握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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好きな食べもの

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 部屋をまるごと醤油で煮しめたような茶色くてこぢんまりとした定食屋「清水屋」には、さまざまな料理の匂いが満ちている。
 カウンターの内側の厨房でしゅん、しゅん、と穏やかな音をたてる鍋の中には、油揚げとわかめの味噌汁。その横の一回り小さな鍋では、さっき卵をおとしたばかりの春キャベツの巣ごもりが温められている。一般家庭のものより大きくて年季の入った炊飯器からは、醤油の香ばしい香りが漂っている。白ご飯じゃなくて、具だくさんの炊き込みご飯を炊いているのだ。
 そして今作っているのが、アジの味噌炒め。まだ下準備の段階だから、魚の匂いしかしていない。その生臭さを消すために酒を切り身に揉み込んだから、次は水気を拭いて片栗粉をまぶしていく。
「相変わらず康介は手際がいいわねぇ」
 隣に立つおばさんが感嘆をもらす。
 康介はパタパタと片栗粉を振りかけながら「おばさんの教えの賜物だね」と笑った。
 康介の作る料理は、肉じゃがもハンバーグもチャーハンも、ほとんどすべておばさんから教えてもらったものである。おばさんの営む小さな定食屋のメニューは和食が中心だが、彼女自身は洋食も中華もお手の物なのだ。
 松雲と暮らし始めた頃は、食卓に並ぶのはいつも松雲の作る料理だった。けれど、家にいながらも毎日仕事に追われる松雲がクタクタになりながら慣れない様子で台所に立つ姿を見かねて、康介はおばさんに教えを請いに清水屋へと駆け込んだ。引っ越しのときに紹介はされていたし、松雲がご飯を作る余裕がないときには清水屋にお世話になっていたから、身近な頼れる大人として第一に思い浮かんだのがおばさんだったのだ。
 それから、康介は清水屋の定休日の火曜日になると、決まっておばさんに料理を教えてもらうようになった。おかげで、今ではすっかり料理好きになってしまった。
「片栗粉、これくらいでいい?」
「ええ、充分よ。それにしても、随分上手になったわね」
「ほんと?」
「本当。お味噌汁もキャベツの巣ごもりも、この味噌炒めも、とっても美味しそうにできてるもの」
「へへ、よかった」
 康介は照れ笑いを浮かべながら頬をかいた。料理人であるおばさんに褒められると、やっぱり自信がつくし嬉しい。
「けど、もっといろんなものを上手に作れるようにならなきゃ」
 アジに絡める味噌だれを作りながら、康介は呟いた。味噌と生姜のいい香りがふわりと立ちのぼる。
「あら、随分と熱心ね。どうして?」
「友達に週一で晩ご飯作ってあげることにしたから、美味しいもの食べさせてあげたくて」
 カレーを頬張る涼の顔を思い出して、ふっと頬が緩む。目を輝かせていたあの顔をもっとたくさん見たい。
「わかった。それ、好きな子でしょう」
「えっ」
 唐突な言葉に驚いてパッと隣を見やると、彼女はニンマリと目を細めて笑っていた。ほとんど詳細なんて話していないのに、どうやら見透かされているらしい。だんだんと顔が熱くなってくる。
「な、なんで分かったの……」
「ふふ、女の勘よ。それにしても、高校生のときも浮いた話ひとつなかった康介がねえ」
 おばさんが感慨深そうにしみじみと頷くから、いっそう気恥ずかしさがこみ上げてくる。康介は赤い顔のまま「たれ、このくらいの濃さでいいかな」ともごもご呟いた。
「ええ、いい感じよ。じゃ、アジを焼いていきましょ」
「わかった」
 頷いて、フライパンに油をたらしアジを並べる。ジュウと小気味よい音が厨房に響く。
「ね、その子、どんな料理が好きなのかしら。その子の好きな料理をマスターしてガッチリ胃袋を掴まなきゃ」
 声を弾ませて尋ねるおばさんは心なしかテンションが上がっている。世話焼きで話好きなおばさんらしい。味噌だれをフライパンに垂らしながら康介は苦笑をもらした。
「うーん、いまいち何が好きなのか分からないんだよねぇ……。何が食べたいか聞いても『何でもいい』か『康介の好きなもの』しか言ってくれないし」
「あらまあ」
 康介は渋い顔を作ってみせると、おばさんも困ったように眉尻を下げた。
 先週と先々週の水曜日も、涼は食べたい料理を教えてくれなかった。だから大抵の人が好きであろう料理を作ろうと思って、先週はオムライス、先々週はハンバーグを振る舞った。予想通り、涼は美味しいと言って食べてくれた。
 まあ、作ってもらったものにズケズケと文句を言うような人じゃないことは分かっている。それに、出会ってまだ一ヶ月しか経っていないのだから、遠慮なくリクエストするのが難しいのも分かる。実際、涼は晩ご飯を食べに来るときにいつもお菓子などの手土産を持ってきてくれていて、その行為からは彼の律儀な優しさが窺える。
 けれど、リクエストしてこない理由は、たぶんそれだけじゃない。
「それに食にこだわりが一切無さそうなんだ。好きとか嫌いとかなくて、食べられたら何でもいいって感じで」
 焼き色のついたアジを一つずつひっくり返す。焼き魚の香ばしさと味噌の香ばしさが混ざり合い、空腹を刺激する。くぅ、とお腹が情けない音を立てた。
 ふふ、と柔らかくおばさんが笑う。
「じゃあ康介が食べる喜びを教えてあげなさい。好きな子の初めてできた好きな料理が自分の作ったものだなんて、素敵なことだわ」
 ふわりとあたたかなその声音は、まるでおばさんの得意料理である醤油の香り漂うだし巻き玉子のように、優しかった。
「そっか。うん、そうだね」
 康介は口元を緩めて頷いた。
「大丈夫、康介の料理は美味しいからきっとその子も気に入ってくれるわ。なんてったって私が一から仕込んだんだもの」
「あはは、頼もしいな」
「ほんとよ、カレーしか作れない松雲とは比べ物にならないわ」
「でも松雲、カレーだけは絶品だからなぁ。俺もカレーだけは松雲から教えてもらったし」
「それがまた小憎たらしいわよね。自分で立派にアレンジなんて加えちゃってるんだから」
そう言いながらも、おばさんは少し嬉しそうだ。松雲が少しでも料理するようになったが嬉しいのだろう。
「なんでカレーだけ作れる……というか作る気になったんだろう?」
「さあ? あの子が大学生のとき、急に下宿先から電話がかかってきて、『カレーの作り方を教えてほしい』って言われたのよ。切羽詰まった様子だったから、よっぽどカレーが食べたくなったのかもね」
「あるよね、突然カレーの口になること」
 笑いながら、焼きあがったアジたちを皿の上に取り出す。
 ちょうどそのとき、ガラガラと店の入り口と戸が開いた。ひょっこりと顔を覗かせたのは、今話題に上がっていた松雲だ。一緒に昼食を食べる予定だったので、康介たちの作る料理ができる頃に清水屋に来るように言ってあったのだ。
「あら、いいときに来たわね」
 おばさんがいたずらっ子のようにニヤッと笑う。康介も同じように口の端をつり上げた。
「……どうやら噂話でもしていたようですね」
 二人とは対照的に口をへの字に曲げた松雲は、二人の前のカウンター席に腰を下ろす。と同時に、炊飯終了を告げる陽気な電子音が鳴り響いた。
「ほら、ちょうどご飯が炊けたわ、松雲よそってちょうだい。働かざるもの食うべからずよ」
「ついさっきまでずっとまじめに原稿書いてたんですけどねぇ」
 ぶつくさ言いながら松雲はしぶしぶ腰を上げた。狭い厨房の人口密度はたちまち過密状態になる。三人は押し合いへし合いしながら、賑やかに食事の支度を進めていく。
 美味しそうな匂いに満ちた定食屋は、陽だまりのようにあたたかかった。
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