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 プゥーーーーンッ


「ねぇ、ママ。蚊がいるよっ」

 部屋の中で蚊の羽音が聞こえるけれど、全然見つからない。捕まえたら、絶対潰してやろうと思っているのにこちらのことを苛立たせるように、音がして周りを探すと遠くに行ってしまい、じーっと蚊を探して集中していると、後ろから羽音を鳴らせて逃げてしまう。

「ああっ、イライライするっ!!!」

 将来はすり減らしてほとんどなくなってしまう豊かな感情も、小さかったこの頃は豊かだったので怒りを露わにして地団駄を踏む。

 プシューーーーーッ

 ママがスプレーを笑顔で撒く。

 ポタッ

「あっ、いたっ」

 蚊が床に落ちたのを確認する。
 ぴくぴくしているのを見て、ざまみろと思った。

「ありがとう、ママッ」

 僕は抱き着く。
 自分から積極的に触れに行くのはこの頃までだったかもしれない。

「ねー、ねー、なんであいつらは変な声で鳴くの?おちょくってるの?」

 僕が顔をあげて、飛び跳ねながらママに尋ねる。

「あれは、鳴いているじゃなくて羽の音よ。はおとって言うの」

「はーと?」

「ふふ、は・お・とよ」

「はおと、ね」

 僕の頭を撫でてくれるママ。物事を覚えればママに褒められると思って、「羽音」という言葉をしっかりと覚えようと思ったし、知識が増えることは褒められる、素晴らしいことだと感じた。

「あとね、変な音がするように感じるのは、蚊とか、蜂は人間にとって危険な存在だって身体や頭が知っているからよ」

「えっ、どうしよう。僕刺されちゃった」

 僕が頭を抱えて涙目になると、母はしゃがんでもう一度頭を撫でてくれる。

「だいじょーぶ。今は昔と違ってお薬があるから。ほら、注射を打つでしょ?」

 注射のことを思い出すと、僕は背中がゾゾゾってなり、鳥肌が立った。

「注射嫌い・・・」

「ふふふっ。ママも昔は嫌いだったわ。だけどね、注射のおかげでこんなに丈夫よ。だから、ユーゴも強くなるために注射は打たないとね」

「強くなる・・・ため」

「そうよ、強くなるためよ」

 僕はその言葉を反芻して、自分の心にゆっくりと染み渡らせた。ママはそんな僕を優しく温かい目で見守ってくれていた。

「うん、わかった。僕たくさん注射を打って強くなるっ!!」

「うーん、注射の打ち過ぎは身体に負担がかかって、そうね、逆に弱くなっちゃうかな」

「えーーーっ」

 がっかりする僕の頭を再び撫でるママ。

「でも、偉いわね。注射が怖くないなんて」

「うん、だって、僕強くなって、勇者になってみんなを助けるんだ」

 絵本だったか、漫画だったか、ゲームだったかそこら辺はよく覚えていない。
 けれど、僕はかっこいいヒーロー。勇者に憧れていた。

「ええ。あなたならきっとなれるわ。素敵な勇者に」

 そう言って、微笑んでいた母の顔は今でも心に残っている。
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