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95. 後継指名
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王の招集により、貴族や高官たちが入室する。かなりの人数であったが、王の私室はそれでも余裕があった。
寝台に体を預ける王に、様々な感情を含んだ視線が注がれる。不安、心配、困惑。しかし王はしっかりとした意志のこもった瞳で彼ら一人一人の顔をゆっくりと見渡し、口を開いた。
「……皆の者、呼びかけに応えてくれて感謝する。あの場で突然頭の中に浮かび上がった光景に、困惑していることと思う。儂もそうだ。……だが、あれは幻などではなく、人の記憶であり事実だ」
静まり返った室内に息を呑む音が響く。全員が体験した摩訶不思議な出来事を、王から改めて事実という認定がされたのだから無理もない。あれが事実だと直感的に分かっていても、理性が非現実的なことをあり得ないと拒絶してしまう。
「へ、陛下、確かに頭に流れて来た断片的なあれこれは妙に臨場感があり、真実味を帯びておりました。…しかし、何を持って事実だと認定なさるのですか…!?全員が同様のものを目にするなど、集団幻覚だとしてもどこか…」
混乱にまごつく彼らに、王はセヴィリスから聞いた内容を話した。約束通り、アビエナの真実に関しては一切口外されなかった。
ダガット王が話を終えてもなお、重い沈黙が室内を満たす。己の常識や想像をはるかに超えた話に、皆言葉を失っているのだ。だが、誰一人として王の話をでたらめだと非難するものはいなかった。
催眠効果のある香などの作用で集団幻覚を見たのだとするには、あまりにも生々しかったからだ。頭では非現実な出来事を否定していても、心や肉体は現実のことだと訴えている。
「我が国の随獣は、ローディルとニルン。それぞれ、オルヴァルとイズイークの半身となる」
王に紹介され、皆の関心が一斉にオルヴァルの隣に立つ青年と、イズイークの腕に抱かれたニルンへと向けられる。凝視にどこか居心地の悪さを感じ、ローディルはオルヴァルの背中に隠れた。だがそれも、王が再び彼らの注意を引いたことで長くは続かなかった。
「儂は王位を退くつもりだ。……何も今この場でと言う訳ではない。ゲルゴルグとトートルードの件で片をつけなければならない。民への説明もある。ただ、心づもりと準備は進めておいてくれ」
誰もが想定していなかったタイミングでの王の発言に、室内には激震が走る。
アサドは、己の主君がヒュッと息を呑むのに気づいた。体側で爪が食い込むほどに強く握り拳を作っていることも。彼の心情を慮ると胸が痛んだ。表情には出ていないものの、主君がどれほどショックを受けているか手に取るように分かったからだ。
「……父上、なぜそのようなご決断に至ったのですか…?もし今回のことに責任を感じてのことであれば……」
オルヴァルの声はどうにか絞り出せたかのように、か細く震えていた。
「それも勿論ある。だがそれ以上に、儂はもう長くない」
「滅多なことを仰らないでください…っ!確かに洗脳が解けたばかりの今はご加減がよくないかもしれません。ですが、きっとすぐに良くなります…!メルバの民は陛下のお戻りを何より願っているはずです。そして以前のように兄上と俺で父上をお支えして、かつての繁栄を取り戻しましょう。俺…俺はそれだけを希望に今まで励んできたのです……っ!」
第二王子は頭を左右に振り、跪いて縋るように父親の手を両手で握った。ダガット王は、今にも泣き出しそうな息子の名前を柔らかな声で紡ぐ。
「自分の体のことは、自分が一番わかっている。多少良くなることはあれど、衰弱した体はもう元には戻らぬ。儂の言葉が信じられぬのであれば、後で薬医に聞いてみるといい」
「……ッ」
絶望し力なく項垂れるオルヴァルに、アサドを始めとした側近たちはかける言葉が思い浮かばなかった。
オルヴァルにとって、ダガットという父親と王の存在は果てしなく大きい。尊敬や信頼の念はほとんど盲目的で、彼にとっては神にも等しい、とアサドは思っている。勿論、兄であるイズイークにも似たような感情を抱いてはいるが、比率は比べ物にならない。
それはきっと、オルヴァルの人格形成に影響している。アビエナの血が流れているという理由で、彼ら母子は王族とは言え城内ではつまはじき者だった。陰口はまだいい方で、幼いオルヴァルに聞こえよがしに悪辣な言葉を散々並びたてた。肌の色をまるで欠陥のように言い、ことあるごとに王や兄王子と比較しては貶め、劣等感を何重にも渡って塗りこめた。王やイズイークに知られないよう母子しかいないとき、子供だけのときを狙っては狡猾に、執拗に、明確な悪意を持って。
そうして、オルヴァルの中で王と兄は非の打ちどころのない傑物で、自分は彼らの足元にも及ばない欠陥品だという価値観が生まれてしまったのだ。
そんな偉大な父王が退位すると言うのだ。オルヴァルの心の内は想像を絶する。
「陛下……退位を決断されたと言うことは、後継も心に決めておられるのですね?」
静かに話を聞いていたベネディクタス卿が口を開いた。いつも通りの神妙な面持ちで、どのような感情でいるのか窺い知ることができない。
ダガットはしばらく沈黙を貫き、マルティアトの領主をじっと見つめ返すのみだった。まるで視線だけで会話をしているように思えた。やがて王はおもむろに顔を傾け、我が子二人の顔を交互に見つめた。
主君につられる形で、他の貴族たちも二人の王子、しかし主には長子であるイズイークに注目を向けた。
「新王には、……オルヴァルを指名する」
どよめきが起こる。
王位継承順位一位はイズイーク、二位がオルヴァルであることは自明の理。だがダガット王はその継承順位をすっ飛ばし、二位である第二王子を指名した。第一王子であるイズイークも父であるダガットの思想をよく理解し、幼き頃から将来を嘱望されていた。メルバの次の治世も安泰だと誰もが思っていたにも関わらずだ。
動揺が広がる中、生まれながらに次代の王になることを宿命づけられていたはずのイズイークは無表情のままだ。まるで自分のことではないかのように、先程から静観を決めこんでいる。
「父上、一体何を…っ!?俺が王など、無理ですっ!アビエナの血が混じった俺が王だなんて、それこそ王室の権威は完全に失墜します!それに再建どころか、滅びを招くことになります…っ!父上と並ぶ賢王足り得るのは、イズイーク兄上を置いて他にはいません…!俺では、…無理です…!どうか、お考え直しを……っ!」
いち早く声を上げたのはオルヴァルだった。悲鳴にも似た悲痛な声で己の父親に訴えかける。口からこぼれて止まらない言葉の数々に偽りの響きは一切なく、正真正銘オルヴァルの心の叫びだった。本気で分不相応だと思っているのだ。
先程よりも崩れ落ちる第二王子は、涙まじりのか細い声で、うわごとのように何度も懇願の言葉を呟く。
ローディルは、主人を抱きしめたい衝動を必死でこらえていた。慰めの言葉をかけるのは簡単だ。だがそれでは、オルヴァルの心に深く突き刺さった棘は抜けない。それができるのは父親であるダガットだけだと、十分に分かっていたからだ。だからローディルは下唇を噛み、泣くのを我慢していた。
「皆の目から見て、ラルツレルナはどんな様子だ?交易地として問題なく機能しているか?納税や治安状況は?流通している品の品質に変化はあるか?」
王は息子ではなく、貴族や高官たちに声をかけた。不意の質問は脈絡がないように思われて、貴族たちは互いの見合わせたりと困惑を浮かべていたが、口を開いた。
「ラルツレルナからの交易品は申し分ない品質です、ダガット陛下。年々良くなっていると言っても過言ではありません」
「確かにそうですわ。中継地として通っただけの私も安全だと感じました。以前はガラの悪い商隊の護衛やごろつきがそこらを我が物顔で歩いていて、宿の中でさえ身の危険を感じていたものでしたが……」
「聞けば区画整理を行い、歓楽施設をひとところにまとめて居住区とのすみ分けをしたとか。それでも町は活気に満ち溢れておりましたな」
「え、ええと…ここにある各領地からの納付内訳を見ましても、額も量も年々増えておりますな。それも規定量を大幅に上回って……」
「マルティアトへの道も整備され、旅程が短縮されました。これにより交易に出せる品物もぐんと増えました」
「陛下、僭越ではございますが私からも報告をさせてください。オルヴァル殿下は、ラルツレルナの治政に全力を傾けていました。暴利で品を売る商人はもちろん、粗悪品を流したり詐欺まがいの取引も厳しく取り締まり、適宜投獄や資格はく奪などを行ってきました。殿下自ら市場の見回りもして…。その地道な活動が実を結び、少しずつではありますが不正は減少していると数字にも現れてきました。オルヴァル殿下の手腕の賜物以外になりません」
ラルツレルナに関する良い評判がそこここからあがる。最後に発したのは、アサドだった。彼らの話を聞いたダガットは満足そうに頷き、再びオルヴァルに顔を向けた。
「オルヴァル、聞いたか?皆の口から出るのは軒並み良い評判ばかりだ。儂の記憶の中にあるラルツレルナとは全く違う。彼らの話しぶりから、オルヴァルがどれだけ苦心して事を成したのかがよくわかる。儂やイズイークの助けなどなくとも、ラルツレルナを繁栄に導くことが出来たのだ。そう己の能力を過小評価するものではない。儂はオルヴァルの中に、為政者としての立派な器を見出している。お前ならきっと、メルバの統治も立派にこなせると」
「オルヴァル、私も父上と同意見だ。父上がニルンの術にかかっておかしくなってから、私は父上のお傍で、お前は外からお支えしようと約束した。だが現実はどうだ?私も術にかかって腑抜けになっていた間、お前だけが現状をどうにかせんと踏ん張っていた。オルヴァルが頑張ってくれたからこそ、今の私達がいる。もっと自分に誇りを持て。お前は王にふさわしいよ。……それに正直なところ、私の急務は英気を取り戻すことだと思っている。だけれど、どのくらいかかるのかは分からない。そんな不安定な状態のままでは満足に執政などできない。……情けない話ではあるし、オルヴァルには更に負担をかける形にはなるが……。今度は私にお前のことを支えさせてほしい」
「父、上……兄上……」
弟の肩を掴むイズイークの顔には微笑みが浮かんでいた。父親と兄の慈愛に満ちた柔らかな表情に、オルヴァルの頬には幾重もの涙の筋が流れる。
「オルヴァル殿下、私もお支え致します。困窮する民のために支援を取り付けようと尽力される殿下の思いに心打たれました。貴殿は真の愛国者であると知り、これまでの己の振る舞いに恥じ入るばかりです。どうかこれまでの傲岸不遜な態度をお許しください。これからは誠心誠意、殿下にお仕えする所存です」
突如膝を折り、オルヴァルに向かって頭を下げるマルティアトの領主に、皆驚きに目を見開いた。貴族の中でも自他ともに認めるほどの堅物で頑固者である彼が、一切異を唱えることなくいち早く忠誠を示したからだ。
「見ろ、オルヴァル。既にお前を君主と認める者もいる。すぐに自信をもつのは難しいだろう。自分は王の器ではないと思い悩むことも多々あるだろう。だが、かつて儂もそうだった。周りの皆の助けがあったからこそ王でいられたのだ。オルヴァル、お前はまだ若く、過酷な環境の中でも優しく真っ直ぐに育った。そんなお前を慕い、命を賭す想いで窮地を救った味方もいる」
王の視線の先を追いかけると、随獣であるローディルをはじめ、アサドやエミルがいた。頼りない自分を見捨てず、いつでも傍にいて、支えてくれた。彼らなしでは、自分はとうの昔に駄目になっていたと確信できる。
この場にはいないプリヤのことも、オルヴァルは思い出していた。彼女は長いことラルツレルナで兵長を務めてくれているが、今も傭兵のままであることは変わらない。本来、パルティカにまで救出に来る必要はなかった。だが、己の伝手を使って他の傭兵団に頼んでまで、来てくれた。
「大きな事を成すには、身近に理解者が必要だ。その点、オルヴァルになら安心して国を託せる」
感極まったオルヴァルは、声もなくさめざめと涙を流した。そんな息子の濡れた頬を、王のかさついた手が優しく愛おしそうに撫でた。
寝台に体を預ける王に、様々な感情を含んだ視線が注がれる。不安、心配、困惑。しかし王はしっかりとした意志のこもった瞳で彼ら一人一人の顔をゆっくりと見渡し、口を開いた。
「……皆の者、呼びかけに応えてくれて感謝する。あの場で突然頭の中に浮かび上がった光景に、困惑していることと思う。儂もそうだ。……だが、あれは幻などではなく、人の記憶であり事実だ」
静まり返った室内に息を呑む音が響く。全員が体験した摩訶不思議な出来事を、王から改めて事実という認定がされたのだから無理もない。あれが事実だと直感的に分かっていても、理性が非現実的なことをあり得ないと拒絶してしまう。
「へ、陛下、確かに頭に流れて来た断片的なあれこれは妙に臨場感があり、真実味を帯びておりました。…しかし、何を持って事実だと認定なさるのですか…!?全員が同様のものを目にするなど、集団幻覚だとしてもどこか…」
混乱にまごつく彼らに、王はセヴィリスから聞いた内容を話した。約束通り、アビエナの真実に関しては一切口外されなかった。
ダガット王が話を終えてもなお、重い沈黙が室内を満たす。己の常識や想像をはるかに超えた話に、皆言葉を失っているのだ。だが、誰一人として王の話をでたらめだと非難するものはいなかった。
催眠効果のある香などの作用で集団幻覚を見たのだとするには、あまりにも生々しかったからだ。頭では非現実な出来事を否定していても、心や肉体は現実のことだと訴えている。
「我が国の随獣は、ローディルとニルン。それぞれ、オルヴァルとイズイークの半身となる」
王に紹介され、皆の関心が一斉にオルヴァルの隣に立つ青年と、イズイークの腕に抱かれたニルンへと向けられる。凝視にどこか居心地の悪さを感じ、ローディルはオルヴァルの背中に隠れた。だがそれも、王が再び彼らの注意を引いたことで長くは続かなかった。
「儂は王位を退くつもりだ。……何も今この場でと言う訳ではない。ゲルゴルグとトートルードの件で片をつけなければならない。民への説明もある。ただ、心づもりと準備は進めておいてくれ」
誰もが想定していなかったタイミングでの王の発言に、室内には激震が走る。
アサドは、己の主君がヒュッと息を呑むのに気づいた。体側で爪が食い込むほどに強く握り拳を作っていることも。彼の心情を慮ると胸が痛んだ。表情には出ていないものの、主君がどれほどショックを受けているか手に取るように分かったからだ。
「……父上、なぜそのようなご決断に至ったのですか…?もし今回のことに責任を感じてのことであれば……」
オルヴァルの声はどうにか絞り出せたかのように、か細く震えていた。
「それも勿論ある。だがそれ以上に、儂はもう長くない」
「滅多なことを仰らないでください…っ!確かに洗脳が解けたばかりの今はご加減がよくないかもしれません。ですが、きっとすぐに良くなります…!メルバの民は陛下のお戻りを何より願っているはずです。そして以前のように兄上と俺で父上をお支えして、かつての繁栄を取り戻しましょう。俺…俺はそれだけを希望に今まで励んできたのです……っ!」
第二王子は頭を左右に振り、跪いて縋るように父親の手を両手で握った。ダガット王は、今にも泣き出しそうな息子の名前を柔らかな声で紡ぐ。
「自分の体のことは、自分が一番わかっている。多少良くなることはあれど、衰弱した体はもう元には戻らぬ。儂の言葉が信じられぬのであれば、後で薬医に聞いてみるといい」
「……ッ」
絶望し力なく項垂れるオルヴァルに、アサドを始めとした側近たちはかける言葉が思い浮かばなかった。
オルヴァルにとって、ダガットという父親と王の存在は果てしなく大きい。尊敬や信頼の念はほとんど盲目的で、彼にとっては神にも等しい、とアサドは思っている。勿論、兄であるイズイークにも似たような感情を抱いてはいるが、比率は比べ物にならない。
それはきっと、オルヴァルの人格形成に影響している。アビエナの血が流れているという理由で、彼ら母子は王族とは言え城内ではつまはじき者だった。陰口はまだいい方で、幼いオルヴァルに聞こえよがしに悪辣な言葉を散々並びたてた。肌の色をまるで欠陥のように言い、ことあるごとに王や兄王子と比較しては貶め、劣等感を何重にも渡って塗りこめた。王やイズイークに知られないよう母子しかいないとき、子供だけのときを狙っては狡猾に、執拗に、明確な悪意を持って。
そうして、オルヴァルの中で王と兄は非の打ちどころのない傑物で、自分は彼らの足元にも及ばない欠陥品だという価値観が生まれてしまったのだ。
そんな偉大な父王が退位すると言うのだ。オルヴァルの心の内は想像を絶する。
「陛下……退位を決断されたと言うことは、後継も心に決めておられるのですね?」
静かに話を聞いていたベネディクタス卿が口を開いた。いつも通りの神妙な面持ちで、どのような感情でいるのか窺い知ることができない。
ダガットはしばらく沈黙を貫き、マルティアトの領主をじっと見つめ返すのみだった。まるで視線だけで会話をしているように思えた。やがて王はおもむろに顔を傾け、我が子二人の顔を交互に見つめた。
主君につられる形で、他の貴族たちも二人の王子、しかし主には長子であるイズイークに注目を向けた。
「新王には、……オルヴァルを指名する」
どよめきが起こる。
王位継承順位一位はイズイーク、二位がオルヴァルであることは自明の理。だがダガット王はその継承順位をすっ飛ばし、二位である第二王子を指名した。第一王子であるイズイークも父であるダガットの思想をよく理解し、幼き頃から将来を嘱望されていた。メルバの次の治世も安泰だと誰もが思っていたにも関わらずだ。
動揺が広がる中、生まれながらに次代の王になることを宿命づけられていたはずのイズイークは無表情のままだ。まるで自分のことではないかのように、先程から静観を決めこんでいる。
「父上、一体何を…っ!?俺が王など、無理ですっ!アビエナの血が混じった俺が王だなんて、それこそ王室の権威は完全に失墜します!それに再建どころか、滅びを招くことになります…っ!父上と並ぶ賢王足り得るのは、イズイーク兄上を置いて他にはいません…!俺では、…無理です…!どうか、お考え直しを……っ!」
いち早く声を上げたのはオルヴァルだった。悲鳴にも似た悲痛な声で己の父親に訴えかける。口からこぼれて止まらない言葉の数々に偽りの響きは一切なく、正真正銘オルヴァルの心の叫びだった。本気で分不相応だと思っているのだ。
先程よりも崩れ落ちる第二王子は、涙まじりのか細い声で、うわごとのように何度も懇願の言葉を呟く。
ローディルは、主人を抱きしめたい衝動を必死でこらえていた。慰めの言葉をかけるのは簡単だ。だがそれでは、オルヴァルの心に深く突き刺さった棘は抜けない。それができるのは父親であるダガットだけだと、十分に分かっていたからだ。だからローディルは下唇を噛み、泣くのを我慢していた。
「皆の目から見て、ラルツレルナはどんな様子だ?交易地として問題なく機能しているか?納税や治安状況は?流通している品の品質に変化はあるか?」
王は息子ではなく、貴族や高官たちに声をかけた。不意の質問は脈絡がないように思われて、貴族たちは互いの見合わせたりと困惑を浮かべていたが、口を開いた。
「ラルツレルナからの交易品は申し分ない品質です、ダガット陛下。年々良くなっていると言っても過言ではありません」
「確かにそうですわ。中継地として通っただけの私も安全だと感じました。以前はガラの悪い商隊の護衛やごろつきがそこらを我が物顔で歩いていて、宿の中でさえ身の危険を感じていたものでしたが……」
「聞けば区画整理を行い、歓楽施設をひとところにまとめて居住区とのすみ分けをしたとか。それでも町は活気に満ち溢れておりましたな」
「え、ええと…ここにある各領地からの納付内訳を見ましても、額も量も年々増えておりますな。それも規定量を大幅に上回って……」
「マルティアトへの道も整備され、旅程が短縮されました。これにより交易に出せる品物もぐんと増えました」
「陛下、僭越ではございますが私からも報告をさせてください。オルヴァル殿下は、ラルツレルナの治政に全力を傾けていました。暴利で品を売る商人はもちろん、粗悪品を流したり詐欺まがいの取引も厳しく取り締まり、適宜投獄や資格はく奪などを行ってきました。殿下自ら市場の見回りもして…。その地道な活動が実を結び、少しずつではありますが不正は減少していると数字にも現れてきました。オルヴァル殿下の手腕の賜物以外になりません」
ラルツレルナに関する良い評判がそこここからあがる。最後に発したのは、アサドだった。彼らの話を聞いたダガットは満足そうに頷き、再びオルヴァルに顔を向けた。
「オルヴァル、聞いたか?皆の口から出るのは軒並み良い評判ばかりだ。儂の記憶の中にあるラルツレルナとは全く違う。彼らの話しぶりから、オルヴァルがどれだけ苦心して事を成したのかがよくわかる。儂やイズイークの助けなどなくとも、ラルツレルナを繁栄に導くことが出来たのだ。そう己の能力を過小評価するものではない。儂はオルヴァルの中に、為政者としての立派な器を見出している。お前ならきっと、メルバの統治も立派にこなせると」
「オルヴァル、私も父上と同意見だ。父上がニルンの術にかかっておかしくなってから、私は父上のお傍で、お前は外からお支えしようと約束した。だが現実はどうだ?私も術にかかって腑抜けになっていた間、お前だけが現状をどうにかせんと踏ん張っていた。オルヴァルが頑張ってくれたからこそ、今の私達がいる。もっと自分に誇りを持て。お前は王にふさわしいよ。……それに正直なところ、私の急務は英気を取り戻すことだと思っている。だけれど、どのくらいかかるのかは分からない。そんな不安定な状態のままでは満足に執政などできない。……情けない話ではあるし、オルヴァルには更に負担をかける形にはなるが……。今度は私にお前のことを支えさせてほしい」
「父、上……兄上……」
弟の肩を掴むイズイークの顔には微笑みが浮かんでいた。父親と兄の慈愛に満ちた柔らかな表情に、オルヴァルの頬には幾重もの涙の筋が流れる。
「オルヴァル殿下、私もお支え致します。困窮する民のために支援を取り付けようと尽力される殿下の思いに心打たれました。貴殿は真の愛国者であると知り、これまでの己の振る舞いに恥じ入るばかりです。どうかこれまでの傲岸不遜な態度をお許しください。これからは誠心誠意、殿下にお仕えする所存です」
突如膝を折り、オルヴァルに向かって頭を下げるマルティアトの領主に、皆驚きに目を見開いた。貴族の中でも自他ともに認めるほどの堅物で頑固者である彼が、一切異を唱えることなくいち早く忠誠を示したからだ。
「見ろ、オルヴァル。既にお前を君主と認める者もいる。すぐに自信をもつのは難しいだろう。自分は王の器ではないと思い悩むことも多々あるだろう。だが、かつて儂もそうだった。周りの皆の助けがあったからこそ王でいられたのだ。オルヴァル、お前はまだ若く、過酷な環境の中でも優しく真っ直ぐに育った。そんなお前を慕い、命を賭す想いで窮地を救った味方もいる」
王の視線の先を追いかけると、随獣であるローディルをはじめ、アサドやエミルがいた。頼りない自分を見捨てず、いつでも傍にいて、支えてくれた。彼らなしでは、自分はとうの昔に駄目になっていたと確信できる。
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「大きな事を成すには、身近に理解者が必要だ。その点、オルヴァルになら安心して国を託せる」
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BL大賞に応募しましたので、見て頂けると嬉しいです!
※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました!
※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました!
旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」
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