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エピローグ
②
しおりを挟む一定のリズムで小さく揺れる振動に、なぜか懐かしい感覚がこみ上げてくる。
いつだったか、今と同じように狭い座席に埋もれるようにして電車に揺られていたことがあった。あれはいつだっただろう。記憶の箱の蓋が、かたかたと音を立てて少しずつ開きかけているようだ。とろりとした覚醒しきらない頭のまま、その箱の蓋をそっと開けてみる。
そうだ、大学の入試の帰りだ。わずかな緊張の残滓と、それよりはるかに大きな解放感と無事に試験を終えられた安堵を抱えながら、めまぐるしく移り変わる車窓の景色を眺めていた。柔らかな橙色をした夕陽がとても綺麗だった。
そういえば、何かを手に持っていた気がする。なぜかあたたかくて、珍しくて、嬉しいもの。窓から射しこんだ光を纏ってきらきらとしていたもの。
ああ、ラップだ。康介からもらったおにぎりを包んでいたラップ。ただのゴミだと分かっているのに、どうしても手に取って確かめたくてたまらなかった。あのおにぎりを──誰かに手作りのものをもらってそれを食べたのだということを、確かめたかったのだ。人の手作りの料理を食べるのは、随分と久しぶりだったから。
物心ついた頃から祖母と二人で暮らしていた。平屋建てで、南天の木が植わった小さな庭があって、いつも線香の匂いが薄く漂っていた。小さくて、静かな家だった。
祖母は大抵台所で料理をしているか居間で繕い物や編み物をしているか、そのどちらでもないときは本を読んでいた。涼もその隣で宿題をしたり本を読んだりして過ごすことがほとんどだった。テレビはあったけれど見るのはニュースばかりで、ゲームはなかった。祖母は物静かな人だったし涼もうるさく騒ぎまわるのは好きではなかったから、家の中はいつも静かだった。けれど、その凪いだ湖のような静謐さを涼はとても気に入っていた。
母親はニ週間に一回くらいの頻度で家に来ていた。泊まっていくこともあれば、夕飯だけ一緒に食べて帰っていくこともあった。そう遠くはない場所にマンションを借りているらしかった。
幼稚園や保育所には通っていなかったから、そんな自分の状況がいわゆる世間一般の「普通」から外れていることに気づいたのは小学校に通い始めてからだった。どうやら他の子はほとんどが父親か母親、もしくはその両方と暮らしているらしい。そう気づいて、祖母に「なんでお母さんは一緒に住まないの?」と訊いたことがある。五月の終わりの、しとしとと雨が降っている日だった。
「涼くんは、おばあちゃんだけじゃ寂しい?」
狭い台所で夕飯の準備をしていた祖母は、包丁を持ったまま首だけ動かして振り向いた。逆光のせいか、それとも記憶から抜け落ちているだけか、祖母の表情は憶えていない。けれど、いつもと変わらない柔らかくて少し掠れた声だったことは鮮明に憶えている。祖母の声を思い出そうとすると、いつもなぜか落雁を想起する。淡いピンク色の蓮の花の形をしたそれはいつも仏壇の前に供えられていて、ときどき祖母と二人で下げてきたものを食べていたから、そのせいかもしれない。
「ううん」
涼は首を横に振った。本当は、他の子のように母親がそばにいてくれる家庭を羨ましいと思うこともあったけれど、寂しいと言ってしまうと祖母が悲しんでしまう気がしたのだ。
くすりと小さく笑った祖母は、持っていた包丁をまな板の上に置いて体ごと振り返った。おいで、と誘われるままに彼女のもとへ行くと、ぎゅっと抱きしめられた。
「おばあちゃんは、ずっと涼のそばにいるからね」
優しくて、けれどどこか真剣で切実な声だった。さあさあと降る雨の音が小さな家をすっぽり包みこんでいるみたいだった。訳も分からないまま、涼は「うん」と頷いた。
けれどそれから一年半くらい経った頃、祖母は亡くなった。
二月になったばかりの、ひどく寒い日だった。灰色の空が頭上に重くのしかかるようで、風は身を切るみたいに冷たかった。授業中、ぼんやりと窓の外を眺めていると、白い顔をした教頭先生がいきなり教室にやってきた。名前を呼ばれて担任とともに廊下に出ると、ごくりと唾を飲んだ教頭先生が祖母の死を告げた。かすかに上下する出っ張った喉仏の動きを、涼は今でも思い出すことができる。
それからの日々はあまりにめまぐるしかったから記憶が曖昧で、気づけば涼は母親と暮らすことになっていた。
初めて訪れた母親のマンションは今まで暮らしてきた祖母の家とは何もかもがまるで違っていた。畳の部屋も仏壇もお供えの落雁もないし、線香の匂いもまったくしない。読書家だった祖母はたくさんの本を持っていたけれど、この部屋には雑誌が一、二冊あるだけで本棚すらもない。
母親は涼が登校する時間には起きてこなかったし、夜は遅くまで帰ってこなかった。人の気配が薄くてがらんどうのような部屋は、すべての音が吸い込まれているかのように静かだった。祖母の家のような心が落ち着く静けさではなく、耳が痛くなって息が詰まるような重苦しい静寂を、涼は好きになれなかった。
静かすぎるあなぐらのような部屋に帰りたくなくて、学校が終わるといつも近所の公園で暗くなるまで時間を潰していた。友達と遊ぶことはなかった。なにかと話しかけてくる女の子たちはいたけれどうまく受け答えできないでいたら次第に離れていったし、なのに女子と仲良くしているのが気に入らないと言って男子たちからも遠巻きにされるようになった。いじめられることはなかった。先生の「お気に入り」であるらしかったから。実際先生に気に入られていたのかどうかは分からないけれどクラスメイトいわく「特別扱い」されているらしく、その結果、より遠ざけられるようにはなった。
その日は、涼の誕生日だった。今までは祖母が近所のケーキ屋でショートケーキを買ってきてくれて一緒に食べていたけれど、今年はもう祖母はいない。わざわざ母親がケーキを買ってくれているとも思えないし、誕生日を覚えているかどうかすら怪しい。もちろん祝ってくれるような友達もいなかったから、放課後はいつも通り公園で一人きりで過ごしていた。
花壇に植えられている名前も知らない黄色い花が満開で、それがやけに悲しかった。春の訪れを感じさせるようなぽかぽかした陽気が、かえって心に冷たい風を吹かせるようだった。お腹は空いていたけれど、落雁もショートケーキもない家に帰りたくなかった。
花壇に背を向けてうずくまり指先で土をいじっていたそのとき、不意に背後から声をかけられた。驚きつつ振り向くと、薄い黄緑色の着物を着た男がにこにこと笑っていた。松雲と名乗ったその男はそのまま隣に座り、「もしよかったら、私のおしゃべりの相手になっていただけませんか?」と微笑む。あまりに穏やかな声と、当然のように隣に来て話しかけてくれることが嬉しくて、気づけば涙が止まらなくなっていた。泣きじゃくる涼におろおろとしていた彼は、思い出したように持っていた小さな巾着袋からお菓子のケーキを取り出した。今年はもう誕生日ケーキなんて食べられないと思っていたから、たとえケーキ屋で買ってきたものじゃないお菓子のケーキでも胸がいっぱいになるほど嬉しかった。甘いはずのケーキは、涙のせいで少しだけしょっぱかった。
それから彼はほとんど毎日のように話しかけてくれた。小説家だという彼の話はいつも面白くて、放課後に公園に行くのがただの時間潰しじゃなくなり、むしろ楽しみになった。
そうして半年くらいが過ぎた秋の日。その日はいつもにまして家にいたくなかった。前の日の夜、珍しく早めに帰ってきた母親の言葉が胸に重く残っていたからだ。
夜の十時頃に帰ってきた母親はひどく酔っていて、「おかえりなさい」と言って出迎えた涼を見るなり突然堰が切れたように語り始めた。
父親は涼が生まれてすぐに亡くなったこと、十歳上の父に半ば押し切られるように結婚して家庭に入ったが母は仕事をしていたかったこと、父親が望むから子どもを産んだこと。また勤めだしたけれど前にいた会社のような優良企業には入れなかったこと、子持ちだから新しい恋にも踏み出せないこと。淡々と、まるで独り言のように彼女は語る。ただ吐き出したいだけだったのか、聞かせたかったのか。話して聞かせたところで涼にはまだ理解できないだろうと思っていたのか、もう理解できると思ったから話したのか。彼女の真意は分からない。
けれど、彼女が吐き出したそれらの言葉が何を意味しているのかが分からないほど、涼は幼くはなかった。
だから家にいたくなかった。休日なのに公園には誰もいなくて、もちろん松雲の姿もなかった。ひとりぼっちで、何かをする気にもなれなくて、ただ地面を見つめていた、そのとき。そっと背中にあたたかい手が添えられた。どうしたんですか、と優しく問う声に堪えていたものが一気に決壊して、いつかのように涙がこぼれた。とめどなく流れる涙を指で拭いながら、彼は「もしよかったら、私の家に来ませんか。あまり大層なものはありませんが、なにかご馳走しますよ」と微笑んでくれた。
そうして訪れた部屋は、あちこちに紙と本が散乱していて雑誌の山が至る所に積み重なっていて、お世辞にも綺麗だとは言えなかった。けれど、そこで松雲が暮らしているのだという息吹が感じられるようで、どこかあたたかだった。彼が振る舞ってくれたカレーも、野菜がどろどろに溶け込んでいて少し焦げているせいで苦くて、けれどひどく優しくて美味しかった。その日は、いつもならテーブルに無造作に用意してくれている菓子パンが置かれていなくて朝から何も食べていなかったから、空腹を満たせることが嬉しかった。そばに誰かがいてくれることがただひたすらに嬉しかった、なのに。
翌日、母親は松雲の家に怒鳴り込みに行った。
知らない人についていったことを咎めたいわけでも心配していたわけでもない。ただ、自分が子どもの食事を用意せずに放置していたことが明るみになるのを恐れていたのだ。
そうして、また独りぼっちになった。
涼は前にもまして本を読むようになった。本を読んでいる間は家の中の静寂も独りぼっちの孤独も忘れられるし、なにより早く松雲の書いた小説を読めるようになりたかった。
母親も、前にもまして家に寄りつかなくなった。涼に本心を吐露してしまった引け目を感じてか、もしくは逆に吹っ切れたからなのかは分からない。
祖母と暮らしていた頃に掃除や洗濯はよく手伝っていたから、涼一人でもなんとかこなすことができた。けれど料理は、祖母に手伝わせてもらっていなかったのでどうにもできなかった。母親は一週間に一回くらい帰ってきてレトルト食品やらカップ麺やらを置いていったので、それを食べていた。学校の遠足や運動会にはコンビニで買ったおにぎりやパンを持って行ったけれど、そういう人は他にもいたからあまり気にしたことはなかった。それに相変わらず友達もいなかったから、誰かと食べるわけでもないし周りの目なんて気にならなかった。
高校に入学した当初は友達と呼べる存在ができたけれど、自分と一緒にいるせいでその人が嫌がらせをされていると知り、涼の方から距離を置いた。誰かが自分のもとから去っていくのが怖くて、だから自分から遠ざけたのだ。
「ずっと一緒にいる」ことなんてできない。
分かっていた。だから諦めていた。べつに独りぼっちでも構わなかった。
なのに、康介と出逢ってしまった。
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