REED

いずみたかし

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最終章

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 芦田孝太郎はお墓の前で手を合わせていた。あの出来事から四年近くが経つが、一度もここには一度も来ていなかった。ずっと来ることを恐れていた。
  本当にすまなかった。
 芦田が謝っても山内将太は何も返してくれない。それでも芦田は何度も何度も謝った。そうすることしかできなかった。
「また来るよ」
 芦田はお墓に囁きかけ、墓地の出口へと向かう。砂利を踏み歩く音とセミの鳴き声が混じって芦田の耳に入り込んで来る。今日も気温が三十度を超えており、強烈な日差しが芦田の体から水分を奪っていく。
「もういいの?」
 墓地の出口に辿りつくと有村愛が待っていた。黒崎始も一緒にいる。決勝戦が終わってから既に二日が経過していた。

 西東京大会の決勝戦が終わり、芦田達が負けた悔しさに打ちひしがれていると、救急車のサイレンの音が近づいてきた。早大鶴ケ丘高校のエース、早坂俊介が自分の首を掻き切ったようだった。切れ味のよいカッターナイフは頸動脈を切ったようで、出血多量により早坂は亡くなった。本来なら早大鶴ケ丘高校の優勝というニュースで持ち切りになるはずだったが、どこのマスメディアも早坂俊介の自殺事件を集中して取り上げた。早大鶴ケ丘高校野球部の寮に早坂の残した遺書が見つかり、幼い頃から受けていた父親による虐待について記されていたそうだ。早坂俊介がずっと父親の期待に応えなければいけない恐怖により、ずっといい子を演じていたこと。そのストレスにより、隠れて動物を殺していたこと。高野連に脅迫状を送り付けたこと。早坂の遺書の内容を紹介しながら、少年の心の闇に迫るといったありきたりなフレーズで今回の事件がなぜ起きたのかを検証していた。二年程前は高校野球界のスターとして報道されていた早坂俊介がこんなことをするなどとは芦田を含め、誰もが思わなかっただろう。
 決勝戦の翌日、早大鶴ケ丘高校野球部は部員の起こした不祥事の責任を取り、甲子園出場を辞退すると発表した。同時に西東京代表として準優勝の三鷹第二高校が甲子園に出場することが決定した。

 今日は愛と黒崎に話があったため、芦田は二人を呼んだ。先に愛と合流し、芦田はずっと話そうと思っていた中学時代に自分が行ったことを包み隠さずに話した。早坂が事件を起こしたことにより、皮肉にも甲子園行きを決めてから話すという愛との約束は守られた。
「コウ、時々思いつめた顔で何か考え込んでることがあるから何か抱えてるんだろうなってずっと思ってた」
 愛は悲しそうに目を伏せて話す。
「コウが昔したことは決して許されることじゃないと思う。間接的にではあるけれど、一人の人間の命を奪ったんだから」
 その通りだ。俺のしたこと許されない。どんなに時が経っても、どんなに自分が変わっても。
「でも、私は今のコウが好きだよ」
 目に涙を浮かべながら愛は芦田の右手を握る。
「一生懸命生きようとしているコウが」
 山内が亡くなったことでそれまでの自分の愚かさに気づき、真っ直ぐに歩こうとしてきた芦田を愛は肯定してくれたのだ。
  でも、気づくのが遅すぎたよな、俺。
 もっと早くに気付いていれば、山内は亡くならずに済んだのだ。その事実を胸に刻みこんで前に進んでいこうと芦田は改めに思った。

 お墓参りを終え、墓地からバス亭までの道のりを三人で歩く。
「観てたよ。決勝」
 黒崎が二日前に球場に来ていたことを告げる。
「ありがとな、来てくれて。でも、自分達の力では甲子園の切符を掴みとれなかったよ」
 三鷹第二高校の甲子園出場は早坂俊介の死という不幸の上に成り立っている。そんな結果を手放しで喜べるはずはなかった。
「早大鶴ケ丘も早坂も凄かったけど、芦田達は負けてなんかなかったよ」
 黒崎がはっきりとした口調で芦田に語りかける。
「俺、野球部を辞めてから何もかもがどうでもよくなって、馬鹿なことばっかり考えてた。高校も辞めてしまおうかとさえ思ってた」
「自分の意志で野球部を辞めたくせに、俺を馬鹿にしたり、批判する奴らのせいだって思って心のバランスを保ってた。自分を省みることなんかしなかった」
「だから、決勝も最初の内は負けちまえって思いながら観てたんだ」
 でも、必死で早大鶴ケ丘高校に食らいつく三鷹第二高校の選手達の姿を見て黒崎の心は動いたのだという。
「芦田が決勝観て来てくれってメールくれなかったら、俺は一生ふてくされながら生きていくことになったと思う」
「俺の事を野球部の一員だって言ってくれてありがとな。甲子園でも頑張れよ」
 黒崎の本音が伝わってくる。無口な黒崎がこれだけ言葉を続けるのを見たのは初めてかもしれない。
「黒崎君」
 愛が黒崎を呼ぶ。
「芦田君が黒崎君に返さなきゃいけないものがあるんだって」
 黒坂は何も思い当たるものがないからか、首を傾げている。
「黒崎。これ返すよ」
 芦田が一枚の紙を黒崎に渡す。
「な、何で?」
 黒崎が我が目を疑うかのようにその紙を見ている。二か月近く前に黒崎が提出した退部届を。
「青柳監督に頼んで、高野連に出すのは止めてもらってたんだよ」
 高校野球は一度退部すると戻ることはできない。だから芦田は黒崎の退部届を受け取った青柳に頼み込んだ。青柳も芦田の意志を尊重してくれて、退部届を預かっていてもらっ
ていたのだ。
「言っただろ?黒崎が戻って来れるようにするって」
  甲子園行きを決めて待ってるからな。黒崎が戻って来れるように。
「ほんとに俺なんかが戻ってもいいのか?俺のような欠陥人間は必要ないだろ」
「必要じゃない人間なんていないよ」
 愛が黒崎に言葉を返す。
「私も芦田君も藤崎君も深瀬君も皆どこか欠けてる所がある。一人の人間に欠けてる所があるのは当たり前のことだよ。でも、だからこそチームで補い合うんだよ。黒崎君は欠陥人間なんかじゃない。皆よりもできないこともあるかもしれないけど、黒崎君にしかできないこともきっとあるはずだから」
「俺達には黒崎が必要なんだよ。戻って来てくれ」
 芦田は黒崎の目を真っ直ぐ見て、思いの丈をぶつける。
「うん、分かった」
 短い言葉を発すると共に黒崎の表情が緩む。黒崎の笑った顔を見たのは久しぶりだったような気がした。
 雲一つない青空の下、バス停までの道を歩く。鳥のさえずりやセミの鳴き声は黒崎の復帰を祝福しているように聞こえた。
「早坂の記事を色々読んだんだけど」
 黒崎が口を開く。
「あいつ、本当にひどい虐待を受けてたんだな。俺の父親も酒浸りで仕事もせずに威張り散らす最低な奴だったけど、早坂の父親ほどひどくはなかったと思う。それに母さんが守ってくれた」
 黒崎の家は母子家庭だと聞いたことある。きっと母子共に今まで苦労してきたのだろう。
「早坂はなんであんなことになっちゃったのかな?」
 父親の呪縛から解き放たれたくて、その父親を貶めたかったのだろうか。自分を殺してまで。
「早坂君は」
 愛が黒崎の問いかけに答える。
「早坂君はきっと自分に完璧を求めすぎたんじゃないかな。お父さんに要求されるがままに。完璧な人間なんていないのにね。それで心が壊れちゃったんだと思う」
 誰にだって欠けている所がある。だからこそ人は人の支えが必要なのに早坂はそれを許されなかった。表面的には人気者のスターだったが、ずっと孤独だったのかもしれない。
「この記事、早坂の日記の一部が書いてあるんだけど」
 黒崎がバッグから一枚のプリントを取り出す。
「あいつ、ほんとに野球だけが全てだったんだな」
 黒崎から記事を受け取り、芦田は内容に目を通す。
  ああ、早坂。君は。
 決勝戦の早坂のピッチングを思い出す。一球一球に命を吹き込むようなピッチングを。
  芦田君。
 投げることだけが君の唯一の救いだったんだね。そしてそれにしがみつくこともできないほど、心がグチャグチャになってしまったんだね。
  ありがとう。
 ありがとうじゃないよ、早坂。俺は君にも謝らなくちゃいけなかったんだ。



 あの日は学級委員の仕事があって、教室を出たのは俺が最後だった。昨日もあいつに怒鳴りつけられ、浴槽に溜めた水の中に長時間顔を押し付けられた。今日も家に帰ったら、あの苦しい時間が続くのだろうか。最近あれする回数も増えてきている。俺の精神は限界ギリギリだった。
 下駄箱で上靴からスニーカーに履き替えていると、校舎の壁からドンッという音が立て続けに聞こえてきた。誰かが壁当てでもしているのだろう。陰鬱な気持ちで校舎から出ると一人の少年が壁に向かって野球の軟式ボールを投げていた。ひどく小柄で痩せっぽちなその少年と俺は別のクラスだが、その少年のことは知っていた。発達障害を抱えていながら特別支援学級に通わずに通常学級に通っているらしい。その少年と同じクラスの友人達からは彼の悪口を数えきれないほど聞いていた。
「あのシンショウ、ほんと空気読めねえんだよ」
「何か気持ち悪い」
 少年の投げるフォームはまるで砲丸投げのフォームのようでとても不恰好だった。だが、一心不乱にボール投げ続ける少年の姿に俺は心を奪われていた。
  何であんなに一生懸命投げているんだろう。何であんなに楽しそうなんだろう。
 気づくと俺の足は少年の方向へと動いていた。低レベルな人間とは関わらないようにしろよとあいつに忠告されているが、周囲には誰もいないから大丈夫だろうと思った。
 近づいて少年がボールを投げる所をじっと見る。投げたボールは壁の手前でワンバウンドし、壁から返ってくるボールに勢いがない。少年はボールを取りに校舎の方向に走っていった。走り方もどこかぎこちなかった。
 ボールを捕った少年が振り返り、目が合った。しばらく俺の方をじっと見つめてきた。それから小走りで俺の方に向かってくる。
「おはようございます」
 少年が丁寧にお辞儀までして不自然な挨拶をしてきた。
「ねえ、何でそんなに一生懸命なの?」
 嫌味でも何でもなく、俺は少年にストレートに疑問をぶつけた。
「僕、プロ野球選手になるから。だから頑張るんだ」
 少年は真っ直ぐにこちらを向いて答えた。そして右手に持ったボールを俺に向けてきた。
「早坂君」
 少年が俺の名前を呼ぶ。学校内で優等生の人気者という地位を築いている俺のことは少年も知っていたようだった。
「投げる?」
 左手でボールを受け取って校舎の壁を見つめた。壁の前に捕手が座っているイメージを頭の中で作った。俺は大きく右足を上げ、思い切り左腕を振りぬいた。ボールは綺麗な軌道で壁に到達し、勢いよく跳ね返ってきた。
  何だろう、この感じ。
 心臓がドキドキして、血が体中に流れている感じがした。生きているという感じが。
「ストライク」
 後ろから少年の声がした。少年は笑っていた。満面の笑みだった。
「もう少し投げてもいい?」
 少年は首を縦に振った。それから俺は夢中になってボール投げ続けた。
 あの時から俺の野球が始まった。死んだように生きていた俺に少年は希望を与えてくれた。投げている時だけは俺は生きていられたんだ。(了)
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