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家斉の御伽の屋代富五郎は意知の遭難を不謹慎にも喜んでみせる小姓の細井正房を窘めるものの、正房から一人ぼっちの富五郎と小馬鹿にされる。
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「いや、畏れ多くも東照神君家康公におかせられても、田沼の如き下賤、卑賤なる筋目の者に、それも父子揃うて詣でられても大迷惑と申すものにて、されば愚息・山城めが佐野善左衛門なる新番士に斬られしは奇貨と申すものにて、泉下の家康公もきっとお喜びあそばされているに違いない…、いや、佐野善左衛門は畏れ多くも東照神君家康公が穢されるのを防ぎし大明神よ…」
正房は意知が斬られたことが余程に嬉しいらしく、そう暴言を吐く始末であった。
そしてそれは正房だけではない。山名本次郎と松本熊蔵にしても同様であり、正房の暴言に二人は実に満足気な様子にて何度も頷いたものである。
「流石にそれは言い過ぎと申すものではござりますまいか?」
偶々、その傍を通り掛った屋代富五郎忠辰が舌足らずな口調でそう注意した。
だが正房がそれで殊勝にも反省することはなく、それどころか富五郎を揶揄する始末であった。
「おお、これは誰かと思うたら一人ぼっちの富五郎ではあるまいか」
正房のその言葉に、富五郎は羞恥のあまり思わず俯いた。
富五郎は家斉の御側近くに仕える御伽衆の一人であった。
家斉の御伽衆はこの屋代富五郎を含めて現在4人いた。
皆、家斉と同年輩であり、その中でも富五郎は13歳と、最年長である14の松平小八郎定経に次ぐ。
だが、富五郎を除く3人の御伽衆、即ち、最年長の松平小八郎とそれに加藤寅之助則茂と横田鶴松松茂が今から3年前の天明元(1781)年の閏5月2日に家斉の伽に取り立てられたのに対して、屋代富五郎はと言うと、遅れること2年、つまりは去年の天明3(1783)年9月14日に新たに家斉の伽に加わった、謂わば新参者であった。
それゆえ富五郎はどうしても、古参とも言うべき松平小八郎たちから、
「爪弾き…」
それにされ勝ちであった。
いや、加藤寅之助と横田鶴松の二人は本心では富五郎を爪弾きになどしたくはなかった。
だが松平小八郎がそれを許さなかった。
小八郎は14と御伽衆の中でも最年長であり、それに加えて、久松松平の流れを汲む名族の出身であり、畢竟、押し出しが強く、そうなると年下の、今は12の加藤寅之助と横田鶴松の二人はこれまた、
「畢竟…」
小八郎に従う格好となった。さしずめ小八郎は、
「いじめ集団のボス…」
といったところであろうか。
そしてそんな小八郎は名族出身にあり勝ちな、
「狷介…」
そのような性格の持ち主でもあった。
小八郎の場合、己よりも家格が低いとなると、その者が例え、年上であろうとも慇懃無礼な、いや、無礼な態度で接する。
だが逆に己よりも家格が高い家柄出身の者ともなると、その者が年下であろうとも敬うのを常としていた。
それゆえこれで加藤寅之助と横田鶴松の二人が小八郎よりも高い家格を誇る家柄の出身であったならば、小八郎も年下である寅之助と鶴松の二人を敬ったであろうが、生憎、寅之助にしろ鶴松にしろ、それなりの家格を誇る家柄の生まれではあるものの、しかし、久松松平の流れを汲む小八郎には及ばなかった。
それゆえ小八郎も己よりも家格で劣る寅之助と鶴松の二人を見下し、そして年下であることとも相俟って、まるで己の子分の如く扱い、それに対して寅之助も鶴松も唯々諾々と随っていた。
そんな小八郎にとって「新参者」である屋代富五郎は正しく、
「格好のいじめのターゲット…」
その瞳にはそう映ったに違いない。
屋代富五郎もまた、久松松平の流れを汲む小八郎程の家柄を誇るわけではないが、しかし、屋代家と言えば清和源氏頼清流の流れを汲み、宇多源氏とは言え佐々木庶流の流れを汲む横田鶴松や藤原氏利仁流の流れを汲む加藤寅之助よりも高い家格を誇る。
そうであれば何よりも家柄、血筋といったものを重視する狷介なる小八郎としてはその屋代家に生まれた富五郎を寅之助や鶴松と同様、
「子分…」
として随わせることはあり得ても、
「いじめのターゲット…」
それにすることはあり得ない筈であった。
だが実際には小八郎は屋代富五郎を「いじめのターゲット」にし、寅之助と鶴松をそれに随わせていた。
それはとりもなおさず富五郎は屋代家の生まれではない、つまりは屋代の血を引いてはいないことに遠因があった。
富五郎は実は江戸城本丸にて将軍・家治の御側近くに仕える御側衆の津田日向守信之の五男として生まれ、それが嫡子に恵まれなかった屋代左門忠良に請われて、富五郎は屋代家の養嗣子として迎えられたのであった。
そして富五郎の実家とも言うべき津田家だが、一応は平氏清盛流の流れを汲んではいることにはなっていたものの、実際にはそう自称しているに過ぎなかった。
富五郎の実家である津田家は実際には小八郎が忌み嫌う、
「どこぞの馬の骨とも分からぬ…」
そのような家柄であり、それが富五郎の実父たる信之の実姉、つまりは伯母の千穂が将軍・家治の側室として家基という男児までなしたことがあったために、津田家は今や、
「押しも押されもせぬ…」
5千石もの大身旗本としてその名を轟かせていた。
それゆえ名族である屋代家の当主である左門忠良も津田家のその低い門地には目を瞑って、富五郎を養嗣子として迎え入れたのであった。津田家が5千石もの大身旗本だから、ということもあるが、それ以上に、
「津田一族の中に千穂という将軍・家治の愛妾がいるから…」
その「オプション」に心惹かれたからだ。
将軍・家治の愛妾である千穂の甥に当たる富五郎を屋代家の、いや、己の養嗣子として迎え入れれば己の立身出世の道も開ける…、左門はそう考えて、富五郎を養嗣子として迎え入れたのであった。
そして富五郎を養嗣子として迎え入れた「効き目」は早々と表れた。
即ち、屋代左門が富五郎を養嗣子として迎え入れたのは今から11年前の安永2(1773)年の初頭のことであったのだが、すると左門はいきなり従六位の布衣役である小納戸に取り立てられたのであった。
それまで左門は廩米3千俵取の無役の旗本として寄合にて待命中、つまりは「ニート」として仕事に就けるのを待っていたところ、その当時はまだ2歳に過ぎなかった、将軍・家治の愛妾である千穂の甥に当たる富五郎を養嗣子として迎え入れるや否や、いきなり小納戸に取り立てられた仕儀であり、左門はこの養嗣子である富五郎に大いに感謝したものである。
ともあれそういうわけで富五郎は実際には名族である屋代の血が流れてはおらず、それどころか、
「どこぞの馬の骨とも分からぬ…」
下賤、卑賤なる血を引いているというわけで、新参者であるということとも相俟って、松平小八郎はこの屋代富五郎を「いじめのターゲット」に据えては、富五郎を爪弾きにし、それに加藤寅之助と横田鶴松の二人を随せていたのだ。小八郎は富五郎のその出自について把握していたからだ。
そして富五郎が小八郎らに爪弾きにされていることは細井正房も良く承知していたので、そこで己の暴言を、
「生意気にも…」
窘めた富五郎に対して、
「一人ぼっちの富五郎…」
そう揶揄しては富五郎を俯かせたのであった。
正房は意知が斬られたことが余程に嬉しいらしく、そう暴言を吐く始末であった。
そしてそれは正房だけではない。山名本次郎と松本熊蔵にしても同様であり、正房の暴言に二人は実に満足気な様子にて何度も頷いたものである。
「流石にそれは言い過ぎと申すものではござりますまいか?」
偶々、その傍を通り掛った屋代富五郎忠辰が舌足らずな口調でそう注意した。
だが正房がそれで殊勝にも反省することはなく、それどころか富五郎を揶揄する始末であった。
「おお、これは誰かと思うたら一人ぼっちの富五郎ではあるまいか」
正房のその言葉に、富五郎は羞恥のあまり思わず俯いた。
富五郎は家斉の御側近くに仕える御伽衆の一人であった。
家斉の御伽衆はこの屋代富五郎を含めて現在4人いた。
皆、家斉と同年輩であり、その中でも富五郎は13歳と、最年長である14の松平小八郎定経に次ぐ。
だが、富五郎を除く3人の御伽衆、即ち、最年長の松平小八郎とそれに加藤寅之助則茂と横田鶴松松茂が今から3年前の天明元(1781)年の閏5月2日に家斉の伽に取り立てられたのに対して、屋代富五郎はと言うと、遅れること2年、つまりは去年の天明3(1783)年9月14日に新たに家斉の伽に加わった、謂わば新参者であった。
それゆえ富五郎はどうしても、古参とも言うべき松平小八郎たちから、
「爪弾き…」
それにされ勝ちであった。
いや、加藤寅之助と横田鶴松の二人は本心では富五郎を爪弾きになどしたくはなかった。
だが松平小八郎がそれを許さなかった。
小八郎は14と御伽衆の中でも最年長であり、それに加えて、久松松平の流れを汲む名族の出身であり、畢竟、押し出しが強く、そうなると年下の、今は12の加藤寅之助と横田鶴松の二人はこれまた、
「畢竟…」
小八郎に従う格好となった。さしずめ小八郎は、
「いじめ集団のボス…」
といったところであろうか。
そしてそんな小八郎は名族出身にあり勝ちな、
「狷介…」
そのような性格の持ち主でもあった。
小八郎の場合、己よりも家格が低いとなると、その者が例え、年上であろうとも慇懃無礼な、いや、無礼な態度で接する。
だが逆に己よりも家格が高い家柄出身の者ともなると、その者が年下であろうとも敬うのを常としていた。
それゆえこれで加藤寅之助と横田鶴松の二人が小八郎よりも高い家格を誇る家柄の出身であったならば、小八郎も年下である寅之助と鶴松の二人を敬ったであろうが、生憎、寅之助にしろ鶴松にしろ、それなりの家格を誇る家柄の生まれではあるものの、しかし、久松松平の流れを汲む小八郎には及ばなかった。
それゆえ小八郎も己よりも家格で劣る寅之助と鶴松の二人を見下し、そして年下であることとも相俟って、まるで己の子分の如く扱い、それに対して寅之助も鶴松も唯々諾々と随っていた。
そんな小八郎にとって「新参者」である屋代富五郎は正しく、
「格好のいじめのターゲット…」
その瞳にはそう映ったに違いない。
屋代富五郎もまた、久松松平の流れを汲む小八郎程の家柄を誇るわけではないが、しかし、屋代家と言えば清和源氏頼清流の流れを汲み、宇多源氏とは言え佐々木庶流の流れを汲む横田鶴松や藤原氏利仁流の流れを汲む加藤寅之助よりも高い家格を誇る。
そうであれば何よりも家柄、血筋といったものを重視する狷介なる小八郎としてはその屋代家に生まれた富五郎を寅之助や鶴松と同様、
「子分…」
として随わせることはあり得ても、
「いじめのターゲット…」
それにすることはあり得ない筈であった。
だが実際には小八郎は屋代富五郎を「いじめのターゲット」にし、寅之助と鶴松をそれに随わせていた。
それはとりもなおさず富五郎は屋代家の生まれではない、つまりは屋代の血を引いてはいないことに遠因があった。
富五郎は実は江戸城本丸にて将軍・家治の御側近くに仕える御側衆の津田日向守信之の五男として生まれ、それが嫡子に恵まれなかった屋代左門忠良に請われて、富五郎は屋代家の養嗣子として迎えられたのであった。
そして富五郎の実家とも言うべき津田家だが、一応は平氏清盛流の流れを汲んではいることにはなっていたものの、実際にはそう自称しているに過ぎなかった。
富五郎の実家である津田家は実際には小八郎が忌み嫌う、
「どこぞの馬の骨とも分からぬ…」
そのような家柄であり、それが富五郎の実父たる信之の実姉、つまりは伯母の千穂が将軍・家治の側室として家基という男児までなしたことがあったために、津田家は今や、
「押しも押されもせぬ…」
5千石もの大身旗本としてその名を轟かせていた。
それゆえ名族である屋代家の当主である左門忠良も津田家のその低い門地には目を瞑って、富五郎を養嗣子として迎え入れたのであった。津田家が5千石もの大身旗本だから、ということもあるが、それ以上に、
「津田一族の中に千穂という将軍・家治の愛妾がいるから…」
その「オプション」に心惹かれたからだ。
将軍・家治の愛妾である千穂の甥に当たる富五郎を屋代家の、いや、己の養嗣子として迎え入れれば己の立身出世の道も開ける…、左門はそう考えて、富五郎を養嗣子として迎え入れたのであった。
そして富五郎を養嗣子として迎え入れた「効き目」は早々と表れた。
即ち、屋代左門が富五郎を養嗣子として迎え入れたのは今から11年前の安永2(1773)年の初頭のことであったのだが、すると左門はいきなり従六位の布衣役である小納戸に取り立てられたのであった。
それまで左門は廩米3千俵取の無役の旗本として寄合にて待命中、つまりは「ニート」として仕事に就けるのを待っていたところ、その当時はまだ2歳に過ぎなかった、将軍・家治の愛妾である千穂の甥に当たる富五郎を養嗣子として迎え入れるや否や、いきなり小納戸に取り立てられた仕儀であり、左門はこの養嗣子である富五郎に大いに感謝したものである。
ともあれそういうわけで富五郎は実際には名族である屋代の血が流れてはおらず、それどころか、
「どこぞの馬の骨とも分からぬ…」
下賤、卑賤なる血を引いているというわけで、新参者であるということとも相俟って、松平小八郎はこの屋代富五郎を「いじめのターゲット」に据えては、富五郎を爪弾きにし、それに加藤寅之助と横田鶴松の二人を随せていたのだ。小八郎は富五郎のその出自について把握していたからだ。
そして富五郎が小八郎らに爪弾きにされていることは細井正房も良く承知していたので、そこで己の暴言を、
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