それは底無しの沼よりも深く

きっせつ

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忍び寄る

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あの人に会ったのは綺麗な月の夜だった。

少し癖のある赤髪が月明かりの下に咲いていて、俺を誘う琥珀の瞳は柔らかな光を帯びていた。

小さく、薄桃色の唇は弧を描き、トサリッと肩から落ちて露になった背のラインや慎ましい胸。その全てがとても艶やかで思わず魅入ってしまう程、美しく感じた。

それはまるで一夜の夢を見ている気分だった。
そして間違いなく、あの人を初めて愛しく思ったのもこの時で、あの夜がなかったら俺はあの人に恋をする事はなかった。


『あの夜、僕は貴方に睡眠薬を盛りました。貴方が僕と寝た記憶がないのは寝てないからです。貴方は僕に騙されているんです。』


レンリから渡されたあの人から手紙にはあの夜の真相が書かれていた。それは俺には受け入れ難い内容だった。

「なぁ、クラヴィス。もう関わるのはやめよう。きっと俺達には手に負えない。」

レンリは手紙を読む俺の肩を宥めるかのようにポンっと優しく叩いた。レンリの表情を見るにきっと俺は今、とても酷い顔をしているのだろう。

だけど……。

「俺は別に寝たからシグリさんを好きになったんじゃない。」


もう一度、あの人と話をしたい。
今度は一方的に自分の想いをぶつけるのではなく、きちんと話し合いたい。フィールとリステルの使者訪問が終わったら……。






ヒュンッと剣が空を斬る。
あまり剣の稽古に熱心ではないレンリが無心に鍛錬場で剣を振っている。

護衛対象を死なせたのが相当堪えたようで、かれこれ、数時間は振り続けている。


『ミランが刺客だと見抜けたかったのはお前達だけの失態ではない。捕らえられなかったのは残念だが、その刺客の死に責任を感じる必要はない。…だが、任を全う出来なかった、守るべき者を守れなかったという事実だけは胸に刻んでおけ。』

騎士団長はそう言葉を俺達に掛けるだけで任を全う出来なかった事に対する処罰はなかった。だが、任を全う出来なかった俺達はまだ騎士としてここに居て良いのかという想いが頭を巡る。

本当ならアルトワルトを庇い、毒に倒れるのは俺達のやるべき事だった筈だ。あの場で血を流して倒れるべきは俺達だった筈だ。


『俺が護衛対象であるシグリを逃してしまったのが、そもそもの失態。責められるべきはお前達じゃない。俺だ。』

そうアーティハイト副団長は言っていた。自身がシグリの不意打ちを避けられていればこのような事にはならなかった…と。しかし、そもそもあの人が、シグリが庇わなければアルトワルトはミランに毒を打たれて、医師に診せる間もなく、死亡していただろう。


「好きな人、一人守れない騎士って、俺って何だろうな。」

騎士としてあまりにも未熟過ぎる。
人としても俺は未熟過ぎる。

あれ程、シグリの事を大事に出来ていないと思っていたアルトワルトでさえも助けようと《聖女》に頭まで下げた。宰相に掛け合っていた。

俺は果たしてあの場所で何を為せていただろうか?

不甲斐ない自身に溜息をつき、ふと魔術課のある棟を見た。すると窓から見えていた一つの光がふと消えた。

ー あれ?

先程まで魔術課のある棟に向かい、渡り廊下を進んでいた明かりが急に消えた。

この時間、明かりを持って廊下を歩いているのは夜勤の巡回任務にあたっている騎士だ。 

ー 何故、消した?

魔術が発展しているのにも関わらず、未だに蝋燭の明かりを頼りに夜勤の巡回をしている騎士。一度火が消えると、付けるのが面倒なので、巡回中に明かりを消す事はほとんどない。


「何かおかしくないか? 」

無心に剣を振っていたレンリも異変に気付いた様子。

「様子を見に行こう。もしかしたら何か起こっているのかもしれない。」


明かりの消えた廊下へ向かうと普段、この時間に歩いていればすれ違う夜勤の騎士達と全く会わない。その異様さにピリピリと嫌な予感を感じながら明かりの消えた廊下へと走った。



「何だよ…。コレ。」

床に落ちたランタン。
そこには先輩騎士達が床に伏せていて、皆、耳から血を流している。

生きているか確認しよう脈をとる。
脈は正常に波打っていて、どうやら気絶しているだけのようだった。

それがまた異様に感じた。
怪我は耳からの出血だけで身体はほぼ無傷。
剣が床に落ちているのでどうやら相手と対峙したようだが、争った形跡がないのが不自然だ。

「クラヴィスッ。アレッ!! 」

バッとレンリが廊下の先を指差した。
その指差した先には倒れている騎士がいて、その前には一人の男が立っていた。

「アンセル大臣。」

こちらに気付いた大臣が慌てて走り出す。
レンリは複雑そうな表情を浮かべ舌打ちして、彼を追って走り出す。

「待て、レンリッ!! 相手は手練れだッ。迂闊に突っ込むなッ。」

そうレンリを止めようとした瞬間、耳に誰かの息がフッと掛かった。すると耳に痛みが走り、グラリと平衡感覚が失われる。

ー 何…だ?

身体が床に吸い込まれるように倒れて行く中、気配を感じて振り返ろうとしていた身体がグルリと後ろを向いた。

すると一人の女が俺の後ろに立っていて、俺と目が合うとニヤッと禍々しい笑みを浮かべた。

「無駄な殺しをする気はなかったけど、見られちゃったらしょうがないわね。」

まだ聞こえる片方の耳で聞き取った声。
それはまるで玩具を見つけた子供のようにはしゃいでいた。
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