くしゃみの獣は夜明けを運ぶ

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29. 久しぶりの獣吸い

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「アサド!」

 ある日、オルヴァルのいる執務室へコーヒーを届けようと廊下を歩いていたローディルは見慣れた後ろ姿を見かけて、思わず声をかけた。トレーに載ったコーヒーセットを落としたりしないように気をつけながら小走りで駆け寄る。

「ローディル、危ないですよ。走らなくとも、私は逃げたりしませんから」
「へへ、ごめん。分かってるけど、体が勝手に動いちゃった」
「全く、しょうがない子ですね」

 笑ってごまかすと、目の前の青白い男は呆れたように溜息を吐いた。だが、憎まれ口を叩きながらも微かに嬉しさを滲ませているのが感じ取れて、口角がつり上がってニヤニヤしてしまう。

「執務室に行くのか?」
「ええ。殿下に書類を届けませんと」

 そう言って手に持った分厚い紙の束を掲げて見せるアサドに、ローディルは口をへの字に曲げた。あれを全て処理しなければいけないのかと考えるだけで頭痛がする。

「俺もコーヒー届けに行くんだ。一緒に行ってもいい?」
「ええ、勿論。今日はエミルと一緒ではないのですね」
「うん。本当は一緒に行こうとしてたんだけど、ユンに呼び止められちゃってさ。何でも良い酒が入ったって行商が売りに来たから、一緒にいて欲しいんだって。コーヒー運ぶだけなら俺一人でもできそうだから、任せてもらった。今のところ問題なし!」
「そのようですね」

 並んで歩きながら屈託なく笑う青年に、男も微かに笑みをこぼした。初めてのお使いにはりきっているのが見て取れて、内心微笑ましく思った。

「人型でのここの生活には慣れましたか?嫌なこと、不快なことをされていませんか?」
「最近顔と名前を覚えられて、ようやく慣れてきたって感じがする。ここの人たち、優しい人ばっかりだね。困ってたら助けてくれるし、気さくに話しかけてくれるし、すごく良くしてくれるんだ」
「それは良かった。貴方の人柄が親しみやすいからでしょうね」

 そうかな?とローディルは首を傾げながら階段をすいすい昇っていく。熱湯の入ったポットやカップなどの滑りやすい食器が載ったトレーのせいで足元が見えない状態でも危なげなく足を運ぶ様子に、アサドは内心感心した。
 だがいきなり大きな声を上げて立ち止まった青年に、男は肩をびくつかせた。

「あのさ、ずっとアサドに聞きたかったことがあるんだけど…」
「何です?」
「……俺のこと、もふもふしなくてもいいのか?」
「…………はい?」

 あまりにも神妙な顔つきで言いづらそうに間を置いた末の発言に、アサドは思わず聞き返していた。ローディルは、目の前の男が呆気にとられているのに気づいていないようで、近くに誰かいないか視線を走らせて警戒している。

「前はさ、しょっちゅう獣の俺の体に顔埋めてもふもふしてただろ?でも俺が人間にもなれるって分かってからは、一回もしてないから大丈夫なのかなって思ってさ」
「ええと…確かに一度もしてませんが…」
「たくさん撫でてくれたりしてくれたのにそれもないし……それってやっぱり、気持ち悪いから?俺、半分人間だし…」

 それならしょうがないけどさ、としょんぼり落ち込む姿を目の当たりにして、アサドは度肝を抜かれた。

「そんな訳ないでしょう!」
「うわっ」

 驚きと困惑のあまり、とてつもなく大きな声がアサドの腹から出る。廊下一帯に響き渡るような大きな声だった。目を見開き硬直する青年を目の当たりにして、我に返った。

「…大きな声を出してしまってすみません。あまりにも心外だったものですから」

 細く息を吐きながら、片手で口元を撫でる。一つに結わえた髪がぐしゃぐしゃになってしまうくらい、両手で髪をかき乱したい衝動に駆られた。

「いいですか、よく聞いてください。私は貴方の体質のことを一度たりとも気持ちが悪いと思ったことはありません。そう勘違いさせてしまった私にも非はありますが…。確かに普通の人間とは異なる貴方のことを、そう思う人間も一定数いることでしょう。だからって貴方が卑屈になる必要もない。気持ち悪いなどと自分を卑下するような言葉は、今後一切口にしてはいけません。よろしいですね?」
「は、はい、ごめんなさい。もう言いません」

 鋭い眼力と凄みに屈し、ローディルは敬語で謝罪した。こんなにも感情を露にするアサドにどういう反応を取ればいいのか分からない。まるで自分よりもずっと大きな獣に予期せず邂逅してしまったかのような感覚に陥る。

「で、でも…じゃあなんで?」
「貴方を不快にさせているのではないかと思いまして…」

 勇気を振り絞ったローディルの一言に、青白い男の雰囲気が一瞬で軟化した。言いづらそうに淀む彼に、青年はきょとんとする。

「言うなれば、人型の貴方の腹部に顔を埋めたり匂いを嗅いだりしている訳でしょう?あまりいい気持ちにはならないのではないかと思い始めると、普通に撫でたり抱き上げたりするのも躊躇してしまってですね…」
「なんだ、そんな理由か~!」

 彼にしては歯切れの悪い珍しい姿に、ローディルは笑いを堪えきれなかった。目の前ではアサドがばつが悪そうな表情を浮かべている。彼は彼なりに悩んでいたのだが、その悩みを一蹴されてしまい脱力している。

「俺だってそれこそ、不愉快だとか気持ち悪いとか思ったことないよ!本当に動物が好きなんだなーとしか思ってなかった。可愛がってもらえてるのが分かって嬉しかったよ!」
「そ、そうだったのですか…?」

 青年は不安そうな男に、満面の笑みをたたえて何度も力強く頷いた。

「むしろ最近全然されないから、物足りないと思ってたとこ!だから遠慮なくして欲しい!」
「…その言葉を聞けて安心しました。正直なところ、さすがにそろそろ限界で禁断症状を起こしそうだったのです」
「じゃあ早速、今日の夜アサドの部屋に行ってもいい?」
「私の部屋ですか…!?」

 急な提案に、アサドが慌てふためく。

「だめ?じゃあこの後、執務室でする?」
「…殿下の前では揶揄われるのが目に見えているので、できれば避けたいですね」
「じゃあやっぱり夜にしようよ。その方がアサドだって心置きなくできるだろ?」

 途端に渋面を作る男に積極的ににじり寄る。アサドは一瞬逡巡したものの、最終的はお願いしますと承諾した。寝支度を終えた後で部屋を訪ねることを約束し、執務室へと向かう。

(よし、約束したからにはアサドも夜中まで仕事しないはずだ!)

 ローディルなりの作戦だった。いくら睡眠時間が少なくても平気と言えど、連日連夜遅くまで仕事をするなど体に良いはずがない。存分にもふもふしてもらうことで、少しでもアサドが急速出来ればという思いからの行動だった。
 達成感に満ち溢れていたローディルだったが、長く立ち話をしていたせいでコーヒー用の熱湯はすっかり温くなってしまい、ポットを持って調理場まで戻る羽目になったのだった。
 夜、アサドの部屋をノックした。もしかしてまだ帰ってないかもしれないと心配になるも、すぐに扉は開いて杞憂に終わった。

「…どうしたんです、その枕は?」

 微かに笑みを浮かべたアサドの視線が、腕に抱えた枕へと落ちる。ローディルは彼の脇をするりと通って室内に足を踏み入れた。

「俺、今日アサドの部屋で寝たい!」
「今なんと?」
「ベッドじゃなくて、床の上でもいいんだ!だめ、かな…?」
「理由をお伺いしても?」

 何となく潔癖そうな印象のあるアサド。同じ寝具で寝ることに抵抗を示すかもしれないと不安になり、ローディルは眉尻を垂らしながら上目遣いでお願いする。それから自室で一人寝ができないことと、オルヴァルやエミルの部屋で添い寝をしてもらったことを話した。
 主人の部屋で寝たことを咎められるかもしれないと思ったが、彼は少し驚いただけで、予想に反して怒ることはしなかった。

「そのような事情が…。気づけずにすみません。私は構いませんよ。ローディルが気にしないのであれば、ベッドでご一緒します」

 許可をもらえて嬉しくなったローディルはいそいそと持参の枕をアサドの隣に設置した。

「じゃ、早速ロティの姿になるな!」
「ま、待ちなさいローディルっ!」

 アサドは、元気なかけ声と同時に服を脱ごうとする青年を慌てて制止した。訪問の主たる目的であるにも関わらず妨げられ、ローディルは首を傾げる。

「…何をしているのです?」
「なにって、服脱いでる」
「それは見れば分かりますが、何故服を脱ぐ必要が?」
「?だって変身したらどうせ服脱げちまうもん。だから先に脱いでたたんでおこうと思って。その方が効率的だろ?」

 青年の爽やかな笑みに、逆にアサドの方が困惑してしまう。何故制止されたか一切理解していない様子に、こちらが間違ったことをしているのかと思わされる。

「…その、ローディル、少し失礼なことをお聞きしますが、羞恥心はありますよね?」
「しゅーちしん?」

 耳にした言葉をオウム返しに口にする青年が言葉の意味を知らないことは明白だった。

「恥ずかしいと思う気持ちのことです」
「へえ~」
「…私に裸を見られて恥ずかしいと感じたりは…」
「ないよ!だって俺もアサドも男で、同じものついてるじゃん。それにロティの時は裸だしさ」

 アサドの質問に、ローディルは元気に答えた。あっけらかんとした態度でケラケラ笑う青年に、男はこめかみを指で押さえた。考え方の違いに頭痛がする。
 ローディルの言い分ももっともで、その通りだと思う。だがガチガチの倫理観を持つアサドは、いくら同性であろうと素肌を晒すことに抵抗があった。それを説明しようとも、目の前の彼は理解できないだろう。
 仕方なく、アサドはローディルを衝立の裏に案内し、そこで服を脱いで変身するようにお願いした。青年は目を丸くしていたが、理由を聞くことなく素直に応じた。衣擦れの音をなるべく耳にしないようそそくさと離れ、ベッドに腰かける。無意識に溜め息が出た。
 やがて衝立の奥からくしゃみの音が聞こえたかと思うと、見慣れた獣が足元へ駆け寄ってきた。足に体を擦り寄せる小動物を撫でてやると、気持ちよさそうに目を閉じている。

(もっと撫でて欲しい!)

 久しぶりに撫でられ、ローディルもすぐに上機嫌になった。ベッドの上に華麗に跳躍し、アサドの膝の上で腹部を晒すように寝転がる。ぎゃうぎゃう鳴いて催促すると、首の下を指でくすぐられた。

「そう言えば、ロティの姿では人語を話せないのでしたね。されて嫌なことがあれば、きちんと意思表示をするのですよ」

 ローディルは返事のかわりに元気に鳴いた。
 獣を見下ろすアサドの眼差しは柔らかかった。それだけではなく、声色も言葉も眼差しも手つきも、全てが甘い。普段は冷たく険しい雰囲気を漂わせる彼だが、一対一だとそうでもない気がする。
 今日のこともそうだ。オルヴァルの部屋で寝たことも怒られるのを覚悟していたのに、実際は何も言われなかった。部屋に行くことも寝ることも困惑していたようだが、結局は受け入れてくれた。誤解を与えやすいだけで、とても優しい人なのだと改めて実感する。

「はー…可愛い」

 アサドはローディルの肉球の匂いをかぎながら、恍惚とした様子で呟いた。くすぐったくて膝の上から逃げるもあっさり掴まって、体に顔を埋められた。

(この感じ久しぶりだな~。なんかおかしくて笑っちまう~)

 アサドが満足するまで存分に堪能できるよう、ローディルはなるべく動かないようにじっとしていた。だが、体毛の間を通って皮膚に感じる温かい呼気がくすぐったくて笑ってしまう。

(屋敷の皆に可愛いって言われて撫でられるのも悪くないけど、オルヴァルたちに触ってもらえる方が好きだな~。気持ち良さが違うって言うか、満足感が違うって言うか…)

 ローディルはふとそう思った。体質のことを知られているからか、傍にいて安心と安らぎを得られるし、甘えたくなってしまう。くっついていると、心がポカポカして満たされる。

(最近は人型で慣れないことばかりだったからなあ…。獣でいれる時間、もっと増やしてもらおう)

 アサドにたくさん撫でられ遊んでもらい、充足感に満ちた状態で一人と一匹は共に眠りについたのだった。
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