くしゃみの獣は夜明けを運ぶ

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79. 疑惑の地へ

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 時は、アサドがヘジャズ領へ訪問した頃へと遡る。
 王子の補佐は複数の護衛の兵士を連れて、貴族のトートルード卿が治めるヘジャズ領へと到着した。領主の邸宅まではまだ距離があったが、馬からおりて歩く。ヘジャズ領の現状をしっかりと目にしたいと思ったからだ。アサドに続き護衛も歩きへと切り替え、周囲の警戒にあたった。
 ヘジャズは肥沃な土地ゆえに農業が盛んだ。眼前に広大な田園が広がる。実りの季節を迎えつつある今、そこかしこで麦や野菜果物などが実をつけている。作業に精を出していた農夫たちは、突然の来訪者に気がつくと手を止めた。
 威圧感を与えることにならないよう、アサドは視線の配り方にも注意した。領民からすれば、兵士を引き連れて現れた男は一体何者かと警戒することだろう。自分の見た目を含めた雰囲気が他社に冷たい印象を与えることを、アサドは十分に承知していた。
 農夫たちの顔は一様に覇気がない。目に生気も見られなかった。収獲疲れかと思ったのだが、そうではないようだ。この時期ともなれば確かに収穫で疲弊はするだろうが、恵みの季節であり喜びを伴うはずだ。
 例年あちこちの領地で収穫祭が行われる。鮮やかな装飾が家々を彩り、その年の収穫物で作られた料理が振舞われる。領民だけではなく観光客にもだ。収穫祭を目当てに観光しにくる者も多いくらいだ。しかし、見る限り準備すら始まっていないようだった。
 アサドは立ち止まり、近くの農夫に声をかけた。

「失礼、ご老人。今年の収穫祭の開催はいつ頃でしょうか?」
「なんだい、アンタ、収穫祭目当ての旅行か?だったら残念だったなあ。今年はやらねえんだよ」

 日除けのために麦わら帽子をかぶった老人は、アゴにたくわえられた立派な髭を手で撫でつけた。アサドが驚きながらも何故と聞くと、老人はある方向を指差す。その先には、まるで急ごしらえで建てられたかのような粗末な家がたくさん並んでいた。

「王都から流れて来た民たちだ。彼らへの配給量が比例して増えたせいで、収穫祭に回せるような余剰分がねえんだわ。…全く、迷惑な話だよ。自分達は農作業なんて泥臭い仕事できねえなんてほざきながら、飯はしっかり要求してきやがる。自分たちを上流階級とでも思ってんのかね。王都に住んでたってだけでプライドが高くて、困ったもんだよ」

 王都から逃れてきた民の住む家々を見やる老人の目には、侮蔑が見て取れた。領民との間に軋轢が生じているのは明らかだ。

「あんた、身なりもいいし護衛までつけてるとこから見ると、いいとこのモンだろう?領主様とも親交があるんじゃないのかい。後生だから現状を伝えてくれよ。あいつらをどうするつもりなんだい、って」

 よほど不満が溜まっていたのだろう。老人は堰を切ったように話しはじめ、アサドに相槌を打つ余地すら与えない。興奮で息が切れたのか、彼は肩にかけていたタオルで顔を撫でると大きな溜息を吐いた。

「…一体どうなってんのかねえ。こんなにもたくさん王都から民が流れて来てるってのに、領主様は何の対策もされねえ。連日屋敷に荷物が運び込まれてるって噂だが、彼らへの支援物資ってわけでもなさそうでなあ…」
「王都の民が住んでいるというあの家は…?」
「俺達が建ててやったんだ。自分達に野宿をさせるつもりなのか、って毎日ギャーギャー騒いでよお。俺らの家を乗っ取りかねなかったから、仕方なくさ」

 老人の話を聞きながら、アサドは密かに眉を顰めていた。領主であるトートルード卿と面会する前から、彼への疑惑がどんどんと確信に変わっていく。
 オルヴァルが王都から追放された時も、トートルード卿だけは助力してくれた。常に擁護的な立場を示していたからこそ、王子は彼を信用していた。王都の民の受け入れも快く請け負ってくれたことから、一切の疑念すら持たず、ヘジャズ領の様子を探らせることもしなかった。
 王子は卿の長年の献身に報いるために、積極的な物資の支援を行ってきた。最近はラルツレルナとヘジャズ間の税率も引き下げ、交易量も増やした。にもかかわらず、蓋を開けてみればこのありさま。真っ黒だ。

「ご老人、有益な情報に感謝申し上げます。実は、これからトートルード様に会いに行くところでして。先程伺ったお話、トートルード様に掛け合ってみましょう」
「そうかい!頼むよ、兄ちゃん!」

 軽く頭を下げて挨拶するアサドに、老人は表情を綻ばせた。期待の表情で大きく手を振る老人と別れ、一行は町中をさらに進み、ひと際大きな屋敷の前へとやってきた。
 事前の約束もない電撃の訪問であったが、門番は顔色を変えずに門を開いた。敷地内に促され、アサド達は馬を引きながら兵士の案内に従う。邸内に通されると、トートルード直々の出迎えを受けた。

「アサド殿、我が領にようこそ。殿下も一緒ですかな?」
「トートルード様、本日は私一人でお伺いした所存です。そして突然の訪問申し訳ございません。事前に手紙を送るとなると、情報が漏れる恐れがございましたので…」

 玄関に足を踏み入れてすぐに視界に広がる大きな中央階段を降りながら、ヘジャズ領主はにこやかに両手を広げる。対していつものように表情の硬いアサドは、敬意を示すために頭を下げた。その際、自分達を出迎える使用人たちの顔に視線を巡らせた。
 王都で作られた武器は最終的にこの屋敷に運ばれているとみている。運び屋が使用人に扮している可能性があるのでは、とアサドは睨んでいる。頭を下げる彼らのうち、似つかわしくない者を複数名いることに気づく。邸内の使用人にしてはあまりにも体格がよく、制服も誂えられたものではないようだ。

「それもそうですな。ヘジャズまでは遠路とは言わずとも、さぞお疲れでしょう。応接室にて休憩されると良い。護衛も別室に案内させるとしよう」
「お気遣いありがとうございます。ですが、久々にヘジャズに訪れた喜びからか、疲れは全く感じておりません。もし良ければ邸内を見て回らせていただいても、構いませんか?玄関だけを見ても調度品がどれも洗練されており、是非参考にさせて頂きたいのです。それに庭園も。花々が絢爛に咲き乱れる様子がここからでも見えるものですから」

 アサドは普段の怜悧な態度からは想像できない程に温和な笑みを浮かべ、大きな窓から覗く庭園に視線を移した。

「図々しいお願いで申し訳ございません。トートルード様がお忙しい身というのは重々承知しておりますので、どなたか他の方にでもお願いできたらと…」

 終始殊勝な態度と発言だが、どれもアサドの作戦だった。そもそも事前通知せずに訪問したのも、先に挙げた理由だけではなく、トートルードの反応を見る目的が大きい。オルヴァルは追放された身ゆえに監視対象で行動の制限が敷かれているのは、貴族連中にも周知の事実だ。裏を返せば、王子の目をかいくぐって悪事を働くことが可能ということでもある。
 もし本当に邸内に武器を運び込まれているのであれば、王子の腹心の電撃訪問は決して喜ばしいことではない。後ろめたいことがあれば、いくら老獪なトートルードと言えど動揺が僅かでも表情に現れるのではと考えたのだ。
 農夫との会話や怪しい使用人の存在に、領主に対するアサドの疑いはかぎりなく黒に染まっていた。だからこそ領主の出方が見たくて、邸内を見て回りたいと申し出た。隠し事があれば邸内を不用意にうろつかれるのは嫌なはず。
 事前の約束がないとはいえ客人は客人。自らが応接せず使用人に任せるのであれば、アサドは彼を主人の敵とみなす心づもりだった。

「さすがアサド殿、お目が高い。是非ともご案内させていただこう」

 だがヘジャズの領主は一切迷う素振りもなく快諾した。わずかな表情の揺らぎすらも見られず、アサドは心の中で密かに眉を顰めた。内心、使用人による応対を期待していたのだ。老巧なトートルードよりも使用人の方がずっと情報を引き出しやすい。何か起こっても言いくるめられる自信もある。

「快い返事をいただき、感謝申し上げます。では、よろしくお願いします」

 では早速参ろう、と階段を降りたトートルードは深く頭を下げるアサドの肩を軽く叩いた。そこまで畏まる必要はない、とでも慰めるかのように。その気遣いにアサドは微笑みながら、背後に控えていた兵士に目配せを送った。
 領主からの指示を受けた使用人が兵士たちを別室へと案内する。彼らにも邸内で不審な点がないか、密かに探るように事前に指示を出している。
 領主から直々の絵画や彫像の解説に耳を傾けながら、アサドはさりげなく周囲にも視線を移す。壁や床に不自然な汚れや日焼けがないかどうか。家具を最近動かしたような形跡がないかどうか。だが、ざっと目を通す限りではあからさまに怪しい点は見受けられなかった。
 もう少し時間をかけてつぶさに観察をしたいと思い、トートルードに質問をして話を広げようとするのだが、するりと交わされてしまう。それに絶えず執事然とした使用人の男がついてくるのも困りものだった。アサドの意図を知ったうえで監視をしているかのようだ。そもそもトートルードには長年仕えているご老体の執事がいたはずなのだが。

「トートルード様、執事のスレイシャー様はご健在ですか?」
「スレイシャーは既に隠居の身でしてな。子息のファーケンが後を継いでいるのですよ」
「自己紹介が遅れて申し訳ございません。トートルード様の筆頭執事のファーケンと申します。以後お見知りおきを、アサド様」

 失念していたとばかりに、トートルードは二人の後を随行していた男を紹介した。ファーケンと名乗る執事は胸に手を当てると、アサドに向かって頭を下げた。その所作は執事の名に恥じることのない、流れるような洗練さだったが、アサドは違和感を覚えた。

「スレイシャー様にはご子息がいらっしゃったのですか。家族は奥方だけと聞いていましたが…」
「私の素行が悪いばかりにずっと勘当されていたものですから、父はそうおっしゃっていたのですね。ですが心を入れ替えた姿を見て、近年受け入れてもらい、トートルード様にも機会を頂いた次第です」
「そうだったのですか。事情を知らないにも関わらず、出過ぎた発言でした。どうかお許しください」
「いえ、お気になさらず」

 アサドの発言に気分を害した様子もなく、ファーケンはにこやかに謝罪を受け入れた。態度も言葉遣いも柔らかいのだが、その奥底から言葉に表せない圧をアサドは感じ取っていた。目の前の男を信用できないと本能が囁く。

「先程町にて耳にしたのですが、今年は収穫祭を催されないのですか?」
「そうなのか、ファーケン?」

 再び歩を進めながら、男の発言に貴族は驚きに目を見開いた。背後の執事を振り返る。彼も初耳だと言わんばかりにおおげさに驚きながらも、間髪入れずに頭を左右に振って否定した。

「いいえ、例年通り今年も開催するように指示してあります」
「一体どうして、根も葉もない噂が広まっているのか」

 トートルードは心外だと肩を大きく竦めて見せた。

「もしかしたら私の聞き間違いであったかもしれません。私もおかしいとは思ったのです。収穫祭という大事な催事をトートルード様がしないはずがない、と。ですが、確かに例年であれば既に開催されている時期にも関わらず準備が進んでいないのも妙だと思いまして…」
「弁解にはなるが、王都からの民が増えたことも影響していましてなあ。収穫祭を催すには一定量の蓄えと資材が必要になる。しかし避難民のための仮住居や配給もそれ以上の急務。殿下の温情で様々な援助を賜っていますが、正直に申すとそれで十分とは言えないのですよ…。王都の民のためを思って施策すれば、領民の不満を買い、両者の間に軋轢が生じている。ままならないものですな」

 トートルードは親指と人差し指で鼻の付け根をつまむと、これ見よがしに大仰なため息を吐いた。

「アサド殿が疲れていないというのは本当のようだ。鋭い質問ばかりで頭が下がる」

 領主の発言に、アサドははっとした。当人はにこやかな表情を浮かべているが、これは牽制だ。着いたばかりにも関わらず、深く立ち入りすぎてしまった。

「…トートルード様のご助力、殿下共々深く感謝しております」
「いやいや、オルヴァル殿下の責務に比べれば、何のこれしき。…ラルツレルナのような大きな街をどのように治められているのやら、殿下の手腕には本当に頭が下がる。儂は殿下よりもずっと年かさであると言うのに」

 貴族の自虐を、アサドは目を伏せて聞いていた。己のことを卑下しながらも、発言の奥に更なる援助を引き出すかのような意図を感じたのだ。
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