和については九條左府の次の若君をということでしたので、すでに筑前小早川入りは決まっておりました。半島への守りという意味でも。尾張については…。あのころ九條左府に付き従いまして熱海まで湯治に参りましたが…」

 牛込御門の河岸にて船から下りると武蔵守は貂寺と別れ神楽坂を歩いて行く。浄泉寺谷町にあるのが三河守の屋敷である。
「あれが朱楼か」
 屋敷の中へ入ると池に向こうに二階建ての楼閣が見える。華頭窓を配した一階に二階は高欄が一階の屋根にせり出していた。さぞかし眺めも良かろう。
「三河守さま。お呼び立ていただき」
 二階へ上がると開けられた窓から江戸城天守が見える。高欄に出ると寛永寺も見えた。
「あまり良い眺めではなかろう。江戸ではこのようなものだ」
「たしかに遠くに山の端が見えぬと色どりが…」
「丹後守には会えたか」
「はい、しかし南蛮のことは聞けず」
「こちらも隠居した当主を丹上で世話してもろうているのでな」
「そのことですが直江津今町のほうを」
「まあ、領地を減らされるわけにはいかぬのでな。湊は押さえぬと」
「御方さま。ただいま戻りまして」
 二階に上がってきたのは比休院だ。武蔵守の寺侍姿に目を遣ったがすぐに、
「武蔵守さま。あの太刀は」
「屋敷に入る前に預けたが。見たのか。それよりかなり焼けておるな。高砂が長かったとみえる」
「いえ、亡き比丘尼さまの命なれば」
「比休院。それであの者は」
「はい。御方さま。明日には」
「そうか。それならばよい」
「では、これにて失礼仕る」
 そう言うと比休院は出て行った。
「武蔵守。そこにある太刀をどう思う」
 三河守が刀掛けにある太刀を見る。
「童子切。備前守から受け継いだものと」
 三河守は童子切を抜いて武蔵守に見せる。
「天下一の剣なれど使い手によるのでな」
 その刀文は白く内曇りが波のように引かれていた。
「いえ。三河守さまは太刀筋が良いと聞いておりますが」
「比丘尼さまに聞いたか。余計なことを」
 三河守は刀を鞘に収めると、
「武蔵守。実は比丘尼さまに平嶋のことを頼まれたのだが」
「平嶋は八妻の者を抱えておりますので。鳴滝にとっては借りでしか。こちらも隠の者は信濃守家からの借りでございますれば」
「いや、平嶋の材木などをずっと取引しておるゆえ」
「助け舟は欠かせぬかと。化野も信濃守家あってこそなので」

 武蔵守が江戸を発つ日、その姿は古川三之橋の河岸にあった。三田寺町を抜け中寺町まで行くとそのうちの寺に入る。すると墓の前に立つ一人の稚児が目に入った。
「比休院か。なぜここに」
「武蔵守さま。お待ちしておりました。必ずいらっしゃると」
「まさかそちが知っておったとは」
「はい。澎湖にいた折、山城守の話を聞きましたもので」
「そうか。貂寺から聞いたところによると山城守さまは双嶼港で交易をしていたが明国によって破壊されたと。そのあとその指揮を取った者は消したということだ」
「そして月港が開港されたと」
「うむ。しかしよく掴めたな」
「はい。月港で羽柴右府の行方を追っていたところ、その方に会いまして」
「会ったのか」
「ええ。亡くなる前ですが。そのとき羽柴右府は母と共に呂宋にいると聞きました」
「やはり執行は呂宋へ…」
「それから武蔵守さま。蒼楼ですが本門へ移築することに」
「何っ。移築とな。あの蒼楼を」
「御方さまは江戸におられますし、三條の血筋は七条に入れましたので本門にはあの楼閣をと」
「うむ。そうか。まあ移されるだけなら」
「ところでその太刀ですが実に鋭い切れ味で。わたくしが行きました頃にはすでに斬られておりました」

 寛永七年初冬、化野に丹後守が訪れた。久々の京洛入りである。ただ今回はかなり様子が切羽詰った状況のようで丹後守に近習を連れた訪問であった。
「武蔵守殿。瓊の浦へ共に行ってくれぬか」
「いきなりどうしたというか。瓊の浦へ行けとは」
「日野江のことなれば」
「有馬なら縣へ」
「ええ、修理大夫が澳門で事件を起こしまして統上府が」
「たしか今は島原とか。藩主は国替えの前は大和五条に隠にも所領があったな」
「その隠の者が呂宋におることを知ったようで」
「羽柴右府か」
「存じておりましたか」
「有馬を国替えさせたのがよくなかったな」
「それで瓊の浦奉行に馬尼刺へ人を送ってくれと」
「暗殺か」
「まあ数は知れておるので問題はありませぬが、この藩主だけは何とかしませぬと」
「分かった。行けばいいのだな」

 堺から津嶋宮寺の小早船に乗り瀬戸内を行く。武蔵守にとっては初の航海だ。いつもの寺侍姿に剣を携え、丹後守一行と共に船はまず丹上に向かっていた。
 丹上は丹後守の一族である瓊の浦奉行春日采女正の領国である。二万石の大名が瓊の浦奉行など異例中の異例だがそれも津嶋宮寺による幕府への影響力だろう。
「丹後守殿。城に入っていくようだが」
「城に荷揚げ場がありましてな。船で入れるように」
「荷をそのまま城に入れるとは。聞いたことがない」
「まあ、ここだけでしょうな」

 城で一泊した一行は翌日、瓊の浦へ向かう。平戸島を過ぎ瓊の浦に着くと揚場からの上り坂にある豊後町の屋敷に入った。
「明日、馬尼刺に向けて出航とのことで」
「刺客は二人か」
「それに何人か付けるようですがそれほど大した腕では」
「やはり藩主をやるほうが難しいと」
「腕の立つ者を連れて来ましたが。それより隠の者を」
「同士討ちになるが仕方あるまい」
「では動向を探らせてからこちらも出ることに」
 三日後、藩主が瓊の浦から江戸に向けて帰る途につくという報せが入り、ついに決行のときを迎える。行程はまず湯の宿に泊まるとのことで隠の者を先に宿に待機させることとなった。丹後守一行は藩主の後を追って宿に入りそこで従者ともども斬る算段である。
 翌朝、豊後町を後にして輿に付き従う侍たちのあとを歩き湯の宿に着く。ここの湯は露天とのことで夜に決行となった。ただ先に着いて待っているはずの隠の者が姿を見せず、ここにきてやや不安視される状況ではあったが、一行の八幡衆の一人が露天の脇を流れる川を下っていたところ川下で隠の者の骸が敵の者も含めあったということで今宵強行することとなったのである。
 宵の口、まだ月が姿を現す前、その音は鳴った。鳥銃の火が打たれたのである。撃たれた弾は狙われた標的に命中しその屍を露天の底へと沈めていた。

残された唐津

 寛永八年初春、暹羅での日本町焼き討ちは幕府はもちろん朱印船で交易をしている商家にも衝撃的な事件であった。
化野にもこの報せは入ったが東哺寨から文莱で航海している八幡に影響はなかったものの羽柴相国や将軍家から他国へ逃げてきた日本人にとっては明日は我が身のことである。
「貂寺。暹羅に逃がした者はいなかったと思うが」
「うちは會安がほとんどですから。津嶋宮寺ならば澳門か馬尼刺。鳴滝は南旺でしょう」
「奉書船も始まるというし厳しくなるな。平戸の商館は来年というし」
「その平戸ですが、どうも瓊の浦だけにするようで再び開けても閉めることになるかと」
「そうなると化野は九州で湊が無くなるな。さてどうしたものか」
「左長さま。このところ熊本藩に不穏な動きがあると隠の者から」
「まさか抜け荷を幕府に報告しようと考えておるのか」
「どうやらそのようで。九州の大名で抜け荷と関わりがないのは今やここだけですので」
「柳河の改易が気に食わぬというか」
「まあ柳河も寸前のところでしたが根回しをして」
「ではまた丹後守が動くか」

 寛永九年晩冬、武蔵守は江戸の寛永寺を訪れていた。不忍池を巡り茅町に新しく建てられた寺へ入る。ここは京から江戸へ移った別院の住まいとなっていた。
「別院殿。ここは池の端で寛永寺も見えるし実に良いところで」
「いえ、武蔵守殿。すべては大僧正のおかげでして」
「いやいや、ご子息あってこそでしょう。羨ましい限りで」
「そんなことは…。ところで江戸には何か」
「亡き丹後守のおかげで熊本藩を改易にできまして。それで小倉藩が国替えで熊本に。空いた小倉藩には信濃守家が入ることになりまして」
「化野が湊を確保できたと」
「ええ。小倉と三毛を。平戸の商館は再び開きましたがこれで平戸がなくなっても何とかなりそうで」
「そうですか。それはそれは。ただ丹後守が亡くなり今後がやや心配されるところではあるのですが」
「それはまたどういった」
「采女正が奉行を解かれて藩が改易になるとのことで」
「ああ、その話ですか。馬尼刺への刺客入りを奉行自らの交易に変えたもので。まあ、丹上のほうは九州の大名が認めた家しか来れませぬしそちらのほうは」
「ただこれから渡航も帰国も禁じられるという話が」
「それは聞き及んでいますが密航がなくなるわけではありませんし。商家への投銀がなくなるだけかと。その分、抜け荷の値は上がっていくので」
「それならば良いのですが…。これまでは丹後守が幕閣への賄賂で権力を欲しいままにしておりましたが徳川相国も亡くなった今、幕府も方針を変えてくるのではと」
「たしかに丹後守はやり手でした。どれだけ金の力で動かしたか。小倉も化野が藩主暗殺に手を貸した見返りなので」
「左京亮ではまだ力が及ばぬでしょうか」
「ゆえにそろそろ化野も跡目を決めることにしまして」
「化野のですか。一体誰に」
「別院殿の長子の法眼に」
「……そのような。しかし」

 寛永十一年初夏、化野に三河守から呼び出しがあり、武蔵守は大坂に向かうことになった。江戸まで岸沿いを遊覧するというのだがその驕奢ぶりは随分と豪勢なものである。
「その姿で行かれるのですか」
「長旅になるし荷のほうは頼む」
「では鳥羽湊まで先に」
 大坂に着くと武蔵守は越前家の格の違いを見せ付けられることになった。将軍家の御座船は知っているがそれに匹敵する大きさで船首から船尾まで朱に塗られている。屋形も二層、屋根は唐破風、高欄は金の装飾が施されていた。
「武蔵守。どうだこの御座船は」
「三河守さま。中も見事としか。漆塗りですか。驚きました」
「まだ驚くには早い。風呂もあるでな」
「風呂ですか。途中で湊に寄るものと」
「まあ、この船ももうすぐ天下一とはいかなくなるが」
「それはまた」
「今、幕府がとてつもなく大きな船をつくっておってのう」
「大名がつくれなくなった安宅船のようなもので」
「まあ、そう急くな。これから見に行こうではないか」

 二十日後、伊豆に近づくとそれは現れた。この御座船より上口長はさらに長く、肩幅はおよそ二倍の広さだ。
「このような船、よくつくる気に」
「まだ完成してはおらぬが使い道がのう」
「はあ、船ですからやはり動かぬと」
「そのあたり塔とは違うのでな」
 三河守が遠く江戸の方角を見つめる。まだ江戸が見える頃合いではないが岸辺の景色は東国のものに変わりつつあった。
「幕府が安宅船より大きな船をつくるのには何か訳が」
「そこなのだが実は呂宋に派兵する計画が進んでおる」
「一度は立ち消えになったかと」
「一万の兵を送り出すらしい。もはや羽柴右府追討どころではない。明らかな呂宋征討だ」
「高砂は巴達維亜が占領しそうですし、呂宋から西班牙を追い出そうということで」
「とどのつまり津嶋宮寺や統寺がどう動くかだろう。鳴滝にしても化野にしても呂宋とは関わりがない」
 三日後、夜の浦賀を過ぎると東夷を照らす日の光は御座船の高欄に江戸前の景色を映し始めていた。

 寛永十二年晩冬、尾張守が統寺に戻ったと聞き、武蔵守は熱田を訪れていた。尾張守はしばらく郡山にいたがここに到って子を預けて帰って来たのである。
「左長さま。お久しぶりにございます」
「よせ。左長などと。もう貂寺くらいのものだぞ」
「しかし尾張九條家最後の当主なれば」
 尾張守とは遠縁になるが血の繋がりはある。何れの家系も信濃守家が嫡流だ。
「小出氏の継室に預けてきたとか」
「はい。天領に接して所領もありますので何かと」
「そこまでのことにはならぬと思うが。たしかにその昔、門跡にて匿うこともあったゆえ」
「羽柴相国も宮門跡と神宮寺には手を出せなかったと」
「まあ、そうであったが結局は船にて外に出さねばならぬ」
 武蔵守が何かを思い出したように答えた。
「左長さま。実はそのことでご相談が。統寺から澳門に渡る者らのことで」
「もう今は南蛮しかいないと聞くが」
「化野の船で渡らせてもらえぬかと」
「澳門に行けるのなら出しても良いが。しかし、それはまた何ゆえだ」
「いえ、このところ呂宋のほうに割いておりまして」
「ああ、分かった。引き受けよう。他ならぬ頼みだ」
「申し訳ありませぬ。左長さま。それと津嶋宮寺のほうからお越し願えないかと左京亮が先ほど…」

 津嶋宮寺は津島湊のそばにある津嶋社の宮寺である。古来、熱田湊の権限を持つ熱田宮寺と尾張を二分する勢力を保ってきた社僧の集まりであった。ただ、ここにきて川からの土砂の流入により津島湊の水位が浅くなってきており、河湊は揖斐川沿いに移行しつつあった。
「武蔵守さま。わざわざのお越し」
「左京亮。子ができたそうだな」
 武蔵守が三十路を過ぎて子を初めて持った左京亮をからかう。
「はい。嫡子にて」
「結局、丹後守は孫の顔は見れなかったか」
「尾張守さまのほうも亡くなる前に伝えられず」
「そうであったか。あれだけ権勢を誇った丹後守ものちの血筋が気がかりだったかも知れぬな」
「まったくもって父とは。不甲斐ないばかりで。近々入った瓊の浦からの報せにも…」
「それは巴達維亜が呂宋征討に軍船を出すとの話か」
「はい、その通りで。そこでお願いしたいことがあるのですが」
「何なりと言ってみよ」
「呂宋からの船を細島に入れてほしいのです」
「何ゆえ細島だ。嶋浦ではないのか」
「細島から陸路にて」

 寛永十三年初秋、化野では美々津を持つ財部藩との交渉に余念がなく呂宋から来る船の対応に追われていた。ただ初冬には帰って行くため三毛の湊へ停泊させている。ただここに至って貂寺もゆくゆくこのことが明るみになれば細島が天領となることを危惧し始めていた。
「武蔵守さま。この策は澳門からの南蛮との交易を失いかねませぬ。そこまで津嶋宮寺も統寺も追い詰められておりますな」
「それだけでなく化野への牽制もある。なかなか先を見据えた策とみるがな」
「たしかに唐津藩は跡継ぎがおりませぬゆえ改易は必定。九州の諸大名には好都合かと」

 寛永十四年初冬、長らく計画されていた島原での火蓋はついに切って落とされた。巴達維亜の援助もあり乱は年明けの寛永十五年晩春には鎮圧、呂宋征討は白紙となりこの乱の結果は南蛮との断交に終わる。紅毛の巴達維亜が日本から南蛮の二国を追い出した形になるが呂宋の西班牙としても澳門の葡萄牙を敵視した形となった。このようにこの乱の経緯は非常に複雑で乱終結後、得られたものが大きい勢力は巴達維亜と統寺だけであった。

三重塔

 寛永十二年に雷火により焼失した護国寺の五重塔はその後、再建の話もなくただ時を重ねていたが寛永十八年にようやく復興することとなり寛永二十一年、ついに二十年元号最後の年にその姿を京洛に再び現した。
「貂寺。堺の寺だがまだ復興は進んでおらぬとか」
「はい。本堂が再建されたのみで」
「五重とはいかぬまでも三重塔を建てたいのだが」
「今の化野にそのような余力は」
「豊前家のほうに小倉の豊後橋で鄭氏の船を入れてもよいか聞いてくれ。信濃守家のほうは三毛の豊後町ですでに入れておるからな」
「分かりました。では早速」
 このときまでに高砂では巴達維亜が西班牙勢力を制圧し完全に支配下に置いていた。大陸では明国が清国に滅ぼされ鄭氏が台頭するようになる。












女のおやのおもひにて山でらに侍りけるを、
ある人のとぶらひつかはせりければ、
返り事によめる
よみ人しらず

あしひきの山べに今はすみぞめの
衣の袖のひる時もなし

古今和歌集 巻第十六 哀傷
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