僕らと歩く

長門路橋

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第三部 今日からのビギニング

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 九月に入って休みが終わると、ちょっと忙しくなった。
 論文の執筆がある。
 夏の内に資料を集め、読んでいたから慌てるほどではないけれど、構成を練るのも一苦労だ。
 五百文字ぐらいの概要であっても一晩時間を空けて見直すと、致命的な欠陥が見付かったりする。
 修正に頭を使う。

 テーマは『ゲームの歴史』だ。
 姫花らしいと言えば姫花らしい。
 就職活動からの流れで、そちらに熱中していたから、活かしたんだけれどね。
 占星術が囲碁の起源であるとか、タロットとトランプの関係性とか、学説をいくつか挙げて、占い、魔術、宗教との関連性を考察し、神秘性を求める心理を根源として発展したのではないかと、結論付けたのを、どうにか書き上げた。

 卒業した後は、内定取り消しのトラブルもなく、新社会人になった。
 はじめの頃は雑用ばかりだ。
 姫花は明確に野心を持った新人ではなかったから、不満はなかったけれど……正直なところ、興味のある仕事をしているというだけで嬉しかった。

 一ヶ月もする頃には、頼りないが、一緒の職場にいて気持ちのいい新人という評判を勝ち取った。本人に打算はなかったけれど、中小企業だからね。社員の数が少ない分、勤務態度や人柄が上に伝わりやすい。

「お疲れ様です。もしかすると、次のプロジェクトに関わってもらうかもしれません。その時の為に準備をしておいてもらいたいのですが……ああ、いえ、そんなに難しく考えなくても大丈夫ですよ。気持ちさえあればよいので」

 と、文也がねぎらいに来たほどだ。
 『キングス・オブ・ドリーム』は組織そのものが小さくて、構造がシンプルだから、適度に交流した方が上手くいく。変に威張り散らしていると、すぐに社員の目に留まってしまう。
 足並みを揃えるつもりがないって、不満を抱かれやすい。
 それを避ける為、文也は風通しのいい職場を維持したがっているみたいだ。

 ただ、商品の開発にはあまり口を出さない。
 資金や取引先とのやりとりに関し、たしかめ合うことはあっても、自分のアイディアを捻じ込もうとはしない。
 だからこそ、上手くいっているのだと、城田が教えてくれた。
 百合子を交えて飲みに行った日にね。

 ところは『ロマンティック・ロマンス』っていう、バーだ。
 『キングス・オブ・ドリーム』のオフィスから二百メートルと離れていないから、仕事帰りに寄りやすい。
 バーテンダーを兼ねたマスターと、カウンター越しにやりとりをする、奥に長いお店でね。ちょっと狭いけれど、ボックス席もある。
 この時はどこの社員か、背広にネクタイの男達が使っていた。

 姫花達はカウンター席に三人並んで、マスターがシェイカーを振る音を聞きながら、仕事の疲れを癒していた。

「大学できっちりと経済の勉強をしてきた人だからね。現場はお前達に任せた。資金やマーケティングは自分に任せろって経営方針なんだ」

 余程、いい思いをしてきたのかな。
 城田は文也の悪口は言わなかった。
 酒に弱いのか、量を控えてペースを保ち、そんなに酔っていなかったのもあるだろうけれど。

 ここでは百合子の方が酷かった。
 制作に携わった商品が売れていないっていうんで、

「そうやって社長が頑張ってらっしゃる。私達はあんなに残業した。それなのに赤字スレスレって酷いですよねぇ」

 と、美人が形無しだ。子供っぽくなる酔い方で、城田の肩に寄り掛かっている。

「私、ちゃんと数字、調べましたよね? 資料も集めましたよね?」

「うん、頑張った。だけど、それだけじゃあ報われないのが、俺達の仕事だろう?」

「分かっていますよぉ。この間、読んだ本に、刻一刻と移り変わっていくのが数字だ。参考には出来るが、過信はするな。プレゼンで使った資料通りにことが運ぶほど、世の中は甘くないって書いてありましたから」

「お前さん、どんな本を読んだんだ?」

「ビジネス書ですよ。アメリカのベストセラーを翻訳した」

「ああ、あっちのはそういうの、いちいち理屈っぽいからな。現場の判断と、専門職の経験が大事ですって結論を出すのに、何十ページと使う」

「事例ですよ、事例。事例がないと説明出来ないでしょう?」

「そりゃあそうだ。ただ、海の向こうのであって日本のじゃあない。何から何まで一致していたら気味が悪いぞ」

「それはそう。政治経済の違いを無視して、一国の事例を元にすべてを説明しようとするのは、致命的な欠陥を見過ごす一方、現地ではごく自然な物事に過剰反応する原因になると、著者の方も書いていましたし」

「あんまり難しく考えるなよ。今となっては、俺達が出来ることは少ないんだから」

 なぐさめるつもりか、城田はマスターにカクテルを注文した。

「この子に一杯頼みます。それっぽいのをお任せしますので」

「うけたまわりました。『トゥモロー・サンライズ』はいかがでしょう。当店のオリジナルですが」

「それで」

 『トゥモロー・サンライズ』は黄色とピンクのお酒が作り出す、グラデーションが綺麗なカクテルだった。
 明日の日の出を意味する名前だ。
 近い将来、いいことがあるかもしれないって、応援するにはいい。

 こういうのをサラリと提供出来るのが、このお店の質を物語っていた。飲みやすい空気が漂ってもいたので、姫花も三杯もらった。
 おもてに出た時はほろ酔い加減だ。

 それだけならよかったんだけれど、手放しに気分のいい夜じゃあなかった。
 夜道を歩いていると、湿った空気がまとわりついてきた。分厚い雲の所為で月が見えない。
 一週間も過ぎると気象庁から正式に梅雨入りの発表があった。

「今日もじめじめしていますね」

 なんて言葉を朝の挨拶にくっつけて、オフィスの外で煙る、余所のビルディングを見上げる社員が多くなった。

 ただ、その日の朝は違った。
 姫花が目を覚ますと、スズメの声までもが賑やかだった。ベッドから手を伸ばして窓を開けると、そよ風がパジャマの襟元から内に滑り込み、心地よかった。
 いいことがありそうだと、姫花はパジャマを脱いで身支度を整える。

 一階のダイニングに下りて朝食をとりながら、リモコンを取り、隣のリビングに置いてあるテレビを点ける。
 ここで情報番組を観るのが、毎朝の習慣だからね。
 特集の後に天気予報、そして星座占いと画面が切り替わった。

「ふたご座は……ふつうか。幸運の鍵はあなた次第?」

 と、ラッキーポイントを姫花は読み上げた。
 こういうのって、しばらくすると忘れちゃうんだよね。
 その時だけ一喜一憂するっていうのかな。吉と出れば嬉しく、凶と出ればイラっとするのに、五分もするとどうでもよくなる。
 自宅を出る頃には姫花もすっかり仕事モードだ。
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