エアコン壊れたら彼氏ができた

箱月 透

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 坂口から告白されたのは、去年の秋のことだ。
 大学の、いちばん馴染み深い校舎の最上階。小さなラウンジの隅に置かれた古ぼけたソファに、今のようにふたりきりで座っていた。
 三限目の授業が終わり、土屋はもう帰るだけだったのだが坂口はまだ五限目の授業が残っていた。彼が四限の空きコマを潰すのに付き合っていた。さっきまで一緒に受けていた授業の話をしたり、共通の友人の噂話をしたり。それまでずっと、いつものようなくだらない会話をダラダラと続けていたのに。
 四限目の終わりを告げるチャイムが鳴り始め、そろそろ帰ろうかと土屋が腰を浮かそうとした、そのときだった。
「好きだ」
 それは、チャイムにかき消されてしまいそうなほど、小さな声だった。
こんなくだらない冗談、いったいどんな顔で言っているんだろう、と坂口の顔を覗き込んで。
 ハッとした。その目が、本気だと告げていたから。
 どんな顔をすればいいのか、なんと返せばいいのか。なにも分からずただ茫然と顔を見つめ返す土屋に、坂口はくすっと小さく笑った。それは紛れもなく自嘲だった。眉をすこし寄せて口の端をゆがめて、諦めにも似た色を浮かべたその表情に。ぎゅっと心臓を掴まれた気がした。
「ま、べつにどうなりてーとかでもねェから」
 目を伏せてそう告げた坂口は、そのままソファーから腰を上げた。引き止める言葉すらも出てこなかった。ただ去っていく背を目で追う。そのうち、ぞろぞろと講義室から出てきた学生たちの波がその背中を呑み込んで隠して、ついに見えなくなった。
 信じられなかった。土屋は両手で顔を覆った。本当に、信じられない。そんな素振り、まったく見せなかった。どうしよう。分からない。そんな言葉だけがひたすらに頭の中を回る。心臓の音だけが、ひたすらにうるさかった。
 翌日、まったく眠れなかったせいで霞んだ頭と重い足を引きずって大学へと向かった。いくら坂口と顔を合わせづらいとは言え、授業を欠席するわけにはいかない。けれど、どんな顔で坂口と会えばいいのか分からない。
 重い心を抱えたまま、講義室のドアを開ける。もはや二人の定位置となった席に、坂口がいるのを見つけた。同時に、坂口も部屋に入ってきた土屋に気付いたようだった。視線が交わり、思わず顔が強張る。けれど。
「よう。なんか今日来るの遅かったな」
 坂口は、コーヒー牛乳のパックのストローを咥えながらひらひらと片手を振ってきた。まるでいつもと変わらない、何も無かったかのようなその態度。
「……ああ、いや、ちょっと寝坊して」
 土屋も、ぎこちないながらも坂口と同じようにいつもどおりを装った。
 きっと、本当に何も無かったことにするつもりなのだ。坂口の、あっけらかんとした表情と飄々とした態度を見れば、すぐに分かった。
 これまで通り、友達のまま。坂口がそれを望んでいるのだから、昨日のことを蒸し返すような真似ができるはずもなかった。
 土屋には、その想いにこたえる術がないのだから。
 そのまま、友達という関係を守り続けたままで、今までずっと過ごしてきたのに。

「早いな、もうあれから半年以上経つのか」
 相変わらずのあっけらかんとした口調で坂口が言う。妙に冷静な表情だった。それが作られたものであろうことは、さすがに分かっていた。
「……そうだな」
 ここまできたら、もう誤魔化すことなどできないだろう。坂口も、自分も。土屋はそっと目を閉じた。
「もう忘れてくれてるのかと思ってた」
「ばかじゃねーの。あんなの、忘れられるかよ」
 言いながら、ハッとした。
 そうだ。いっときだって忘れたことなどなかったのだ、本当は。ただずっと、忘れたふりをしていただけだった。
 それを望んだのは、はたして誰だったのだろう。
「あのとき、本当は言うつもりなんて全然なかったんだよ」
 先ほどまでのあっけらかんとした口調から一転して、誰かに言い訳しているみたいな、どこか後ろめたさの漂う声で坂口が言う。
「……お前の事情も、分かってたし」
 ぽつりと小さな声で呟いた坂口が、気遣うような視線を向けてくるのが分かった。土屋は小さく眉を寄せる。
 坂口の言う、土屋の事情。
 それは、土屋は恋愛が分からないということである。
「お前、めちゃめちゃモテるのになあ」
 もったいねーよな、と苦笑する坂口に、うるせえ、と弱々しく返す。
 
 確かに、土屋はよく告白される。中高でも、大学に入ってからも、女の子からの告白は絶えたことがない。けれど、恋人がいたことは一度もなかった。人見知りしがちで内気な少年だった土屋は、友人もそう多くはなかった。交友範囲が狭いうえに他人に対する興味が希薄だったので、恋愛感情という発展した感情が芽生える機会も少なかったのだ。
 恋らしき感情を抱いたことは、一応ある。ふたつ歳上の、幼馴染の女の子。ふわりとほどけるように笑う、陽だまりのような子だった。みんなに平等に優しくて、人見知りで内気だった土屋にも明るく接してくれた。彼女が笑うと嬉しかった。ずっと笑っていてほしいと思った。
 彼女は肺を患っていて、何度も入退院を繰り返していた。ある日、入院している彼女のもとに見舞いに行くと、病室には彼女しかいなかった。しばらく二人で話していると、不意に彼女が黙り込んだ。どうしたの、と顔を覗き込むと、彼女はパッと顔を上げて、
「好きよ」
 と、小さく、けれどきっぱりとした声で告げたのだった。
 胸が高鳴った。息が詰まった。けれど、同じ言葉を返すのが怖かった。自分の気持ちがほんとうに恋と呼べるものなのか自信が持てなかったし、なにより彼女との関係が変わってしまうのが怖かったのだ。なにも返せないでいると、彼女の母親が病室に現れたので土屋は病室をあとにした。家に帰り、ぐるぐるとした気持ちを抱えながら自室のベッドに寝転がって。そして、決意した。明日、必ず「俺も」と伝えに行こうと。
 けれど翌日、彼女は亡くなった。中学一年の、秋の終わりの頃だった。
 もう二度と彼女の笑った顔は見られない。もう彼女はそばにいない。その事実に、目の前が暗くなる。告げられた言葉が、渡された想いが本物だと分かっていながらも、何の言葉も返してあげられなかった。彼女に、応えることができなかった。ふがいなくて悔しくて、ただただ茫然とする。
 そのとき、ようやく掴みかけていた恋というものが、まるでろうそくの火が消えるようにふっと失われた。それによって、土屋は恋という感情が分からなくなった。
 恋愛感情というものがまるで分からなくなってからも勿論告白されることは多かったが、そのどれもに色好い返事をしたことはない。当然だ、彼女らの言う『好き』なんて気持ちが分からないのだから、同じものが返せるはずがない。
 坂口には、そのことを伝えてある。大学二年生の夏休みが直前に迫った、坂口との付き合いもだいぶ気の置けないものになってきた頃。名前も知らない女の子から告白された土屋に、坂口が「付き合うの?」と尋ねてきた。そのときに、土屋は自分の抱えている事情を話したのだ。
「だから俺は、告白されても受け入れられねえんだ」と。そう言うと、坂口は「そっか」とだけ、短く返した。
 そのとき、彼の顔にはどんな表情が浮かんでいたのか。それも、今となっては思い出せないことである。

「まさか、お前みたいな見た目したやつに恋人がいねぇとは思わなかったよ」
 深刻さを払拭するように坂口がカラカラと笑う。
「……お前は、そんな見かけのわりに案外一途なんだな」
 目を伏せたまま告げる。存外に、拗ねたみたいな子供っぽい響きの声になった。
「ははっ、ひでぇな」
 軽い笑い声を上げた坂口はまたごろりと寝転がった。首筋に滲んだ汗が薄く光っている。
「つーかお前が思ってるよりもずっと長いぜ、俺の片想いの期間」
「え?」
「あと数ヶ月で丸二年が経つ」
 土屋は驚いて思わず坂口を振り返った。それはつまり、大学に入学して半年経った頃からということだ。
「……初耳だな」
「そりゃあ言ってねーもん」
 坂口はからからと笑った。
 なんだか、さっきまでと比べて彼も饒舌になっている気がする。今まで心の内に秘めて凍らせていたものが、じわりと融けだしてしまったようだった。蕩けそうな頭では思考力も判断力も鈍っているのだ、お互いに。
「たしかに、随分と長ぇんだな」
「うん」
 短く答えたきり、坂口はふいと目を逸らした。閉ざされた口元がもぞもぞと動いている。言うべきか、言わざるべきか、迷っているかのような仕草。
 言わないでほしい、などと願う権利は土屋にはない。ふたりで閉ざしていた箱を、最初に開けたのは土屋だ。
 坂口がごくりと唾を飲み込む。微かに上下する喉仏。停滞するに相応しいはずだったふたりきりの部屋の空気が、わずかにかき回されていくのを肌で感じる。
「いつの間にか、好きになってた」
 自嘲じみた響きとともに、ぽつりとこぼされた言葉。坂口の目がゆっくりと土屋を捉えた。
「自分が男もいけることは分かってたんだけど、ちゃんと好きになったのは初めてだった」
「男も?」
「ああ、俺、バイだから」
 苦笑するように小さく眉を寄せながら坂口は笑った。
「そうなのか」
「驚かねーの?」
 特別な反応を示さない土屋に、むしろ坂口の方が驚いたようだった。土屋は小さく頷いた。
「べつに、そんな珍しいもんでもねぇだろ」
「そっか、それで俺が告白したときもあんまり驚いてなかったんだな」
「いや、あんときは普通にびっくりした。脳みそがフリーズしてただけだ」
「まじか、全然なんも言わねーから動じてないのかと思ってた」
「友達から告白されたのは初めてだったんだよ」
 すると坂口がふいと目を逸らした。どうやら、この『友達』というものが坂口の心を締めつけているらしい。告白したのに『友達』で居続けることを望んだ理由も、ここにあるのだろうか。土屋はすぐ近くにある坂口の横顔を見つめた。
「なんでお前は、あのとき告白したんだ?」
 本格的に暑さにやられたのかもしれない。そう思いながらも、土屋は口をついて出てくる言葉を止められなかった。
 この、居心地のよい、中途半端な関係を続けたいのであれば、聞くべきではないこと。分かっている。けれど、熱に浮かされた頭ではどうにも止められそうもなかった。……いや、ただそれを言い訳にしたいだけなのかもしれない。
 欠片ほどの大きさになった氷のひとつが、音もなく溶けて消えた。ひとくちだけ口に含んだ麦茶はもう既に生ぬるくなっている。
 土屋は坂口を見つめる。彼はぼんやりと天井を見つめていて、視線は交わらない。項をべたついた汗が伝ってゆく。じっとりと張り付いた髪の毛がひどくうっとうしい。
「……好きなのに、それを隠して友達として付き合ってるのが、……裏切ってるような気がして」
 視線は天井に向けられたまま、ぽつりぽつりと躊躇いがちにこぼされる言葉。小さなその声を聞き逃すまいと土屋は耳をそばだてる。
「でも傍にいられなくなるのも嫌だった」
 坂口の目が、つい、と土屋を捉えた。ふたつの視線が交わる。
「つまり、俺のワガママ。付き合わせちまって悪いと思ってるよ」
 見上げる彼の瞳には、静かな諦めの色が浮かんでいた。まとわりつくような暑さにそぐわない、温度を感じさせないその色が、ひどくさみしく見えた。その目に、痛いほど胸が締めつけられる。土屋は汗の滲む手のひらを握りしめた。
「……なんで俺なんだ」
「そんなの、俺が知りてーよ」
 苦笑するように、眉を寄せた坂口は小さく口の端を上げる。
「分かんねぇ、分かんねぇけど、…………案外お人好しなところ、っつーか」
 言葉を探すように視線を彷徨わせた坂口は頭をかいた。細かな汗が飛び散る。
「……真っ直ぐなところ、とか。人に対して、いつも誠実でいようとしてるのが、なんか、いいなって思った」
「誠実……?」
「うん。大抵の人間は告白されたら適当に付き合っちまうのに、お前は『好きって気持ちが分からないから』って断るじゃん。そういうところ」
 土屋は小さく眉を寄せた。自分のなかでは普通だと思っていたことをそんなふうに言われても、まったく腑に落ちない。
「あと俺のワガママにも付き合ってくれるし」
 自嘲じみた笑みを浮かべる坂口を、土屋は何も言わないまま見つめていた。彼の言うワガママというのは、告白をしたことだろうか。
 それとも、告白をなかったことにしたことだろうか。
「いろんなこと考えすぎるし、不器用すぎてなんか生きづらそうだし。ほっとけねーなって」
「……貶してるだろ」
「ちげーよ、どっちかっつーと褒めてるほうだ」
「うそつけ」
「ほんとだって」
 茶化したような言い方だったが、その声音は本気だと語っていた。思わず土屋は口を噤む。
 融通がきかないところも、器用とは言えない性格も、自覚はしている。もう少し何とかできないものかと思いながらも、生来のものだろうから直しようがないという諦めにも似た享受すら抱いていたそれらの性質。美点とは思ってもいなかった、ただ捨てられずに惰性で抱え続けていただけのそれらを、坂口は両手でまとめてすくい上げる。つきり、と胸のどこかが小さく痛んだ。
「まあ、いいなって思うところなんて、後付けにすぎねーんだよ、たぶん」
 頭の後ろで両手を組みながらそうこぼす坂口に、土屋は首を傾げた。
「じゃあ、いつ好きだなんて自覚するんだ」
「さあな」
 さらりと寄越された素っ気ない返事に、土屋はますます首を傾げた。好きという感情の存在を認めるならば、その始まりだって分かるものではないのか。
 そんな土屋を見て、坂口はふふっと微かに笑った。
「好きになりたいって思ったときには、それはもう好きになってんだよ、きっと」
 歌うように、まるで書かれている文字を読み上げるかのように、確信を持っているようなはっきりとした調子で坂口は告げる。土屋は坂口の目を見つめた。
 好きになりたいから好き。まるで禅問答だ。
「……全然分かんねぇ」
 淀みない坂口の言葉がぐるぐると頭のなかを回り続ける。土屋は手のなかの保冷剤に視線を落とした。既にぐにゃぐにゃに溶けているそれは、ちょうど人肌の温度。ぬるい水滴が指の間からぽつりとこぼれた。
「でも、好きでいるのやめようと思っても好きなまんまなんだから、ままならねぇよなあ」
 おどけるように笑った坂口は、それから静かに顔を背けた。見えないその顔には、どんな表情が浮かんでいるのだろう。
「…………ごめんな」
 こぼされたのは、やけに拙い言葉だった。
「ほんとうに、ただそばにいられたら、それだけでいいから」
 寝転んだ彼の顔は見えない。けれど、その声はいつもより頼りなくて、諦めにも似た響きが滲んでいるようで。
やけに物分かりのいい台詞が、あまりにも彼らしくないと思った。

「……なんで謝るんだよ、謝るんじゃねえよ」
 土屋はぎゅっと保冷剤を握りしめた。既にぬるくなったそれはぐにゃりと容易に形を変える。
お前が悪いわけじゃないだろう。謝らないといけないことじゃないだろう。それが、それこそが、お前の感情なんだろう。
 胸の真ん中あたりの、もやもやと渦巻くわだかまりがもどかしい。奥歯を噛みしめて、漏れそうになる声をころす。鼻の奥がいたい。目の縁があつい。
 ゆっくりと坂口が振り返る。静かな、ひどく静かな目をしていた。茹だるような、まとわりつくような暑さにそぐわないような、さらりとした温度を感じさせない瞳。そのなかには、染みついたような寂しさが滲んで見えて。
 土屋はゆっくりと坂口の真横に手をついた。ふたつの静かな目がつい、と土屋へと向けられる。それを真っ直ぐに見つめ返す。
 吸って、吐いて。大げさなほどの音をたてて繰り返すふたつの呼吸音。
 汗で微かに光る頬を上から見下ろす。
 荒い息を吐く、薄く開いた唇。そこに、土屋は自分の唇をそっと重ねた。はじめて触れたその場所は、驚くほど柔らかくて、ひどく熱い。
 掠めるように触れて、すぐに離れる。
 すぐ目の前にある坂口の目が見開かれる。その目からはうっすらと熱が感じられた。土屋はほ、と小さく息を吐いた。
「どしたの、急に」
 まるで幼い子どもに尋ねるかのような声だった。仕方ない子だ、とでも言うような、少し笑いを含んだ声。胸のおくがざわざわとする。
「さみしいこと、言うなよ」
 体はずっと熱いのに、胸の真ん中あたりからざわざわとした冷たさが滲み出してくる。
 そうだ、これは切なさだ。
 そばにいられたらそれだけでいいなんて、そんな聞き分けの台詞、お前らしくないだろう。いや、変なところで線引きをして一歩引いたところで立ち止まるお前らしいのかもしれないけど。でも、もっと求めてくれよ。好きになってって、好きにならせるって、言ってくれよ。
 ダムが決壊したみたいにどんどん身勝手な思いが溢れてくる。土屋は汗にしみる目を手のひらで拭った。
「泣いてんの?」
「泣いてねぇ」
 土屋はすんっと鼻をすすった。泣いてなんかいないのに。それなのに、喉の奥が痛くて、胸のあたりが苦しい。
「どうしたんだよ」
 困ったみたいに笑った坂口の手が、土屋の背中をさすった。その背中は自分でも分かるほどに汗で湿っているにもかかわらず、躊躇いなく何度も触れてくる。熱い手のひらを感じて、土屋はまたすんと鼻を鳴らした。
「お前がいちいち口に出すから」
 届かない、届かせないつもりだったのだろう。けれど、ちらりちらりと寄越された坂口の想いは、確実に胸のなかに蓄積されてしまっている。だから、少しだけ、ほんの少しだけかもしれないけれど、いつの間にか分かるようになっていた。
 自分のなかに渦巻く感情の名前に、いまだに確信はもてないままだ。
 けれど。そうであればいいと強く思った。
 また手遅れになるのは、嫌だった。
「坂口、好きって言えよ」
 背中に回されている腕を、土屋はそっと掴んだ。べたついた熱さはどちらのものだろう。いや、きっと、ふたりのものなのだ。
 ふたりぶんの熱が体じゅうに浸透する。
「どしたんだよ、ほんとに」
 坂口は訝しむように小さく眉を寄せ苦笑した。それでも、土屋に請われた言葉を口にする。
「……好きだよ」
「俺も、好きだ」
 掴んでいた腕がびくりと震えた。大きく目を見開いていた坂口が、口をパクパクとさせている。金魚みたいだ。土屋はふっと吹き出した。
「え」
 短い、意味のない言葉が坂口の唇からこぼれた。見開かれた目を真っ直ぐに見つめ返して、もういちど、告げる。
「好き。おまえが、好き」
「……それ、ほんとう?」
 坂口の顔がくしゃりと歪んだ。その拍子にぽろんとこめかみから汗が落ちる。きらきらと光るそれが、綺麗だと思った。
「ああ、きっとほんとうだ」
「なんで、急に」
 ぽろりとこぼされた声は、微かに震えていた。暗がりでも分かるほどに、目の前の顔が少しずつ赤く染まってゆく。ぎゅうっと胸が疼いた。なにか言葉をかけたくて、でも声が出なくて喉が苦しい。息がつまる。
 ああ、きっとこれが愛おしさなのだろう。
 噛みしめるように、実感する。
「お前が俺に教えたんだよ、そんなつもりなかったんだろうけど」
 土屋は眉を寄せて、悪戯っ子のように笑ってみせる。暑さに茹だった頭のせいにして、全部伝えてしまいたい衝動に駆られる。たった今気づいたことも、知らぬ間に募っていた想いも、ぜんぶ。
「……まじで」
「まじだ」
「そっか」
 坂口は目を伏せて小さく笑った。わずかに緩んだ頬の動きがなぜだかひどく鮮明に映る。
「でも、いいのかよ」
「なにが」
 やけに切羽詰ったような響きで呟いた坂口は、ぽりぽりと頬を掻いている。躊躇うように僅かに左右に揺れた瞳は、それからおずおずと土屋を捉えた。潤んだそれを、じっと見つめ返す。
「俺、男だよ」
 何を言い出すのかと思えば、そんなこと。呆れる土屋とは裏腹に、坂口の目にはどこか真剣な光が宿っていた。それはどうやら彼にとっては重要なことであるらしい。
「知らねぇよ。知ってるよ」
「なんだそれ、どっちだよ」
 坂口が吹き出す。その笑った顔にさえもどかしさが込み上げてきて、土屋はぐっと息を飲み込んだ。
「今更お前の性別を確認する必要なんてねーし、よりによってお前がそれを気にする必要もねーだろってことだよ」
「……まあ、それはそうだけど」
「もしかして、告白をなかったことにしたのは、それが理由か」
「あー……」
「男同士だから、とか。そんなんも気にしてたのか」
「まあ、こっち側に引きずりこむのはちょっとほら、躊躇いとかあるじゃん?」
「ほんとてめーはバカだな」
 土屋は大きな溜め息をついた。さっきはノリが重要だなんだと言っていたくせに、変なところで怖気づきやがって。
「俺、男からの告白なんて初めてでもねーし、偏見もねぇつもりだよ」
「偏見しないのと当事者になるのはまた別モンだぜ」
 やけにきっぱりとした口調だった。目の前の瞳にふと陰がよぎった気がして、土屋は思わず瞬きを繰り返す。
 その、彼の言う『当事者』にしか分からないことがあるのかもしれない。
 ならば。彼にしか分からないことがあるならば、これからは自分も分かりたい。ぜんぶ一緒に背負いたい。たとえ、甘えた考えだと言われようが、そばにいることを諦めたくない。土屋はごくりと唾を飲み込み、それから口を開いた。
「俺はお前に引きずりこまれるんじゃねぇ、自分から飛び込んでいくんだ」
 目を見開いた坂口が、ひゅ、と喉を鳴らした。
「だからお前は堂々と両手広げてたらいいんだよ」
 そしたら、さみしくなんてないだろ。心のうちでそう呟いた土屋は、坂口の手を取り、自分の火照る頬に押し付けた。熱いその手は、熱いのにかすかに震えている。また胸がぎゅうと詰まる。
「たしかに気付かせたのはお前だけど、でも、好きになったのは、俺の感情だ」
 頬に当てた手がぴくりと震える。それを握る手のひらに、いっそう力を込める。
「巻き込むとか、ワガママとか……」
 言いながら、坂口の潤んだ目をじっと見返す。
「ごめん、とか。もう、言うんじゃねーよ」
 掠れた声で、土屋が言う。懇願にも似た声音だった。ぐすん、といちど鼻をすする。
 土屋の前髪から滴った汗の粒が、坂口の右の目尻のあたりに落ちる。坂口は深く息を吐き出して、ゆっくりと目を閉じた。睫毛のふちから小さな雫が溢れて、汗の粒を巻き込みながらこめかみへと流れていく。その雫の跡を、土屋はそっと指でなぞった。指先に伝わる微かな熱がいとおしいと思った。
 坂口が目を開ける。
 その目の中に、もう寂しさは見当たらなかった。
「おまえ、急にイケメンになるんじゃねーよ」
 ふざけたように笑っているが、その声は微かに湿っている。土屋は自分の口元が緩むのを感じた。
「なに言ってんだ、俺はいつもイケメンだろ」
「そりゃ顔はそうだけどさあ……」
 蚊の鳴くような声で言いながら、坂口は両手で顔を覆う。くるくるの髪の隙間から覗くふたつの耳が薄暗い部屋の中でも分かるほどに赤く染まっている。それが暑さのせいではないことは明白である。堪え切れなくて、ついに土屋はけたけたと声を上げて笑った。
「なんだ、惚れ直したか」
「なんでそんな楽しそうなの……」
 指と指の間から片目を覗かせた坂口が恨めしげな視線を向けてきて、土屋はほんの少し肩を竦めた。
「そりゃあ久しぶりに恋なんてしてんだから、テンション上がってもおかしくねーだろ」
「えー……、すごいぐいぐい来るじゃん……」
「おう、覚悟しとけよ」
 ニッと笑ってみせる。すると、坂口も力が抜けたみたいに目を細めて、口の端を上げた。困ったように少し寄せられた眉にも、触れたらそのまま溶けそうなほどに赤い頬にも、彼の照れが滲んでいる。照れ笑いをするその表情に胸のなかがあたたかくなる。つられるように土屋もまた笑う。
 そうだ。あんな自嘲じみた笑みじゃなくて、寂しい目をした微笑みじゃなくて。ガラにもない顔なんてせずに、ただただ嬉しくて笑っていてほしい。友達でも、男同士でも、好きなんだから当たり前だ。
 そしてその笑顔をずっとそばで見ていたい。これも、好きなのだから当たり前だ。
 こんな簡単なことだったのだ。こんな簡単なことで、よかったのだ。
「なあ、本当にいいんだな」
 肘をついて起き上がった坂口が土屋の目を覗き込む。もう潤んでなんかいないのに、その瞳は夏の日の太陽のごとくきらきらときらめいて見える。
「ああ、当たり前だろ」
 真っ直ぐに見つめ返しながら、大きくいちど頷く。
「じゃ、……これからも、よろしくな」
「おう」
 照れ臭くて首筋のあたりがちりちりするけれど、そんな感覚にもなぜか笑みが溢れてしまう。それは坂口も同じだったようだ。ふたりでくすくすと笑いあう。
 これから先、ふたりの関係についた名前が変わったことで、変わってしまうものも恐らくたくさんあるだろう。怖くないと言えばウソになるかもしれない。それでも、変わらずに彼のそばにいられたらそれでいい。笑っていられたら、それだけでいい。
「あれ、もうお昼じゃん」
 テレビの横の置き時計を見ながら坂口が驚いた声を上げる。時計を見やれば、確かにふたつの針はどちらももうすぐ天辺に辿り着きそうになっていた。いつの間にやら結構な時間が経っていたらしい。と、そのとき、坂口の腹の虫が大きな声で鳴き喚いた。へへ、と頬を掻く坂口に、口元が緩む。
「昼飯食いに行くか」
「やったー、腹減ったから近いところな」
「わかったわかった」
 立ち上がり、財布と鍵を引っ掴む。
「あっ、あそこにしねぇ? あの角んとこの定食屋」
 追いかけるように立ち上がった坂口が弾んだ声で提案する。
「いいな、安いし」
「だろ。扇風機買わなきゃだからな」
「そうだったな」
「あっそうだ、この家にも風鈴吊るそうぜ」
「しょうがねーなあ。どこで買うんだ」
「それが、この前商店街の中の店でいいの見つけちゃってさあ」
「じゃあ飯食ったあとでそこ行くか」
「そのあと扇風機な」
「はいはい」
 今までと変わらない会話なのに、心はふわふわと浮き立っている。溶けそうなほどの暑さもベタついた汗も今は何ひとつ気にならない。
 重いドアを開けて、外に出る。薄暗い部屋から一変して、まばゆいほどの明るい世界が目の前に広がる。
 賑やかな蝉の声が楽しくて、金色の陽の光はきらきらと鮮やかで、遠い青空はどこまでも透き通っていて。それは、今まで見たどの景色よりも鮮明で鮮烈で、綺麗だ。
 輝く青空と夏の日差しのなかを、ふたりは並んで歩き出した。
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