野獣 横田源太郎

ご隠居

文字の大きさ
5 / 11

家斉の御伽の屋代富五郎は意知の遭難を不謹慎にも喜んでみせる小姓の細井正房を窘めるものの、正房から一人ぼっちの富五郎と小馬鹿にされる。

しおりを挟む
「いや、おそおおくも東照とうしょう神君しんくん家康いえやす公におかせられても、田沼たぬまごと下賤げせん卑賤ひせんなる筋目すじめの者に、それも父子ふしそろうてもうでられても大迷惑だいめいわくと申すものにて、されば愚息ぐそく山城やましろめが佐野さの善左衛門ぜんざえもんなる新番士しんばんしられしは奇貨きかと申すものにて、泉下せんか家康いえやす公もきっとおよろこびあそばされているにちがいない…、いや、佐野さの善左衛門ぜんざえもんおそおおくも東照とうしょう神君しんくん家康いえやす公がけがされるのをふせぎし大明神だいみょうじんよ…」

 正房まさふさ意知おきともられたことが余程よほどうれしいらしく、そう暴言ぼうげん始末しまつであった。

 そしてそれは正房まさふさだけではない。山名やまな本次郎もとじろう松本まつもと熊蔵くまぞうにしても同様どうようであり、正房まさふさ暴言ぼうげんに二人は実に満足気まんぞくげ様子ようすにて何度なんどうなずいたものである。

流石さすがにそれはぎともうすものではござりますまいか?」

 偶々たまたま、そのそばとおかかった屋代やしろ富五郎とみごろう忠辰ただとき舌足したたらずな口調くちょうでそう注意ちゅういした。

 だが正房まさふさがそれで殊勝しゅしょうにも反省はんせいすることはなく、それどころか富五郎とみごろう揶揄やゆする始末しまつであった。

「おお、これはだれかとおもうたら一人ひとりぼっちの富五郎とみごろうではあるまいか」

 正房まさふさのその言葉に、富五郎とみごろう羞恥しゅうちのあまりおもわずうつむいた。

 富五郎とみごろう家斉いえなり御側おそばちかくにつかえる御伽おとぎしゅうの一人であった。

 家斉いえなり御伽おとぎしゅうはこの屋代やしろ富五郎とみごろうふくめて現在げんざい4人いた。

 みな家斉いえなり同年輩どうねんぱいであり、その中でも富五郎とみごろうは13歳と、最年長さいねんちょうである14の松平まつだいら小八郎こはちろう定経さだつねぐ。

 だが、富五郎とみごろうのぞく3人の御伽おとぎしゅうすなわち、最年長さいねんちょう松平まつだいら小八郎こはちろうとそれに加藤かとう寅之助とらのすけ則茂のりもち横田よこた鶴松つるまつ松茂とししげが今から3年前の天明元(1781)年のうるう5月2日に家斉いえなりとぎてられたのに対して、屋代やしろ富五郎とみごろうはと言うと、おくれること2年、つまりは去年きょねんの天明3(1783)年9月14日にあらたに家斉いえなりとぎくわわった、わば新参者しんざんものであった。

 それゆえ富五郎とみごろうはどうしても、古参こさんとも言うべき松平まつだいら小八郎こはちろうたちから、

爪弾つまはじき…」

 それにされちであった。

 いや、加藤かとう寅之助とらのすけ横田よこた鶴松つるまつの二人は本心ほんしんでは富五郎とみごろう爪弾つまはじきになどしたくはなかった。

 だが松平まつだいら小八郎こはちろうがそれをゆるさなかった。

 小八郎こはちろうは14と御伽おとぎしゅうなかでも最年長さいねんちょうであり、それにくわえて、久松ひさまつ松平まつだいらながれを名族めいぞく出身しゅっしんであり、畢竟ひっきょうしがつよく、そうなると年下とししたの、今は12の加藤かとう寅之助とらのすけ横田よこた鶴松つるまつの二人はこれまた、

畢竟ひっきょう…」

 小八郎こはちろうしたが格好かっこうとなった。さしずめ小八郎こはちろうは、

「いじめ集団しゅうだんのボス…」

 といったところであろうか。

 そしてそんな小八郎こはちろう名族めいぞく出身しゅっしんにありちな、

狷介けんかい…」

 そのような性格せいかくぬしでもあった。

 小八郎こはちろう場合ばあいおのれよりも家格かかくひくいとなると、そのものたとえ、年上としうえであろうとも慇懃いんぎん無礼ぶれいな、いや、無礼ぶれい態度たいどせっする。

 だがぎゃくおのれよりも家格かかくたか家柄いえがら出身しゅっしんものともなると、そのもの年下とししたであろうともうやまうのをつねとしていた。

 それゆえこれで加藤かとう寅之助とらのすけ横田よこた鶴松つるまつの二人が小八郎こはちろうよりもたか家格かかくほこ家柄いえがら出身しゅっしんであったならば、小八郎こはちろう年下とししたである寅之助とらのすけ鶴松つるまつの二人をうやまったであろうが、生憎あいにく寅之助とらのすけにしろ鶴松つるまつにしろ、それなりの家格かかくほこ家柄いえがらまれではあるものの、しかし、久松ひさまつ松平まつだいらながれを小八郎こはちろうにはおよばなかった。

 それゆえ小八郎こはちろうおのれよりも家格かかくおと寅之助とらのすけ鶴松つるまつの二人を見下みくだし、そして年下とししたであることとも相俟あいまって、まるでおのれ子分こぶんごとあつかい、それに対して寅之助とらのすけ鶴松つるまつ唯々諾々いいだくだくしたがっていた。

 そんな小八郎こはちろうにとって「新参者しんざもの」である屋代やしろ富五郎とみごろうまさしく、

格好かっこうのいじめのターゲット…」

 そのひとみにはそううつったにちがいない。

 屋代やしろ富五郎とみごろうもまた、久松ひさまつ松平まつだいらながれを小八郎こはちろうほど家柄いえがらほこるわけではないが、しかし、屋代やしろ家と言えば清和せいわ源氏げんじ頼清よりきよ流のながれをみ、宇多源氏うだげんじとは言え佐々木ささき庶流しょりゅうながれを横田よこた鶴松つるまつ藤原氏ふじわらし利仁としひと流のながれを加藤かとう寅之助とらのすけよりもたか家格かかくほこる。

 そうであれば何よりも家柄いえがら血筋ちすじといったものを重視じゅうしする狷介けんかいなる小八郎こはちろうとしてはその屋代やしろ家にまれた富五郎とみごろう寅之助とらのすけ鶴松つるまつ同様どうよう

子分こぶん…」

 としてしたがわせることはありても、

「いじめのターゲット…」

 それにすることはありないはずであった。

 だが実際じっさいには小八郎こはちろう屋代やしろ富五郎とみごろうを「いじめのターゲット」にし、寅之助とらのすけ鶴松つるまつをそれにしたがわせていた。

 それはとりもなおさず富五郎とみごろう屋代やしろ家のまれではない、つまりは屋代やしろいてはいないことに遠因えんいんがあった。

 富五郎とみごろうじつは江戸城本丸ほんまるにて将軍・家治の御側おそばちかくにつかえる御側おそばしゅう津田つだ日向守ひゅうがのかみ信之のぶゆき五男ごなんとしてまれ、それが嫡子ちゃくしめぐまれなかった屋代やしろ左門さもん忠良ただかたわれて、富五郎とみごろう屋代やしろ家の養嗣子ようししとしてむかえられたのであった。

 そして富五郎とみごろう実家じっかとも言うべき津田つだ家だが、一応いちおう平氏へいし清盛きよもり流のながれをんではいることにはなっていたものの、実際じっさいにはそう自称じしょうしているにぎなかった。

 富五郎とみごろう実家じっかである津田つだ家は実際じっさいには小八郎こはちろうきらう、

「どこぞのうまほねともからぬ…」

 そのような家柄いえがらであり、それが富五郎とみごろう実父じっぷたる信之のぶゆき実姉じっし、つまりは伯母おば千穂ちほが将軍・家治の側室そくしつとして家基いえもとという男児だんじまでなしたことがあったために、津田つだ家は今や、

しもされもせぬ…」

 5千石もの大身たいしん旗本はたもととしてそのとどろかせていた。

 それゆえ名族めいぞくである屋代やしろ家の当主とうしゅである左門さもん忠良ただかた津田つだ家のそのひく門地もんちにはつぶって、富五郎とみごろう養嗣子ようししとしてむかれたのであった。津田つだ家が5千石もの大身たいしん旗本はたもとだから、ということもあるが、それ以上に、

津田つだ一族いちぞくの中に千穂ちほという将軍・家治の愛妾あいしょうがいるから…」

 その「オプション」にこころかれたからだ。

 将軍・家治の愛妾あいしょうである千穂ちほおいたる富五郎とみごろう屋代やしろ家の、いや、おのれ養嗣子ようししとしてむかれればおのれ立身りっしん出世しゅっせみちひらける…、左門さもんはそうかんがえて、富五郎とみごろう養嗣子ようししとしてむかれたのであった。

 そして富五郎とみごろう養嗣子ようししとしてむかれた「」は早々はやばやあらわれた。

 すなわち、屋代やしろ左門さもん富五郎とみごろう養嗣子ようししとしてむかれたのは今から11年前の安永2(1773)年の初頭しょとうのことであったのだが、すると左門さもんはいきなり従六位じゅろくい布衣ほい役である小納戸こなんどてられたのであった。

 それまで左門さもん廩米りんまい3千俵取の無役むやく旗本はたもととして寄合よりあいにて待命たいめい中、つまりは「ニート」として仕事しごとけるのをっていたところ、その当時とうじはまだ2歳にぎなかった、将軍・家治の愛妾あいしょうである千穂ちほおいたる富五郎とみごろう養嗣子ようししとしてむかれるやいなや、いきなり小納戸こなんどてられた仕儀しぎであり、左門さもんはこの養嗣子ようししである富五郎とみごろうおおいに感謝かんしゃしたものである。

 ともあれそういうわけで富五郎とみごろう実際じっさいには名族めいぞくである屋代やしろながれてはおらず、それどころか、

「どこぞのうまほねともからぬ…」

 下賤げせん卑賤ひせんなるいているというわけで、新参者しんざんものであるということとも相俟あいまって、松平まつだいら小八郎こはちろうはこの屋代やしろ富五郎とみごろうを「いじめのターゲット」にえては、富五郎とみごろう爪弾つまはじきにし、それに加藤かとう寅之助とらのすけ横田よこた鶴松つるまつの二人をしたがわせていたのだ。小八郎こはちろう富五郎とみごろうのその出自しゅつじについて把握はあくしていたからだ。

 そして富五郎とみごろう小八郎こはちろうらに爪弾つまはじきにされていることは細井ほそい正房まさふさ承知しょうちしていたので、そこでおのれ暴言ぼうげんを、

生意気なまいきにも…」

 たしなめた富五郎とみごろうに対して、

一人ひとりぼっちの富五郎とみごろう…」

 そう揶揄やゆしては富五郎とみごろううつむかせたのであった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

小日本帝国

ypaaaaaaa
歴史・時代
日露戦争で判定勝ちを得た日本は韓国などを併合することなく独立させ経済的な植民地とした。これは直接的な併合を主張した大日本主義の対局であるから小日本主義と呼称された。 大日本帝国ならぬ小日本帝国はこうして経済を盤石としてさらなる高みを目指していく… 戦線拡大が甚だしいですが、何卒!

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

処理中です...