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今は何も言わないで

後編

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「じゃあお茶淹れてくるから、少し待っててね」

 初めて入る女の子の部屋。はっきり言って、緊張しないわけがない。主人が消えた部屋の中に一人取り残された僕は出来るだけ部屋を汚さないようにクッションの上に座る。頭の中は相変わらず、さまざまな感情が入り乱れていた。

 それにしても、この部屋は同年代の子の部屋とは思えないほどに殺風景だ。真っ白な部屋にシングルベッドと机、それと教科書や何冊かの小説が納められただけの本棚が一つだけあるという、生活感が薄い部屋に僕はなんとなく違和感を感じていた。彼女のいた名残というか、残り香のようなものがなければ主人のいない家具付き物件を見せられても気づかないだろう。

「お待たせ」

 そんなことを考えている間に、二つのマグカップを持った嶋村さんが器用にドアを開けて部屋に入ってきた。赤と青のマグカップには、どちらもアナグマの可愛らしいイラストが描かれている。あの店で買ったものだろうか。真っ白な部屋に二つの色が追加された。

「ありがとう」

 差し出された青いマグカップを受け取り、氷が入れられた緑茶を一口飲む。爽やかな香りが動き回った身体を癒していくように染み渡る。

「どうして休んだのか、聞かないんだ」

 嶋村さんの言葉に何も答えず、目を伏せる。正直なところ、聞いて楽になりたいという気持ちはある。体調を崩したわけでもなさそうな彼女が、なぜ学校に連絡すらせずに休んだのか。

「女の子にはいろいろあるのよ」

 嶋村さんは僕の対面に座りながら、小さく呟く。そんなことを言われたら、どう反応していいのか困ってしまう。必死に言葉を探し続ける僕が面白かったのか、目の前の嶋村さんは悪戯っぽく笑っていた。

「冗談よ。ちょっと親族に何かあったみたいでね。昼頃から家を出るつもりだったの。連絡忘れてて、ごめんね」

 微かに目を逸らしながら話す彼女の言葉を、何故か飲み込むことが出来なかった。僅かな時間ではあるが嶋村さんとこうやって過ごしていたなかで、初めて見せる『嘘っぽさ』に違和感を感じていたのだ。根拠など、全くないのだが、やはり目の前の嶋村七海という女の子は何かとてつもない隠し事をしているのを改めて確信する。四月の傷害事件、先日の植木鉢どころか昨日の事件すらも、なにか関連があるような気さえしてきている。

「ねぇ」

 僕の思考を遮るように、嶋村さんが僕の眼を真っ直ぐに見つめていた。妖艶に輝いた彼女の眼が、僕の周りの空気に重量を与えていく。肺に取り込まれる空気すらも、粘度を帯びていくようだ。脳に酸素が行き届かず、思考が段々と狭くなっていく。

「肱川くんって、大切なものってある? 生きていく上で、必要不可欠なもの」

 まるで蜘蛛の巣に絡め取られたようだ。粘り気のある空気が彼女の声を増幅させて僕の鼓膜へと直接入り込んでいく。脳を揺さぶられていく感覚に、身悶えしそうになるのを必死に堪えていた。僕の反応すらも嶋村さんの掌の上なのだろう。愉しげに笑う声すらも、僕の全てを蹂躙していくような気がした。

「私はね、潤いだと思うの。渇いたまま、何事も起きずにただ漠然と生きているなんて、殆ど死んでいるようなものじゃない?」

 渇いた生き方。僕が今まで選択してきた生き方だ。出る杭にならず、ひっそりと生きる。それが正しい選択だと思っていたのだ。それが殆ど死んでいると例えられたことに、側頭部を思い切り殴りつけられたような衝撃を受けた。

「私だったらそんな生き方、耐えられない。何事もなく日々を過ごして、進学して、結婚して、子供を作る。人によってはそれはとても幸せなことなのかもしれない。でもね、でもね肱川君。そんなのはただ渇いているだけなのよ」

 艶やかな唇から、赤く長い舌がちろりと出る。同年代の女の子とは思えないほどに色っぽく生々しい仕草に脳の中心部の方、具体的には本能を司るところあたりが悲鳴を上げている。短い人生の中ではあるが断言できる。テレビの向こう側や雑誌に載っている人も含めて、嶋村七海という女性は今まで見てきたどんな女性よりも美しい存在だ。

「そんな生き方、壊したくなるのよ」

 だからこそ、自分が恐ろしくなるのだ。彼女の全てを許してしまいそうになる。正義感だとか倫理だとか、全てをかなぐり捨てて嶋村さんの隣にいたいという衝動が僕の頭の中で暴れ回るのだ。自分がまともな思考ができていないことなど、とうに理解している。それほどの引力というか、魔力のようなものが彼女には存在するのだ。

「肱川くん」

 この眼だ。この眼が僕を狂わせる。一層強くなった瞳の輝きと熱のある吐息が、僕の意識の奥の奥にある根源を深く深く切り込みを入れていく。もうわけがわからない。情愛と畏怖と性欲と困惑と羨望と不安でぐちゃぐちゃだ。口角を大きく上げ、目を細めて笑う彼女は、見る人によってはぞっとするような恐怖を与えるものに感じるだろう。それでも、今の僕にとっては地獄の底の底の底の底で見た菩薩のように神々しく、侵してはならないものに見えていた。

「何もかも壊したくなるときって、ある?」
「嶋む――」

 彼女の言葉になにか答える前に僕は嶋村さんに抱きしめられていた。蜘蛛の巣の主に絡め取られた僕は、柔らかな感触に埋もれていく。子供の頃に母から慈愛をもって抱きしめられた時とはまた違う、なんともいえない不思議な感覚に困惑する。『彼女』に抱かれることは、こんなにも心がざわつくことなのだろうか。こんなにも僕の脳を掻き回すものだろうか。このまま溶けて無くなりそうになるのを必死に堪えた僕の口から出た言葉は、自分自身でも何故このタイミングで放たれたものかは分からなかった。

「植木鉢を落としたのは、嶋村さんなの、か?」

 嶋村さんは僕の問いに答えることはなく、耳元で優しく笑うだけだった。壁掛け時計の音だけが、小さく反芻して聞こえている。

「四月の夜のこと、何か知ってるんだろ?」

 またも嶋村さんは僕の問いに答えることはなく、耳元で優しく笑うだけだった。時折耳孔に入り込む嶋村さんの吐息によって、身体が勝手に動いていく。空いていた両腕を彼女の背中に回すと更に密着する形になっていくことにより、僕と嶋村さんの心音が不思議なビートを刻んでいく。彼女の心音は落ち着いた優しいものではあったが、僕の心音は大きく、そして激しいものだ。奇妙なアンサンブルではあったが、今の僕にとってはそれがとても心地よく感じていた。

 それ以上何も話さないまま、時間だけが過ぎていく。いつしか僕の心音は普段通りのものに戻り、時計の音も聞こえなくなっていた。微睡んでいるような心地良さを感じながらも、僕達は体勢を変えることはなかった。

 抱き合ったまま何分経ったかすらも分からない。ずっと離れていたくないと思えるような時間ではあることは確かだったが、その瞬間は抱きしめられた時と同じく唐突にやってきた。急速に失われていく温もりに恐ろしい程の空虚感が全身で暴れ回る。

「このまま押し倒されると思ったんだけど、ウブなのね」

 衝撃的な言葉に再び心臓のビートが急速に早まる。顔が燃えそうな程に熱を持っている僕を見て、嶋村さんは楽しそうに笑う。

 このまま彼女の挑発に乗ったらどうなるのだろうか。きっと、それもそれで彼女の想定の内なのだろう。温もりを求めて再び伸ばしそうになる両腕を意識の力で無理やり押さえつけながら、机の上に置いていった氷が溶けきったマグカップの中身を飲み干した。

「いいわ、また今度にしましょう。なんかフェアじゃないものね」

 正午を告げるメロディが町中に響き渡る。もうこんな時間なのか。あっという間だなと思うと同時に、嶋村さんが昼頃に出かけると言っていたことを思い出す。彼女が何を考えているのかわからない。それでも、昨日起きた事件にも彼女が関わっていることを確信する。僕が付き合っている『カノジョ』をこのままにしていいのか、わからなくなっているのだ。

「今は何も言わないでいいよ。ゆーっくり、考えて、ね。私は、キミの答えをいつでも待ってるから」

 音もなく伸ばされた嶋村さんの手の平が、僕の顎をゆっくりとなぞる。脊髄を走る甘い電撃が、僕の思考を再び中断させた。
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