くしゃみの獣は夜明けを運ぶ

XCX

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66. 疑惑の始まり

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 不穏の始まりは、一通の報告書だった。
 封書を手にしたアサドが出来得る限りの早歩きで廊下を歩いているのを、ローディルは目撃した。一瞬だけ見えた横顔は険しく、長い髪や衣服の乱れも気に留めないようだった。規律の模範たる彼のいつにない姿に屋敷の者たちも呆気に取られ、立ち止まって彼の姿を目で追っている。
 主人の部屋に行こうと茶器セットを手に持っていたローディルは、アサドの目的地が執務室だと察して、彼の後を追った。
 扉越しでも、中からの張り詰めた空気が伝わってくる。ローディルは一瞬ためらったものの、控えめにノックをして入室した。

「失礼しまーす…。オルヴァル様にお茶…」

 扉の影からそっと顔を出すと、主従の視線が一心に向けられたる。見たことがない程の鋭い眼差しと剣呑な雰囲気に、ローディルは小さく悲鳴を漏らしながら飛び上がった。強い好奇心に勝てずについて来てしまった、少し前の自分を責めた。

「お、俺やっぱり出直して…」

 そそくさと退散しようとしたのだが、オルヴァルは手招きをした。

「殿下」
「セヴィリス殿との席で、ローディルも聞いた話なのだろう?ならば問題ない。それにローディルは鋭い。例え隠し事をしてもすぐに異変に気付くぞ」

 アサドが青年の入室を快く思っていないのは明らかだった。主君を咎めるような雰囲気を醸し出すも、オルヴァルの意見に思うところがあったのか、口を噤む。

(俺、入ってもいいのか?やっぱ、遠慮した方がいいのかな…?)

 オルヴァルとアサドの顔を交互に見る。どっちの言うことを聞くべきか迷ってしまう。そんなローディルの戸惑いを察したのか、オルヴァルは微笑んで、雰囲気を軟化させた。

「ローディル、お茶を淹れてくれるか。一息ついて思考をすっきりさせたい」
「!分かったっ」

 正式に許可をもらえた青年は扉を閉めると、ローテーブルに茶器を置いていそいそと準備を始めた。

「アサドも付き合え」
「…そうですね」
「あっ、じゃあカップもう一つ取って来る!一息つくなら、お菓子もいるよな!?」

 アサドが疲れた様子でため息を吐く一方、ローディルは元気に退室する。返答を待つことなく猪突猛進な青年に、残された二人は完全に毒気を抜かれてしまうのだった。

(一応自分の分のカップも持って行こう…!何があったのか分からないけど、アサドの様子からして気になる!)

 厨房からの戻り道、ローディルは仕事をあらかた終えたエミルと出くわした。他の使用人から聞いたのか、彼もまたアサドのことを聞き及んでいた。青年が休憩に便乗しようとしていることを知ったエミルもまた、ついてくることになった。

「…ローディル、私の分のカップを取りに行ってくださったのですよね?数が多いようですが?それに背後にいるのは何です?」
「俺も一緒に休憩しようかなって思って!エミルとはそこで会ったんだ」

 アサドの口調には棘が含まれていたのだが、ローディルには一切通用しなかった。ただの質問だと思い朗らかに答える青年に、オルヴァルが堪えきれずに笑いを吹き出す。だが、アサドの鋭い一瞥に慌てて咳払いをして誤魔化した。
 エミルもアサドの嫌味には気づいていたのだが長年の付き合いから動じることなく、茶を淹れるローディルを手伝っている。

「殿下、本当に二人に同席を許可させるのですか?彼らに無用な不安を与えることにもなりますが」
「…ああ、構わない。一人で抱えこむのはもうやめた。隠し立てしても、心配をかけることには変わりない。アサド、もう一度頭から報告を聞かせてくれ」

 王子は茶を給仕したローディルの手を引き、隣に座らせた。必然的に周面に座るアサドの隣には、エミルが腰を落ち着ける。
 長い髪の男は額に手をあて、呆れた表情で溜息を吐いたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「王都に住まう民たちは日々の生活すらままならない程の困窮状態なのは、エミルもローディルも存じていますね?」
「もちろんっす。それでヘジャズやマルティアトに逃れる者が後を絶たないんすよね」
「ええ。ですが、唯一鋳造屋は潤っているようなのです。昼夜問わず火が焚かれ、武器や武具が生産されていると。また、品物は全て都外へ輸送され、必ず賊による襲撃を受けているのだとか。ところが鋳造屋は生産を止めず、襲撃に対する対策も一切取らずに輸送を続けているのだそうです。ローディルはセヴィリス殿との食事の席で聞いて知っていますね?」
「うん。俺、経営の知識とかないけどさ、変だなって思った。商品全部盗られちゃったら儲け全然なくなっちゃうから、少しくらい損でも護衛増やすとかしたほうがいいんじゃないかなって…うわ、苦いっ!」

 カップに口をつけたローディルは途端に両目を固く閉じた。舌先を出した状態で硬直し、痺れてしまったかのように小さく震えている。
 オルヴァルは強い苦味が特徴の茶を好む。本人曰く、その苦味によって眠気が覚め、頭がすっきりするからだと言う。また主人の好みに合わせて濃い目に淹れたそれは、人型とは言え並の人間よりも味覚が鋭いローディルは涙目になっていた。
 彼は強烈な苦味を消し去るために甘味を口いっぱいに詰めこみながら、さりげなく己のカップを主人の分に寄せた。自分の分も飲んで欲しいということらしい。
 内心笑みをこぼしつつ、オルヴァルは茶を口に含んだ。隣からは、強烈な視線を感じる。悪戯心が芽生えた男は、おいしいと笑顔で呟いた。

「…俺、オルヴァルの味覚が大丈夫か心配になる…」

 青年は、なんでそんな苦い物を平気な顔で飲めるんだとでも言わんばかりに目を見開いている。まるで珍獣を見るかのような反応がおかしくて、オルヴァルはくつくつと咽喉を鳴らして笑った。
 珍しく難しい表情で何かを考えこんでいたエミルが、口を開く。

「……話聞いてると、不審点だらけっすね。武具の鋳造にそれだけ注力していたら、役人に怪しまれないっすか?それに材料の調達もどうやって?輸送先は一体どこに?」
「ええ、エミルの言う通りです。そこで殿下に許可を取り、この鋳造屋の動向を偵察させたところ、驚くべきことが判明しました」

 王子の右腕は、ローテーブルの上にメルバ国の地図を広げた。中心には王都パルティカが描かれている。

「まずは輸送について。通常の貨物は、王都を出ると東西南北へと向かいます。ですが武具の詰まった貨物は決まって南の街道を行き、その道中で襲撃を受けています」
「え、でも南の街道の先はラルツレルナになるよ」

 ローディルは身を乗り出し、地図の上に指を走らせた。パルティカの南から走る大きな街道の先には、砂漠の絵に囲まれたラルツレルナの文字がある。

「……それだけじゃないっす。ラルツレルナを通り過ぎた先には、貿易港を要するマルティアトがあるっすよ」

 青年ははっとし、更に下に指を滑らせた。海に面した町、マルティアト。

「それって…あのおっちゃんがこの件に関わってるかもしれないってこと?」

 ぽつりとこぼしたローディルだが、言葉にすると同時に言いようのない動揺に見舞われた。脳裏に、動物好きで偏屈なベネディクタスの顔が浮かぶ。仏頂面だが動物の前では打って変わって甘い顔と態度を露にする彼に、ローディルは好感を抱いていたのだ。実は優しい彼がきなくさいことに関与しているかもしれないということに、予想以上にショックを受けた。
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