くしゃみの獣は夜明けを運ぶ

XCX

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39. 腹心はお見通し

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「…殿下、お聞きしたいことがあるのですが」
「ああ、何だ?」

 臣下から質問の許可を求められた時、オルヴァルは頬杖をついて書簡に目を通していた。密かに王都に潜入させている密偵からの報告書だった。胸を撫で下ろせるような事柄は何一つ記載されておらず、無意識に表情が険しくなる。

「…ローディルに手を出しましたか?」

 オルヴァルの頭は手から滑り落ち、鈍い音を立てて机にぶつかった。打ちつけた額を手でおさえながら、傍らで署名済みの書類をまとめるアサドを唖然とした顔で見つめる。

「下手な否定は不要です。半信半疑でしたが、今の殿下の反応でわかりました」

 弁解する余地を与えられず、呆れた表情で重い溜息を吐く臣下に、尚も言葉を失う。むしろ弁解したくでもできなかった。舌が上顎にぴったりと張り付いてしまったかのように、何と言えばいいのかわからなかったのだ。

「…そんなにあからさまだったか?」
「殿下というよりはローディルの方が、ですね。最近は殿下と同衾する頻度もぐっと増えましたし、ローディルの態度もどこかそわそわして落ち着きがない。何より決定的だったのは彼の眼差しですね。時々殿下を見上げる顔が、なにかをねだるような物欲しそうなものだったので」

 アサドの鋭い観察眼に舌を巻く。元より様々な部分に気を配っていて、その有能さに常々助けられているのだが、改めて感心させられた。

「まさか噂を本当にしてしまうとは」

 頭痛がするとでも言わんばかりに、アサドはこめかみに指を添えた。多くを語らずとも、彼が己へと抱く感情が空気を伝って脳内に流れこんで来るようだった。

「…確かに手を出したことは認める。だが、出そうと思って出した訳ではない。言ってしまえば不慮の事故のようなものだ」

 弁解を試みる主君を、臣下は胡乱な目で見下ろす。オルヴァルの発言を信じていないのが丸わかりだ。ローディルへの過保護っぷりを剥き出しにする彼に、オルヴァルは苦笑いを浮かべつつも経緯を説明した。
 オルヴァル本人に記憶はないが、眠っている間にローディルにキスしてしまったことをきっかけに、性教育をかねて自慰を教えるだけのつもりで、手を出すつもりはなかったのだ。

「…成程。そのつもりはなかったけれども、ローディルの誘惑を撥ねつけることができず、ヌキ合いをする間柄になっていると」
「そう言われると身も蓋もないが、その通りだ。……もう、何とでも言ってくれ。大人としてローディルの行動を諫めるべきだったと重々承知はしている」

 オルヴァルは椅子の背もたれに体を預けると、天を仰いで目を閉じた。どんな罵倒も受け入れると観念した様子で、腹の上に両手を組んでいる。
 アサドに言われた通り、オルヴァルとローディルの秘め事は続いていた。すっかり癖になってしまったようで、しばしばせがんでくるようになった。互いの性器を触り合うことはせずとも、キスのみの時もある。最近は人目がないと唇を奪われるようになった。

「…まあ、言いたいことはたくさんありますが、実を言うと、驚きました。殿下は立場ゆえに方々からのお誘いも多いですが、当たり障りなく受け流して今まで色仕掛けにかかったこともないではありませんか。ローディルにも同じようにしようと思わなかったのですか?」
「無理だろう、ローディルには」

 オルヴァルは机の上で掌を合わせ、細く長く息を吐いた。

「本人は無自覚だろうが、ローディルは甘え上手だろう?俗世を避けて暮らしていたとは思えないほど人懐っこく、愛嬌があって明るく愛くるしい。それに加えて純粋無垢だ。そんなローディルにじっと見つめられて、触って欲しいとお願いされたら、断れないだろう?」

 もしアサドが俺の立場だったとして、断れるのか?と言外に、臣下に問う。

「断れます。ローディルが愛くるしいのは同意しますが、私の場合はどうしても罪悪感が勝ってしまいますので」

 アサドにばっさりと切り捨てられ、オルヴァルはがっくりと肩を落とした。彼は自他ともに認める堅物で理性の塊だ。彼に同意を求めても無駄だと分かっていたはずなのに、とうなだれる。

「とにかく、事情は分かりました。大人同士のプライベートなことですので、とやかく口を出すつもりはありません。殿下のことは信頼していますし、女癖が悪くないことも承知していますので特に心配はしていませんが……ローディルを傷つけたりするようなことはまさかなさいませんよね?」
「……耳が痛いな」

 オルヴァルは苦笑いを浮かべた。アサドの声も言葉も穏やかだが言外から発せられる圧は、牽制としか思えない。主人の返答に、臣下は怪訝そうに眉をしかめた。

「結局本能に流されてしまっているから、説得力は皆無かもしれんが、大切にしたいとは思っている。ただ、ローディルが同じように思ってくれているかは疑問だ。現状は、性的な知識が未熟なせいで、覚えたばかりの快楽に溺れているように思える。案外、俺の方が弄ばれているかもな」

 男は自嘲にも似た微笑みを口元にたたえ、短く息を吐いた。

「その考えのおかげで、触り合いだけで済んでいるとも言えるな。ギョルム老の追放理由を知って、一転俺に憎しみを抱くかもしれない。そうなると俺に抱かれたことに嫌悪を覚えるだろうからな」
「……殿下」

 主人の寂しそうな横顔を目にして、アサドはなんと声をかければいいのか言葉に詰まってしまう。彼の葛藤が見て取れた。ローディルのことを大切に思うからこそ、愛する養父がシオネ村に行き着いた理由を知らせてやらねばという気持ちと、真実を打ち明けることで関係が壊れることを恐れる気持ちがせめぎ合っている。

「殿下、やはりローディルには私から…」
「アサド、気遣いはありがたい。だが、俺から説明するべきだ。この件に関わった者としてな」
「…殿下、一人で何もかも背負いこもうとしないでください。密偵からの報告も、貴族諸侯からの書簡も色好い内容ではないのでしょう?何のために私やエミルが傍についていると思っているのですか」

 アサドは机の上に無造作に置かれた紙を一瞥した。オルヴァルの執務机の中には、彼の申し入れを渋る内容が記された貴族連中からの手紙が保管されている。

「もう十分頼らせてもらっている。こうしてローディルのことも相談に乗ってもらったしな」

 オルヴァルは穏やかな微笑みを浮かべた。だが、長年彼に仕える臣下は、それが拒絶を示すものだと分かっていた。これ以上の発言は聞き入れてもらえないと察して、アサドは口を閉じたのだった。


 ************


 一方、ローディルはエミルの補佐として働いてから初めての給金を受け取っていた。渡された巾着袋のずっしりとした重さに、感動のあまり意味を成さない声が漏れる。

「うわあぁ…俺、賃金もらったの初めてだ。手、震えて止まらないんだけど…!しかもぎっしり詰まってる!」

 震える手で巾着の袋を開け、金貨の詰まった中身を確認した青年は、信じられないとばかりに口をあんぐりと開けた。コロコロと変わる彼の様子を、エミルはにこにこ笑って眺めた。新鮮で純粋な反応が微笑ましい。

「お、俺こんなにもらっていいのか?そんな大したことしてないし、仕事してないときもあったのに…」
「ああ、それはロティへの報酬も込みだからっすね」
「ロティの?」
「そうっす。ロティの姿で皆を癒してくれたっすからね~その分も入ってるっす」
「えっ!それも仕事になるのか?」
「勿論っすよ~。ローディルにしかできない立派なお勤めっす!」

 驚いてばかりの青年に、彼の教育係でもあるターバンの青年は快活に笑って見せた。
 気の向くまま屋敷内をうろついて皆にちょっかいをかけていただけなのに、それも仕事と言われて、ローディルは呆気に取られた。だがその戸惑いもすぐに喜びへと変わる。誰かの役に立てたと知って悪い気はしない。

「初めてのお給金、何に使うっすか?」
「あ、全然考えてなかった。そもそもこんな大金を手にするのも初めてだし…」

 なるべくお金を使わない自給自足の生活が当たり前だった彼からすれば、何に使えばいいのかも分からない。衣食住が十分すぎるほどに保障されていて、何不自由ない生活を送れているからだ。

「あ、贈り物…。いつも皆にお世話になってるから、感謝の気持ちとして何かあげたいかも」
「お、いいっすね~。じゃあ市場に一緒に行くっすよ。ローディルはまだ行ったことないっすよね?色んなものがあって楽しいっすよ~」

 エミルの提案に、ローディルは瞬く間に表情を輝かせた。アサドから外出しても構わないと言われてはいたが、何となく気が進まなくて行ったことがなかった。

「ローディルの部屋もまだ殺風景っすしね。市場で装飾品を買って、飾るといいっす。部屋を好きな物で埋めれば、寂しくて落ち着かないってこともきっとなくなるっす!」

 確かにそうかもしれない!とローディルも元気よく同意した。後日市場に行くことを約束し、それを励みに仕事に取り組むのだった。
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