発情期のタイムリミット

なの

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抑制剤と副作用

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翌朝、陸は普段より三十分早く目覚ましをセットしていた。

「今日こそは集中して……」

洗面台で顔を洗いながら呟く。鏡に映る自分の顔は、やはり少し火照っているような気がした。

――抑制剤、もう一錠増やそう。

陸は薬箱から小さな白い錠剤を取り出し、いつもの倍の量を手のひらに載せた。本来なら医師の指示を仰ぐべきだが、今は時間がない。

「少しくらい大丈夫だよね……」

水と一緒に薬を飲み込む。苦味が口の中に広がったが、これで症状が抑えられるなら安いものだ。

朝食もそこそこに家を出て、陸は学校へ向かった。道すがら単語帳を開き、歩きながら暗記に励む。完璧主義の陸らしい光景だった。

しかし、一時間目の国語の授業が始まって間もなく、異変は起きた。

「……では、夏目漱石の『こころ』について……」

先生の説明が遠くに聞こえる。陸は必死に集中しようとするが、まぶたが重い。抑制剤の副作用だ。眠気が波のように押し寄せてくる。

「うー……」

小さく呻いて、陸は頬を叩いた。しかし、眠気は一向に引く気配がない。

隣に座った大輝が、心配そうに陸を見つめている。

「大丈夫か?」

大輝が小声で尋ねるが、陸は首を振って答えた。

「平気…だよ」

「白石君?」

先生の声にハッと顔を上げる。クラス全員の視線が陸に集中していた。

「はい!」

「では、先ほどの質問に答えてください」

質問?陸は慌ててノートを見下ろすが、ページは真っ白だった。意識が朦朧としている間に、何も書けていない。

「あ、えと……」

冷や汗が背中を伝う。このままでは確実に当てられて恥をかく。

「『こころ』の主人公の心境の変化について、どう思いますか?」

隣から小さな声が聞こえた。大輝だ。

「『こころ』の主人公の心境の変化について……」

陸は大輝の助け船に乗って答えを続けた。先生は満足そうに頷き、授業は続行される。

「ありがと……」

陸は小声で大輝に礼を言った。しかし、大輝の表情は心配そのものだった。

「おい、マジで大丈夫か? 顔真っ青だぞ」

「平気……でもちょっと眠いかも」

そう言いながらも、陸の身体は正直だった。二時間目の数学でも船を漕ぎ、三時間目の英語では完全に意識を失いかけた。

「This is a pen って、何回聞いても眠くなるよな」

後ろの席のクラスメイトが冗談を言っているが、陸にとっては笑い事ではない。

大輝は陸の様子を見て、自分のノートを少し陸の方にずらした。陸が寝てしまった時のために、二人分のメモを取り始める。

昼休み。

「陸、ちょっと来い」

大輝に手を引かれ、陸は人気のない階段の踊り場に連れて行かれた。

「抑制剤、増やしただろ」

いきなり核心を突かれ、陸はびくっと肩を震わせた。

「な、なんで……」

「隣にいるんだから分かる。眠そうな顔して、でも必死に起きてようとしてる。典型的な副作用の症状だ」

大輝の指摘は的確すぎて、陸は反論できなかった。

「何錠飲んだ?」

「……二錠」

「バカ野郎!普通は一錠だろ!」

珍しく大輝が声を荒らげる。その剣幕に、陸は小さく縮こまった。

「だって……このままじゃ発情期が……」

「発情期なんてどうでもいい!お前が倒れたらどうすんだよ!」

大輝の言葉に、陸の胸がきゅっと締め付けられる。心配してくれているのは分かるが、大輝には理解できないのだ。Ωとしての苦悩を。

「どうでもよくない……」

陸の小さな呟きに、大輝はハッとした。

「陸……」

「俺だって好きでΩに生まれたわけじゃない。でも、それを理由に甘えたくない。ちゃんと勉強して、ちゃんと試験受けて……普通でいたいんだ」

陸の声が震える。これまで溜め込んでいた想いが、堰を切ったように溢れ出した。

「中学の時、『Ωは勉強できなくて当然』って言われたこと、覚えてる?『発情期は大変だもんね』って、同情されるのも嫌だった。だから……」

「だから無理するのか?」

大輝の声は優しかったが、その目は真剣だった。

「無理じゃない。努力だ」

「努力の方向が間違ってる」

ぽんと頭に手を置かれ、陸は顔を上げた。大輝の大きな手が、陸の茶色い髪を優しく撫でる。

「お前はもう十分頑張ってる。俺が隣で見てるから分かる」

「でも……」

「もう、言い訳はしない。今日の午後、保健室行け」

「嫌だ」

「じゃあ俺が先生に言う」

「大輝!」

陸は慌てて大輝の腕を掴んだ。しかし、その時、ふらっと身体が揺れる。

「おっと」

大輝が咄嗟に陸を支える。陸の小さな身体が大輝の胸に寄りかかった。

「やっぱり限界じゃねーか」

大輝の呆れたような、でも優しい声が頭上から聞こえる。陸は大輝の制服に顔を埋めたまま、小さく呟いた。

「……怖いんだ」

「何が?」

「赤点取るのも怖いし、発情期で学校休むのも怖い。でも一番怖いのは……」

陸の声がさらに小さくなる。

「一番怖いのは?」

「大輝に……迷惑かけること」

その言葉に、大輝の胸が熱くなった。こんなに一生懸命で、こんなに健気で、こんなに……。

「バカ」

大輝は陸の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「迷惑なわけないだろ。お前は俺の……」

言いかけて、大輝は口を閉じた。まだ、その言葉を口にするには早すぎる。

「俺の何?」

陸が顔を上げて尋ねる。頬が薄っすらと赤く、大きな瞳が潤んでいる。

「……大事な幼なじみだ」

「そう……」

陸は少し残念そうな表情を見せたが、すぐに元の真面目な顔に戻った。

「でも、やっぱり自分でやる」

「頑固だなー」

大輝は苦笑いを浮かべた。陸の性格は昔から変わらない。一度決めたら絶対に曲げない。

「わかった。でも条件がある」

「条件?」

「今日の午後も、ずっと隣で見てる」

「え?」

「授業中もお前の様子を見てる。ヤバそうになったら即座に保健室連行だ」

「そんなの……いつものことじゃん」

「いつも以上に、だ」

大輝の真剣な表情に、陸は何も言えなくなった。

チャイムが鳴り、午後の授業が始まる。大輝は陸のすぐ隣で、いつも以上にこまめに様子を伺っていた。

陸は必死に集中しようとするが、抑制剤の副作用は容赦ない。四時間目の理科では、とうとう机に突っ伏してしまった。

「白石君、大丈夫?」

先生の声が聞こえるが、陸の意識は朦朧としている。

「すみません、保健室に連れて行きます」

大輝の声が遠くに聞こえた。

気がつくと、陸は保健室のベッドに横たわっていた。

「起きた?」

隣の椅子に座った大輝が、心配そうに覗き込んでいる。

「ここ……保健室?」

「そう。完全に意識失ってたぞ」

陸は慌てて起き上がろうとしたが、頭がくらくらする。

「無理すんな」

大輝に肩を押さえられ、陸は再びベッドに横になった。

「試験……勉強……」

「今日はもう無理だ。家まで送ってく」

「でも……」

「もう、言い訳はしない」

大輝の強い口調に、陸は観念した。

結局、陸は早退することになった。大輝も一緒に帰ると言って聞かない。

夕方の道を並んで歩きながら、陸は小さく呟いた。

「……ごめん、迷惑かけて」

「だから迷惑じゃないって」

大輝は立ち止まり、陸の肩に手を置いた。

「お前が無事でいてくれることが、俺には一番大事なんだ」

その言葉に、陸の胸が温かくなった。

でも同時に、不安も大きくなっていく。このままでは、本当に試験に間に合わない。

家に着くまで、陸はずっと複雑な気持ちを抱えていた。


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