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逃亡
第四十七話 甘い林檎の赤と
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琴子と名乗った老婦はその後も日和に気を遣って色々と面倒を見てくれた。風呂は今日はもう薪を使ってしまったので、明日沸かしてくれると言う。寝巻きも用意してくれた。今は寝る前に一息つこうと言われ、居間にいるところである。
「林檎剥きましたよ。よかったら食べてね」
「……ありがとうございます」
正直今落ち着いている場合ではない。でも琴子といると何故か心が落ち着いていくのを感じて、不思議な気分になる。どうしてこんなところに飛ばされたのだろう。狷が意図的にここへ飛ばしたというのなら、彼女とは知り合いなのだろうか。聞いてみようかとも思ったが、日和が口を開く前に琴子が話を始めてしまう。
「林檎も色々種類があって悩むわよねえ。あたしはしゅわしゅわした食感の林檎が好きなの。日和ちゃんはどんなのが好き?」
「あ、えっと……私は蜜の多いのが好き、です」
「まあ、そうなのね。いいわねえ。この林檎が口に合うか分からないけど、どうぞ食べなさいな」
「はい」
促されるままに林檎に手を伸ばし、日和はそれを口に運ぶ。しゃくりとした歯応えの後、鼻に抜ける芳醇な香り。頬が綻ぶ。
「おいしいです」
「そう、よかった」
微笑む琴子に日和は遠慮がちに笑みを零す。こんな時だが、頭の中は狷や鳳凰達のことばかりだ。それはそうだろう。突然飛ばされたところが見知らぬ老婦の住む家の前だなんて。まだ少し落ち着けただけでもよくやっている方だ。……大丈夫だろうか。ふとした時に不安が過ぎって、日和の表情は曇る。そんな時、突然玄関の方だろうか、大きな物音がして二人してびくりと肩を震わせた。
「な、何かしら」
琴子は日和にここにいるようにと言って、箒を手に持ち居間を出ていく。日和がその後を追おうとして立ち上がった瞬間、琴子の驚いたような悲鳴が上がった。
「狷ちゃん!」
琴子の言葉に日和は耳を疑った。肌が粟立つ。聞き慣れた名前が彼女の口から発せられたのだ。恐らく自分の思っている人物と同じだ。
日和は居間から飛び出す。廊下には投げ出されたのだろう、箒が落ちている。その先、土間にしゃがみ込む琴子が見えた。彼女のそばに倒れているのは——。
「狷ちゃん……」
見紛うこともない銀の髪。それは今血に塗れている。琴子の隣に駆け寄って、日和も彼のそばに膝をつく。固く目を瞑る狷は息をしているのかも分からない。顔色もいつもより青白く、血色が悪い。
「狷ちゃん、狷ちゃん目を覚まして!」
琴子は必死になって動かない狷に声をかけ続ける。日和はその横で何もできなかった。体が、息が震える。血の赤が網膜に叩きつけられる。この光景が現実味を帯びておらず、遠くで起こっているような気さえした。狷を抱き起こした琴子は、日和を見て焦った様子で口を開く。
「日和ちゃん、手伝って。この子を客間まで運ぶから……!」
「あ……っ、はい」
慌てて小走りに琴子の後についていく。琴子は確かに「狷ちゃん」と言っていた。二人は顔見知りだ。疑問は確信に変わる。狷は彼女のいるこの場所へ意図的に日和を転移させたのだ。客間へ駆け込んだ琴子は、日和を振り返って眉を下げた。
「タオルを持ってくるからこの子をお願い」
「はい……っ」
琴子に狷を託される。触れた彼の肌は氷のように冷たかった。死んでしまっているのではないか。そんな不安に駆られて、狷の顔に頬を近付ける。……微かだが吐息が頬に触れる。それに心の底から安堵して、日和は胸を撫で下ろした。しかしまだ予断を許さない。このまま目を覚まさなかったら。
「狷ちゃん、起きて」
弱々しい声で狷に話しかける。返事はない。狷の傷に手を翳す。少しでも傷が癒えたら。
「……起きてよ……」
涙で狷の顔がぼやける。この頃泣いてばかりだ。彼の前でも涙を見せてしまった。あの時の彼の困惑したような顔が忘れられない。困らせてしまった。そして、あの男がやってきて。狷は日和達を逃した。こんなに満身創痍になるまで、一人で戦っていたのか。自分がもっと力になれていたら。ただ己の身を守って見ていることしかできなかった。
「……狷ちゃん……」
謝るところではないと分かっていても、謝罪の言葉が頭に浮かぶ。手からあたたかい感覚が広がったが、傷が癒えているのかは確認できなかった。こんな時でも思うのはきれいな顔だな、なんてどうしようもないことだ。白いを通り越して青白いというのに、彼の顔はまるで人形のようで。
そうしていると琴子が客間に戻ってくる。琴子は日和の隣に座ると、狷の髪にこべりついた血を濡れタオルで丁寧に拭いていく。
「大丈夫よ、大丈夫……」
そう繰り返す琴子の言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
「林檎剥きましたよ。よかったら食べてね」
「……ありがとうございます」
正直今落ち着いている場合ではない。でも琴子といると何故か心が落ち着いていくのを感じて、不思議な気分になる。どうしてこんなところに飛ばされたのだろう。狷が意図的にここへ飛ばしたというのなら、彼女とは知り合いなのだろうか。聞いてみようかとも思ったが、日和が口を開く前に琴子が話を始めてしまう。
「林檎も色々種類があって悩むわよねえ。あたしはしゅわしゅわした食感の林檎が好きなの。日和ちゃんはどんなのが好き?」
「あ、えっと……私は蜜の多いのが好き、です」
「まあ、そうなのね。いいわねえ。この林檎が口に合うか分からないけど、どうぞ食べなさいな」
「はい」
促されるままに林檎に手を伸ばし、日和はそれを口に運ぶ。しゃくりとした歯応えの後、鼻に抜ける芳醇な香り。頬が綻ぶ。
「おいしいです」
「そう、よかった」
微笑む琴子に日和は遠慮がちに笑みを零す。こんな時だが、頭の中は狷や鳳凰達のことばかりだ。それはそうだろう。突然飛ばされたところが見知らぬ老婦の住む家の前だなんて。まだ少し落ち着けただけでもよくやっている方だ。……大丈夫だろうか。ふとした時に不安が過ぎって、日和の表情は曇る。そんな時、突然玄関の方だろうか、大きな物音がして二人してびくりと肩を震わせた。
「な、何かしら」
琴子は日和にここにいるようにと言って、箒を手に持ち居間を出ていく。日和がその後を追おうとして立ち上がった瞬間、琴子の驚いたような悲鳴が上がった。
「狷ちゃん!」
琴子の言葉に日和は耳を疑った。肌が粟立つ。聞き慣れた名前が彼女の口から発せられたのだ。恐らく自分の思っている人物と同じだ。
日和は居間から飛び出す。廊下には投げ出されたのだろう、箒が落ちている。その先、土間にしゃがみ込む琴子が見えた。彼女のそばに倒れているのは——。
「狷ちゃん……」
見紛うこともない銀の髪。それは今血に塗れている。琴子の隣に駆け寄って、日和も彼のそばに膝をつく。固く目を瞑る狷は息をしているのかも分からない。顔色もいつもより青白く、血色が悪い。
「狷ちゃん、狷ちゃん目を覚まして!」
琴子は必死になって動かない狷に声をかけ続ける。日和はその横で何もできなかった。体が、息が震える。血の赤が網膜に叩きつけられる。この光景が現実味を帯びておらず、遠くで起こっているような気さえした。狷を抱き起こした琴子は、日和を見て焦った様子で口を開く。
「日和ちゃん、手伝って。この子を客間まで運ぶから……!」
「あ……っ、はい」
慌てて小走りに琴子の後についていく。琴子は確かに「狷ちゃん」と言っていた。二人は顔見知りだ。疑問は確信に変わる。狷は彼女のいるこの場所へ意図的に日和を転移させたのだ。客間へ駆け込んだ琴子は、日和を振り返って眉を下げた。
「タオルを持ってくるからこの子をお願い」
「はい……っ」
琴子に狷を託される。触れた彼の肌は氷のように冷たかった。死んでしまっているのではないか。そんな不安に駆られて、狷の顔に頬を近付ける。……微かだが吐息が頬に触れる。それに心の底から安堵して、日和は胸を撫で下ろした。しかしまだ予断を許さない。このまま目を覚まさなかったら。
「狷ちゃん、起きて」
弱々しい声で狷に話しかける。返事はない。狷の傷に手を翳す。少しでも傷が癒えたら。
「……起きてよ……」
涙で狷の顔がぼやける。この頃泣いてばかりだ。彼の前でも涙を見せてしまった。あの時の彼の困惑したような顔が忘れられない。困らせてしまった。そして、あの男がやってきて。狷は日和達を逃した。こんなに満身創痍になるまで、一人で戦っていたのか。自分がもっと力になれていたら。ただ己の身を守って見ていることしかできなかった。
「……狷ちゃん……」
謝るところではないと分かっていても、謝罪の言葉が頭に浮かぶ。手からあたたかい感覚が広がったが、傷が癒えているのかは確認できなかった。こんな時でも思うのはきれいな顔だな、なんてどうしようもないことだ。白いを通り越して青白いというのに、彼の顔はまるで人形のようで。
そうしていると琴子が客間に戻ってくる。琴子は日和の隣に座ると、狷の髪にこべりついた血を濡れタオルで丁寧に拭いていく。
「大丈夫よ、大丈夫……」
そう繰り返す琴子の言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
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