8 / 26
2章「証拠」
3
しおりを挟む
ネームは三日かかって描き上げ、ファックスで出版社に送っていた。
ゴミ袋がいっぱいになるほど何度も何度も描き直していたみたいだけど、ようやく納得のできるネームに仕上がったみたいだ。
それから三日が経った。
元々あつしくんは私が小野旬爛だという証拠を探すために一緒に住む事になったけれど、あつしくんがこの家に住むようになってからもう半月は経っているのに一向に証拠を探そうとはせず、ここにいて当たり前のように私との生活に馴染んでいる。
証拠を探さないなら私はそのほうがいい。
ずっと、今の状態が続けばいいのにと思っていたけれど、そうはいかなかった。
「どうぞ瞬さん、今日はミントのハーブティーとジンジャークッキーにしてみました」
ここ数日あつしくんはハーブティーに凝っている。クッキーもあつしくんの手作りだったりするが、突然あつしくんがこのような事をするようになったのは、全てあつしくんをおばさんに紹介してからだったりする。
一度道を教えるために店にあつしくんを連れて行ったのはいいけれど、それから買い物だといっておばさんに会いに行き、何か色々と貰ったり上げたりするようになっていた。
私はあつしくんのしたいようにしてくれていいと思っているけど、いつの間にか家の裏庭に数種類のハーブが植えられている。
おばさんから苗を貰ったから植えたといっていた。それからよく三時にハーブティーが出されるようになった。
普段飲み慣れないから飲んだときに美味しいとは言ったけど、こんなによく出されるとは思っていなかった。
ピンポーン
「あれ?誰か来たみたいだね。あつしくん、ごめんだけど出てもらってもいい?」
夕方店を閉めるとおばさんが来る事があるので、あつしくんは「おばさんだったらいいのに」と呟きながら玄関に向かった。
おばさんならすぐに戻ってくるはず。それによく聞こえないけれど叫び声が聞こえる。
何かあったのかもしれないと思い、私も玄関に向かった。
「あつしくんどうしたの?なんだか騒がしいけど、誰が来ているの?」
風に乗って香水の匂いがふわりと香る。
この香水の香りは女性物。おばさんは香水などつけないので、別の人物であるのは確かだけど、この匂い、どこかで嗅いだ事がある気がする。
多分私はこの香水を付けている女性を知っている。確信はもてないけど、会いたいとは思わない人物だということは分かる。
「しゅ・・・・・瞬さん・・・・」
動揺したような声。やはり何かあったのだろう。
「お久しぶりです小野先生。うちのこと分かりますか?」
訛った日本語。イントネーションからするとこれは関西弁。
私の知り合いの中で関西弁を話すのは一人しかいない。この話しかた、そしてこの香水の匂い、そうだ、やはり彼女だ。彼女しかいない。彼女以外に考えられない。
でも、どうして彼女がここにいるのだろう。
会うことなどもうないと思っていたはずなのに、完全に縁を切ったはずなのに、どうしてなのか分からなかった。
「瞬さん・・・・・・」
心配そうな声であつしくんは私の側に近寄ろうとするが、私は彼を避けてしまった。
動揺している。彼女が家に来た事で私は酷く動揺している。
幾ら落ち着こうと思っても落ち着けない。考えたくない、もう、何も考えたくない。
逃げたい。今すぐこの場から逃げ出したい。
「だいじょうぶ・・・・大丈夫だから瞬さん、落ち着いて・・・・・・姉貴、少しでいいから外で待っていてくれないか?」
動揺する私を落ち着かせようとあつしくんは何かを聞かせたくないの私の耳を塞ぐように私を抱き寄せた。
耳を塞がれた事であつしくんが彼女に何か言ったような感じがしたけれど、あつしくんは彼女の事を知っている様子だった。
一体彼女とあつしくんはどういう関係なのかと思ったけど、今の私はそういう状態ではなかった。
「そうやね。そうしたほうがよさそうやな。あつし、先生の事落ち着かせたらでええから、わかってんやろな」
「分かってるよ。どうせ車できてんだろ?車の中で待っててくれ。瞬さんを落ち着かせたらすぐにいくから」
彼は動揺する私を抱き寄せた状態で私の部屋ではなく二階にあるあつしくんの部屋に連れて来られ、ベッドの上に座らされた。
「瞬さん、もう大丈夫です・・・・ですので落ち着いてください」
「・・・・・・・・・」
既に私の精神は口が聞けないような状態まで陥ってしまっていた。
「瞬さん、俺がついています。何があっても瞬さんの側から離れませんから、どうか戻ってきてください」
ギュッと守るように彼は私を抱きしめ、それから何か唇に柔らかいものが一瞬触れられたような気がするけど、その時はそれが何かなのか分からなかった。
次第に私は、正気を取り戻し、彼に何をされたのかという事を理解したが、言葉にはならなかった。ずっと黙ったままだった。顔を真っ赤にして。
「瞬さん、好きです。たとえ瞬さんの過去に何があったのかは聞きませんが俺、瞬さんのことが好きです」
「・・・・ありがとう。でも、今はあつしくんの気持ちは受け取れない・・・」
今は受け取ることが出来ないけど、いずれその気持ちを受け取りたい。
私だっていつの間にかあつしくんの事が気になって仕方がないけど、もう少しまってほしい。今の私にあつしくんの気持ちを受け取る資格など何処にもない。
「瞬さん、黙っていてすいません・・・俺・・・・・」
「情けないね私は・・・・・うすうす気が付いていたのに、あんなに動揺してしまって、分かっていたつもりだったのに・・・・・」
「・・・・・え?」
「行って、連れて来てくれる彼女・・・・いや、君のお姉さんを・・・乃木下敦美さんを私の元に・・・」
それが今の私に与えられた試練なのかも知れない。
いつまでも逃げ出していたら一生このまま何もしないで人生を終わってた。
あつしくんにも会えなかったかもしれない。
彼女が何の目的でこの家に訪れたのかは知らないけど、逃げていたら過去を乗り越える事など出来ない。いつまでも縛られたままになってしまう。
「いいのですか?瞬さん・・・・・追い返してもいいのですよ?」
「いいの。だから連れてきてくれる?」
心配そうに私を見つめてくるけど、少し黙ってからあつしくんは部屋を出て行き彼の姉である乃木下敦美さんを迎えにいった。
「これで・・・・いいんだよね・・・・」
彼は私が小野旬爛である事を初めから知っていた。分かっていたから一緒に住んでいる間証拠を探そうとしなかった。
彼の側には私が小野旬爛であるという事をよく知っている人物がいたのだから、探さなくても分かっていた。
そして、私も彼が敦美さんの実の弟だという事に気がついていた。気がついたのは、ずいぶん後からだったけど、その真実を認めたくなかったから、見ないようにしていた。
でも、もうその現実を受け止めなければならない。覚悟を決めなければならない。
「瞬さん、姉貴を連れてきました」
あつしくんが敦美さんを連れて戻ってきた。
もう、動揺などしない。私の側にはあつしくんがいてくれるからきっと大丈夫と思い、まだ少し動揺しているのだろうか、震える手をギュッと握り締めた。
「・・・・・瞬さん、大丈夫ですか?顔色悪いですよ」
心配して私に寄り添い、手を握ってくれた。
彼に手を握られると、なぜか安心感を覚え、手の震えが止まった。
もう大丈夫と思い、気を引き締め、彼女と向き合った。
「・・・・・お久しぶりです。二年ぶりですね敦美さん・・・・」
「先生、変わりましたね。さっきここに来る前にあつしにきいたんやけど、なんやあの頃と雰囲気がちごうとりますわ。顔もあの頃よりずっと穏やかや」
二年ぶりに会う彼女。気の強そうな感じはまったく変わっていない。
「姉貴、それをいいにここに来たんじゃねーだろ?」
「そうやな。うちがここにきたんは、愚弟の詫びを先生にしにきただけや」
「あつし・・・くんの詫びですか?」
彼女はかつて私が小野旬爛としていた頃、私の担当編集者だったけど、今はそういう関係でここに来たのではなく、姉としてここにやって来たということが分かった。
「この度は我愚弟がご迷惑をおかけして大変申し訳ありません!」
さっきまで関西弁を話していたと思えば急に標準語になって謝られてしまった。
「な・・・なんだよ姉貴。俺は別に瞬さんに迷惑なんかかけてねーよ」
お姉さんと一緒にいるからなのか、あつしくんの言葉遣いも私と話しているときとまったく違う。少し荒っぽい感じだ。
普段聞くことがないあつしくんの喋りをきけて少し嬉しいけど、気を使っているのだと言うことも同時に分かってしまった。
「まぁまぁあつしくん。お姉さんにお茶を淹れてあげて。私のもお願いしてもいい?」
「・・・・わ・・・・わかりました、すぐに淹れてきます!姉貴、瞬さんに何か変なこと言えばたとえ姉貴でも容赦しねーから!」
やっぱり、私と敦美さんとでは言葉遣いが違う。
少し不機嫌な感じでお茶を淹れるために部屋を出て行ったけれど、
「あんなあつし、初めて見たわ。よっぽど先生の事気にいってんやね・・・本当にすんません・・・・」
「こちらこそすいません。あつしくんが敦美さんの弟だと知っていたのに、何も知らせないで・・・・ですが、あつしくんを責めないであげてください。あつしくんがいてくれたことで私はこうやって敦美さんに会うことが出来たのですから・・・・」
あつしくんがいなければこうして彼女と面して会えなかった。会ったとしても今日以上に取り乱していたかもしれない。
すべて彼がいたことで私は変わることが出来た。
「でも、どうして彼が私の家にいることが分かったのですか?」
色々話していてどうして敦美さんはあつしくんがこの家にいると分かったのだろうと疑問に思った。
「原稿です。うちはあつしの担当やありまへんけど、あつしの担当が言ってきたんです。幾らあつしの携帯に電話しても電源を落としたままで一向にでーへん。なのに、定められた期限からずっと遅れてプロットがファックスで送られてきたのにたいして、ネームは期限内にファックスで送られてきたから、可笑しいから、どうにか連絡を取れないかとうちに言ってきたんです」
それだけでは居場所など特定は出来ないと思う。
敦美さんは何か確信があって私の所にあつしくんが来ていないかと思い訪ねてきたら、大当たりだったと言うわけだ。
流石あつしくんのお姉さん。弟の行動はお見通しというわけだったということだけど、ふと疑問に思ってしまった。
敦美さんは元々私の担当をしていたから家が分かるとして、どうしてあつしくんは私の家が分かったのだろう。たとえ姉弟であっても、個人の情報は秘密主義なので教えられないはず。
「それは、俺が姉貴の手帳から瞬さんの住所を勝手に見たからです。律儀に瞬さんの本名と、ペンネームの両方書いていました」
口に出して言ったつもりがなかったのに、お茶を淹れて戻ってきたあつしくんにはどうやら私の考えていた事が筒抜けだった。
「やっぱあんたやったんや!道理であれが何処にもないと思ったわ!はよ出し、あんたが持ってんやろ!」
「持ってるよ。でも姉貴に渡すつもりなんてないし、今ここで出そうとも思わない。これは出せる時期になったら出そうと思ってる」
敦美さんがあつしくんに何を出せといっているのかまったく分からない。ただ自分に関することかもしれないということは何となく二人の雰囲気で分かる。
「あんたが持っててもしかたないやろ。あんたは何もわかってないんやから!」
「絶対に姉貴なんかにあれは渡さねーよ!それに姉貴よりも分かってるつもりだよ、だから俺は今まで何も言わなかったんだ!」
姉弟喧嘩に他人の私が割って入れるものでもないので、黙って聞いているけれど、次第に喧嘩がエスカレートしている気がする。
「何処に隠したんや。あんたが言わんかったら、うちが勝手に探して見つける。それに客室だったこの部屋をあんたが使ってるみたいやし、問題ないやろ」
「勝手な事すんじゃねーよ姉貴!あれは絶対に渡さねー・・・たとえ姉貴に何をされてもあれは渡すつもりなんてねーし、探させるつもりもねー」
必死に何かを隠そうとしている。何をそんなに隠そうとしているのかは分からないけれど、これ以上喧嘩がエスカレートすると取っ組み合いまでいきそうな勢いだ。
男であるあつしくんは姉である以前に女性である敦美のことは殴ったりするようなことはないとは思うけど、敦美さんの場合相手が誰であろうとすぐに手を出してしまう傾向がある。
「・・・・・・・探すも何も、もうええわ。うちが悪かったわ。あんたの気持ちよう分かった・・・・」
いい加減止めたほうがいいかと思っていたときに、突然敦美さんが折れた。
一度行動に決めた事は何があっても貫き通し、折れないのが敦美さんの性格のはずなのに、先に折れるなど考えられなかった。
何か考えがあって折れたのかも知れない。敦美さんの性格を考えるとそれ以外に考える事が出来ない。
「本当にごめんな・・・・・お茶、くれるか?冷めててもええわ」
「あ・・・・姉貴・・・・」
気がついてしまった。これはあつしくんを油断させるための作戦。
敦美さんはあつしくんが何処に隠したのか既に分かっているのだろう。だから、この作戦は相手の事をよく知っていなければならない。まだあつしくんは敦美さんが考えている作戦の事に気がついてないらしいが、明らかにこれが作戦だという事が私には分かってしまった。
「あ・・・あつ・・・・」
「まんまとひっかかったなあつし!」
油断しきっていたのだろう。お茶を敦美さんに渡そうとしたときだった。何かが引っ張られてブチッっと紐みたいなものが切れる音がした。
多分あつしくんの首にかけてあったものを取ったのだろう。
気がついていたのに気づかせて上げられなかった。叫ぼうとした時には既に遅かった。
「これはちゃんと返してもらったよ。こんな単純な手にひっかかるやなんてまだまだやね」
「か・・・・返せ・・・・返せよ・・・・返せっていってるだろ姉貴!」
取られまいと思っていたものが取られてしまったので、完全に切れてしまっていた。
もう、止められないかも知れない。彼の怒りが痛いほど伝わってくる。
本気だ。本気で彼は怒っている。
「返せと言われてもこれはあんたのもんじゃない!だから返さへん!」
「ふざけんな!返せって言ってんだろ!」
本気で怒りを敦美さんにぶつけているけど、取り合いになっているだけで、手は一切出してはいないけど、やっぱりエスカレートしている。
「絶対にいやや!あんたなんかにこれはわたさへ・・・・・・あっ・・・・」
何かが床に落ちる音が聞こえた。貴金属らしい音が聞こえたけれど、あつしくんと敦美さんはアクセサリーか何かを取り合っていたのだろうか。
何が二人をここまでそうさせる物は何なのだろう。それがあるから、二人は喧嘩をしてしまう。二人を喧嘩させないためにはどうしたらいいのだろうと思い、床に落ちたものを拾おうとした。
「瞬さん、それを拾ってはだめです!」
「先生、それを拾わんとってください!」
ほぼ同時に二人は叫んだ。
どうしても床に落ちた物を私に拾わせたくなかったのだろうけど、もう私は拾ってしまった。
触った感じではアクセサリーみたいだけど、少し違うような感じもする。
シルバーや金、プラチナといった貴金属の手触りではない。重さもアクセサリーにしたら少し重い感じがする。
それに何だかこれを知っている気がする。だから、すごくこれが何なのか知りたくない。
これはあれなのか。でも、あれはとっくの昔に捨てたはずなのに、どうしてこんな所にあるのだろう。
「瞬さん、それを俺に渡してください、お願いします」
「先生うちからもお願いします。それをあつしに渡してやってください」
二人の慌てよう。やはり私に大きく関するものだった。
「・・・・・・・どうして?これは・・・・・私のではないの?」
今すぐこれを捨てたい。目に付かない場所に捨て去りたい。
こんな物ここにあっては駄目だ。あってはならない物。
だけど、ここにあるからには簡単には捨てられない。現実を受け止めなければならない。
息苦しい。でも、耐えなければ、何も超える事など出来ない。
「・・・・・敦美・・・・さん・・・・・」
「は・・・・はい!」
捨てたはずの物がここにあるということは、拾った人物がいるはず。
「こ・・・これを・・・・拾ったのは・・・・貴方・・・ですよね敦美さん・・・」
これの事を知っているのは私の担当をしていた敦美さん以外に考えられない。
あつしくんもこれの事を知っているみたいだけど、それはどうでもいい。
今知りたいのはどうしてこれがあるかということだ。
「・・・・・先生の言うとおり、それを拾ったのはうちや。でも、勘違いしんといてください。それを拾ったのは先生のためです」
「わたしの・・・・・ため・・・・?」
何が私の為なのだろう。
もう私は小野筍爛ではない。小野筍爛など存在しない。してはならない。
「そうです。うちはもう一度先生に小説を書いて欲しいとおもとります。ですから、先生がそれを捨てられた時に、いつか後悔されはるんではないかと思い、拾ってずっと持っていたんやけど・・・・・」
「あ・・・・あつしくんが・・・持っていったと・・・・・」
「姉貴、余計な事を勝手に言うんじゃねーよ!」
「うるさい、あんたは黙っとき!」
もう私は小説を書きたいと思っても書くことなどできない。字が見えないのに書くことなど出来るはずがない。だからこれを捨てた。捨てたことに後悔などしていない。
後悔していたらいつまでも私は小野旬爛を捨てる事が出来ず、ずっとこれをもったままだったかもしれない。
私はもう、小野筍爛を捨て、小野瞬介としていようと、これを捨てた時に決めた。だからこれが邪魔だった。
「ほんとに後悔されとりまへんか?」
「・・・・・・」
後悔などしていないはずなのに、返事が出来なかった。
「瞬さん、もういいです。この話はやめましょう。姉貴もういいだろ!これ以上瞬さんを傷つけないでくれよ!」
まるで何かから庇うように抱きしめ、敦美さんを責めた。
「あつし、あんたが先生の事を尊敬してんのは前から知ってた。うちが持ってた先生の本を面白そうに読んでていつか先生の書く小説の表紙か挿絵を描きたいといってなかったか?・・・それやのに、あんたはいいんか?もう一度先生は小説を書くことができんやで!それをあんた、無にするんか?」
「そ・・・・それは・・・・・」
二人の会話がまったくついていくことが出来ない。
もう一度小説を書くことが出来るとか、無にするとか、一体何の事なのだろう。何が何だか分からない。
自分はもう、話を考える事は出来ても、書くことなど出来ない。出来るはずがない。
一度は考えた事を誰かに書かせようかとも考えたけれど、それでは私が書いたものにはならない。自分の手で書くしか意味がない。だから字もみることも出来ない私にもう一度小説など書くことなど出来はしない。
「・・・・大丈夫ですよ・・・・姉貴が言った事など気にしないでください。瞬さんは今のままでいいんですから・・・・」
ギュッと私を優しく抱きしめていた力が一層強くなった。
気にしないでと言ったけれど、その悲しそうな声を聞くと気にしてしまう。
敦美さんは小野旬爛を尊敬していると言っていた。敦美さんも私にもう一度小説を書いて欲しいといっていたけれど、あつしくんも敦美さんと同様、私に小説を書いて欲しいのだろうか。
もし敦美さんの言うとおりもう一度小説を書くことが出来るなら彼の為に書いてあげたい。
でも、小説を書くことが出来たとしても、今の私に小説を書くという勇気がない。書くことがすごく怖い。字が見えないのが怖い。
怖いけど、もう逃げたくない。いつまでも現実から逃げていたら、できることも出来ない。
今は無理でも、いつかできればと思い、私はある事を決心した。
それに敦美さんがこの家に来た時点で私が小野筍爛である証拠をあつしくん突きつけれれているので、丁度いい機会だとおもった。
あつしくんに私の全てを知って欲しかった。
「・・・あ・・・あつしくん・・・・」
「は・・・・はい?どうしたんですか瞬さん」
「腕、離してもらっても・・・いいかな?」
彼の腕の中はすごく温かかった。ずっと腕の中にいたいと思ったけれど、こうやって彼に守られていたらいつまでも私は現実から逃げていて駄目になってしまう気がした。
次に彼の腕の中にいるときは、今の自分の気持ちを整理してからだと思っている。そうしなければ、全てが無になってしまうから。
「あつしくん、敦美さん。ちょっと私について来てくれますか?」
そういうと私は敦君の部屋を出てとある部屋の前にやって来た。
「せ・・・先生ここは・・・・・・」
驚いている様子だった。
まさか私もここに来るなどと思っていなかった。
今私がいるのはかつて私が小野筍爛としていた時に使用していた仕事部屋。そして手に持っているのは、捨てたものだと思っていた物。この部屋を開けるための唯一の鍵。
信じたくはないけれど、今こうしてこれが再び私の手に戻ってきたということは、もう一度この部屋で小説を書いて欲しいからこれが巡り巡って私の手に戻ってきたのかも知れない。
これは運命なのかも知れない。そして私はこの運命を受け入れなければならない。だから、運命を受け入れるために私は、震える手を必死に押さえて、部屋の鍵を開け、扉を開いた。
「・・・・す・・・・すごい・・・・ここが瞬さんの・・・筍爛先生の仕事部屋?」
部屋の扉を開けたとき、ずっと閉めたきりでいたため、カビの匂いと埃っぽい匂いが混ざって部屋中充満していた。
部屋がどういった状態になっているのか見ることは出来ないけれど、あの時のままであれば、資料に使っていた本が棚の中に直されることもなく、机の上で山積みにされていたり、印刷された書きかけの小説が床の上に散らばっているはず。
「瞬さん、瞬さん、この本は何ですか?あっ、これも、これも俺が知らないタイトルばかりある・・・・一体どんな話なんだろう・・・・」
彼に取ればこの部屋は宝箱なのかも知れない。
「あつし、ええがげんにしいや!部屋のもん勝手にさわんやない!」
「す・・・・すいません瞬さん・・・俺・・・すごく嬉しくて・・・その・・・・」
小野筍爛を尊敬している彼なら嬉しいのは当たり前なのかも知れない。
この部屋にある小野筍爛の本の中には既に絶版になってしまった物や書物かはされたけれど、一般販売されていない本が少なかれある。
未完成の作品や、ボツにされた作品もこの部屋にはたくさんある。
自分からこの部屋に彼らを招いたのだから、読みたければ読んでもらっても構わないし、欲しいのなら上げてもいいと思う。でも、その前に私はこの部屋に来たのだからあつしくんに聞いてもらいたい事があった。
「欲しい本があるなら上げるよ。でも、その前に、あつしくんに、聞いて欲しい事があるんだけど、いいかな?」
「え?くれるのですか?でも、ここにある本って・・・・」
価値があるものもあると思う。
絶版となった本をもう一度再販したいたと言われたこともあったけど、断ってしまったので、一部のファンの間では幻の本と呼ばれ、オークションでも高値で売られているらしいが、著作権が何だとかいって、大問題になっていたらしいが、その時はどうでもいいと思っていた。
再販の話はいずれ考えてもう一度出せたらいいと思うけど、今はそれよりも、あつしくんに聞いて欲しいと思うことがあった。
「あつし、あんた人の話聞いてるんか?先生があんたに聞いて欲しい事があるって言ってるやろ?」
「いで・・・いででで・・・耳・・・姉貴みみ!」
人の話を聞かないので敦美さんがあつしくんの耳を強く引っ張ったのだろう。
引っ張れられているのを想像するととても痛そうだ。
「毎度毎度すんません先生。うちがようゆうて言う事聞かせますんで、許してやってつかあさい」
「頭を上げてください敦美さん。別に私は気にしていませんから」
言う事を聞かないのはもう知っている。だから、気にはしていない。
「いってよ・・・・・・・・瞬さん、俺に聞いて欲しい事って何ですか?もしかしてこの部屋と関係があるのですか?」
「ちょっとね、あつしくんに昔話を聞いてもらえたらって・・・・・」
デビュー前から私の事をずっとサポートをしてくれた敦美さんなら全て知っているけれど、あつしくんは知らないだろう。
だからあつしくんに私の過去を小野筍爛としていた頃の事を聞いてもらおうと私はこの部屋に彼を連れてくる前に決めていた。
ちゃんと過去と向き合って話せるかは分からないけれど、あつしくんに聞いてもらいたい。聞いてもらって私という存在を知ってもらいたい。だから私は封印したかった過去を彼に話した。
ゴミ袋がいっぱいになるほど何度も何度も描き直していたみたいだけど、ようやく納得のできるネームに仕上がったみたいだ。
それから三日が経った。
元々あつしくんは私が小野旬爛だという証拠を探すために一緒に住む事になったけれど、あつしくんがこの家に住むようになってからもう半月は経っているのに一向に証拠を探そうとはせず、ここにいて当たり前のように私との生活に馴染んでいる。
証拠を探さないなら私はそのほうがいい。
ずっと、今の状態が続けばいいのにと思っていたけれど、そうはいかなかった。
「どうぞ瞬さん、今日はミントのハーブティーとジンジャークッキーにしてみました」
ここ数日あつしくんはハーブティーに凝っている。クッキーもあつしくんの手作りだったりするが、突然あつしくんがこのような事をするようになったのは、全てあつしくんをおばさんに紹介してからだったりする。
一度道を教えるために店にあつしくんを連れて行ったのはいいけれど、それから買い物だといっておばさんに会いに行き、何か色々と貰ったり上げたりするようになっていた。
私はあつしくんのしたいようにしてくれていいと思っているけど、いつの間にか家の裏庭に数種類のハーブが植えられている。
おばさんから苗を貰ったから植えたといっていた。それからよく三時にハーブティーが出されるようになった。
普段飲み慣れないから飲んだときに美味しいとは言ったけど、こんなによく出されるとは思っていなかった。
ピンポーン
「あれ?誰か来たみたいだね。あつしくん、ごめんだけど出てもらってもいい?」
夕方店を閉めるとおばさんが来る事があるので、あつしくんは「おばさんだったらいいのに」と呟きながら玄関に向かった。
おばさんならすぐに戻ってくるはず。それによく聞こえないけれど叫び声が聞こえる。
何かあったのかもしれないと思い、私も玄関に向かった。
「あつしくんどうしたの?なんだか騒がしいけど、誰が来ているの?」
風に乗って香水の匂いがふわりと香る。
この香水の香りは女性物。おばさんは香水などつけないので、別の人物であるのは確かだけど、この匂い、どこかで嗅いだ事がある気がする。
多分私はこの香水を付けている女性を知っている。確信はもてないけど、会いたいとは思わない人物だということは分かる。
「しゅ・・・・・瞬さん・・・・」
動揺したような声。やはり何かあったのだろう。
「お久しぶりです小野先生。うちのこと分かりますか?」
訛った日本語。イントネーションからするとこれは関西弁。
私の知り合いの中で関西弁を話すのは一人しかいない。この話しかた、そしてこの香水の匂い、そうだ、やはり彼女だ。彼女しかいない。彼女以外に考えられない。
でも、どうして彼女がここにいるのだろう。
会うことなどもうないと思っていたはずなのに、完全に縁を切ったはずなのに、どうしてなのか分からなかった。
「瞬さん・・・・・・」
心配そうな声であつしくんは私の側に近寄ろうとするが、私は彼を避けてしまった。
動揺している。彼女が家に来た事で私は酷く動揺している。
幾ら落ち着こうと思っても落ち着けない。考えたくない、もう、何も考えたくない。
逃げたい。今すぐこの場から逃げ出したい。
「だいじょうぶ・・・・大丈夫だから瞬さん、落ち着いて・・・・・・姉貴、少しでいいから外で待っていてくれないか?」
動揺する私を落ち着かせようとあつしくんは何かを聞かせたくないの私の耳を塞ぐように私を抱き寄せた。
耳を塞がれた事であつしくんが彼女に何か言ったような感じがしたけれど、あつしくんは彼女の事を知っている様子だった。
一体彼女とあつしくんはどういう関係なのかと思ったけど、今の私はそういう状態ではなかった。
「そうやね。そうしたほうがよさそうやな。あつし、先生の事落ち着かせたらでええから、わかってんやろな」
「分かってるよ。どうせ車できてんだろ?車の中で待っててくれ。瞬さんを落ち着かせたらすぐにいくから」
彼は動揺する私を抱き寄せた状態で私の部屋ではなく二階にあるあつしくんの部屋に連れて来られ、ベッドの上に座らされた。
「瞬さん、もう大丈夫です・・・・ですので落ち着いてください」
「・・・・・・・・・」
既に私の精神は口が聞けないような状態まで陥ってしまっていた。
「瞬さん、俺がついています。何があっても瞬さんの側から離れませんから、どうか戻ってきてください」
ギュッと守るように彼は私を抱きしめ、それから何か唇に柔らかいものが一瞬触れられたような気がするけど、その時はそれが何かなのか分からなかった。
次第に私は、正気を取り戻し、彼に何をされたのかという事を理解したが、言葉にはならなかった。ずっと黙ったままだった。顔を真っ赤にして。
「瞬さん、好きです。たとえ瞬さんの過去に何があったのかは聞きませんが俺、瞬さんのことが好きです」
「・・・・ありがとう。でも、今はあつしくんの気持ちは受け取れない・・・」
今は受け取ることが出来ないけど、いずれその気持ちを受け取りたい。
私だっていつの間にかあつしくんの事が気になって仕方がないけど、もう少しまってほしい。今の私にあつしくんの気持ちを受け取る資格など何処にもない。
「瞬さん、黙っていてすいません・・・俺・・・・・」
「情けないね私は・・・・・うすうす気が付いていたのに、あんなに動揺してしまって、分かっていたつもりだったのに・・・・・」
「・・・・・え?」
「行って、連れて来てくれる彼女・・・・いや、君のお姉さんを・・・乃木下敦美さんを私の元に・・・」
それが今の私に与えられた試練なのかも知れない。
いつまでも逃げ出していたら一生このまま何もしないで人生を終わってた。
あつしくんにも会えなかったかもしれない。
彼女が何の目的でこの家に訪れたのかは知らないけど、逃げていたら過去を乗り越える事など出来ない。いつまでも縛られたままになってしまう。
「いいのですか?瞬さん・・・・・追い返してもいいのですよ?」
「いいの。だから連れてきてくれる?」
心配そうに私を見つめてくるけど、少し黙ってからあつしくんは部屋を出て行き彼の姉である乃木下敦美さんを迎えにいった。
「これで・・・・いいんだよね・・・・」
彼は私が小野旬爛である事を初めから知っていた。分かっていたから一緒に住んでいる間証拠を探そうとしなかった。
彼の側には私が小野旬爛であるという事をよく知っている人物がいたのだから、探さなくても分かっていた。
そして、私も彼が敦美さんの実の弟だという事に気がついていた。気がついたのは、ずいぶん後からだったけど、その真実を認めたくなかったから、見ないようにしていた。
でも、もうその現実を受け止めなければならない。覚悟を決めなければならない。
「瞬さん、姉貴を連れてきました」
あつしくんが敦美さんを連れて戻ってきた。
もう、動揺などしない。私の側にはあつしくんがいてくれるからきっと大丈夫と思い、まだ少し動揺しているのだろうか、震える手をギュッと握り締めた。
「・・・・・瞬さん、大丈夫ですか?顔色悪いですよ」
心配して私に寄り添い、手を握ってくれた。
彼に手を握られると、なぜか安心感を覚え、手の震えが止まった。
もう大丈夫と思い、気を引き締め、彼女と向き合った。
「・・・・・お久しぶりです。二年ぶりですね敦美さん・・・・」
「先生、変わりましたね。さっきここに来る前にあつしにきいたんやけど、なんやあの頃と雰囲気がちごうとりますわ。顔もあの頃よりずっと穏やかや」
二年ぶりに会う彼女。気の強そうな感じはまったく変わっていない。
「姉貴、それをいいにここに来たんじゃねーだろ?」
「そうやな。うちがここにきたんは、愚弟の詫びを先生にしにきただけや」
「あつし・・・くんの詫びですか?」
彼女はかつて私が小野旬爛としていた頃、私の担当編集者だったけど、今はそういう関係でここに来たのではなく、姉としてここにやって来たということが分かった。
「この度は我愚弟がご迷惑をおかけして大変申し訳ありません!」
さっきまで関西弁を話していたと思えば急に標準語になって謝られてしまった。
「な・・・なんだよ姉貴。俺は別に瞬さんに迷惑なんかかけてねーよ」
お姉さんと一緒にいるからなのか、あつしくんの言葉遣いも私と話しているときとまったく違う。少し荒っぽい感じだ。
普段聞くことがないあつしくんの喋りをきけて少し嬉しいけど、気を使っているのだと言うことも同時に分かってしまった。
「まぁまぁあつしくん。お姉さんにお茶を淹れてあげて。私のもお願いしてもいい?」
「・・・・わ・・・・わかりました、すぐに淹れてきます!姉貴、瞬さんに何か変なこと言えばたとえ姉貴でも容赦しねーから!」
やっぱり、私と敦美さんとでは言葉遣いが違う。
少し不機嫌な感じでお茶を淹れるために部屋を出て行ったけれど、
「あんなあつし、初めて見たわ。よっぽど先生の事気にいってんやね・・・本当にすんません・・・・」
「こちらこそすいません。あつしくんが敦美さんの弟だと知っていたのに、何も知らせないで・・・・ですが、あつしくんを責めないであげてください。あつしくんがいてくれたことで私はこうやって敦美さんに会うことが出来たのですから・・・・」
あつしくんがいなければこうして彼女と面して会えなかった。会ったとしても今日以上に取り乱していたかもしれない。
すべて彼がいたことで私は変わることが出来た。
「でも、どうして彼が私の家にいることが分かったのですか?」
色々話していてどうして敦美さんはあつしくんがこの家にいると分かったのだろうと疑問に思った。
「原稿です。うちはあつしの担当やありまへんけど、あつしの担当が言ってきたんです。幾らあつしの携帯に電話しても電源を落としたままで一向にでーへん。なのに、定められた期限からずっと遅れてプロットがファックスで送られてきたのにたいして、ネームは期限内にファックスで送られてきたから、可笑しいから、どうにか連絡を取れないかとうちに言ってきたんです」
それだけでは居場所など特定は出来ないと思う。
敦美さんは何か確信があって私の所にあつしくんが来ていないかと思い訪ねてきたら、大当たりだったと言うわけだ。
流石あつしくんのお姉さん。弟の行動はお見通しというわけだったということだけど、ふと疑問に思ってしまった。
敦美さんは元々私の担当をしていたから家が分かるとして、どうしてあつしくんは私の家が分かったのだろう。たとえ姉弟であっても、個人の情報は秘密主義なので教えられないはず。
「それは、俺が姉貴の手帳から瞬さんの住所を勝手に見たからです。律儀に瞬さんの本名と、ペンネームの両方書いていました」
口に出して言ったつもりがなかったのに、お茶を淹れて戻ってきたあつしくんにはどうやら私の考えていた事が筒抜けだった。
「やっぱあんたやったんや!道理であれが何処にもないと思ったわ!はよ出し、あんたが持ってんやろ!」
「持ってるよ。でも姉貴に渡すつもりなんてないし、今ここで出そうとも思わない。これは出せる時期になったら出そうと思ってる」
敦美さんがあつしくんに何を出せといっているのかまったく分からない。ただ自分に関することかもしれないということは何となく二人の雰囲気で分かる。
「あんたが持っててもしかたないやろ。あんたは何もわかってないんやから!」
「絶対に姉貴なんかにあれは渡さねーよ!それに姉貴よりも分かってるつもりだよ、だから俺は今まで何も言わなかったんだ!」
姉弟喧嘩に他人の私が割って入れるものでもないので、黙って聞いているけれど、次第に喧嘩がエスカレートしている気がする。
「何処に隠したんや。あんたが言わんかったら、うちが勝手に探して見つける。それに客室だったこの部屋をあんたが使ってるみたいやし、問題ないやろ」
「勝手な事すんじゃねーよ姉貴!あれは絶対に渡さねー・・・たとえ姉貴に何をされてもあれは渡すつもりなんてねーし、探させるつもりもねー」
必死に何かを隠そうとしている。何をそんなに隠そうとしているのかは分からないけれど、これ以上喧嘩がエスカレートすると取っ組み合いまでいきそうな勢いだ。
男であるあつしくんは姉である以前に女性である敦美のことは殴ったりするようなことはないとは思うけど、敦美さんの場合相手が誰であろうとすぐに手を出してしまう傾向がある。
「・・・・・・・探すも何も、もうええわ。うちが悪かったわ。あんたの気持ちよう分かった・・・・」
いい加減止めたほうがいいかと思っていたときに、突然敦美さんが折れた。
一度行動に決めた事は何があっても貫き通し、折れないのが敦美さんの性格のはずなのに、先に折れるなど考えられなかった。
何か考えがあって折れたのかも知れない。敦美さんの性格を考えるとそれ以外に考える事が出来ない。
「本当にごめんな・・・・・お茶、くれるか?冷めててもええわ」
「あ・・・・姉貴・・・・」
気がついてしまった。これはあつしくんを油断させるための作戦。
敦美さんはあつしくんが何処に隠したのか既に分かっているのだろう。だから、この作戦は相手の事をよく知っていなければならない。まだあつしくんは敦美さんが考えている作戦の事に気がついてないらしいが、明らかにこれが作戦だという事が私には分かってしまった。
「あ・・・あつ・・・・」
「まんまとひっかかったなあつし!」
油断しきっていたのだろう。お茶を敦美さんに渡そうとしたときだった。何かが引っ張られてブチッっと紐みたいなものが切れる音がした。
多分あつしくんの首にかけてあったものを取ったのだろう。
気がついていたのに気づかせて上げられなかった。叫ぼうとした時には既に遅かった。
「これはちゃんと返してもらったよ。こんな単純な手にひっかかるやなんてまだまだやね」
「か・・・・返せ・・・・返せよ・・・・返せっていってるだろ姉貴!」
取られまいと思っていたものが取られてしまったので、完全に切れてしまっていた。
もう、止められないかも知れない。彼の怒りが痛いほど伝わってくる。
本気だ。本気で彼は怒っている。
「返せと言われてもこれはあんたのもんじゃない!だから返さへん!」
「ふざけんな!返せって言ってんだろ!」
本気で怒りを敦美さんにぶつけているけど、取り合いになっているだけで、手は一切出してはいないけど、やっぱりエスカレートしている。
「絶対にいやや!あんたなんかにこれはわたさへ・・・・・・あっ・・・・」
何かが床に落ちる音が聞こえた。貴金属らしい音が聞こえたけれど、あつしくんと敦美さんはアクセサリーか何かを取り合っていたのだろうか。
何が二人をここまでそうさせる物は何なのだろう。それがあるから、二人は喧嘩をしてしまう。二人を喧嘩させないためにはどうしたらいいのだろうと思い、床に落ちたものを拾おうとした。
「瞬さん、それを拾ってはだめです!」
「先生、それを拾わんとってください!」
ほぼ同時に二人は叫んだ。
どうしても床に落ちた物を私に拾わせたくなかったのだろうけど、もう私は拾ってしまった。
触った感じではアクセサリーみたいだけど、少し違うような感じもする。
シルバーや金、プラチナといった貴金属の手触りではない。重さもアクセサリーにしたら少し重い感じがする。
それに何だかこれを知っている気がする。だから、すごくこれが何なのか知りたくない。
これはあれなのか。でも、あれはとっくの昔に捨てたはずなのに、どうしてこんな所にあるのだろう。
「瞬さん、それを俺に渡してください、お願いします」
「先生うちからもお願いします。それをあつしに渡してやってください」
二人の慌てよう。やはり私に大きく関するものだった。
「・・・・・・・どうして?これは・・・・・私のではないの?」
今すぐこれを捨てたい。目に付かない場所に捨て去りたい。
こんな物ここにあっては駄目だ。あってはならない物。
だけど、ここにあるからには簡単には捨てられない。現実を受け止めなければならない。
息苦しい。でも、耐えなければ、何も超える事など出来ない。
「・・・・・敦美・・・・さん・・・・・」
「は・・・・はい!」
捨てたはずの物がここにあるということは、拾った人物がいるはず。
「こ・・・これを・・・・拾ったのは・・・・貴方・・・ですよね敦美さん・・・」
これの事を知っているのは私の担当をしていた敦美さん以外に考えられない。
あつしくんもこれの事を知っているみたいだけど、それはどうでもいい。
今知りたいのはどうしてこれがあるかということだ。
「・・・・・先生の言うとおり、それを拾ったのはうちや。でも、勘違いしんといてください。それを拾ったのは先生のためです」
「わたしの・・・・・ため・・・・?」
何が私の為なのだろう。
もう私は小野筍爛ではない。小野筍爛など存在しない。してはならない。
「そうです。うちはもう一度先生に小説を書いて欲しいとおもとります。ですから、先生がそれを捨てられた時に、いつか後悔されはるんではないかと思い、拾ってずっと持っていたんやけど・・・・・」
「あ・・・・あつしくんが・・・持っていったと・・・・・」
「姉貴、余計な事を勝手に言うんじゃねーよ!」
「うるさい、あんたは黙っとき!」
もう私は小説を書きたいと思っても書くことなどできない。字が見えないのに書くことなど出来るはずがない。だからこれを捨てた。捨てたことに後悔などしていない。
後悔していたらいつまでも私は小野旬爛を捨てる事が出来ず、ずっとこれをもったままだったかもしれない。
私はもう、小野筍爛を捨て、小野瞬介としていようと、これを捨てた時に決めた。だからこれが邪魔だった。
「ほんとに後悔されとりまへんか?」
「・・・・・・」
後悔などしていないはずなのに、返事が出来なかった。
「瞬さん、もういいです。この話はやめましょう。姉貴もういいだろ!これ以上瞬さんを傷つけないでくれよ!」
まるで何かから庇うように抱きしめ、敦美さんを責めた。
「あつし、あんたが先生の事を尊敬してんのは前から知ってた。うちが持ってた先生の本を面白そうに読んでていつか先生の書く小説の表紙か挿絵を描きたいといってなかったか?・・・それやのに、あんたはいいんか?もう一度先生は小説を書くことができんやで!それをあんた、無にするんか?」
「そ・・・・それは・・・・・」
二人の会話がまったくついていくことが出来ない。
もう一度小説を書くことが出来るとか、無にするとか、一体何の事なのだろう。何が何だか分からない。
自分はもう、話を考える事は出来ても、書くことなど出来ない。出来るはずがない。
一度は考えた事を誰かに書かせようかとも考えたけれど、それでは私が書いたものにはならない。自分の手で書くしか意味がない。だから字もみることも出来ない私にもう一度小説など書くことなど出来はしない。
「・・・・大丈夫ですよ・・・・姉貴が言った事など気にしないでください。瞬さんは今のままでいいんですから・・・・」
ギュッと私を優しく抱きしめていた力が一層強くなった。
気にしないでと言ったけれど、その悲しそうな声を聞くと気にしてしまう。
敦美さんは小野旬爛を尊敬していると言っていた。敦美さんも私にもう一度小説を書いて欲しいといっていたけれど、あつしくんも敦美さんと同様、私に小説を書いて欲しいのだろうか。
もし敦美さんの言うとおりもう一度小説を書くことが出来るなら彼の為に書いてあげたい。
でも、小説を書くことが出来たとしても、今の私に小説を書くという勇気がない。書くことがすごく怖い。字が見えないのが怖い。
怖いけど、もう逃げたくない。いつまでも現実から逃げていたら、できることも出来ない。
今は無理でも、いつかできればと思い、私はある事を決心した。
それに敦美さんがこの家に来た時点で私が小野筍爛である証拠をあつしくん突きつけれれているので、丁度いい機会だとおもった。
あつしくんに私の全てを知って欲しかった。
「・・・あ・・・あつしくん・・・・」
「は・・・・はい?どうしたんですか瞬さん」
「腕、離してもらっても・・・いいかな?」
彼の腕の中はすごく温かかった。ずっと腕の中にいたいと思ったけれど、こうやって彼に守られていたらいつまでも私は現実から逃げていて駄目になってしまう気がした。
次に彼の腕の中にいるときは、今の自分の気持ちを整理してからだと思っている。そうしなければ、全てが無になってしまうから。
「あつしくん、敦美さん。ちょっと私について来てくれますか?」
そういうと私は敦君の部屋を出てとある部屋の前にやって来た。
「せ・・・先生ここは・・・・・・」
驚いている様子だった。
まさか私もここに来るなどと思っていなかった。
今私がいるのはかつて私が小野筍爛としていた時に使用していた仕事部屋。そして手に持っているのは、捨てたものだと思っていた物。この部屋を開けるための唯一の鍵。
信じたくはないけれど、今こうしてこれが再び私の手に戻ってきたということは、もう一度この部屋で小説を書いて欲しいからこれが巡り巡って私の手に戻ってきたのかも知れない。
これは運命なのかも知れない。そして私はこの運命を受け入れなければならない。だから、運命を受け入れるために私は、震える手を必死に押さえて、部屋の鍵を開け、扉を開いた。
「・・・・す・・・・すごい・・・・ここが瞬さんの・・・筍爛先生の仕事部屋?」
部屋の扉を開けたとき、ずっと閉めたきりでいたため、カビの匂いと埃っぽい匂いが混ざって部屋中充満していた。
部屋がどういった状態になっているのか見ることは出来ないけれど、あの時のままであれば、資料に使っていた本が棚の中に直されることもなく、机の上で山積みにされていたり、印刷された書きかけの小説が床の上に散らばっているはず。
「瞬さん、瞬さん、この本は何ですか?あっ、これも、これも俺が知らないタイトルばかりある・・・・一体どんな話なんだろう・・・・」
彼に取ればこの部屋は宝箱なのかも知れない。
「あつし、ええがげんにしいや!部屋のもん勝手にさわんやない!」
「す・・・・すいません瞬さん・・・俺・・・すごく嬉しくて・・・その・・・・」
小野筍爛を尊敬している彼なら嬉しいのは当たり前なのかも知れない。
この部屋にある小野筍爛の本の中には既に絶版になってしまった物や書物かはされたけれど、一般販売されていない本が少なかれある。
未完成の作品や、ボツにされた作品もこの部屋にはたくさんある。
自分からこの部屋に彼らを招いたのだから、読みたければ読んでもらっても構わないし、欲しいのなら上げてもいいと思う。でも、その前に私はこの部屋に来たのだからあつしくんに聞いてもらいたい事があった。
「欲しい本があるなら上げるよ。でも、その前に、あつしくんに、聞いて欲しい事があるんだけど、いいかな?」
「え?くれるのですか?でも、ここにある本って・・・・」
価値があるものもあると思う。
絶版となった本をもう一度再販したいたと言われたこともあったけど、断ってしまったので、一部のファンの間では幻の本と呼ばれ、オークションでも高値で売られているらしいが、著作権が何だとかいって、大問題になっていたらしいが、その時はどうでもいいと思っていた。
再販の話はいずれ考えてもう一度出せたらいいと思うけど、今はそれよりも、あつしくんに聞いて欲しいと思うことがあった。
「あつし、あんた人の話聞いてるんか?先生があんたに聞いて欲しい事があるって言ってるやろ?」
「いで・・・いででで・・・耳・・・姉貴みみ!」
人の話を聞かないので敦美さんがあつしくんの耳を強く引っ張ったのだろう。
引っ張れられているのを想像するととても痛そうだ。
「毎度毎度すんません先生。うちがようゆうて言う事聞かせますんで、許してやってつかあさい」
「頭を上げてください敦美さん。別に私は気にしていませんから」
言う事を聞かないのはもう知っている。だから、気にはしていない。
「いってよ・・・・・・・・瞬さん、俺に聞いて欲しい事って何ですか?もしかしてこの部屋と関係があるのですか?」
「ちょっとね、あつしくんに昔話を聞いてもらえたらって・・・・・」
デビュー前から私の事をずっとサポートをしてくれた敦美さんなら全て知っているけれど、あつしくんは知らないだろう。
だからあつしくんに私の過去を小野筍爛としていた頃の事を聞いてもらおうと私はこの部屋に彼を連れてくる前に決めていた。
ちゃんと過去と向き合って話せるかは分からないけれど、あつしくんに聞いてもらいたい。聞いてもらって私という存在を知ってもらいたい。だから私は封印したかった過去を彼に話した。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】抱っこからはじまる恋
* ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります。
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまのコンテストに応募しているお話に、真紀ちゃん(攻)視点を追加して、倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
バイト先に元カレがいるんだが、どうすりゃいい?
cheeery
BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき)
ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。
「そうだ、バイトをしよう!」
一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。
教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった!
なんで元カレがここにいるんだよ!
俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。
「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」
「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」
なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ!
もう一度期待したら、また傷つく?
あの時、俺たちが別れた本当の理由は──?
「そろそろ我慢の限界かも」
借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる
水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。
「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」
過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。
孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
完結|好きから一番遠いはずだった
七角@書籍化進行中!
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。
しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。
なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。
…はずだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる