くしゃみの獣は夜明けを運ぶ

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64. 三度目

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 夜、就寝準備を済ませたローディルは例に漏れず、己の主人の部屋にいた。持参した枕を抱いてベッドに座っているのだが、オルヴァルは机に向かって何やら書き物をしている。

「すまない、ローディル。どうしても今夜中に片付けてしまいたい仕事があってな。今日はエミルと寝てもらう方がいいかもしれないな」

 申し訳なさそうな表情を浮かべるオルヴァルに、ローディルは即座に頭を左右に振った。

「ううん、今日はオルヴァルと一緒がいい。俺、いてもいい?」
(そうじゃなきゃ、オルヴァル夜更かしして無理しそうなんだもん)
「勿論だ。先に寝ても構わない」

 遠慮がちな青年を安心させるかのように、男は柔和に微笑む。ローディルは内心ほっと安堵して、主人の枕の隣に持参のそれを並べて整えた。体を横たえて、紙にペンを止めどなく走らせるオルヴァルをじっと見つめる。だがすぐに体を起こした。

「オルヴァル、ロティになって近くにいてもいい?絶対邪魔しないから」

 オルヴァルは突然の提案に目を丸くした様子だったが、快く承諾した。許可を得た青年の行動は早かった。脱いだ寝間着をたたんで邪魔にならないところに置き、ベッドの下に保管されている獣用の玩具の中からふわふわの毛がついた棒を取り出し、鼻を刺激してくしゃみを起こした。不要になった玩具を咥えて元の場所に戻すと、男の元へと駆け寄った。足に体や頭を擦りつける。
 獣は主人の足元で眠るつもりだったのだが、予想に反して膝の上に抱き上げられた。

「構ってやれなくてすまないな」

 頭や顎の下を優しく撫でられる。力加減が絶妙で、気持ち良くて力が抜けてしまう。上機嫌にゴロゴロと咽喉を鳴らしながら体を横たえる獣に、男の口角も自然と吊り上がる。
 オルヴァルは執務に戻るが、ペンを握っていない方の手はローディルの体を撫でていた。腹部の柔らかな毛に手の甲を滑らせて、優しく掻いたりして遊んでいる。

(うあ~気持ちい~…なんで俺の気持ちいいところ分かるんだ…?そこ、たまらない~…)

 完全にツボを心得た主人の撫で方に、ローディルはされるがままだった。男の巧みな手技に、獣の意識はあっという間に睡魔に飲みこまれていくのだった。
 ローディルの意識が緩やかに浮上したのは、何かが沈むような感覚を覚えたからだった。眠気眼を開いた先には、目を閉じるオルヴァルの顔。規則的な寝息が聞こえてくる。
 何時なのかは分からないが、仕事を終えてようやくベッドに横になったらしい。室内の灯りは消え、大きな窓からは淡い月光が差しこんでいる。

(遅くまで、おつかれー…)

 寝ぼけながら、獣は主人の顔にすり寄る。男の鼻先に己のそれを擦りつけ、労わるように唇を舐めた。
 瞬間、周囲が閃光に包まれた。身に覚えのある光に、ほぼ閉じかけていたローディルの目が大きく見開かれる。

(あれからどんなに試しても起こらなかったのに、なんで今…!?)

 前触れもなく起こったことに混乱に陥りながらも、眩しさに耐え切れず強く目を閉じた。しばらくしてゆっくりと目を開けば、予想通りに景色が一変していた。やはり、くしゃみもしていないにも関わらず人型になっている。
 三度目ともなれば慣れたもので、ローディルは場所の把握から始めた。見覚えのある庭園だった。空はどんよりと曇り、雨がしとしとと降っているせいで以前目にした木々や花たちからは鮮やかさが消えている。
 雨は降っているが、ローディルが濡れることはなかった。雨粒が彼の体を通り抜けていくのだ。相変わらずの不思議な感覚に見舞われつつも、青年はオルヴァルの姿を探した。いままでの経験からすれば、近くに彼がいるはずだ。
 それ程かかることなく、お目当ての人物は見つかった。渡り廊下の近くにある、ひときわ立派な大樹の根元から小さな話し声が聞こえたのだ。
 木々の枝に布を引っかけて雨避けを作り、その下で二人の少年が座りこんで盤上遊戯を行っていた。オルヴァルとイズイークだ。この間見た時よりも少し成長している。特にイズイークはもはや少年ではなくなっている。

(なんで雨が降ってるのに外にいるんだ?)

 ローディルは首を傾げながら、二人の正面にしゃがみこむ。兄弟の視線は盤面に釘づけだが、表情は対照的だった。眉間にシワを寄せ、難しい顔をするオルヴァルが白黒の盤上に無造作に置かれた駒を動かす。すると、微笑むイズイークは口角をさらに上へと吊り上げた。

「オルヴァル、そこに動かして本当に良かったのか?」
「え…あっ、待って兄上!」
「ふふ、もう遅いよ。これで詰みだ!」

 弟は制止を試みるも、兄は造りが豪奢な駒をオルヴァル側へと動かした。イズイークは満足そうな笑みを浮かべ、オルヴァルはがっくりと肩を落としている。ローディルにはルールがさっぱり理解できなかったが、兄が勝利したのだろうとは彼らの表情から察していた。

「惜しかったけど、まだまだだね」
「兄上、もう一戦!もう一戦、手合わせをお願いしますっ!」

 目に闘志の炎を燃やす弟に、イズイークは嬉しそうだ。前回見た時よりも、二人の距離が縮まっているように見えた。幼いオルヴァルは母親の言いつけをきちんと守っていて、どこか遠慮していてぎこちなかったが、今はもう感じられない。
 傍目から見ても仲睦まじい兄弟で、微笑ましい。

「両殿下、こんなところで悪だくみのご相談ですか?風邪をひいてお小言を食らいますよ」
「シシリハ殿!」

 廊下の手すり部分から、赤銅色の髪をした男がひょっこりと顔を出した。悪戯っぽい笑みを浮かべている。

(シシリハ!?)

 兄弟の口から出てきた名前に、ローディルはハッとして思わず立ち上がった。以前ギョルム老が登城した記憶を見た際、ダガット王の傍に控えていたのを思い出す。そして、イズイークの母親と関係に悩んで自ら命を絶った男。この男の死をきっかけに、皆の人生が狂い始めた。

「悪だくみだなんて心外な。盤で遊んでいたのです。人気のあるところだと、すぐに母上達の耳に入って引き離されてしまいますから」
「成程。でしたら私の部屋を提供しましょう。あまり人が立ち寄りませんから、隠れ家としては最適かと」
「嬉しいご提案ですが、ご迷惑じゃありませんか?」

 不安そうに眉尻を垂らすオルヴァルに、シシリハはにっこりと笑ってきっぱりと否定した。

「まあ、下心がないわけではありませんが、大部分は純粋な厚意での提案ですよ。次代の国を担うお二方にはいつまでも仲睦まじくいて欲しいですからね。そのための助力は惜しみません。加えて、温かい飲み物にお茶菓子付き。いかがです?」

 赤銅色の髪の男は二人の王子に、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。魅力的な提案に兄弟は途端に顔を輝かせ、いそいそと盤を片付けた。雨避けに使用していた布を頭からかぶり、自分たちの姿を隠しながらシシリハについていく。ローディルも、彼らの後を追った。

「ただいま、ニルン」
「シシィっ」

 男が室内に足を踏み入れると、ベッドの上に転がっていた小さな塊が素早く動いた。床に華麗に着地し、足元に突進する。シシリハは全く動じることなく、激突してくる塊を難なく腕に抱き上げた。
 彼の首に短い両腕を回して抱きついているのは、子供だった。赤みの強い茶色い髪は真っ直ぐで、シシリハと同じく肩で切り揃えられている。満月のように丸い大きな目が印象的だ。緑色に灰色がかった不思議な色をしている。
 彼は突然現れた兄弟に、困惑の表情を浮かべた。警戒するかのように兄にぎゅっと抱きついている。

「両殿下、私の弟のニルンです。申し訳ありません、少し人見知りで…」

 シシリハはくすくすと笑いながらニルンを床に降ろし、兄弟王子を対峙するように立たせた。それでも不安そうな子供は、ぷくぷくした手で兄の指をぎゅうと握りしめている。

「ほらニルン、この間話した、イズイーク王子とオルヴァル王子だよ。ご挨拶を」
「……ニルン、です。おあいできてこうえいです。いずいーくでんか、おるうぁるでんか」
「初めまして、ニルン。きちんとご挨拶ができて立派だ」
「ニルン、よろしくね。オルでいいよ。オルヴァルって言いにくいよね」

 拙く可愛らしい挨拶に、兄弟王子はにっこりと笑んだ。二人に褒められたニルンは、照れくさそうにはにかむ。癒しの存在に、ローディルの強張った表情筋も緩んでしまう。

「それにしても、シシリハ殿にこんな幼い弟君がいるとは存じませんでした」
「ふふ。親子ほどに年齢が離れているので、少し気恥ずかしくて…。ですが両親が不慮の事故で帰らぬ人となったので、引き取ったのです」
「……そうだったのですか。まだこんなに幼いのに…」

 幼い子供に降りかかった悲劇に、第二王子は胸を痛めている。床に膝をつき、慰めるかのようにニルンの頭を撫でている。当の本人は会話の内容を理解できていないようで、きょとんと目を瞬かせている。

(こんなに小さい弟がいるのに、シシリハは自殺したのか…?)

 心臓のあたりがちくりと痛んで、ローディルはぎゅっと拳を握った。愛しい人を亡くして後に残される気持ちは痛い程に理解しているつもりだ。
 ギョルム老を老衰で亡くした時でさえ、悲しみから立ち直るのに相当な時間を要した。にも関わらず、兄が自分で命を絶ったとニルンが知った時、どれほどの悲しみと絶望が彼を襲ったのだろうか。ローディルには想像すらつかない。

(ニルンは今、どうしてるんだろ。シシリハの話題になっても、ニルンのことは誰も何も言ってなかったよな…)

 オルヴァル達がテーブルの上に盤を準備している間、ローディルは扉の側で突っ立っていることしかできずにいた。シシリハへの複雑な感情が渦巻く。

(イズイークの母ちゃんとなにがあったのかは知らないけど、小さいニルンを残して死んじゃうなんて、酷すぎる。身勝手だし、裏切りだ。きっとニルンだって、どんな事情があったとしても生きていて欲しかったはずだ…。俺だったら、そう思う)

 ローディルはニルンに目を向けた。盤の上に様々な形状の駒が並べられていくのを、シシリハの膝の上で不思議そうに眺めている。

「両殿下を部屋に招くのに、下心があると先程言ったのを覚えておいでですか?」
「はい」
「実はニルンのことなのです」
「と言うと?」
「ニルンと末永く仲良くしていただけないかと…。城内で年齢が近いのは両殿下ですし、この子も私の後継としてゆくゆくはお二人の手伝いをするようになるでしょう。願わくは、陛下と私のような関係を築いてもらえたら…」

 シシリハは、お茶菓子を頬張る弟の頭を優しく撫でている。その表情はとても慈愛に満ちていると同時に、少し寂しそうにも見えた。

「両殿下が多忙なのは重々承知しています。時折、話をして遊んでくれるだけでも構いません」
「勿論です!遊び相手が増えるのは僕達も単純に嬉しいですから」
「ええ、私もオルヴァルと同意見です。こうして隠れ家も提供していただけるのですし、私たちにとっても良い息抜きになります」

 オルヴァルは快活に答え、イズイークも笑顔でしっかりと頷く。彼らの反応に、シシリハはほっと胸を撫で下ろしたようだった。

「ありがとうございます。歳が離れているせいか、ついつい甘やかしてしまって…駄目だとは分かっているのですが」
「分かります。私もオルヴァルに対してそうですから」

 イズイークの言葉に、オルヴァルははにかむ。恥ずかしそうにしているが、嬉しそうだ。

「甘ったれで未熟ゆえに、暴走してしまうこともあるかもしれません。どうか、見捨てないであげてください」
(……?)

 心ここにあらずの状態で棒立ちだったローディルは、ふと違和感を覚えた。シシリハの視線が自分に向けられているように感じたからだ。
 ローディルは咄嗟に振り返ったが、背後にあるのは壁だった。

(そんなわけ、ないよな…。だってここはオルヴァルの記憶の中で、俺は実体がなくて誰も認識できないんだし……)

 頭の中に大量の疑問符が発生するも、自身にそう言い聞かせる。

「…手を差し伸べて、導いて欲しい。この子を救うことができるのは、きっと貴方だけでしょうから」
「……えっ!?」

 ローディルは思わず後ずさりし、壁に張りついた。今度は明らかに、シシリハがこちらをじっと見つめていたからだ。勘違いでも何でもない。
 オルヴァルやイズイークには目もくれず、真っ直ぐな眼差しを向けられている。まるでそこにローディルが存在しているのを認識しているかのように。
 混乱するあまり、青年の腰は抜けてしまい、床の上に座りこむ形になる。そして終わりが来た。目の前の景色が霞みはじめ、現実に引き戻されるのだと分かった。
 不測の事態にローディルは硬直し、シシリハを見つめ返す。霧散していく中、男は悲しい笑みを浮かべていた。その頬を、一筋の涙が伝っていく。

「…どうか、頼んだよ。私はもう、…何もしてあげられない」

 シシリハの寂しそうな声を耳にしながら、ローディルの意識は薄れていくのだった。
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