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51. 港町へ出発
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「オルヴァルたち、大丈夫かな?」
馬車の小さな窓から流れていく景色を眺めながら、ローディルはぽつりと呟いた。
「確かに心配ではありますが、プリヤがついていますし、きっと大丈夫でしょう。エミルもああ見えて武術の心得があり、強いのですよ」
「そうなんだ。エミルすげ~」
対面に座るアサドは青年の不安を和らげるかの如く、微笑んだ。手には小刀を持ち、丸々とした球体の皮を剥いている。中からは薄緑色のボコボコとしたものが出てきた。
「砂漠になるボチェという果物です。空気にさらされるとどんどん実の水分が失われていくため、剥きたてが一番おいしいのです」
青年は感嘆の声を漏らしながら、実をつまんだ。デコボコの部分には切れ目が入っているのか、少し引っ張るだけで豆粒大の実がほろりと取れた。口の中に入れて噛んだ瞬間、甘い果汁が口の中を満たす。
「うまいぃ~」
「ふふ、それは良かった。先程の乗り換え所で買っておいて良かったですね。たくさんありますから、食べたくなったらいつでも言ってください。マルティアトまではまだかかりますから」
「やった!アサド、ありがとう」
そのおいしさに悶絶する青年に、アサドは自分も果実をつまみながら微笑む。
一行はマルティアトへと向かっていた。訪問を決めてから出発するまでは迅速に事が進んだ。面会の約束を取り付けようにも断られる可能性があったため、マルティアトに向かっているという内容を記して書簡を送った。ベネディクタス卿が拒否の返事をする頃にはオルヴァルはマルティアトに到着している算段だ。先方が一行を受け入れざるを得ない状況に仕掛けたのだ。
固まって移動すると目立ってしまうため、別れて行動することになっている。アサドは珍しい獣を買い連れ帰る商人という設定で、オルヴァルとプリヤとエミルの三人は夫婦とその弟という設定だ。マルティアトで落ち合うことになっている。
ローディルはオルヴァルと離れて行動することに不安を感じていたのだが、ちょっとした旅行へのわくわくの方がすっかり勝ってしまった。
砂漠地帯を抜けるまで、ローディルたちはラクダに乗って移動した。厩舎で子ラクダとはよく遊んでいるが、成獣の背中に乗るのは初めてだ。獣姿のローディルは檻に入れられ、荷物として運ばれた。新鮮な気持ちだったのだが、揺れが激しいために乗り心地は良くなく、気持ち悪くなってしまった。帰りも乗るのかと思うと、げんなりしてしまう程に。
乗り物酔いから回復するまでは、乗り換え所で休息を取った。馬車への乗り降りの際は小さな檻に入り、出発してからはこっそり人型に戻ったのだ。砂漠地帯を抜けたところで手配した馬車は一転、乗り心地が最高だった。砂漠の細かい砂が目に入ることもなく、全身が痛くなることもない。小さな窓から吹きこむ風は爽やかで、次々と変わる景色も目に楽しい。
差し出されたボチェに舌鼓を打ちながら、ローディルはアサドの隣に移動した。耳元に口を寄せ、車外で馬の手綱を握る御者に聞かれないように声量を落とす。
「あのさ、オルヴァルが監視されてるって言ってたけど…屋敷の中でも誰かがオルヴァルのことを見てるかもしれない?…俺の体質のこと、オルヴァルとアサドとエミル以外にも知ってる人いるのかな…」
「屋敷内で雇っている者は念のため身辺調査を行っていますが、密偵が紛れこんでいないとは言い切れませんね」
「…俺、みんないい人だなって思ってるんだけど、もしかしたら中に紛れこんでるかもしれないって思うの、なんか悲しい」
「…そうですね。私も疑うのは心苦しいです。三階へは限られた者しか立ち入りできないよう制限はしていますが、気を付けることに越したことはありません。変身する際は周囲に十分するようにしてください」
アサドは、表情は暗いながらも素直に頷く彼の頭を優しく撫でた。
いつの間にかアサドの膝枕でうたたねをしていたローディルは匂いが変わったことに気づき、眠りから覚めた。目を擦りながら体を起こす。
「…変な匂いがする」
「潮の香りですね。マルティアトが見えてくる頃です」
青年は小さな窓からこっそりと顔を出した。出発した時には昇りかけだった太陽は今や地平線に消えようとしている。進行方向に人間の目では黒い点にしか見えないそれは、ローディルの目でははっきりと町に見えた。多くの建物が立ち並び、海鳥が盛んに飛び回っている。港には大小様々な船が停泊していて、海上を進むものもあった。
初めて見る景色に感嘆の声が漏れる。前を向いていた御者が振り向くのが見えて、ローディルは慌てて頭を引っ込めた。くしゃみをして獣姿に戻り、持ち運び用の檻の中に入る。直射日光と人目を避けるための布を外側から被せられた。
布の色以外何も見えない。檻の外で何が起こっているのかは耳から入る音で判断するしかない。アサドが傍にいるから大丈夫だと理解しているものの、視覚を制限されるのは少し怖い。馬車の動きが止まり、檻を持ち上げられる感覚がする。
「旦那、馬車内に他に誰かいたかい?」
「いえ、私だけですが」
「おかしなことを言って申し訳ねえ!今のは忘れてくれ。旦那が誰かと会話する声が聞こえた気がしたんだが、俺の勘違いだったみてえだ」
(なるべく大きな声出さないようにしてたのに聞こえてたのか…!)
アサドと御者のやりとりに、檻の中で身を縮こまらせていた。ふかふかの両前脚で口をおさえ、息をひそめる間、心臓がどきどきしていた。
「愛玩獣に話しかけていた声が会話に聞こえたのでしょうか。獣と分かっていても、対人間にするかのように独り言を止められなくって…」
「ぎゃう!」
檻を掲げて見せるアサドの機転に応えるように、ローディルは一際大きな鳴き声を上げ己の存在をアピールした。
「ああ、きっとそうですな!いやはや申し訳ない。儂も馬たちとはよく会話をするんだ。気持ちはよく分かるってもんだ」
硬貨の入った袋を渡す音の後に、御者の嬉しそうな声が聞こえる。またのご利用をお待ちしてやす、と元気な挨拶に穏便に済んだことが分かり、ほっと息を吐いた。
(色んな魚の匂いがする!それにラルツレルナ並にうるさい。町の中見れないの残念だな…)
アサドの歩調に合わせてゆっくりと動く布の隙間からは石畳の地面が見えるだけだ。馬車の中は楽しかったのに、急につまらなくなってしまう。早くオルヴァルたちに会いたいと思うローディルだった。
(あ、オルヴァルたちだ!)
色々な香りが漂う中で馴染みのある匂いが混じっていることに気がつき、獣は体を起こした。
「アサドさん、こっちっす~!」
「すみません、お待たせしてしまいました」
「気にするな。屋台を回って買い食いをして楽しんでいた」
「まさか一国の王子が庶民に紛れて買い食いをしているとは皆夢にも思わないだろうなあ」
「プリヤさん、しーっ!」
「ふふ、大丈夫だ。皆私の美貌に見惚れて気づいていない」
「だが、旅路に何か問題でも発生したのか?姿が見えないからさすがに心配になってきたところだった」
歩みが止まってようやく、布をめくられて檻の外の景色が見えた。突如強い日差しに晒され、ローディルは目を細めた。目を慣らすために何度か目を瞬かせてやっと、視界がクリアになる。
ターバンで顔をぐるぐる巻きにした人物が中を覗きこんでいて、ローディルは檻の隅に後ずさりした。だがその人物から漂う香りに、すぐさま警戒を解いた。
「いえ、全く問題なかったのですがロティがラクダ酔いをしてしまったので、少し休憩していまして。その分遅れが生じたものと」
「そうだったのか。大丈夫か、ロティ?」
(オルヴァル~!そうなんだよ聞いてくれ!ラクダの乗り心地最悪だったんだっ!)
男が口元のターバンをずらすと、褐色の見慣れた顔が露になった。飼い主の顔を見るなり、ローディルは激しい鳴き声を上げた。檻に顔を押しつけ、僅かな隙間から両前脚を突き出して出してくれと言わんばかりだ。見かねたエミルによって鍵が開けられると、獣はオルヴァルの胸元へと跳躍した。
「そんなに主人に会えて嬉しいのか!別れてから一日も経っていないと言うのに。本当に甘えん坊なのだな、ロティは」
ゴロゴロと盛大に咽喉を鳴らしながら主人に腕の中で甘え倒す獣を、プリヤは呆気に取られた表情で眺めた。いつもの鎧は身に着けていないせいか、別人のように思えた。だが彼女が動く度に服の隙間から、麗しい美貌とは不釣り合いの鎖帷子や腰に差した剣の柄が見えた。
獣の意識がオルヴァルに向いている内に、アサドとエミルは手際よく首輪に頑強な綱を取り付けた。
「綱をつけられるのは嫌かもしれないっすけど、ロティの身の安全のためっす。少し我慢してほしいいっすよ」
(…変な感じするけど、マルティアトにいる間はつけるって約束だったし、俺我慢できるよ)
了解とばかりにぎゃう!と元気よく返事をするローディルに、エミルはにっこり笑って頭を撫でた。
全員が無事に落ち合えた一行は、町の中でも一二を争う大きさの建物を目指した。オルヴァルの衣服の中に身を隠すように抱かれたローディルは顔だけを覗かせて周囲を観察した。
所変われば様々なこともまるで違う。ラルツレルナも暑かったが、マルティアトはそれ以上に暑く感じた。砂漠特有のカラッとした気候とは違い、湿度が高くじめっとしている。そのせいで毛がごわついて、ローディルにとってはラルツレルナの気候の方が快適だった。
民が着ている服装もまるっきり異なっていた。砂漠地帯は強すぎる日差しから肌を守るためには長袖が基本だが、海に面したこの地域の男たちは袖のない服装が主流のようだ。船仕事を生業としているらしい男たちの体は屈強で、腕が丸太のように太く日焼けして真っ赤だ。
(モルガンさんとどっちが腕太いかな~)
なんてことを考えていると、あちこちで呼びこみの声が聞こえる。ラルツレルナは交易の町だけあって、様々な屋台が軒を連ねていたが、マルティアトは海鮮物が多い。鮮魚や干物、料理の屋台。久しぶりの鮮魚を目の前に、ローディルは唾液があふれてくるのを感じていた。山にいた頃は川で獲った新鮮な魚をよく食べていたが、ラルツレルナに来てからは干物や燻製を始め調理済みのものを口にすることが多かったからだ。
(ここにいる間、生の魚食べられるかな…。食べたいけど、やっぱだめかな~…)
食べ物のことを考えているうちに、目的地へと到着した。門番の兵士の横を通り、屋敷の中へ入ると小柄な男が出迎えてくれた。
生え際の退行した紫色の髪を後ろへきっちりと撫でつけ、落ち窪んだ紫色の瞳には片眼鏡をつけている。頬はこけ、痩身なのが服の上からでもはっきり分かる。手を後ろに組み、ぴんとした姿勢で立つその姿は、相手に高慢そうな印象を抱かせた。
「オルヴァル殿下」
薄い唇から発せられる声は冷たく、神経質そうな響きを持っていた。
「ベネディクタス卿、突然の訪問で申し訳ない」
「ええ、ええ、全くです。こちらの返事を待たずに出発なされるとは。王族の一員ともあろう殿下がかような振る舞いをされるとは予想だにしておりませんでした。王都を離れると礼儀も忘れてしまわれるのですか?」
(なんだこいつ!すげー嫌なやつだ!)
「はは、これは手厳しい。だが、そうかもしれない。大分好きにさせてもらっているので」
顎をツンと上げ、言葉の棘を隠そうともしない男にローディルは面食らった。だがオルヴァルは意に介する様子もなく、朗らかに答えた。獣は主人の態度にも驚き、思わず彼の顔を見上げた。にっこりと笑みを浮かべている。
「ええ、そのようですな。まさか民もこのような一団が王子とそのお付きとは夢にも思わないでしょう」
ベネディクタスは器用に片眉だけを吊り上げると、まるで品定めをするかのように一人一人の爪先から頭の上まで舐めるような視線を這わせた。
その尊大で傲慢そうな態度が気に食わず、気づけばローディルはグルグルと咽喉を鳴らして威嚇していた。男は獣に視線を移すとぎょろりとした大きな目を見開き、片眼鏡を指で整えた。実を乗り出してくる男に、すっかり喧嘩腰の獣は迫力のない咆哮を上げた。
「そう怒るなロティ。可愛い顔が台無しだ」
(だってアイツがぁ~…)
オルヴァルは威嚇するローディルの顎の下を優しく掻きながら、獣の頭に口づけを落とす。主人に宥められた獣はその気持ち良さに即座に陥落した。目を細めて身を委ねる。
「……オルヴァル殿下、その動物は…」
「ああ、申し訳ない。劣悪な環境で見世物同然で売られていたのを保護したもので。甘えん坊で私から離れたがらないので連れて来たのです」
「ほう…不思議な獣ですな。犬でもなく猫でもない…」
ベネディクタスはローディルと目線の高さを合わせ、しきりに片眼鏡を触りながらじっくりと観察している。瞬きさえも最小限で、先程まで彼を覆っていたとっつきにくさは薄まっていた。
「ベネディクタス卿、抱いてみますか?」
「えっ!…ぇ~、エッホン。…いえ」
男は拳を口に当てると、わざとらしく大きな咳払いをした。
「牙はありますが、賢いのでむやみに噛んだりしませんよ」
「ゴ、ゴホンッ。…長旅でさぞお疲れのことでしょう。部屋に案内させますので、まずは荷解きをされるのがよろしいかと」
「それはありがたい。是非お言葉に甘えさせてください」
ベネディクタは再度咳払いをすると、王子の発言を聞き流した。指を鳴らすと壁際で控えていた使用人が動き出し、アサドやエミル達から荷物を受け取り、部屋へと先導する。ローディルは、案内についていくオルヴァルの肩へとよじ登り、背中越しにベネディクタスを見つめた。
手を後ろで組んで立ったまま微動だにしない。視線は真っ直ぐこちらに向けられており、見つめ合う形になる。その表情はどことなく柔らかく、口角が吊り上がっているように見えた。
馬車の小さな窓から流れていく景色を眺めながら、ローディルはぽつりと呟いた。
「確かに心配ではありますが、プリヤがついていますし、きっと大丈夫でしょう。エミルもああ見えて武術の心得があり、強いのですよ」
「そうなんだ。エミルすげ~」
対面に座るアサドは青年の不安を和らげるかの如く、微笑んだ。手には小刀を持ち、丸々とした球体の皮を剥いている。中からは薄緑色のボコボコとしたものが出てきた。
「砂漠になるボチェという果物です。空気にさらされるとどんどん実の水分が失われていくため、剥きたてが一番おいしいのです」
青年は感嘆の声を漏らしながら、実をつまんだ。デコボコの部分には切れ目が入っているのか、少し引っ張るだけで豆粒大の実がほろりと取れた。口の中に入れて噛んだ瞬間、甘い果汁が口の中を満たす。
「うまいぃ~」
「ふふ、それは良かった。先程の乗り換え所で買っておいて良かったですね。たくさんありますから、食べたくなったらいつでも言ってください。マルティアトまではまだかかりますから」
「やった!アサド、ありがとう」
そのおいしさに悶絶する青年に、アサドは自分も果実をつまみながら微笑む。
一行はマルティアトへと向かっていた。訪問を決めてから出発するまでは迅速に事が進んだ。面会の約束を取り付けようにも断られる可能性があったため、マルティアトに向かっているという内容を記して書簡を送った。ベネディクタス卿が拒否の返事をする頃にはオルヴァルはマルティアトに到着している算段だ。先方が一行を受け入れざるを得ない状況に仕掛けたのだ。
固まって移動すると目立ってしまうため、別れて行動することになっている。アサドは珍しい獣を買い連れ帰る商人という設定で、オルヴァルとプリヤとエミルの三人は夫婦とその弟という設定だ。マルティアトで落ち合うことになっている。
ローディルはオルヴァルと離れて行動することに不安を感じていたのだが、ちょっとした旅行へのわくわくの方がすっかり勝ってしまった。
砂漠地帯を抜けるまで、ローディルたちはラクダに乗って移動した。厩舎で子ラクダとはよく遊んでいるが、成獣の背中に乗るのは初めてだ。獣姿のローディルは檻に入れられ、荷物として運ばれた。新鮮な気持ちだったのだが、揺れが激しいために乗り心地は良くなく、気持ち悪くなってしまった。帰りも乗るのかと思うと、げんなりしてしまう程に。
乗り物酔いから回復するまでは、乗り換え所で休息を取った。馬車への乗り降りの際は小さな檻に入り、出発してからはこっそり人型に戻ったのだ。砂漠地帯を抜けたところで手配した馬車は一転、乗り心地が最高だった。砂漠の細かい砂が目に入ることもなく、全身が痛くなることもない。小さな窓から吹きこむ風は爽やかで、次々と変わる景色も目に楽しい。
差し出されたボチェに舌鼓を打ちながら、ローディルはアサドの隣に移動した。耳元に口を寄せ、車外で馬の手綱を握る御者に聞かれないように声量を落とす。
「あのさ、オルヴァルが監視されてるって言ってたけど…屋敷の中でも誰かがオルヴァルのことを見てるかもしれない?…俺の体質のこと、オルヴァルとアサドとエミル以外にも知ってる人いるのかな…」
「屋敷内で雇っている者は念のため身辺調査を行っていますが、密偵が紛れこんでいないとは言い切れませんね」
「…俺、みんないい人だなって思ってるんだけど、もしかしたら中に紛れこんでるかもしれないって思うの、なんか悲しい」
「…そうですね。私も疑うのは心苦しいです。三階へは限られた者しか立ち入りできないよう制限はしていますが、気を付けることに越したことはありません。変身する際は周囲に十分するようにしてください」
アサドは、表情は暗いながらも素直に頷く彼の頭を優しく撫でた。
いつの間にかアサドの膝枕でうたたねをしていたローディルは匂いが変わったことに気づき、眠りから覚めた。目を擦りながら体を起こす。
「…変な匂いがする」
「潮の香りですね。マルティアトが見えてくる頃です」
青年は小さな窓からこっそりと顔を出した。出発した時には昇りかけだった太陽は今や地平線に消えようとしている。進行方向に人間の目では黒い点にしか見えないそれは、ローディルの目でははっきりと町に見えた。多くの建物が立ち並び、海鳥が盛んに飛び回っている。港には大小様々な船が停泊していて、海上を進むものもあった。
初めて見る景色に感嘆の声が漏れる。前を向いていた御者が振り向くのが見えて、ローディルは慌てて頭を引っ込めた。くしゃみをして獣姿に戻り、持ち運び用の檻の中に入る。直射日光と人目を避けるための布を外側から被せられた。
布の色以外何も見えない。檻の外で何が起こっているのかは耳から入る音で判断するしかない。アサドが傍にいるから大丈夫だと理解しているものの、視覚を制限されるのは少し怖い。馬車の動きが止まり、檻を持ち上げられる感覚がする。
「旦那、馬車内に他に誰かいたかい?」
「いえ、私だけですが」
「おかしなことを言って申し訳ねえ!今のは忘れてくれ。旦那が誰かと会話する声が聞こえた気がしたんだが、俺の勘違いだったみてえだ」
(なるべく大きな声出さないようにしてたのに聞こえてたのか…!)
アサドと御者のやりとりに、檻の中で身を縮こまらせていた。ふかふかの両前脚で口をおさえ、息をひそめる間、心臓がどきどきしていた。
「愛玩獣に話しかけていた声が会話に聞こえたのでしょうか。獣と分かっていても、対人間にするかのように独り言を止められなくって…」
「ぎゃう!」
檻を掲げて見せるアサドの機転に応えるように、ローディルは一際大きな鳴き声を上げ己の存在をアピールした。
「ああ、きっとそうですな!いやはや申し訳ない。儂も馬たちとはよく会話をするんだ。気持ちはよく分かるってもんだ」
硬貨の入った袋を渡す音の後に、御者の嬉しそうな声が聞こえる。またのご利用をお待ちしてやす、と元気な挨拶に穏便に済んだことが分かり、ほっと息を吐いた。
(色んな魚の匂いがする!それにラルツレルナ並にうるさい。町の中見れないの残念だな…)
アサドの歩調に合わせてゆっくりと動く布の隙間からは石畳の地面が見えるだけだ。馬車の中は楽しかったのに、急につまらなくなってしまう。早くオルヴァルたちに会いたいと思うローディルだった。
(あ、オルヴァルたちだ!)
色々な香りが漂う中で馴染みのある匂いが混じっていることに気がつき、獣は体を起こした。
「アサドさん、こっちっす~!」
「すみません、お待たせしてしまいました」
「気にするな。屋台を回って買い食いをして楽しんでいた」
「まさか一国の王子が庶民に紛れて買い食いをしているとは皆夢にも思わないだろうなあ」
「プリヤさん、しーっ!」
「ふふ、大丈夫だ。皆私の美貌に見惚れて気づいていない」
「だが、旅路に何か問題でも発生したのか?姿が見えないからさすがに心配になってきたところだった」
歩みが止まってようやく、布をめくられて檻の外の景色が見えた。突如強い日差しに晒され、ローディルは目を細めた。目を慣らすために何度か目を瞬かせてやっと、視界がクリアになる。
ターバンで顔をぐるぐる巻きにした人物が中を覗きこんでいて、ローディルは檻の隅に後ずさりした。だがその人物から漂う香りに、すぐさま警戒を解いた。
「いえ、全く問題なかったのですがロティがラクダ酔いをしてしまったので、少し休憩していまして。その分遅れが生じたものと」
「そうだったのか。大丈夫か、ロティ?」
(オルヴァル~!そうなんだよ聞いてくれ!ラクダの乗り心地最悪だったんだっ!)
男が口元のターバンをずらすと、褐色の見慣れた顔が露になった。飼い主の顔を見るなり、ローディルは激しい鳴き声を上げた。檻に顔を押しつけ、僅かな隙間から両前脚を突き出して出してくれと言わんばかりだ。見かねたエミルによって鍵が開けられると、獣はオルヴァルの胸元へと跳躍した。
「そんなに主人に会えて嬉しいのか!別れてから一日も経っていないと言うのに。本当に甘えん坊なのだな、ロティは」
ゴロゴロと盛大に咽喉を鳴らしながら主人に腕の中で甘え倒す獣を、プリヤは呆気に取られた表情で眺めた。いつもの鎧は身に着けていないせいか、別人のように思えた。だが彼女が動く度に服の隙間から、麗しい美貌とは不釣り合いの鎖帷子や腰に差した剣の柄が見えた。
獣の意識がオルヴァルに向いている内に、アサドとエミルは手際よく首輪に頑強な綱を取り付けた。
「綱をつけられるのは嫌かもしれないっすけど、ロティの身の安全のためっす。少し我慢してほしいいっすよ」
(…変な感じするけど、マルティアトにいる間はつけるって約束だったし、俺我慢できるよ)
了解とばかりにぎゃう!と元気よく返事をするローディルに、エミルはにっこり笑って頭を撫でた。
全員が無事に落ち合えた一行は、町の中でも一二を争う大きさの建物を目指した。オルヴァルの衣服の中に身を隠すように抱かれたローディルは顔だけを覗かせて周囲を観察した。
所変われば様々なこともまるで違う。ラルツレルナも暑かったが、マルティアトはそれ以上に暑く感じた。砂漠特有のカラッとした気候とは違い、湿度が高くじめっとしている。そのせいで毛がごわついて、ローディルにとってはラルツレルナの気候の方が快適だった。
民が着ている服装もまるっきり異なっていた。砂漠地帯は強すぎる日差しから肌を守るためには長袖が基本だが、海に面したこの地域の男たちは袖のない服装が主流のようだ。船仕事を生業としているらしい男たちの体は屈強で、腕が丸太のように太く日焼けして真っ赤だ。
(モルガンさんとどっちが腕太いかな~)
なんてことを考えていると、あちこちで呼びこみの声が聞こえる。ラルツレルナは交易の町だけあって、様々な屋台が軒を連ねていたが、マルティアトは海鮮物が多い。鮮魚や干物、料理の屋台。久しぶりの鮮魚を目の前に、ローディルは唾液があふれてくるのを感じていた。山にいた頃は川で獲った新鮮な魚をよく食べていたが、ラルツレルナに来てからは干物や燻製を始め調理済みのものを口にすることが多かったからだ。
(ここにいる間、生の魚食べられるかな…。食べたいけど、やっぱだめかな~…)
食べ物のことを考えているうちに、目的地へと到着した。門番の兵士の横を通り、屋敷の中へ入ると小柄な男が出迎えてくれた。
生え際の退行した紫色の髪を後ろへきっちりと撫でつけ、落ち窪んだ紫色の瞳には片眼鏡をつけている。頬はこけ、痩身なのが服の上からでもはっきり分かる。手を後ろに組み、ぴんとした姿勢で立つその姿は、相手に高慢そうな印象を抱かせた。
「オルヴァル殿下」
薄い唇から発せられる声は冷たく、神経質そうな響きを持っていた。
「ベネディクタス卿、突然の訪問で申し訳ない」
「ええ、ええ、全くです。こちらの返事を待たずに出発なされるとは。王族の一員ともあろう殿下がかような振る舞いをされるとは予想だにしておりませんでした。王都を離れると礼儀も忘れてしまわれるのですか?」
(なんだこいつ!すげー嫌なやつだ!)
「はは、これは手厳しい。だが、そうかもしれない。大分好きにさせてもらっているので」
顎をツンと上げ、言葉の棘を隠そうともしない男にローディルは面食らった。だがオルヴァルは意に介する様子もなく、朗らかに答えた。獣は主人の態度にも驚き、思わず彼の顔を見上げた。にっこりと笑みを浮かべている。
「ええ、そのようですな。まさか民もこのような一団が王子とそのお付きとは夢にも思わないでしょう」
ベネディクタスは器用に片眉だけを吊り上げると、まるで品定めをするかのように一人一人の爪先から頭の上まで舐めるような視線を這わせた。
その尊大で傲慢そうな態度が気に食わず、気づけばローディルはグルグルと咽喉を鳴らして威嚇していた。男は獣に視線を移すとぎょろりとした大きな目を見開き、片眼鏡を指で整えた。実を乗り出してくる男に、すっかり喧嘩腰の獣は迫力のない咆哮を上げた。
「そう怒るなロティ。可愛い顔が台無しだ」
(だってアイツがぁ~…)
オルヴァルは威嚇するローディルの顎の下を優しく掻きながら、獣の頭に口づけを落とす。主人に宥められた獣はその気持ち良さに即座に陥落した。目を細めて身を委ねる。
「……オルヴァル殿下、その動物は…」
「ああ、申し訳ない。劣悪な環境で見世物同然で売られていたのを保護したもので。甘えん坊で私から離れたがらないので連れて来たのです」
「ほう…不思議な獣ですな。犬でもなく猫でもない…」
ベネディクタスはローディルと目線の高さを合わせ、しきりに片眼鏡を触りながらじっくりと観察している。瞬きさえも最小限で、先程まで彼を覆っていたとっつきにくさは薄まっていた。
「ベネディクタス卿、抱いてみますか?」
「えっ!…ぇ~、エッホン。…いえ」
男は拳を口に当てると、わざとらしく大きな咳払いをした。
「牙はありますが、賢いのでむやみに噛んだりしませんよ」
「ゴ、ゴホンッ。…長旅でさぞお疲れのことでしょう。部屋に案内させますので、まずは荷解きをされるのがよろしいかと」
「それはありがたい。是非お言葉に甘えさせてください」
ベネディクタは再度咳払いをすると、王子の発言を聞き流した。指を鳴らすと壁際で控えていた使用人が動き出し、アサドやエミル達から荷物を受け取り、部屋へと先導する。ローディルは、案内についていくオルヴァルの肩へとよじ登り、背中越しにベネディクタスを見つめた。
手を後ろで組んで立ったまま微動だにしない。視線は真っ直ぐこちらに向けられており、見つめ合う形になる。その表情はどことなく柔らかく、口角が吊り上がっているように見えた。
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ご感想欄 、うれしくてすぐ承認を押してしまい(笑)ネタバレ 配慮できないので、ご覧になる時は、お気をつけください!
ユィリと皆の動画つくりました! お話にあわせて、ちょこちょこあがる予定です。
インスタ @yuruyu0 絵もあがります
Youtube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます
プロフのWebサイトから、両方に飛べるので、もしよかったら!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!
めがねあざらし
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過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈
社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。
もらった能力は“全言語理解”と“回復力”!
……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈
キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん!
出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。
最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈
攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉
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※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!
希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう
水凪しおん
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「君は、今日から俺のものだ」
辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
前世が教師だった少年は辺境で愛される
結衣可
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雪深い帝国北端の地で、傷つき行き倒れていた少年ミカを拾ったのは、寡黙な辺境伯ダリウスだった。妻を亡くし、幼い息子リアムと静かに暮らしていた彼は、ミカの知識と優しさに驚きつつも、次第にその穏やかな笑顔に心を癒されていく。
ミカは実は異世界からの転生者。前世の記憶を抱え、この世界でどう生きるべきか迷っていたが、リアムの教育係として過ごすうちに、“誰かに必要とされる”温もりを思い出していく。
雪の館で共に過ごす日々は、やがてお互いにとってかけがえのない時間となり、新しい日々へと続いていく――。
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