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エピローグ
①
しおりを挟むもうそろそろ来る頃だろうか。スマートフォンを起動させて時刻を確認すると、午前九時四十七分。約束の時間まではまだ十分以上ある。
涼は小さく息を吐き出しながら呆れたように笑った。さっき時間を確かめてからまだ三分しか経っていない。どうやら自分で思っているよりも緊張しているらしい。
まだ時間があるので、ベッド脇に置いてあった黒いリュックサックを手元に引っ張ってきてジッパーを開ける。中に入っているものは、数日分の着替えと下着類と、歯ブラシと、充電器と、その他諸々。入念に準備したそれらを、もう一度忘れ物がないか一つひとつ確かめていく。
「お盆、もしよかったら一緒に帰らない?」
そう康介に誘われたのは、二週間ほど前。夏休みに入って少し経った頃だった。
その日はべつに水曜日ではなかったけれど当然のように康介は夕食に誘ってくれて、いつものように康介の部屋で二人で夕食を食べていた。一緒に作ったサーモンフライもコンソメスープもマカロニサラダも美味しくできていて、テーブルに並んだ皿はどれもすぐに空になった。そうして後片付けも済ませて人心地ついていたときだった。
「涼のバイトって、お盆もあるの?」
なんの脈絡もなく唐突に尋ねられて、驚いて康介を見やると、彼の横顔は張り詰めた糸のようなわずかな緊張を滲ませているようだった。視線はつけっ放しのテレビへと向けられているけれど、その目はきっとテレビなんて見ていなかったと思う。
「接客業ってわけじゃないから、お盆は普通に休みくれてるよ」
康介の緊張が移ったみたいに、わけも分からないまま妙にどぎまぎしてしまう。答える声がほんの少しだけ上擦りそうになった。
「そっか」
それだけ呟いた康介は、じっと何かを考え込むように黙り込んでしまった。何か考えているような、何かを言おうか言うまいか決めかねているような、煮え切らない沈黙が二人の間に落ちる。なんとなくそわそわしてしまって、小さく前髪をいじる。
「あのさ、だったら……お盆、もしよかったら一緒に帰らない?」
おずおずと、けれど真っ直ぐに目を見ながら告げられた言葉に、思わず目を見開く。言葉が出なくて、目を丸くしたままじっと康介を見ると、彼は「えっと」と頬をかいた。
「松雲がぜひ会いたいって言ってるんだ。それに、俺も旅行っていうか、涼と出かけてみたいって思ってて。……せっかく夏休みだし、なにか思い出とか作りたいな、って」
康介はまるで言い訳でもするみたいに、緊張を滲ませた瞳のまま訥々と言葉を重ねていく。
それは思ってもみなかった言葉たちだった。自分と夏の思い出を作りたいも思ってくれていること、それを実現させるために具体的な計画を練ってくれていたことに、胸の内側がくすぐられているような気分になる。
けれど、松雲に会うのは、まだ少しためらってしまう。彼に抱いている後ろめたさや後悔はまだ胸の奥にしこりとなって残っているし、そのせいで前回鉢合わせたときも何も言わずに逃げ出してしまった。
どうしよう。喜びと不安の間で揺れている心は、けれど康介のほのかに赤くなった頬に気づいたその瞬間にふっとひとつに定まった。
涼はこくりと頷いた。
「うん。俺も、行きたい」
「ほんと?」
ぱあっと顔を輝かせる康介に少し頬が緩む。
康介の実家に、二人で帰る。
涼は小さく目を伏せて、ぎゅっと手のひらを握りしめた。
リュックの中身に入れ忘れはなかった。よし、と頷きつつジッパーを閉めたちょうどそのとき、やけに呑気な音でインターホンが鳴り響いた。
慌ててリュックを引っ掴み、玄関へと向かう。
ドアを開ける前に一度深呼吸をして、それからゆっくりとドアノブを回す。
「おはよ、お待たせ」
まっさらな朝の光のなかで、康介がにっこりと笑う。涼は眩しそうに目を細めた。
「おはよ。もう準備はできてるよ」
「じゃあ出発しよっか。戸締り気をつけてな」
「うん。ていうか康介こそちゃんと鍵かけた? 電気も消してきた?」
優しい声音に胸の奥がざわついて、それをごまかすためにわざと軽口をたたいてからかう。
「えっ、そう言われると心配になるじゃん……」
そう言ってすぐ隣にある自室の戸締りを確認しに行った後ろ姿に、涼は彼に気づかれないように小さく笑った。
康介の実家までは、大きめのターミナル駅で特急に乗って隣県まで出て、そこで地元のローカル線に乗り換えるらしい。約二時間の電車の旅だ。
「昼ご飯は実家に着いてからでいい?何か簡単なもん作るから」
券売機にお金を入れながら康介が振り返る。涼は「うん、いいよ」と頷いた。
揃いの切符を手に、改札を抜ける。お盆の連休初日なこともあり、ターミナル駅はかなり混雑していた。入り乱れるように行き交う人の波の中はまっすぐに歩くことすら難しい。人いきれやざわめく声がむわりと蒸し暑い空気とともに体にまとわりつくようで煩わしい。
この人混みを抜け、電車に乗ってしまえば、もう後戻りはできない。涼は無意識のうちにポケットの中の切符を握りしめていた。朝から――いや、この旅行に誘われたときから今まで少しずつ育ち続けていた不安と緊張がまたむくりと膨れた気がした。
ちょうどそのとき、康介がくるりと振り向いた。何か言おうとしているのかと思って身を乗り出したけれど、彼は目が合うとほんの少しだけ笑って、またすぐに前を向いた。
その後も、康介は何度も後ろを振り返った。どうしたのだろう、なにか用があるわけでもなさそうだし。疑問に思い内心首を捻っていたが、振り返った彼は目が合うたびにかすかに安堵を滲ませたような柔らかな笑みを浮かべていた。
ああ、康介は自分がちゃんとついてこられているかを確かめるために、何度も振り返ってくれているのか。ようやく彼の行動の意味に思い当たり、涼は思わず頬を緩めた。その拍子に胸の中に抱いていた不安と緊張も風船の空気が抜けるように少しずつしぼんでいく。
「前見ないと危ないぞ」
笑いながら声をかける。
すると、ちらりと肩越しに振り返った康介に突然手首を掴まれた。
「じゃあ、ちゃんとついてこられるようにしないとな」
そう呟いた彼はまたすぐに前を向いてしまったけれど、薄く茶色がかった髪の隙間から覗く両耳はかすかに赤く染まっている。
熱い手のひらに掴まれた手首が、ちりちりと焦げるように疼いた。
電車も混雑していたが、それでも座れないほどではなかった。二人並んで座席に腰を下ろし、ふぅ、とため息を吐き出す。
「座れてよかった」
「うん。思ってたより混んでないし」
膝の上でリュックを抱えながらそう言った康介に、涼も頷き返す。
やがて特急電車はゆっくりと進み始めた。はじめは蛇行する川のようにゆったりと流れていた窓の外の風景は、次第に飛ぶようにめまぐるしく移り変わっていく。次々と遠ざかっていく景色を見るともなしに眺めていると、不意に康介が呟いた。
「大丈夫だよ」
「え?」
唐突な言葉に振り返る。
ごとんごとん、と同じリズムで小さく揺られている彼は、涼の瞳を見つめながらにっこりと笑った。
「松雲、涼と会うのすっげえ楽しみにしてるんだ。一緒に帰るって知らせてからずっと何日に帰ってくるんだーとか何日間家に泊まっていくんだーとか、しつこいくらいに聞かれてるんだ。それに、ほら」
そう告げながら差し出されたスマートフォンには松雲とのチャットのやり取りが表示されていて、その一番下には『なるべく早く、でも気を付けて帰ってきてくださいね』と書かれた吹き出しが浮かんでいた。
涼は深く息を吐き出した。
康介は、今自分が胸に抱えている不安や緊張を全部分かっていて、だからこうして少しでも安心できるようにと話してくれているのだろう。そういう、丸まった背中にさりげなく手を添えてくれるような、ほのかであたたかな優しさを持つ人なのだ。
「……康介らしいなぁ」
呟きながら、すぐ隣にある肩へそっと頭を預ける。
こめかみのあたりから伝わる彼のほのかなぬくもりを感じながら、涼はそっと目を閉じた。
胸に巣食っていた不安も緊張も、雨上がりの濡れた木々を陽光が照らしたみたいにきらきらと輝きながら蒸発するように消えていった。
楽しみだな。とても純粋な気持ちで、涼は胸の内で呟いた。
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