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今は何も言わないで

中編

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「おいおいおいおい、どうしたんだよ肱川ァ、元気ないじゃねぇか」
「……ほっといてくれ」

 遅刻ギリギリで登校した僕に相変わらず高いテンションで話しかけてくる孤塚にげんなりしながら答える。変な笑い声を上げる彼のペースに付き合っていられるような心境でもない。しかしそんな僕の反応が面白いのか、彼は楽しそうに笑い続けていた。孤塚なんかより、ズボンの右のポケットに入っているスマートフォンに全神経を集中させる方が余程優先度が高い。今の僕は、ほんの僅かなバイブレーションすら見逃すことはないだろう。

「やーっぱり嶋村サンがいないとなのか、アレなのか? お熱いこってねぇ、ぬはへへへへへへ」

 ここは怒った方がいいのだろうか。数秒ばかり間を置いてしまえば、瞬間的に湧き上がった怒りの感情は何処かへと消えていった。僕の複雑な感情を察したのか、近くにいた貫田さんがこちらに向かってやってくる。どうやら孤塚の馬鹿笑いは聞こえていたようだ。大きな黒縁眼鏡を落としそうなほど俯きながら、小さな声で呟く。

「で、でもちょっと心配しちゃうな。去年は無遅刻無欠席だったのに。学校にも何も連絡してないみたいだよ?」

 心臓が飛び跳ねる。学校に連絡していないという彼女の話が本当だとすると本当に何かあったのかもしれない。嫌な汗が背中どころか全身から吹き出してきた僕に、貫田さんはわたわたと慌てはじめた。

「わ、私、変なこと言っちゃったかな、ごめんね肱川くん」

 彼女は何も悪くない。心臓が暴れ回っている。胃の中がぐるぐる回る。荒れ狂う焦燥感は、考えれば考えるほど僕の視界を狭くしていく。考えすぎかもしれない。僕がただ不安に思いすぎているだけなのかもしれない。それでも狭くなった視界では、それすら考える余地はなかった。この眼で見たいのは、ただ一つ。つまりは一人だけだった。

「ごめん、貫田さん。ちょっと体調を崩したみたいだ」
「へ?」
「早退する。先生にはうまく言っといてくれ」

 椅子を蹴り飛ばしながら立ち上がる僕を、貫田さんが驚いた顔で見ていたがフォローする気にはならない。とにかく、とにかく急いで彼女の元に行かなければならない。先ほど机の脇に引っ掛けたばかりのカバンを掴み、廊下に向かって歩き出す。

「慌てるのはいいけどよぉ、嶋村さん家の住所とか知ってるのか?」

 登校するときに気づいていたはずのことすら忘れていた。あの十字路から自宅と学校方面ではないとして、あそこがどのようなルートを辿れば彼女の家に着くのか皆目検討もつかない。それでも行かなければならない。

「まさかオマエ、もしかして、もう、嶋村さんと――!」

 目を大きく見開きながら阿呆なことを言い出した孤塚と、一瞬で眼鏡が曇るほどに顔を赤くした貫田さんには何も言わなかった。くだらない問答をしている余裕などはない。逸り続ける気持ちだけが、とにかく僕の足を前に進めようとする。ただそれだけのことなのだ。

「知らない。でも、行かないと」

 気持ちは不思議とはっきり声に出ていた。一日ぐらい学校に行かないところでどうにかなるわけではない。あの周辺を何時間でも探すつもりだ。そこまで広くない住宅街だ。虱潰しに探し回ればそのうち彼女の家を見つけ出すことができるはずだ。あまりにも向こう見ずであることはわかっている。幾ら何でも馬鹿馬鹿しい考えだ。それでも動いていないと内臓という内臓が捻れてひっくり返ってしまいそうなほどに、今の僕は嶋村七海を欲しているのだ。

 ここ何ヶ月も彼女と過ごしてきた。同級生を襲いかかった彼女を監視して、見極めようとしているつもりだった。今思えば、彼女の妖しい瞳に射抜かれた時にはもう彼女の術中に嵌まっていたのかもしれない。彼女が隣にいないと、もう僕は普通でいられないのだ。

「……言ってきなよ。私の方で先生に聞いたりして調べてみるから。わかったらメッセ送るね」

 落ち着きを取り戻していた貫田さんが、真剣な顔でこちらを見ていた。あまりにも有難い申し出に出来る限りの笑顔で答えたつもりだったが、どことなくぎこちない笑みを浮かべてしまった気がする。誤魔化すように小さく咳払いをした。

「ありがとう、助かるよ。それじゃ、行ってくる」

 小さく手を上げ、素早く教室の外に出る。もうすぐホームルームが始まるというのに、教師の姿は見えなかった。見つかったら見つかったでそれなりに面倒なことになりそうだ。とにかく急がなければ。

「避妊はしろよー、ぬわへへへへへへ」

 微かに耳孔を通り抜けた孤塚の笑い声は聞かなかったことにして、出来るだけ足音を立てないように小走りで昇降口へと向かっていった。

 靴を履き替え、半開きの校門を通り抜けてしまえばこちらのものだ。制服で交差点の周辺を徘徊するのは良くないことな気がしたが、そこまで気にしていたら何もすることが出来ない。そもそも家に帰って着替えたとして学校をサボったことを知った親に何を言われるか分からない時点で、僕が取るべき行動は限られていた。とにかく進まなければならない。早足でもいつもの十字路までそれなりの時間がかかる。帰り道と全く同じルートで歩いていく。

 十五分ほど歩くと、嶋村さんとの集合場所である十字路に着く。スマートフォンのメッセージ画面では、嶋村さんの既読を知らせるマークは未だ付いていなかった。再び激しくざわつき出す僕の脳を鎮めるようなメッセージ音。送り主の丸々とした冬毛のエゾタヌキという見覚えのないアイコンに眉を顰める。一瞬誰からのメッセージかわからなかったが、名前やアカウントのIDからして貫田さんだと判断し受信画面を開く。そこには簡潔なメッセージと、近くの位置情報が記されていた。どうやらそこが嶋村さんの自宅のようだ。

 改めて感謝を伝えるメッセージを返信し、地図アプリを起動する。コピーしておいた位置情報を貼り付ければ、スマートフォンはその場所へと案内してくれる。どうやら少し歩いた先にある小さなアパートの一室ようだ。なんていうか、勝手なイメージではあるがとんでもない豪邸に住んでいるような想像を抱いていた。しかしまぁ、実際はこのようなものなのだろう。実際、自宅も一軒家といっても祖父の代から使っている築五十年近くのオンボロ木造住宅だ。比較するようなものでもない。

 到着したアパートはそれなりに新しい、薄いベージュ色の外壁塗装が特徴的に二階建ての物件だった。そこの一〇二号室が彼女の自宅らしい。隣室の一〇一号室はこの時間だというのに雨戸が閉められていて、表札も付いていない。おそらく空き部屋なのだろう。『嶋村』とだけ書かれたネームプレートが貼られたドアの前に立つ。ここにきて急に怖気付いている自分がいた。教えていない自宅に来て、気味悪く思わないだろうか。迷惑なのではないか。

 頭を振って雑念を振り払う。なんのためにここまで来たのか。嶋村七海が心配だからだろう。親御さんが出たならば大丈夫かどうか聞くだけでいい。それだけだ。意を決した僕は静かにインターホンを押す。機械的な音が流れると同時に、人の気配が動くのを感じた。とりあえず誰か家にいるようだ。ここはまず一安心といったところか。

 足跡がだんだんとこちらに近づいてきて、ドアの手前で止まる。恐らくドアのレンズで僕の顔を確認しているのだろう。もしかしたら家族に僕のことを話しているかもしれない。変に思われるのもよくないことなので、出来るだけ真面目な表情をしてレンズを正面から見つめる。

「あれ? 肱川くん?」

 声を聞いた時、背筋に張っていた不安の糸がぷっつりと切れたような気がした。身体の力が抜けてしまいそうになるのを必死に堪える。鍵とチェーンが外れる音に続いて、ゆっくりとドアが開かれる。

「なんでここに?」

 嶋村さんが驚いた顔をしていた。安心感で頭がぼんやりする。普段ならば連休中に見た私服とは違った、長袖のシャツにジーンズというラフな恰好をしている彼女に新鮮な印象を受けただろう。

「いつものところに来ないし、連絡しても反応ないから、心配になったんだよ。嶋村さんに何かあったのかって思っちゃったんだよ、そしたら学校なんて行けるわけ、ないじゃないか……!」

 思ったより元気そうな彼女を見て、つい声が大きくなってしまった。コンクリートで舗装された廊下に僕の声が響いていくのが自分でもわかる。貫田さんが言っていたようにほとんど学校を休まない彼女が連絡も取らずに休むなんて、何か事情があっただろう。それなのに勝手に心配して、安心して、更には大きな声を出す。あまりの自分勝手さに申し訳なさを感じて目を伏せてしまう。

「心配してくれたんだ。ごめんね」

 情けない男だと失望されてもおかしくはなかった。それでも嶋村さんは僕の手を優しく握ってきた。今日初めて触れる彼女の温もりによって、僕の心がじんわりと溶けていくような気がした。もう、この温もりから離れることができなくなっていることに気付いてしまったのだ。麻薬を彷彿とさせるような嶋村さんの体温にどっぷり依存してしまっている僕に、彼女は優しく微笑みかける。

「玄関先で話すのもよくないよね。とりあえず上がってってよ。お茶ぐらいは出すから、さ」

 完全に想定していなかった。言ってしまえば、焦燥感に駆られて学校を休んだ嶋村さんに会うことだけを考えていたのだ。会って何を話すか、どうするかなんて全く考えていなかったのだ。その上彼女の部屋になんか入ってしまったら、脳がオーバーフローしかねない。親御さんにどう挨拶すればいいのだ。学校をサボって様子を見に来ました、とでも言えばいいのか。数秒間という短い時間ではあったが、ひたすらに脳を稼働させるが、嶋村さんの一言でそれは中断されることになる。

「気にしなくていいよ、私、一人暮らしだから」
「え」

 一人暮らしをしているということに更に驚いている僕が何か言おうとした前に、そのまま嶋村さんは僕の手を引いて玄関に入れてくる。慌てて靴を脱いでいるときに一瞬だけ見えた嶋村さんの眼は、とても妖しく輝いていた。重い音と共に金属製のドアが閉められる。何故か、大きな大きな蜘蛛の巣の中に入ってしまったような気がした。
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