くしゃみの獣は夜明けを運ぶ

XCX

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3. 名前を授かる

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「お医者さんから健康体だって診断されて良かったっすね~」
(うわああ、やめろおお…っ!)

 浴室内には獣の悲痛な鳴き声が響いていた。ふわふわの体毛は水に濡れ、全身泡まみれで洗われている。エミルの手つきは優しく気持ちが良いのだが、濡れた毛が体にまとわりつくのが不愉快で仕方がない。
 嫌だと手足をばたつかせ、青年の手を払い除けたり押さえつけたりするのだが、彼は全く気にする様子はなかった。鼻歌まじりで上機嫌ですらあった。

「水に濡れるの嫌だろうけど我慢我慢~。きれいになったら、ご飯っすよ~」
(メシ…っ!)

 獣の黒く丸い耳がピクピクと震えたのを、エミルは見逃さなかった。途端に鳴き声が弱まり、抵抗も弱々しいものに変わったことに気づいて、笑いを嚙み殺す。オルヴァルの言う通り、人語をきちんと理解できているのだと思った。

(メシ…四日ぶりのメシ…!オルヴァルって奴、よくは分からないけど見た感じ金は持ってそうだし、まともなメシくれそう…!)

 想像するだけで、獣の口の中は唾液であふれた。あの悪徳商人に捕まってから、獣はまともな食事にありつけていなかった。抵抗したり粗相をすればもれなく鞭打ちに食事抜き。食事がもらえても量は少なく質も悪い。詐欺なやり方で偽物の動物を売りつけ、多額の金をふんだくっているのにだ。
 獣の空腹も限界に近づいていて、食事をもらえるのはとてもありがたかった。

「よーし、おっわり!」

 最後にお湯で丁寧に泡を流される。ようやく終わって獣は内心安堵した。毛が水を含んでいるせいで体が重い。獣は耐え切れずに全身を震わせて水気を払った。幾分かましになり、少し気分が回復する。

(タオル、めちゃくちゃふわふわじゃん…!こんな肌触り感じたことねーんだけど!)

 全身を包むタオルのあまりの柔らかさに、獣は驚いていた。さっと撫でられるだけでどんどん水分がタオルに吸い込まれていくのが分かる。

(このタオルを寝床にして寝たいなあ…。これ敷いてくれんなら、あの狭い檻の中でも全然我慢できそう…)

 全身をタオルでくるまれた状態で抱き上げられ、獣はオルヴァルの部屋に入った。

「ああ、丁度良いタイミングですね」

 一人と一匹に気が付いたアサドが声をかける。色とりどりの大小さまざまなたくさんのクッションに体を預けて、分厚い紙束に目を通していたオルヴァルは顔を上げて、微かに笑みを浮かべた。

「すみません、仕事の邪魔しちゃったっすか?」
「いや、構わない。ちょうど休憩をしようと思っていたところだ。エミルに綺麗にしてもらったようだな、ローディル」
「あ、名前決まったんすか?」
「ローディルと言えば、英雄エドゥアルトに付き従う、相棒の獣の名前ですね。少し大仰な気もしますが…」
「いいじゃないっすか、ローディル。俺は好きっすよ!かっこいいだけじゃなくて呼びやすくて」

 腕を組むアサドは顎を撫で難色を示したが、それを跳ね飛ばすかのようにエミルは快活に笑った。

(ローディル…それが俺の名前?俺の…名前…)

 獣は、心の中で自分につけられた名前を何度も反芻した。ふわふわと心が落ち着かず、妙な気分がした。だが嫌な感じではなく、嬉しさからくるものだった。何故なら名前を与えられるのは初めてのことだったからだ。しかもそれが英雄の相棒にちなんで、となれば光栄にさえ思った。
 オルヴァルはおもむろに獣に近づくと、顔を覗きこんだ。

「どうだ?ローディルと言う名前を気に入ってくれるか?」
(おう!)

 主人の問いに、獣ことローディルは二つ返事とばかりに元気よく鳴き声をあげた。

「エミル、ローディルは預かりましょう。首輪と鎖を付け替えます。貴方は給仕をお願いします。厨房のモルガン殿にはローディルの分も話を通してありますので」
「りょーかいっす!」

 アサドの腕の中に移されそうになり、途端にローディルの体はこわばった。獣は、無意識に警戒していた。ここに到着した時から、彼が自分の存在をよく思っていないことは十分伝わってきていた。

(嫌だ、エミル、置いてくなっ!)

 幼獣はふかふかの前脚をエミルの服に引っかけ、激しく鳴きながら抵抗した。目を丸くして驚く二人に対し、オルヴァルが声を立てて笑い始める。

「こら、離しなさいローディル!」
(嫌だ!お前、何かこえーもん!アサドがエミルの代わりに行けばいいのに!)
「すごいな。もうエミルに懐いているのか」
「へへっ、動物にも俺の魅力伝わっちゃうんっすね~困るな~」
(照れるとこじゃねーよ!早く俺のこと助けてっ)
「殿下、感心している場合ですか。このままではエミルの服が雑巾と化してしまいます」

 傍から見れば混沌とした状況だった。幼獣の悲痛な鳴き声が響き、ある男は声を上げて笑い、青年は満更でもない様子で鼻の下を伸ばし、またある男は般若のような形相をしていた。
 ローディルはエミルの懐に戻ろうと必死で抵抗していたが、無情にも彼の手によって前脚を服から引き剥がされた。絶望にも似た気持ちに陥いる獣だったが、横からふんわりと体を持ち上げられているのに気づく。

「ローディル、アサドは一見怖い奴に思えるが、本当は優しい奴だ。そう邪険にするな」

 優しい声がすぐ近くから聞こえる。ローディルはオルヴァルに抱き上げられていた。大丈夫だと頭を撫でられ、不思議なことに全身を渦巻いていた激しい不安が嘘のように一瞬で消え去る。しかも男の腕の中はとても心地良い。

「この醜悪で重い鉄枷を首輪に替えるだけだ。大人しくできるな、ローディル?」
(うわ…力加減、絶妙でサイコー…)

 顎の下を撫でられ、途端に全身から力が抜けていく。気持ち良くて、咽喉が勝手にごろごろと鳴る。オルヴァルの言葉には不思議な力が感じられた。大丈夫だと言われれば、不思議とそのように思えるのだ。
 オルヴァルに撫でられて気持ち良くなっている間、首輪の付け替えはあっという間に終わった。商人につけられていたものよりもずっと軽く柔らかくて、全く窮屈さを感じない。鎖も太く粗雑なものではなく、細いけれどもしっかりとした造りだ。長さも十分な程で、広い室内の至るところまでほぼ制限なく動き回れそうだった。

「良い子だったな。さあ、室内を好きに探検していいぞ」

 床に下ろされたローディルは、脱兎の如く駆け出した。鎖につながれたままで、どこまで行けるのか確認するためだ。
 バルコニーがあるが、その手前で足が止まる。その反対側にある扉には、鎖が全く届かなかった。鎖の根元は頑丈そうな金具で床にしっかりと打ち付けられている。力づくで引っ張ってみても、鎖が切れたり床の金具がはずれたりする様子は微塵もなさそうだ。

(ドアにも窓にも近づけねえ…外に出るにはやっぱ首輪をどうにかするしかないか…。くそ~っ!……けど、あの重い首枷と鎖外してもらえて嬉し~~。体も軽いし、この首輪全然苦しくないし!)
「自由になった途端、逃げ出そうとして……殿下、やはり檻に入れた方が良いのでは…。それかせめて鎖をもっと太いものに替えてはいかがです?」

 身軽になれた喜びを爆発させ、鎖を引き千切らんばかりにあちこちを駆け回る獣は、アサドの発言に我に返った。見下ろす彼の顔は険しい。

(はっ、やばい……調子に乗りすぎた…)

 やっとのことであの重い鉄から解放されたというのに、また体につけられるなんてまっぴらごめんだった。ローディルは慌ててオルヴァルの元へと駆け寄った。長い足に全身を擦りつけ、甘えた声で鳴く。

(俺、いい子にする。だからあんなもの、つけないでくれ。あれをつけられると、すごくみじめな気持ちになるんだ!)

 獣の鳴き声で、ローディルは必死に懇願した。頭の堅そうなアサドより、オルヴァルに直接訴えかけた方が効果的だと獣は短時間のうちに学んでいた。それにオルヴァルがアサドよりも強い立場にいることも、獣としての本能で理解していた。

「檻に入れるつもりはないし、鎖もこのままでいい。少しやんちゃなくらいで心配しすぎだ、アサド」
(そうそう!オルヴァル、よく分かってるじゃん!いいヤツ~)

 浅黒い肌の男は身をかがめると、ローディルの頭を優しく撫でた。されるがままに、獣は彼に身を任せた。

「心配性も度が過ぎると禿げるぞ」
「次から次へと心労の種を蒔いているのは、一体どこの誰ですか」

 部下からの手厳しい切り返しに、オルヴァルは苦笑した。しゃがみこみ、ローディルの顔周りを撫でながら、まるで内緒話をするかのように囁いた。

「アサドは怖そうに見えて本当は優しいと伝えたが、訂正する。見た通り怖い奴だ。あまり怒らせないようにな」
(う…、努力はする…)
「殿下、しっかり聞こえていますよ」

 眉間に皺を作るアサドを一瞥した後、ローディルは長い尾をオルヴァルの腕に巻きつけ、自信なさげに小さくキュゥンと鳴いた。
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