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大詰め ~一橋治済、逮捕さる。1~
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祝宴が始まってから半刻(約1時間)が経とうとしていた時であった。再び、番頭の小宮山利助昌則が姿を見せた。
「申し上げまする…、只今、御小姓組番頭格奥勤の本郷伊勢守殿がご到着…」
御小姓組番頭格奥勤…、それが御側御用取次見習いの正式名称であり、
「御側御用取次見習いの?」
治済は顔を赤く火照らせながらそう問い返した。
「御意…」
「一体、何用ぞ…」
治済は首をかしげた。
「ご機嫌伺いではござりますまいか?」
末吉善左衛門が冗談めかしてそう告げたものの、治済にはあながちそれが戯言とも思えなかった。
確かに将軍・家治が死んだ今、いや、まだ死んではいないやも知れぬが、間もなく死ぬであろうことは間違いないその時、将軍職を継ぐことがほぼ確定した一橋豊千代の実父に取り入るべく、ご機嫌伺いをしておこうとそう考えても不思議ではない。いや、それどころかそれが自然というものであろう。
ともあれ折角、参って来た者を追い返すこともなかろうと、治済は別間にて本郷伊勢こと、伊勢守泰行と会うことにした。
治済はこうして別間へと本郷泰行と向かい合った。
「随分とお顔が紅うござりまするなぁ…」
本郷泰行は治済と向かい合うなり、開口一番そう言い放ったものである。暗に治済の飲酒を咎めているように聞こえ、治済は不快に思った。
「うぬこそ宿直の筈であろうが…、何をしに参ったのだ?」
治済はどうやら本郷泰行はご機嫌伺いに参ったわけではなさそうだと、そう判断するや、つっけんどんにそう言い返した。
「されば畏れ多くも上様が一橋卿に遺言を伝えたいとのご意向にて…」
「なにっ!?」
まだ死んではいなかったのか…、治済は思わずそう言おうとして、慌ててその言葉を飲み込むと、その代わりに、
「遺言などと縁起でもない…、上様はご健在なのであろう?」
心にもないことを言った。それに対して本郷泰行も「心にもないことを…」と内心、そう思いながらもこちらもやはり言葉にはせず、その代わり、
「既に目付の末吉善左衛門よりお聞き及びのこととは存じまするが…」
まずはそう嫌味ったらしく切り出すや、将軍・家治が危篤であることを治済に伝えたのであった。
それに対して治済はあくまで鉄面皮、厚顔無恥で押し通した。
「何と…、信じられぬわ。上様がご危篤などと…」
治済は驚きの余り、両手で口元を押さえる仕草までしてみせた。
一方、本郷泰行は治済のその三文芝居、猿芝居を無視して続けた。
「されば至急、御城へとお運びを…」
「それは構わぬが…、それにしても上様は一体、何を伝えられたいのか…」
治済は首をかしげてみせた。今度は芝居ではなく、本当に疑問であった。
泰行もそうと察して、治済のその問いに対してはまともに答えてやることにした。
「されば上様にあらせられましては一橋卿に対しまして、一言詫びたい、と…」
「なにっ!?」
「池原長仙院や大納言様の件で、一橋卿を疑いしこと、一橋卿に直に詫びたいと…」
「上様が左様に仰せで?」
「御意…、されば魘されながら、でござりまするが…」
それはそうだろうと治済はそう思った。
ともあれ家治がそういう意向であれば足を運ばないわけにはゆかなかった。
だがその前に治済はどうしても聞いておかねばならないことがあった。
「されば上様は後継者につきては何か…」
治済は次期将軍について尋ねた。我が子・豊千代で次期将軍はほぼ決まりであろうが、それでも将軍・家治が別の者を「後継指名」すれば話は違ってくる。
だがそれもどうやら治済の杞憂に過ぎなかった。
「さればその件につきましてもやはり魘されながらではござりまするが、豊千代君を世継にと…、万が一、豊千代君が未だ幼く、将軍職に耐えられぬようであらば、将軍職には豊千代君に代わりて一橋卿…、治済卿をもって充てるべし、とも…」
「左様に遺言あそばされたと申すのか?上様は…」
治済は流石に目を丸くしたものである。
「御意…、されば急ぎ御城へと…」
泰行はダメ押しするかのように治済を促すと、治済も漸くに決心がついた様子で、「相分かった」と答えるや、泰行にはここで暫し待つように告げ、治済自身は支度をすべく、その場をあとにした。
だが治済は支度をする前にいったん、「祝宴」の場へと戻り、そこで末吉善左衛門らに本郷泰行より告げられた内容をそのまま再現してみせた。
「それではいよいよでござりまするなっ!?」
岩本喜内がその場の空気を代表してそう答え、治済を頷かせた。いよいよとは他でもない、豊千代が新将軍になることを指してのことである。
「されば支度を手伝うてくれぃ…」
治済は岩本喜内にそう命じ、それに対して岩本喜内も勿論、
「一も二もなく…」
といった|風情《ふぜい)で、「ははぁっ」と応じたのであった。
それから治済は岩本喜内の手を借りて外出の支度を済ませるや、本郷泰行の先導にて御城…、江戸城へと馬を駆った。その後からは目付の末吉善左衛門がピタリとガードする格好でやはり馬を駆った。末吉善左衛門は一橋邸を取り囲む大番組に対して江戸城の警備に当たるべくこの場を引き揚げるよう伝えるに際して、泰行と同じく、一橋邸へと馬を駆ったのだ。
そしてその末吉善左衛門は役目を終えたにもかかわらず、一橋邸にて今まで留まり、あまつさえ、治済と同様、顔を紅く火照らせていたことについて、泰行は一切、末吉善左衛門を咎めようとはしなかった。いや、正確には末吉善左衛門の存在を無視しているかのようであり、それを裏付けるかのように、支度を終えた治済に付き従う格好で、治済の支度を待っていたその泰行の元へと末吉善左衛門が顔を紅く火照らせながら姿を見せたというに、泰行はそんな末吉善左衛門を咎めるどころか完全無視であったのだ。
ともあれ治済は本郷泰行と末吉善左衛門に挟まれる格好で江戸城へと馬を駆けると、そこから先…、殿中よりは泰行の案内により中奥へと足を運んだ。
泰行の話によると将軍・家治は夕食を摂っていた、そして斃れた場所である御小座敷之間の上段にて寝かされているとの話であり、治済を御小座敷之間へと案内したのであった。
泰行が治済を御小座敷之間の下段に面した入側…、廊下にまで案内すると、
「そこから先は御一人で…」
治済一人で下段を通って上段へと…、将軍・家治が寝かされている上段へと進むよう促したのであった。
それに対して治済は深く考えもせずに、「うむ」と応ずるや、その通りにした。
治済は下段に面した入側…、廊下にて泰行を待たせて己一人、入側…、廊下と下段とを仕切る閾を踏み越えて下段へと足を踏み入れた。
上段は元より、下段も薄暗く、下段からは上段の様子が全く見えないものの、それでも真っ暗というわけではないので、下段から上段へと進むのに治済が迷うことはなかった。
そして治済は下段と上段とを仕切る閾をも踏み越えていよいよ上段へと…、将軍・家治が眠っている筈のその上段へと足を踏み入れようとしたところで、治済は漸くに異変に気付いたのであった。
将軍・家治は何と眠ってはいなかったのだ。いや、それどころか危篤状態ですらない。床机に腰掛けていたのだ。
「治済…、待っておったぞ…」
家治がそう告げた途端、灯が点され、それと同時に、鑓を構えた者たちが飛び出してきては治済を取り囲んだのであった。
「申し上げまする…、只今、御小姓組番頭格奥勤の本郷伊勢守殿がご到着…」
御小姓組番頭格奥勤…、それが御側御用取次見習いの正式名称であり、
「御側御用取次見習いの?」
治済は顔を赤く火照らせながらそう問い返した。
「御意…」
「一体、何用ぞ…」
治済は首をかしげた。
「ご機嫌伺いではござりますまいか?」
末吉善左衛門が冗談めかしてそう告げたものの、治済にはあながちそれが戯言とも思えなかった。
確かに将軍・家治が死んだ今、いや、まだ死んではいないやも知れぬが、間もなく死ぬであろうことは間違いないその時、将軍職を継ぐことがほぼ確定した一橋豊千代の実父に取り入るべく、ご機嫌伺いをしておこうとそう考えても不思議ではない。いや、それどころかそれが自然というものであろう。
ともあれ折角、参って来た者を追い返すこともなかろうと、治済は別間にて本郷伊勢こと、伊勢守泰行と会うことにした。
治済はこうして別間へと本郷泰行と向かい合った。
「随分とお顔が紅うござりまするなぁ…」
本郷泰行は治済と向かい合うなり、開口一番そう言い放ったものである。暗に治済の飲酒を咎めているように聞こえ、治済は不快に思った。
「うぬこそ宿直の筈であろうが…、何をしに参ったのだ?」
治済はどうやら本郷泰行はご機嫌伺いに参ったわけではなさそうだと、そう判断するや、つっけんどんにそう言い返した。
「されば畏れ多くも上様が一橋卿に遺言を伝えたいとのご意向にて…」
「なにっ!?」
まだ死んではいなかったのか…、治済は思わずそう言おうとして、慌ててその言葉を飲み込むと、その代わりに、
「遺言などと縁起でもない…、上様はご健在なのであろう?」
心にもないことを言った。それに対して本郷泰行も「心にもないことを…」と内心、そう思いながらもこちらもやはり言葉にはせず、その代わり、
「既に目付の末吉善左衛門よりお聞き及びのこととは存じまするが…」
まずはそう嫌味ったらしく切り出すや、将軍・家治が危篤であることを治済に伝えたのであった。
それに対して治済はあくまで鉄面皮、厚顔無恥で押し通した。
「何と…、信じられぬわ。上様がご危篤などと…」
治済は驚きの余り、両手で口元を押さえる仕草までしてみせた。
一方、本郷泰行は治済のその三文芝居、猿芝居を無視して続けた。
「されば至急、御城へとお運びを…」
「それは構わぬが…、それにしても上様は一体、何を伝えられたいのか…」
治済は首をかしげてみせた。今度は芝居ではなく、本当に疑問であった。
泰行もそうと察して、治済のその問いに対してはまともに答えてやることにした。
「されば上様にあらせられましては一橋卿に対しまして、一言詫びたい、と…」
「なにっ!?」
「池原長仙院や大納言様の件で、一橋卿を疑いしこと、一橋卿に直に詫びたいと…」
「上様が左様に仰せで?」
「御意…、されば魘されながら、でござりまするが…」
それはそうだろうと治済はそう思った。
ともあれ家治がそういう意向であれば足を運ばないわけにはゆかなかった。
だがその前に治済はどうしても聞いておかねばならないことがあった。
「されば上様は後継者につきては何か…」
治済は次期将軍について尋ねた。我が子・豊千代で次期将軍はほぼ決まりであろうが、それでも将軍・家治が別の者を「後継指名」すれば話は違ってくる。
だがそれもどうやら治済の杞憂に過ぎなかった。
「さればその件につきましてもやはり魘されながらではござりまするが、豊千代君を世継にと…、万が一、豊千代君が未だ幼く、将軍職に耐えられぬようであらば、将軍職には豊千代君に代わりて一橋卿…、治済卿をもって充てるべし、とも…」
「左様に遺言あそばされたと申すのか?上様は…」
治済は流石に目を丸くしたものである。
「御意…、されば急ぎ御城へと…」
泰行はダメ押しするかのように治済を促すと、治済も漸くに決心がついた様子で、「相分かった」と答えるや、泰行にはここで暫し待つように告げ、治済自身は支度をすべく、その場をあとにした。
だが治済は支度をする前にいったん、「祝宴」の場へと戻り、そこで末吉善左衛門らに本郷泰行より告げられた内容をそのまま再現してみせた。
「それではいよいよでござりまするなっ!?」
岩本喜内がその場の空気を代表してそう答え、治済を頷かせた。いよいよとは他でもない、豊千代が新将軍になることを指してのことである。
「されば支度を手伝うてくれぃ…」
治済は岩本喜内にそう命じ、それに対して岩本喜内も勿論、
「一も二もなく…」
といった|風情《ふぜい)で、「ははぁっ」と応じたのであった。
それから治済は岩本喜内の手を借りて外出の支度を済ませるや、本郷泰行の先導にて御城…、江戸城へと馬を駆った。その後からは目付の末吉善左衛門がピタリとガードする格好でやはり馬を駆った。末吉善左衛門は一橋邸を取り囲む大番組に対して江戸城の警備に当たるべくこの場を引き揚げるよう伝えるに際して、泰行と同じく、一橋邸へと馬を駆ったのだ。
そしてその末吉善左衛門は役目を終えたにもかかわらず、一橋邸にて今まで留まり、あまつさえ、治済と同様、顔を紅く火照らせていたことについて、泰行は一切、末吉善左衛門を咎めようとはしなかった。いや、正確には末吉善左衛門の存在を無視しているかのようであり、それを裏付けるかのように、支度を終えた治済に付き従う格好で、治済の支度を待っていたその泰行の元へと末吉善左衛門が顔を紅く火照らせながら姿を見せたというに、泰行はそんな末吉善左衛門を咎めるどころか完全無視であったのだ。
ともあれ治済は本郷泰行と末吉善左衛門に挟まれる格好で江戸城へと馬を駆けると、そこから先…、殿中よりは泰行の案内により中奥へと足を運んだ。
泰行の話によると将軍・家治は夕食を摂っていた、そして斃れた場所である御小座敷之間の上段にて寝かされているとの話であり、治済を御小座敷之間へと案内したのであった。
泰行が治済を御小座敷之間の下段に面した入側…、廊下にまで案内すると、
「そこから先は御一人で…」
治済一人で下段を通って上段へと…、将軍・家治が寝かされている上段へと進むよう促したのであった。
それに対して治済は深く考えもせずに、「うむ」と応ずるや、その通りにした。
治済は下段に面した入側…、廊下にて泰行を待たせて己一人、入側…、廊下と下段とを仕切る閾を踏み越えて下段へと足を踏み入れた。
上段は元より、下段も薄暗く、下段からは上段の様子が全く見えないものの、それでも真っ暗というわけではないので、下段から上段へと進むのに治済が迷うことはなかった。
そして治済は下段と上段とを仕切る閾をも踏み越えていよいよ上段へと…、将軍・家治が眠っている筈のその上段へと足を踏み入れようとしたところで、治済は漸くに異変に気付いたのであった。
将軍・家治は何と眠ってはいなかったのだ。いや、それどころか危篤状態ですらない。床机に腰掛けていたのだ。
「治済…、待っておったぞ…」
家治がそう告げた途端、灯が点され、それと同時に、鑓を構えた者たちが飛び出してきては治済を取り囲んだのであった。
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