【完結】この契約に愛なんてないはずだった

なの

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手を伸ばすには、遠すぎて

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夜の闇が、重厚なカーテンのようにリビングの窓を覆い尽くす時間。部屋の静寂は、テーブルの上に置かれた一つのファイルによって、張り詰めた緊張をはらんでいた。

「鷹城のやつ、また呼び出しか……」

独りごちた声は、誰に聞かれるでもなく虚しく響く。「早く帰る」と言っていた怜司は、まだ戻らない。
テーブルの上に無造作に置かれていた分厚いファイル。何気なく目に入ってしまった表紙の文字。

「本家からの急報」――そして、彼の名字と同じ、鷹城の文字。

……鷹城グループ、次期当主選任に関する内部資料。
ページをめくる指先が、一瞬だけ震えて止まった。見てはいけない。他人の人生を、ましてやあの男の未来を盗み見るような行為だ。でも、見なければ、この曖昧で心地のいい距離感のまま、何も知らずに一年を終えることになる。それが、なぜか耐え難いほど恐ろしかった。

息を呑んで、そっとページをめくる。その向こうにあったのは……やはり、見たくなかった現実だった。

彼は、鷹城家のアルファの中でも特に優秀とされ次期当主として内定に近い位置にいること。
そして、俺とのこの偽りの番関係が、一部の保守的な親族から「当主の資質を疑う不適切な関係」として問題視されており、彼の立場を危うくしかねない火種だと冷たい活字で記されていた。
決定打は、最後のページに添えられた一文だった。

『――次期当主は、鷹城家の血を絶やさぬため、近い将来、一族が認める家柄のオメガを正式な番として迎え、血統と繁栄を守る後継者を残すことが強く求められる』

息が、止まった。
俺は、番にはなれない。
後継者も産めないかもしれない劣等オメガだ。
そんなこと、最初から分かっていたはずだった。これはただの契約。
俺は、一年限定の、仮の番。そういう立場だった。
でも……心のどこかで、「もしかしたら」なんて、馬鹿な夢を見てしまっていた。

……バカか、俺は。
最初から、偽物だったじゃないか。
呟いた声が自分でも驚くほど虚しかった。
怜司がくれた優しさも、時折見せる不器用なあたたかい言葉も。「契約だから」と思えば、すべて説明がついてしまう。でも、俺はそれ以上を、契約以上の何かを、心のどこかで望んでしまっていた。そんな愚かで浅ましい自分に気づいてしまって……足元から、心の奥が、ずるずると音を立てて崩れていく。

その時、静かに玄関の扉が開く音がして足音が近づいてきた。心臓が大きく、痛いほどに跳ねた。怖い。顔が見られない。けど、今さら何もなかったふりなんて、できっこない。
リビングに姿を現した怜司が、俺を見て……そして、俺の手元にあるファイルに視線を落とした。

「……読んだんだな」

俺は答えなかった。答える言葉が見つからなかった。

「それで?」

怜司の声は、嵐の前の海のように、不気味なほど静かだった。

「何を思った?」

「……思ったって、別に。あんたには、もっとふさわしい相手がいるって、ただそれだけのことでしょ」

その瞬間、怜司の眉がぴくりと動いた。俺の投げやりな言葉に含まれた棘に気づいたのだろう。

「俺は、子供も産めるかどうかわからない。家柄も学歴も、あんたとは釣り合わない劣等オメガだし」

「翔太」

「俺には、あんたを支える力なんて……ないよ。あんたの家の人たちから見れば、俺なんて、あんたの経歴に傷をつけるだけの、足枷でしかないんだ」

自分でも驚くほど、声が震えていた。誰かに期待されたことなんて、ほとんどない人生だった。誰かに必要とされたことも。誰かの唯一無二の番になれるような、そんな価値のある存在じゃ、ない。

「……力がない、と思っているのは君だけだ」

怜司が、俺の前にゆっくりと膝をついた。見下ろされるのではなく、同じ目線で、俺の瞳をまっすぐに捉えるために。

「誰よりも、自分を犠牲にしてまで母親を支えてきた。誰にも頼らず、たった一人で。それがどれだけ強く、尊いことか……君を見て、家の者たちが何を言おうと、俺の選んだことに後悔はない」

「でも、家のためには、ちゃんとした正式な番が必要なんでしょ?」

「それは家の意向だ。鷹城というシステムが求めるものだ。だが、俺個人の意思ではない」

その言葉は、あまりに現実離れしていて、簡単には信じられなかった。
けれど、そのときの怜司の目は、揺らぎなく、どこまでも真剣で、真っ直ぐだった。

「君には、人を支える力がある。俺が、それを保証する」

「……嘘だ」

「本当だ。たとえ世界中の誰もが君を認めなかったとしても……俺が、君を認める」

低く、けれど明瞭に響く声に、胸が締めつけられた。熱いものが込み上げてきて、視界が滲む。

「でも……こわいんだ」

堰を切ったように、涙がこぼれ落ちた。

「誰かにとって、大事な存在になって……また、捨てられるのが……っ」

父親の、冷たい背中が脳裏をよぎる。「運命の番ができたから」という一言で、あっさりと捨てられた母と自分の姿。もう、あんな思いはしたくない。
怜司は黙って、俺の手を取った。大きく、節くれだった、男の手。そのあたたかい体温が、震える俺の指先に伝わってくる。
その手が、まだ、ここに繋がれていることに……俺は少しだけ、救われた気がした。


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