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逃亡
第四十八話 爪先から流れるハニーハート
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日和は狷の頭から手を離した。琴子の前で魔法を使うことが躊躇われたからだ。いくら狷の知り合いだとしても、無闇に人の前で魔法を使うものではない。仮に彼女が魔法を使えなかった時のことを考えて、日和は手を引いた。琴子はもう一つの乾いたタオルを先程まで日和が寝ていた布団の枕に敷いて、狷を寝かせるよう促す。目立った外傷は他には見当たらないが、まだ怪我をしているかもしれない。慎重に狷の体を布団に寝かせて、日和はふ、と息をつく。その時、突然琴子が口を開いた。
「狷ちゃんが初めて来た時、それはそれはびっくりしたのよ。雨の日だったわ。あの時の狷ちゃんったら、庭で育てていたトマトを盗み食いしてたの。もう怒るのも忘れて、すぐに家に上げちゃって」
穏やかな声で語る琴子は、狷の頬に触れて目を細めた。
「それからうちによく来るようになったの。今日みたいに怪我をしていることも多かったわ。でも、救急車は呼ぶなって。だからね、怪我人を看るのが上手くなったのよ」
おかしそうに小さく笑って、琴子は日和に優しい眼差しを向けた。今の言葉で疑問は確信に変わる。琴子は魔法は使えない。魔法が使えるのであれば、救急車など呼ぶ必要がないからだ。恐らく彼女から狷に救急車を呼ぶよう提案したのだろう。それを狷は断ったのだ。琴子はなおも続ける。
「何もないのに来てくれた時はね、いつも一輪花を持ってきてくれるの。不思議な子。こんなちゃらついた見た目をしてるけど、独り身のあたしの相手をしてくれる。本当はとても優しいのよ。あなたも分かるでしょう?」
そう問われて、日和は深く頷く。そう、狷は優しい。ふとした時に緩む目元、細められる赤い瞳。笑うことのない彼の唯一の感情表現。日和は知っている。そして、琴子も。
「……狷ちゃんは大丈夫よ。今日よりも酷い怪我をしてても、目を覚ましたから」
彼女は——琴子は、どのくらい狷のことを知っているのだろうか。狷を見つけた時、狼狽えた様子は見せていたが、取り乱したりすることはなかった。こういったことに慣れてしまっているようにも見えた。それに、今の言葉。傷付いた狷とは何度も鉢合わせているのだということが窺える。そこでまた疑問が浮かび上がる。彼女は一体何者なのか。狷にとって、琴子とはどんな存在なのか。考えても埒の明かないことだが、憶測が脳内を過ぎる。
琴子は小林と名乗った。狷も姓は小林である。もしかすると親族なのではないか。……いや、しかしそれはない。先程琴子は狷と初めて出会った時の話をした。話を聞く限り、狷と琴子は全くの赤の他人だ。だとすると、ただの偶然か。小林はありふれた姓だし、その可能性が高いだろう。
悶々と思考を巡らせていると、また琴子が切り出した。
「日和ちゃんも驚いたでしょうけど、狷ちゃんのことを知ってるなら心配はないわね。狷ちゃんのことはあたしに任せて、あなたは休みなさいな。怪我人の看病なら慣れっ子だから」
「……いえ、私にも狷ちゃんを看病させてください」
日和の言葉に琴子は目を瞬かせていたが、一拍間を置いてうんうんと頷く。
「そうね、友達だもの。心配よね。そうしましょう。じゃああたしは桶に水を入れてくるから、狷ちゃんのことお願いね」
「はい」
琴子はよいしょと腰を上げて立ち上がると、廊下の方へと歩いていく。それを見送って、日和は狷へ視線を落とした。銀の髪はまだ十分に拭き取れていない血で薄茶色い箇所があるものの、新たな出血は治まっているらしく、頭の下に敷いているタオルは白いままだ。下ろされた瞼はぴくりとも動かないままで、赤い瞳を隠してしまっている。長い睫毛が目元に影を落とす。きれい、を通り越して、もはや今の狷は美しかった。そんな彼に見惚れる。
——ああ、やっぱり彼のことが好きだ。
こんな時にそう思うのは軽率かもしれない。でも、それでもやはり、好きだと思うのだ。キンと冷めた切れ長い目も、癖のある銀色の髪も、全てが自分を魅了する。きっと叶わない恋なのだろう。あれだけ拒否されたのだから。しかし、期待を捨てたわけではない。狷の言葉が頭に蘇る。
——日和に触るな。
初めて名前を呼ばれた。狷は無意識だったのかもしれない。あの時はそれどころではなかったが、改めて考えると、胸の奥がきゅう、と締めつけられるような、爪先が甘く痺れるような感覚を覚えるのだ。この考えだってやはり、浅はかで軽率だ。そんなことは分かっている。だが、日和自身ももう自分では止められなくなってしまった。今、狷の為に尽くさんとする日和を突き動かしているのは、報われない恋心。ただ、それだけだった。
「狷ちゃんが初めて来た時、それはそれはびっくりしたのよ。雨の日だったわ。あの時の狷ちゃんったら、庭で育てていたトマトを盗み食いしてたの。もう怒るのも忘れて、すぐに家に上げちゃって」
穏やかな声で語る琴子は、狷の頬に触れて目を細めた。
「それからうちによく来るようになったの。今日みたいに怪我をしていることも多かったわ。でも、救急車は呼ぶなって。だからね、怪我人を看るのが上手くなったのよ」
おかしそうに小さく笑って、琴子は日和に優しい眼差しを向けた。今の言葉で疑問は確信に変わる。琴子は魔法は使えない。魔法が使えるのであれば、救急車など呼ぶ必要がないからだ。恐らく彼女から狷に救急車を呼ぶよう提案したのだろう。それを狷は断ったのだ。琴子はなおも続ける。
「何もないのに来てくれた時はね、いつも一輪花を持ってきてくれるの。不思議な子。こんなちゃらついた見た目をしてるけど、独り身のあたしの相手をしてくれる。本当はとても優しいのよ。あなたも分かるでしょう?」
そう問われて、日和は深く頷く。そう、狷は優しい。ふとした時に緩む目元、細められる赤い瞳。笑うことのない彼の唯一の感情表現。日和は知っている。そして、琴子も。
「……狷ちゃんは大丈夫よ。今日よりも酷い怪我をしてても、目を覚ましたから」
彼女は——琴子は、どのくらい狷のことを知っているのだろうか。狷を見つけた時、狼狽えた様子は見せていたが、取り乱したりすることはなかった。こういったことに慣れてしまっているようにも見えた。それに、今の言葉。傷付いた狷とは何度も鉢合わせているのだということが窺える。そこでまた疑問が浮かび上がる。彼女は一体何者なのか。狷にとって、琴子とはどんな存在なのか。考えても埒の明かないことだが、憶測が脳内を過ぎる。
琴子は小林と名乗った。狷も姓は小林である。もしかすると親族なのではないか。……いや、しかしそれはない。先程琴子は狷と初めて出会った時の話をした。話を聞く限り、狷と琴子は全くの赤の他人だ。だとすると、ただの偶然か。小林はありふれた姓だし、その可能性が高いだろう。
悶々と思考を巡らせていると、また琴子が切り出した。
「日和ちゃんも驚いたでしょうけど、狷ちゃんのことを知ってるなら心配はないわね。狷ちゃんのことはあたしに任せて、あなたは休みなさいな。怪我人の看病なら慣れっ子だから」
「……いえ、私にも狷ちゃんを看病させてください」
日和の言葉に琴子は目を瞬かせていたが、一拍間を置いてうんうんと頷く。
「そうね、友達だもの。心配よね。そうしましょう。じゃああたしは桶に水を入れてくるから、狷ちゃんのことお願いね」
「はい」
琴子はよいしょと腰を上げて立ち上がると、廊下の方へと歩いていく。それを見送って、日和は狷へ視線を落とした。銀の髪はまだ十分に拭き取れていない血で薄茶色い箇所があるものの、新たな出血は治まっているらしく、頭の下に敷いているタオルは白いままだ。下ろされた瞼はぴくりとも動かないままで、赤い瞳を隠してしまっている。長い睫毛が目元に影を落とす。きれい、を通り越して、もはや今の狷は美しかった。そんな彼に見惚れる。
——ああ、やっぱり彼のことが好きだ。
こんな時にそう思うのは軽率かもしれない。でも、それでもやはり、好きだと思うのだ。キンと冷めた切れ長い目も、癖のある銀色の髪も、全てが自分を魅了する。きっと叶わない恋なのだろう。あれだけ拒否されたのだから。しかし、期待を捨てたわけではない。狷の言葉が頭に蘇る。
——日和に触るな。
初めて名前を呼ばれた。狷は無意識だったのかもしれない。あの時はそれどころではなかったが、改めて考えると、胸の奥がきゅう、と締めつけられるような、爪先が甘く痺れるような感覚を覚えるのだ。この考えだってやはり、浅はかで軽率だ。そんなことは分かっている。だが、日和自身ももう自分では止められなくなってしまった。今、狷の為に尽くさんとする日和を突き動かしているのは、報われない恋心。ただ、それだけだった。
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