上 下
6 / 24

ハートのクイーンの意味 ヤンデレ一歩手前のマジシャン×あの子

しおりを挟む

「タネも仕掛けもありません」

手品師が常套句のように言うこの言葉は手品を始める合図であり、観客の目を自分の手元へ引き付けるための言葉でもある。
僕が働いているのは、お酒を嗜みながら手品も近くで見ることができる「マジックバー」だ。
そのため、消失イリュージョンや火薬を使った派手な手品はできないが、観客の反応を目の前で見ることができるのがこのバーの魅力であると思っている。

そう、今僕の目の前にいる女性を近くで見ることができる。

彼女は照明を落としているこの場でも分かるほどきらきらと瞳を輝かせている。
彼女は数ヵ月前からここのバーに来るようになった。
ここの常連客の男性が、彼女を連れてきたのだった。

コンセプトバーどころか、酒の社交場であるバーに来ること自体初めてな様子で、キョロキョロ周りを見る姿はとても可愛らしかった覚えがある。
けれど、一度僕の手品を見せたら、お酒を飲むのを忘れて食い入るように真剣に手品を見て、手品が終われば「こんな近くでマジックを見たの初めてです!こんなに楽しいんですね」とにこにこしていた。
他の観客は酒や会話を楽しみつつ手品を見ることがほとんどなので彼女の言葉は本当に嬉しかった。

そして、彼女は僕にとって特別な観客になった。

いつ来るのか待って待って待ってやっと今日来てくれた。
会いたかった。
貴女に僕の手品を見てほしかった。
貴女の名前が知りたい。

思わず出そうになる声を抑えて、常套句を言う。

「タネも仕掛けもありません」

手品が始まれば、彼女はいつものようにこちらを真剣に見る。
彼女に見られるようになってから、一種の興奮を覚えた僕は震えそうになる手を抑えて手品を進めていく。

今日は彼女の名前を知るための手品を用意してある。

「今日は特別に新しい手品をお見せ致しましょう」

そう言えば彼女は嬉しそうにこちらを見る。

「ここから一枚お好きなカードを取ってください。僕に見えないようにしてくださいね」

サッとトランプカードを伏せて並べる。
彼女は少し悩んだ後、一枚カードを引く。

「では、そのカードにこのペンで貴女のお名前を書いて、トランプに戻してお好きなだけカードをシャッフルしてください。引いたカードの数字は覚えていてくださいね」

「僕は後ろを向きますので、終わったら教えてください」と言えば、背後でカードがシャッフルされる音がする。

「終わりました」

彼女の声がした後、振り返ると目の前には束にまとめられたトランプがある。
それを手に取り、また伏せて並べて見せる。
彼女からも僕からもカードの表は見えない。

「では、ここからが本番です。あなたが選んだカードの数字を当てて、さらにそのカードをこの付せてあるガラスのコップに入れましょう」

「えっ…」

彼女が驚いたように声を漏らした。
そんなことが出来るのか、と思っているのだろう。
にこりと笑って目を瞑り、考えて悩んでいる芝居をした後に、ゆっくり目を開けて数字を告げる。

「スペードのキングではないですか?」

そう彼女に問いかけると小さく息を飲んだ後に、「そうです。スペードのキングです」と上ずった声で言う。

「では、このガラスのコップにそれを移動させましょう」

黒い布を被せて、念じる芝居をする。そして、布を取ると、伏せていたコップの中にカードが一枚入っている。
伏せたままのコップを彼女の方へスライドさせる。

「確認してみてください」

おそるおそるコップの中からカードを出して彼女は確認する。

「合ってます!私の選んだカードです」

小さく、「すごい…」と呟く彼女へもうひとつ手品を見せよう。

「実は、シャッフルしてもらった時に貴女の服のポケットにあるカードを入れています。確認していただけますか?」

彼女は自分の服の両ポケットを確認する。

「本当だ…」

感嘆の声を上げて、彼女はカードをまじまじと見る。

彼女へ渡したのはハートのクイーンのカードだ。

「そのカードは宜しければ貴女に差し上げます」

「え、良いんですか?」

「えぇ、手品にご協力頂いた御礼です」

「ありがとうございます!」

彼女は気がつかない。
最後のマジックに彼女が気をとられているうちに、僕が彼女の名前が書かれたカードを自分の方へ引き寄せたことなんて。
そんなこと知らずに、今日も彼女は満足したようににこにこと笑って帰っていった。



閉店した後、僕は決まってマスターから一杯酒を奢ってもらう。
好みを熟知しているマスターが作るお酒は、いつ飲んでも美味しいけれど、今日は特別に美味しく感じた。

「マスター、今日も美味しいです」

静かにコップを拭くマスターは僕の方をゆるりと見て言った。

「お前、今日も来たあのお嬢さんの名前を知ってどうするつもりだ?」

ばれないように注意を払っていたが、ばれてしまっていたか。
確かに、観客にカードを引かせて、何かを書かせる時はだいたい好きな数字か、星マークなどだ。
名前を書かせたのは彼女が初めてだったから、そこを不思議に思われたのだろう。

「いやぁ、常連の方が連れてきた方ですから、お名前くらい知っておかないと失礼かと思いまして」

笑ってごまかすように言えば「そうかよ」と鼻で笑ってマスターはまたコップを拭きはじめた。

店のマスターでもあり、手品の師匠でもあるこの人には勝てないな、とほっと息を吐いた。

でも、それでも今日はとても楽しかった。
衣装のポケットの中には彼女が触れて、彼女の名前が書かれたカードがある。

きっとまた彼女は店に来てくれる。今度はどうやって彼女のことを知ろうか。

楽しくて楽しくて、僕はどうにかなってしまいそうだった。

あぁ、でも彼女に伝えるのを忘れてしまった。


ハートのクイーンのカードが意味するのは「愛される女性」だということを。

 
しおりを挟む

処理中です...