REED

いずみたかし

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2章

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 あれは俺が幼稚園の頃だっただろうか。その日は参観日か何かであいつが来ていたようだった。周りの友達と馴染めずに一人で遊んでいたのを見られ、帰宅後に罵詈雑言を浴びせられた。
「お前は負け組になりたいのか」
 そう怒鳴りつけられ、水の入った浴槽に何度も何度も顔を押し付けられたのを覚えている。息が苦しい。やめてよ。お願いだからやめてよ。

* * *

 西東京大会の準々決勝は二日間かけて実施される。準々決勝一日目、七月二十二日の第一試合は芦田孝太郎達の三鷹第二高校と慶応実業高校の試合が行われる予定だ。慶応実業高校野球部の実力は西東京で五本の指に入っており、その五本目の小指にあたるといった所だ。西東京地区という激戦区の中で夏三回、春四回の甲子園出場記録を持っているが、ここ8年は甲子園出場を果たせていない。今年はドラフト候補に挙げられる選手もいないようだが、それでも三鷹第二高校にとって手強い相手には違いなかった。
 バスが神宮球場に到着し、選手たちが続々とバスから降りてくる。
「おぉー。神宮だよ、神宮」
 深瀬透が子供のように興奮しながらスマートフォンで写真を取り始める。
「緊張感持てよ、馬鹿」
 藤崎克也が深瀬の後頭部をゲンコツでコツンと突き、たしなめる。
「今までの試合とは違うんだからな」
 写真撮るぐらいいいじゃんか、と深瀬は拗ねながらスマートフォンをセカンドバッグにしまう。緊張感のないエースに厳格な四番が釘を刺す。何度も見てきたこの光景に芦田は少し安心する。今日もいつも通りだな、と。
「芦田さん、芦田さん」
 球場外でのウォーミングアップを始めるために、荷物を置きに行こうと歩いていると、レギュラーメンバーで唯一の二年生の中島啓太が声を掛けてくる。
「今日、俺の初先発ありますかね?」
 ああ、ここにも緊張感のない奴がいた、と芦田は半ば呆れながら答える。
「分かんないよ。俺も監督から何も聞いてないし。でも気持ちは準備しとけよ」
 ついに今大会初先発かー、と啓太は芦田の話を聞いているのか聞いていないのか、勝手に都合のいい方に解釈し、顔をほころばせながら歩を進める。
 啓太は三鷹第二高校の二番手投手であるが、非凡な守備、バッティングのセンスを買われて普段はセンターとして試合に出場している。今大会ではリリーフとして数イニングしか投げておらず、うずうずしているのだろう。
 芦田は仲間達のやり取りを見ていると、準々決勝という舞台にも臆さないその様子に頼もしさを感じる。
だけど。だけど、ピースが一つ欠けている。
 芦田の頭に一つの感情がよぎったが、今はそんなことを考えている時ではないと、芦田は自分の頬を叩いて邪念を振り払う。球場入り前のウォーミングアップを始めなくては。

 夏休みに入ったというのに、まだ準々決勝だからなのか、球場のスタンドへの人の入りはさほど多くない。天気予報での最高気温は三十四度と発表されており、炎天下での試合が行われている。
 三鷹第二高校対慶応実業高校の第一試合は〇対〇のスコアのまま三回の裏に突入し、ツーアウトながらランナーを二塁に置いた状態で、三鷹第二高校の攻撃が続いている。
「四番、ショート、藤崎君」
 場内のアナウンスと共に藤崎克也がバッターボックスに入る。183cmという身長で、がっしりとした体格をしている克也は塁上から見ても威圧感がある。
「克也―。シングルでいいからな。楽に行けよ」
 二塁ランナーの芦田は外野手の守備位置を確認した後、打者の克也にそう声掛ける。外野手はバックホーム体制を敷かずにやや後ろに守備位置を取っている。つまり、シングルヒットを打たれて二塁ランナーを返されるのは仕方ないと考え、克也の長打力を警戒するシフトを敷いているのだ。慶応実業高校はこの一点は取られてもいいと踏んでいると芦田は認識した。まだ序盤だしそれが定石だよな、と思いながらも先取点を取れるこのチャンスは確実にモノにしたかった。
 三回の裏の攻撃は一番打者の芦田から始まった。芦田は慶応実業高校のエースピッチャーである細野(ほその)到(いたる)の甘く入ったストレートをセンター前へきれいに弾き返して出塁した。続く二番の金平が送りバントを難なく決めて芦田を二塁へ送ったが、三番の城田(しろた)はツーナッシングからボール球のカーブにバットが回り、あえなく三振。ツーアウトランナー二塁の今の状況に到る。
 三鷹第二高校のスタンドからも、ベンチからも四番に対する信頼からなのか、大きな声援が克也に浴びせられる。この熱気の中、慶応実業の細野、そして今バッターボックスに立っている克也も汗の量は尋常ではない。
 細野がセットポジションに入り、投じた第一球は外角のストレートだった。克也は打つ気配は見せずにそのボールを見送り、審判からはストライクのコールが球場内に響きわたる。おいおい、今の球甘いじゃないか、ベルトの高さだろ、と芦田は若干やきもきする。一塁は空いてるし、厳しく攻めてくるだろうと思っていたが、相手投手にもプレッシャーがかかっているのだから失投もある。それを狙い打てよ。
 二球目は外れてワンボールワンストライクからの三球目も克也は見送る。これもストラ
イクでツーナッシングと追い込まれた。ここまでの三球は全てストレート。三球目は一球目ほど甘いボールではないが、それほど厳しいコースでもないように思える。
 ここまでの三球の様子を見て、芦田は以前克也が言っていたこだわりを思い出す。
四番の仕事は点を取るだけじゃなく、相手投手にダメージを与えることだ。だから俺は相手の最も得意とするボールを打ちたい。
 その論理には納得できるが、今日の相手は格上で、ここは確実に先取点が欲しい所だ。昨日のミーティングでも甘く入ったストレートを狙うと話をしたし、克也なら一球目と三球目のボールはヒットにできたんじゃないかと芦田は思う。慶応実業高校の細野の持ち球は130km/h台後半のストレート、スライダー、そして決め球の・・・・・。
 細野がセットポジションの状態から左足を上げ、ヤジロベエの様な状態を作り、しっかりとテイクバックを取ってから腕を振りぬく。ボールが放たれ、今までの三球とは異なる軌道を描く。決め球の縦のカーブだ。克也はやや態勢を崩しながらもバットを振りぬき、打球はセカンドの後方へふらふらっと上がる。「落ちろ―」というベンチからの叫び声が届いたのか、打球はセカンドとライトの間にポトリと落ち、二塁ランナーの芦田はホームインする。
 芦田はバットの先っぽに当たったポテンヒットじゃないか、と敢えて冷ややかな視線を克也の方へ送る。すると克也はタイムリーはタイムリーだろ、というようなドヤ顔で返してきた。ベンチもスタンドもどよめきが起こっている。
 何はともあれ三鷹第二高校は先取点を獲得した。

* * *

 雲一つない青い空の下、どんよりとした沈んだ気持ちで自転車のペダルを漕いでいる。サイクリングは黒崎始の数少ない趣味だったが、ペダルを漕ぐ足に力が入らない。黒崎は三鷹市の武蔵境通りを南下し、多摩川を目指していた。ここ一か月程は学校に行く気力が起きない日もあり、何の目的もなく多摩川まで行き、ボケーッと川を眺めていることもしばしばあった。
 片側一車線の武蔵境通りの車通りは多くない。黒崎はのろのろと進みながら、反対側の歩道を私服で歩く若い男女に目が行った。中学生なのか高校生なのか分からないような見た目の二人組は、今の黒崎とは対照的な表情で楽しそうに話をしている。そうか、もう夏休みなのかと黒崎は思う。先日の終業式も欠席したためか、黒崎には夏休みという実感が湧いていなかった。
 目的地である多摩川が見えると、黒崎は河原へ降りて自転車を止める。自転車を止めると川辺まで歩いていき、立ったまま多摩川を眺める。対岸には葦が生い茂り、風が吹く度になびいている。黒崎はその葦を見て「人間は考える葦である」というどこかの偉い人の名言を思い出す。葦は風が吹くとすぐに風に持って行かれてしまうが、風が止むとすぐに起き上がる。それを人間の弱さと強さに例えて表現した言葉だったような気がする。だとしたら俺は弱さしか持たない出来損ないの葦だな、と黒崎は思った。
 その日の多摩川は太陽の光が反射して、キラキラとしておりとても美しかった。そのキラキラとした様から、先ほど反対側の歩道を歩いていた男女を思い起こさせる。少し先の未来にワクワクすることから生じる輝き。黒崎はそのような輝きを連想させる美しい風景を見ても心が洗われる気はみじんもしなかった。
 今頃準々決勝をやっているんだろうな、と黒崎は思いを馳せる。そして、野球部に所属していた頃を思い返すが、出てくる記憶はマイナスのものばかりだった。

 あれはいつの記憶だっただろうか。シートノックの最中にショートの黒崎は真正面の強い打球に対して上手くバウンドを合わせられず、打球を弾いた。
「おい、何回同じことやってんだよ」
「難しい打球じゃねえだろ。やる気あんのか」
 その日の一回目のミスだったが、周りからは厳しい罵声が飛んでくる。毎度のことだが、そのたび黒崎は胃がキリキリする思いだった。
 続いてショートのレギュラーの藤崎克也に対してノッカーが打球を打つ。克也は素早い動きで打球に反応し、逆シングルで打球を取ろうとしたが、ポロリとボールをこぼした。
「へいへーい、どうした克也」
 周りからは冷やかすような声が掛かるだけ。黒崎は自分がエラーした時との反応の違いに苛立ちを覚えた。信頼の置けるレギュラーのミスは強く咎めず、足でまといの自分のミスだけ厳しく糾弾するのか、と。
 克也への打球はきっちりと正面へ回り込み、両手で捕球すれば、今の様な雑なミスは防げたんじゃないか。実力のある克也が、本来持っている能力をきちんと発揮すれば処理できる打球をこぼしたことにこそ厳しい声が掛けられるべきなんじゃないか。なぜ、元々実力を持っていない自分がその実力通りにミスした時だけ、強く咎められるのか。同時に、こういう捻くれた考え方をしているから俺は駄目なのかと黒崎は思うが、違和感は消えなかった。
「どう?似てるだろ?」
 その日の練習後、黒崎がグラウンドにあるブルペンの脇を横切ろうとすると、その後ろから同級生の野球部員の声が聞こえてきた。
「マジで似てるよ。その動き、黒崎そっくり」
 もう一人の部員が笑いながらそう返した。おそらく、運動神経の鈍い黒崎の守備かバッティングのフォームを真似して馬鹿にしているのだろう。
「ハハハッ」
 甲高い笑い声が聞こえてきた。克也の声だった。黒崎はふと立ち止まり右側を振り向くと、三人の部員の内、一人と目が合った。
「ヤベッ、黒崎」と一人の部員がそう呟くと、もう一人が「マジかよ、聞かれてたんじゃね?」と少し焦りながら二人に話しかけた。
 黒崎は自分が陰口を叩かれたり、馬鹿にされたりしていたのは薄々感づいていたが、ばつが悪くなり、その場を立ち去ろうとした。
「おい、黒崎」
 すると、克也が黒崎の方へ近づきながら、呼びかけてきた。
「お前さ、何でまだ野球やってんの?」
 黒崎は藤崎克也が苦手だった。威圧感のある体格と辛辣な物言い、そして人相の悪い吊り上った目を見ると胸の奥で嫌な鼓動が聞こえてくる。
 はっきりとした口調でそう言われ、黒崎は何も答えられなかった。
「お前がいると練習になんねえんだよ、特に実戦形式の練習の時な。お前向いてないんだよ。野球だけじゃなくて、運動全般。自分でも分かってるだろ?高校野球じゃ全く通用しないって。もう辞めた方がいいと思うぜ」
 そう言い残し、克也と共に他の二人も去っていった。そんなことは言われなくても分かっている。でも、それでも野球が好きだからこうやってしがみついているんじゃないか。黒崎は悔しくて、唇を強く噛みしめた。
 そんなことを言われても黒崎は野球を辞めなかった。だが、克也から言われた言葉はずっと黒崎の心に染みついていて、自分のやっていることに疑問が芽生えてきた。才能がないのに、野球を続けることが馬鹿馬鹿しいことなんじゃないかという思いが徐々に黒崎の心を支配していった。そして、今年の六月、チームの居心地の悪さと相まって、黒崎は耐えられなくなり野球部を辞めたのだ。
 もちろん全員が黒崎に対して冷たかったたわけではない。特にあの二人、芦田孝太郎と有村愛は一年生の時からチームで孤立しがちな黒崎のことを気にかけてくれた。

「黒崎、左手見せてくんない?」
 ある日の練習後、残っている部員は黒崎と芦田だけだった。黒崎はその日の練習後、一人で黙々とバットを振っており、芦田はネットを使って捕手の二塁への送球(スローイング)の練習をしていた。練習を切り上げた芦田が黒崎に声を掛けてきた。
 右打者である黒崎はバットを丁寧に地面に置いて、左手のバッティンググローブを外すと、大きなマメができている左の手の平を芦田に見せた。
 芦田は黒崎の手の平を見ると、納得したような表情で頷きながら聞いてきた。
「お前、家で相当バット振ってるだろ。一日どのくらい振ってる?」
「六百ぐらい、かな」
 マジかー、負けたー。芦田は天を仰ぐようにして声を発すると、続けてこう言ってきた。
「黒崎最近スイング速くなったな、と思ってさ。やっぱそんだけ振ってんだなぁー。俺も負けないように頑張るよ」
 黒崎は単純に嬉しかった。自分の努力を認めてくれたこと、そして野球部の中で最底辺に位置している自分の実力がほんの少し向上したことに気づいてくれた人がいたことが。
「この後さ、バッティングセンター行かない?駅前の」
「うん、いいよ」
 三鷹第二高校から駅前のバッティングセンターまでは自転車に乗って十分ほどで着くことができる。黒崎は芦田に誘われ、二人でバッティングセンターへ行った。交互に同じ打席に入り、芦田からバッティングについてアドバイスをもらったのを今でも覚えている。
 マネージャーの有村も黒崎に良く声を掛けてくれた。野球部を退部しようと思った時、あの二人に対する申し訳なさはあったが、それでも黒崎はもう野球部には居たくないという思いの方が強かった。

* * *

 準々決勝第一試合は九回表を迎えていた。三回の裏に三鷹第二高校は藤崎克也のタイムリーヒットで一点を先取したが、六回の表にワンナウトランナー二塁三塁の状況で、深瀬透の甘く入ったスライダーを慶応実業高校のエースで四番の細野到に左中間に持っていかれ、二点を失った。だが、七回の裏に六番打者の中島啓太がツーアウト満塁から右中間を破る走者一掃のスリーベースヒットを放ち、シーソーをひっくり返したのだ。
 四対二と二点リードで九回表を迎えた三鷹第二高校だが、ワンナウトランナー一塁二塁という状況で三番の羽田(はねだ)を迎えている。一塁ランナーを返されれば同点という予断を許さない状況だ。ネクストバッターサークルには今日二安打を打たれている細野が控えており、できればその前で終わらせたいと芦田は考えていた。
 マウンド上の深瀬の球数は140球を越えていたが、深瀬はニコニコというよりヘラヘラ笑いながらバックに声を掛けている。
「深瀬さーん。打たせていきましょう」
 センターの啓太からよく通る声が聞こえてくる。
 深瀬は前の二番打者を四球(フォアボール)で出していた。とすれば、三番の羽田は初球ストライクを取りに来ると思い、そこを狙ってくる可能性が高いと芦田は思案していた。
「三番、ライト、羽田君」
 芦田は深瀬に対してサインを出し、深瀬は迷いなく頷く。できれば、ゲッツーで終わらせたいという芦田の思いのもと、サイドハンドから投じられた一球は右打者の羽田の方向に曲がりながら沈む軌道を描くシンカーだった。芦田の読み通り、羽田は初球のシンカーに手を出し、打球はショートの克也の方へ転がっていく。克也はスピード感溢れる動きでセカンドの金平へボールを送り、金平がファーストへ転送する。流れるようなダブルプレーが完成し、試合は四対二で三鷹第二高校の勝利が決まった。ついにベスト4、準決勝への切符を手にしたのだ。
 克也はヨッシャーと雄叫びを上げ、啓太は自分の決勝打で勝利を決めた喜びを体全体に醸し出しながら、駆け寄ってくる。芦田はふと、深瀬の方を見ると右手でお腹を押さえながら何かを呟いていた。ある程度距離が離れていたので、その呟きは聞こえなかったが、口の動きは「腹減った」のように見えた。

「夏のベスト4は三鷹二高野球部初の快挙ですが、今どういったお気持ちですか?」
 インタビュアーが監督の青柳に問いかける。
「純粋に嬉しいの一言ですね。選手達が良くやってくれました」
「三回の藤崎君のタイムリーは外角低めの難しいカーブを、七回の中島君のタイムリーは高めのストレートートを見事に打ち返しましたが、このバッティングをどう捉えていますか?」
「その場その場の状況で選手達が自分の頭で考えてプレーした結果だと思います。今日取ることのできた四点は結果を出した選手だけでなく、全員一丸となって掴み取ることのできたものだと私は考えています」
 芦田は青柳のインタビューから啓太のインタビューへと視線を切り替える。
「決勝打を放った打席ではどんな気持ちでいましたか?」
「何が何でも打ってやろうという気持ちだけでした。結果が出て良かったです」
「高めのストレートを上から叩きつけるような見事なバッティングでしたが、あれは狙っていたんですか?」
「たまたまです。来た球を打つ事だけ考えてましたから」
 啓太はなかなか頭を使って野球をやるタイプで、来た球をそのまま打つというバッティングはしない。マスコミにはこちらの戦略は明かさずに無難な回答をするということを分かっている。このインタビューによって書かれる記事、報道をどこの選手が見るのか分からないのだから、できるだけこちらの考えていること、思惑は外には出したくないのだ。
「いやー、インタビュー受けるのってすごく楽しいね。芦田もインタビュー受けたんでしょ?」
 今日の勝利投手は何も考えていなさそうなご機嫌な様子で、インタビューを終えた芦田の方に近づいて聞いてくる。
「受けたよ。大したことは聞かれなかったけどね。一応チームのキャプテンとしてインタビューしておきたかったってことなんだろうな」
「そうなんだ。でも芦田も活躍してたじゃん。何かインタビューとか受けるとさー、プロにでもなったような気分だよね。これから街を歩くときはサングラスとマスクが欠かせないな」
「何がサングラスとマスクだよ。地区予選のベスト4じゃそんな注目度はないよ」
 おどける深瀬に芦田はまともに返答を返す。少しノッてやってもよかったかな。

「監督。全員揃っています」
 キャプテンである芦田は選手全員がバスに乗り込んだことを監督の青柳に報告すると、行きのバスと同様に啓太の隣の席に腰を下ろす。座った瞬間に今日の決勝打の喜びをずっと聞かせられるかと思ったが、啓太はスマートフォンを睨むような真剣な目で見つめている。
「芦田さん、今ネットニュースで見たんですけど」
 啓太がいつになく真剣な表情で話すので、芦田は啓太の話にしっかりと耳を傾ける。
「桜三高、不祥事で出場停止が決定したみたいです」
 一瞬、芦田は啓太が何を言っているのか分からなかった。それぐらい驚愕したが、一呼吸置いてから啓太に聞き返す。
「桜三高って明日試合の予定だろ?不祥事って何やったんだ?」
「部員の喫煙が発覚したみたいです。この記事によると、高野連に匿名で連絡があって、その後に事実が発覚したって感じですね」
 桜第三高校は都内でも屈指の強豪校だ。おそらくこのニュースを聞けば西東京の高校球児のみならず、高校野球に少しでも関心のある者は仰天するだろう。
「芦田さん。俺こういう不祥事とかのニュースを見るといつも思うんですけど」
 啓太は真剣な表情のまま話し始める。
「なんかこういうのって、気に入らない奴をどん底に落としたいっていう悪意があるような気がするんですよね。もちろん、未成年の喫煙はいけないことです。でも、ここだけの話、俺も中学の頃、煙草吸ってた時期があって」
「で、丁度煙草吸ってる所を運悪く野球部の監督に見つかってこっぴどく叱られました。ずいぶん長い時間説教されて。それで反省して煙草吸うのは辞めました」
 啓太の熱弁に芦田は思わず聞き入っている。
「でも、今回の桜三高みたいな全体的なお咎めはなしで、俺が個人的に叱られるだけで終わったんです。こういうのって大人が子供に直接注意して叱って済む話じゃないかって思うんですよ。ほら、桜三高の野球部って野球は強いけどガラ悪くて評判悪いじゃないですか。そこに高野連への匿名での連絡ってくると、直接人を注意することのできない人間の気に入らない奴を叩き落としたいっていう悪意が働いてるんじゃないかってふと思ったんです。これじゃ、今まで頑張って練習してきた選手は泣くに泣けないですよ」
「確かにそうだよな。世間から嫌われてた所はあっただろうし、そういう人間もいると思う。それにしても、このタイミングで出場辞退ってびっくりだよ」
 芦田は啓太の話に納得する。啓太は普段はお調子者だが、やる時はやる男で自分の意見をしっかりと持っている。礼儀をわきまえる所はきちんとわきまえ、ミーティングでも上級生にきちんと自分の思いをぶつける。だからこそ、チームメイトからの信頼も厚く、次期キャプテン候補として期待されているのだ。芦田は啓太の言った「気にいらない人間をどん底に落としたい悪意」という言葉に思う所があった。かつての芦田もそのような感情を持っていたからだ。
「啓太。ってことは俺達の次の相手は・・・」
 芦田はふと思い起こし、啓太に尋ねる。
「はい。不戦勝で勝ち上がる日野西高校です」

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