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第二章 El Presidente
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El Presidente (Liberté 136)
優しく、患者の頭を撫でる。薄く開いた瞳にぼんやりと映り込む、自分の顔。
―― お医者様?
そう問いかけるその声に、淡水色の髪の少年は微笑んで、頷いた。
「そうですよ。貴方を診に来たのです」
そうカルセが言うと彼は少し安堵したように表情を綻ばせた。
「ありがとう、お医者様……」
もう、よく貴方の顔が見えないけれど。そう呟く少年の目が少し潤む。
彼の瞳に光はない。吐き出す呼気は弱く、微笑みも力ない。カルセはその頭を撫でてやりながら、言った。
「大丈夫ですよ、ゆっくり休んでくださいな。貴方の体に一番良いのは、休むことですから」
カルセは歌うような声色で、そう言う。彼の言葉に少年は、少し目を見開いた。それから、微かに声を明るくして、言う。
「ゆっくり休んだら、良くなれる……?」
ごく僅かな期待を孕んだ声。その言葉にカルセは微笑み、頷いた。"えぇ、きっと"と、彼は優しい声で囁いた。
「ゆっくり休んで、しっかりお薬を飲めば、良くなりますよ。だからゆっくりお休みなさいな」
優しい声で医師は言う。励ますように、慰めるように。少年の頭を撫でる手はまだまだ小さく柔らかい。けれども確かな優しさを灯した、暖かな手だ。
そんな優しい声に、掌に、少年は安堵したように微笑み、目を閉じる。静かな寝息を立て始めた彼を見て少し悲し気に目を細めた後、カルセは"おやすみなさい"とそっと、呟いた。
***
城に戻り、食堂へ向かう。疲れた体を暖かく、心地よい空気が包んだ。賑やかな食堂の中を見渡していれば、その一角で誰かが立ち上がる。
「カル!」
自身の愛称を紡ぐ可愛らしい声。そちらを見れば、長い緑髪をポニーテールにくくった少年が手を振っていた。傍には親しい友人……スファルとリスタもいる。どうやら一緒に休憩していたようだ、そう思いながらカルセは目を細め、そちらへ向かった。
「お疲れ様、カル」
おかえりなさい、と声をかけて微笑むクレース。それにただいま帰りました、と返事をして微笑むと、クレースにじぃっと見つめられた。
自分を見据える、綺麗な青の目。カルセがそれを見つめ返してこてりと首を傾げれば、クレースが少し悲しそうに、眉を下げた。否、悲しそうというよりは、心配そうに……か。
「どうしたの?」
そう問われた。カルセは微笑みながら、逆に問いかける。
「いえ、どうもしませんよ。どうかしました? どうしてそんなことを?」
そう問いかけるカルセを見て、クレースは一層困ったような、悲しそうな顔をする。彼が口を開きかけたその時、そんなカルセの頭をがしっと、大きな手が掴んだ。そのままわしゃりと乱暴に頭を撫でられる。
「もう少しそれっぽい顔をしながら言えよな」
やれやれ、と言いたげに溜息を吐き出すのはカルセの頭を掴んでいる張本人……スファル。カルセはそんな彼の方を見ると小さく鼻を鳴らして、肩を竦めた。
「日々傷だらけになって帰ってきても平気だといい放つ貴方にだけは言われたくはないですね」
やや皮肉めいた口調でそう言われて、スファルは身を縮める。……何も反撃出来ないのだろう。そんな彼を見てクレースは盛大に溜息を吐き、リスタは苦笑する。
「でも元気がないのは事実だぞ、カルセ。無理するなよ」
リスタは少し眉を下げながら、カルセにそう言った。大分年上の友人たちに打ち解けてきた彼の表情は、クレース同様に心配そうなものだ。勿論、スファルも。
カルセも、彼らの気持ちは十分にわかっている。心配させていることも、不安にさせていることも……彼らが優しいことも良くわかっていて。
だからこそ、穏やかに微笑んで、言った。
「ふふ、ありがとうございます。でも本当に、心配は要りませんよ。大したこと、ありませんから」
あっさりとそう言って微笑むカルセ。クレースはそれを見て、もう一度溜息を吐き出した。こうなってしまった彼がもう"大丈夫"以外の言葉を紡ぐことはないことは誰よりよく知っている。いつもそうだから。すぐに無理をするくせにそれを押し隠してしまうこともよく知っているから。
だからこそ、聞いてくれないとわかっていても、今まで何度も彼にかけてきた言葉を紡ぐ。
「無理をしちゃ駄目だよ、カル」
彼の返事は分かり切っているけれども、言わずにはいられない。心配そうな声色の、表情のクレースを見つめ返して、カルセは微笑んだ。
「わかっていますよ。大丈夫です」
そう言いながらカルセはクレースの頭を撫でる。それから視線をスファルとリスタの方にも向けて、微笑んだ。
「二人も、ありがとうございます。心配をかけたみたいで、すみません」
でも大丈夫ですよ。いつも通りの声音でそう言って笑うカルセ。スファルもリスタも少し納得のいかない表情だが、"無理はするなよ"といって、そこで話題を切った。
―― 私の所為で空気を暗くするのは、嫌ですから。
そう思いながらカルセは藍色の瞳を細める。クレースはそんな彼の横顔を見て、そっと息を吐き出したのだった。
***
「それで、何があったの?」
夜。二人で過ごしている部屋に戻ったところで、クレースはカルセにそう問いかけた。真剣な声音、真剣な表情で。
逃がすことは許さない。そう言いたげな彼の表情を見て、カルセは苦笑した。
嗚呼、同業者の彼には適わない。隠しきることは到底出来ないだろう。そう思いながらカルセはふっと息を吐き出して、言った。
「……私が行っている家、わかりますか。街中にある、長く臥せっている子がいる……」
そんなカルセの発言に、クレースは一瞬目を丸くした。それから、全ての事情を悟ったかのように、眉を下げる。……なるほど、彼があんな顔をする訳だ。
「あの子の所に行ってたの」
なるほどね、とクレースは呟く。カルセはそれを聞いて、こくりと小さく頷いた。
「えぇ。そこへ行っていたんですよ」
声が少し弱い。その理由をクレースも知っていた。
「……もう長くない、って言ってたよね」
控えめな声でのクレースの言葉にカルセはもう一度、肯定を示す。それから藍色の瞳を伏せた。
そう。カルセが昼間に行っていたのは患者の家。長く病を患い、床に臥せっている少年の家。……その少年の病が一向に良くならない、もう長くないことはカルセもよく知っていた。
「……ねぇ、クレース」
「なぁに」
いつもの彼らしくない弱弱しい声での呼びかけに、クレースは少し驚きつつも、柔らかな声で返す。カルセは目を伏せたままに、まるで独り言のように呟いた。
「治らない病であることを伝えることと伝えないこと、どちらが残酷なのでしょう」
彼は、その患者に彼の病状の説明をしていない。もう治らないこと、先が長くないことを。無論彼の両親には伝えてある。出来うる限りのことをしてやってほしいと、そう言われていた。カルセはもちろん、そうするつもりでいて。
けれども思うのだ。彼に嘘をつき続けていることは、残酷なのだろうか……と。
もし本当のことを教えたならばどうなるだろうか。もしかしたらそれなりに覚悟も出来るのかもしれない。そう思うと話した方が良いのだろうか、と考える。
けれども相手は子供だ。そんな残酷な現実を伝えたところで、受け止めることが出来るのだろうか? そう思いカルセは"本当のこと"を言えずにいた。
元気になれるから。そう言いながら渡す薬はあくまでも、苦痛を和らげるためのもの。そうして嘘を吐き続けるのは、どうなのだろう。彼には、残酷なのではないだろうか……――カルセは、そう言った。
「んん……どっちかなぁ」
クレースはカルセの言葉に少し考え込む顔をする。彼もカルセと同じ医療従事者だ。人の命に関わるというのは簡単なことではなく、患者一人一人でするべき処置も処方すべき薬も違う。……患者への関わり一つとっても、一概に答えを出すことは出来ない。
けれど、一つ言えることがある。そう思いながら、クレースは苦悩する彼を見つめて、口を開いた。
「でもカルがそれを伝えてないのは、あの子に意地悪をするためではないでしょう?」
そう問いかけるクレース。カルセはそれを聞いて、こくりと頷いて、言った。
「……えぇ。でも、ただ彼を元気づけたいとか、落ち込ませたくないとか、ただそれだけでもないのですよ」
「そうなの?」
肯定。小さく頷いたカルセは何処か遠くを見るような顔をした。それから、ぽつりと、言う。
「治らない病があることを認めたくないのですよ、医者として」
そう言ったカルセは、固く拳を握っている。それが小さく震えているのが、クレースにもよくわかった。
確かに、患者のあの少年を傷つけたくないという思いはある。実際の病状を知ればがっくりすることだろうし、もしかしたら生きる気力を失ってしまうかもしれない。そういう想いもあるから話していないというのも、勿論ある。けれどカルセの中では、別の想いもあったのだ。
治せない病があることを認めたくない。だって、彼の病状を伝えるということは其れ即ち、彼の病がもう完治不可能であると認めることになる。治らないという現実を突きつけるだけでなく、自分自身も否が応でもそう理解してしまう。それが耐えられないのだと、カルセは言った。
無論、治せない病がない、なんて幻想であることはカルセも重々承知だ。けれども、それでも……
「きっと治せると、最後まで信じたい自分が居るのですよ。……酷いエゴですよね、それ故にあんな無垢な子供に嘘をつき続けるなんて」
自嘲気味にそういって肩を竦めるカルセは酷く辛そうで、クレースは眉を下げる。
彼……カルセは、真面目な騎士だ。そして真面目な医師だ。それ故にこうして思い悩むのだということは、一番近くで彼を見ているクレースにも痛いほど理解できる。
治らない病気が存在することを認めたくないのは決して彼のエゴなどではない。彼なりの優しさ、そして彼の医者としてのプライドだ。
「そんなことないよ、カル」
クレースはそう言いながらそっと、カルセの手を握った。強く握りしめすぎて白く血の気が引いてしまっている手を、温かいクレースの手が包み込む。
「きっとカルなら、そうした病気を治す方法を見つけられる。それに僕だって、同じだよ」
クレースはそう言いながら真っ直ぐに、カルセを見据えた。嘘を付けない蒼の目。彼は穏やかに微笑んで、いった。
「僕だって、治してあげたいって、そう思うんだもん。僕たちは、お医者様を目指す人間は、誰しもそう思うに決まってる。どんな怪我もどんな病気もきっと治せるって、治したいって、そう思うに決まってる。……だから、カルもね、一人でそんな風に悩む必要ないよ」
そう言いながらクレースはカルセの手をそっと握った。元気づけるようにそのまま二度、三度と彼の手を握ってから、クレースは眉を下げて、言った。
「カルは一人で頑張りすぎだよ。もう少しくらい弱い所見せてくれたって良いんじゃない?」
彼はしっかり者だ。優しく、頭が良く、周囲を良く見て、行動することが出来る。頼りがいのある騎士であり、医師である。それはクレースもよくよく知っている。
けれどそれと同時に、不安になるのだ。真面目でしっかり者、だからこそ弱みを他人に見せようとしない彼。一人で全てを抱え込んで、そのままいつか壊れてしまうのではないか、と。
「スファルもリスタも、心配してる。もちろん僕も心配だよ、カル。君の性格はよく知ってるけれど……」
彼はプライドが高い。弱っているところを他人に見られることを殊の外嫌うし、何より傷ついていないフリ、疲れていないフリが上手いのだ。親しい友人でも彼の疲れに気が付くことが出来ないくらいに。彼が弱っていることに気が付けない程に。それが原因で彼が倒れたことが一体何度あって、自分は何度そんな彼に説教をしただろう。
だからこそ、クレースは思っていた。自分はきっとそんな彼を休ませられるような、そんな存在になろうと。
「大丈夫だよ、カル。完璧じゃなくていい、大丈夫だから」
大丈夫だ。そう繰り返す彼の声にカルセはゆっくりと瞬きをした。それから、ふっと表情を綻ばせて、彼の肩口に頭を預けた。
「……ありがとうございます、クレース。 今は、少しだけ……休むことにしましょうかね」
そう呟くカルセの声は、少し震えていた。うん、わかったよ、と言いながら、クレースはそんな彼を抱き留めたまま、目を細める。
―― どうか。
ほんの少しでも彼の気持ちが和らぎますように。そう思いながらクレースはそっと、目を閉じたのだった。
***
良く晴れた空の下を歩いて、城に向かう。穏やかな青空。降り注ぐ陽射しは汗ばむようで、長い銀の髪を軽く束ね直してから、リスタはふぅっと息を吐き出した。
今日は珍しく昼間の仕事だ。早めに帰れそうだし今日はゆっくりしようか。そう思った時。
「あれ……?」
丁度、自分の少し前を歩く少年の姿に気が付いた。背まで伸びる長い、淡い青色の髪。長い白衣の裾が、緩い風に靡いている。見慣れた背中だ。そう思いながら、リスタは息を吸い込んだ。
「カルセ!」
そう呼び留めると、彼はくるりと振り向いた。声をかけてきたリスタに少し驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「あぁ、リスタも任務が終わったのですね。お帰りなさい」
そう言って微笑むカルセ。その表情に、リスタはいつもと少し違う雰囲気を感じ取る。しかしその正体が掴み切れないまま、リスタは小さく首を傾げて、彼に問うた。
「カルセも、任務だったのか?」
一人でいる辺り、戦闘任務ではないと思うけれど。そう思いながらリスタが問いかけると彼はゆっくりと首を振る。そして"仕事には仕事ですけれど"と言葉を紡いだ。
「患者のところに行って来たのですよ」
「あぁ、診察か」
それならば確かに任務、とは少し違うか。そう思いながらリスタは呟く。しかし、そんなリスタの言葉に彼は首を振った。
「え?」
では、一体何なのだろうと不思議そうに瞬きをする彼を見て、カルセはふっと微笑んで、言った
「……見送りに行っていました。私の患者だった子をね」
その言葉に、リスタは大きく目を見開いた。
「それって……」
リスタは掠れた声でそう呟く。彼の仕事上、その言葉が意味することはただ一つだ。
カルセはただ微笑んでいた。傷ついているのかもしれない。それでもそれを見せないのはやはり、彼の性格なのだろう。そう思いながら、リスタは短くそっか、とだけ返した。
「お疲れ」
そうとだけ言った。気の利いた台詞なんて思い浮かばない。こういった状況でかけるべき言葉なんて浮かばない。だから、自分なりの精一杯で、彼に声をかけたのだった。
そんなリスタの想いはきっと、カルセにも伝わったのだろう。彼は柔らかい笑みを浮かべて、頷いた。
「えぇ。……やはり、なかなか慣れませんね。医者としては、慣れざるを得ないのでしょうけれど」
そう言って、カルセはふっと微笑んだ。
ずっと診ていた、患者。元気になってほしいと願い、治療を続けてきた相手。その死というのはやはり、辛いものだ。慣れることが出来るようなものでもない。いつも明るく穏やかなカルセの表情も、やはり幾分曇っていた。
「やっぱり、大変……か?」
リスタは彼にそう問いかける。カルセは苦笑して、頷いた。
「楽な仕事ではありませんね。でも、それが私がしたいと思った仕事ですから……精一杯、頑張ろうと思いますよ」
そう言いながらカルセが微笑んで頷いた時、ふわりと風が吹き抜けていった。
傷ついていることを見せず、感じさせず、真っ直ぐに立つ彼は、美しく、勇ましい。それは、危険な魔獣の討伐に向かう戦闘部隊の騎士たちとは違う勇ましさであり、美しさであるとリスタは感じた。
「そっか。……カルセは、すごいなぁ」
そう言って目を細めるリスタ。自分より少し年上の、騎士としての先輩である、カルセ。彼は頼もしい騎士だと、医師だと、そう思うけれども、やはり……そういう心の強さが一番尊敬出来るな、とそう感じて。リスタがそういうと、カルセは少し目を見開く。それから、少し照れ臭そうに頬を赤く染めた。
「……何だか改めてそう言われると、照れてしまいますね」
はにかんだようにそう言うカルセ。それを見て、リスタは銀灰色の瞳を細めた。
「ははは、カルセでも照れたりするんだ」
そう言って笑いながら、リスタはぽんっとカルセの背を叩いた。そして、帰ろうと彼を促す。
「カルセも疲れてるだろうし、甘いものでも貰おうぜ」
「ふふ、そうですね」
早く帰りましょうか。そう言って二人は歩みを進める。
向かう先は、美しい城。自分たちが住む場所。自分たちの帰る場所。
―― ディアロ城を出て、一人立ちをする頃には……
きっと、もっと優れた医師になって見せよう。カルセはそう思いながらくっと、小さく拳を握ったのだった。
第二章 Fin
(エル・プレジデンテ:プライド)
優しく、患者の頭を撫でる。薄く開いた瞳にぼんやりと映り込む、自分の顔。
―― お医者様?
そう問いかけるその声に、淡水色の髪の少年は微笑んで、頷いた。
「そうですよ。貴方を診に来たのです」
そうカルセが言うと彼は少し安堵したように表情を綻ばせた。
「ありがとう、お医者様……」
もう、よく貴方の顔が見えないけれど。そう呟く少年の目が少し潤む。
彼の瞳に光はない。吐き出す呼気は弱く、微笑みも力ない。カルセはその頭を撫でてやりながら、言った。
「大丈夫ですよ、ゆっくり休んでくださいな。貴方の体に一番良いのは、休むことですから」
カルセは歌うような声色で、そう言う。彼の言葉に少年は、少し目を見開いた。それから、微かに声を明るくして、言う。
「ゆっくり休んだら、良くなれる……?」
ごく僅かな期待を孕んだ声。その言葉にカルセは微笑み、頷いた。"えぇ、きっと"と、彼は優しい声で囁いた。
「ゆっくり休んで、しっかりお薬を飲めば、良くなりますよ。だからゆっくりお休みなさいな」
優しい声で医師は言う。励ますように、慰めるように。少年の頭を撫でる手はまだまだ小さく柔らかい。けれども確かな優しさを灯した、暖かな手だ。
そんな優しい声に、掌に、少年は安堵したように微笑み、目を閉じる。静かな寝息を立て始めた彼を見て少し悲し気に目を細めた後、カルセは"おやすみなさい"とそっと、呟いた。
***
城に戻り、食堂へ向かう。疲れた体を暖かく、心地よい空気が包んだ。賑やかな食堂の中を見渡していれば、その一角で誰かが立ち上がる。
「カル!」
自身の愛称を紡ぐ可愛らしい声。そちらを見れば、長い緑髪をポニーテールにくくった少年が手を振っていた。傍には親しい友人……スファルとリスタもいる。どうやら一緒に休憩していたようだ、そう思いながらカルセは目を細め、そちらへ向かった。
「お疲れ様、カル」
おかえりなさい、と声をかけて微笑むクレース。それにただいま帰りました、と返事をして微笑むと、クレースにじぃっと見つめられた。
自分を見据える、綺麗な青の目。カルセがそれを見つめ返してこてりと首を傾げれば、クレースが少し悲しそうに、眉を下げた。否、悲しそうというよりは、心配そうに……か。
「どうしたの?」
そう問われた。カルセは微笑みながら、逆に問いかける。
「いえ、どうもしませんよ。どうかしました? どうしてそんなことを?」
そう問いかけるカルセを見て、クレースは一層困ったような、悲しそうな顔をする。彼が口を開きかけたその時、そんなカルセの頭をがしっと、大きな手が掴んだ。そのままわしゃりと乱暴に頭を撫でられる。
「もう少しそれっぽい顔をしながら言えよな」
やれやれ、と言いたげに溜息を吐き出すのはカルセの頭を掴んでいる張本人……スファル。カルセはそんな彼の方を見ると小さく鼻を鳴らして、肩を竦めた。
「日々傷だらけになって帰ってきても平気だといい放つ貴方にだけは言われたくはないですね」
やや皮肉めいた口調でそう言われて、スファルは身を縮める。……何も反撃出来ないのだろう。そんな彼を見てクレースは盛大に溜息を吐き、リスタは苦笑する。
「でも元気がないのは事実だぞ、カルセ。無理するなよ」
リスタは少し眉を下げながら、カルセにそう言った。大分年上の友人たちに打ち解けてきた彼の表情は、クレース同様に心配そうなものだ。勿論、スファルも。
カルセも、彼らの気持ちは十分にわかっている。心配させていることも、不安にさせていることも……彼らが優しいことも良くわかっていて。
だからこそ、穏やかに微笑んで、言った。
「ふふ、ありがとうございます。でも本当に、心配は要りませんよ。大したこと、ありませんから」
あっさりとそう言って微笑むカルセ。クレースはそれを見て、もう一度溜息を吐き出した。こうなってしまった彼がもう"大丈夫"以外の言葉を紡ぐことはないことは誰よりよく知っている。いつもそうだから。すぐに無理をするくせにそれを押し隠してしまうこともよく知っているから。
だからこそ、聞いてくれないとわかっていても、今まで何度も彼にかけてきた言葉を紡ぐ。
「無理をしちゃ駄目だよ、カル」
彼の返事は分かり切っているけれども、言わずにはいられない。心配そうな声色の、表情のクレースを見つめ返して、カルセは微笑んだ。
「わかっていますよ。大丈夫です」
そう言いながらカルセはクレースの頭を撫でる。それから視線をスファルとリスタの方にも向けて、微笑んだ。
「二人も、ありがとうございます。心配をかけたみたいで、すみません」
でも大丈夫ですよ。いつも通りの声音でそう言って笑うカルセ。スファルもリスタも少し納得のいかない表情だが、"無理はするなよ"といって、そこで話題を切った。
―― 私の所為で空気を暗くするのは、嫌ですから。
そう思いながらカルセは藍色の瞳を細める。クレースはそんな彼の横顔を見て、そっと息を吐き出したのだった。
***
「それで、何があったの?」
夜。二人で過ごしている部屋に戻ったところで、クレースはカルセにそう問いかけた。真剣な声音、真剣な表情で。
逃がすことは許さない。そう言いたげな彼の表情を見て、カルセは苦笑した。
嗚呼、同業者の彼には適わない。隠しきることは到底出来ないだろう。そう思いながらカルセはふっと息を吐き出して、言った。
「……私が行っている家、わかりますか。街中にある、長く臥せっている子がいる……」
そんなカルセの発言に、クレースは一瞬目を丸くした。それから、全ての事情を悟ったかのように、眉を下げる。……なるほど、彼があんな顔をする訳だ。
「あの子の所に行ってたの」
なるほどね、とクレースは呟く。カルセはそれを聞いて、こくりと小さく頷いた。
「えぇ。そこへ行っていたんですよ」
声が少し弱い。その理由をクレースも知っていた。
「……もう長くない、って言ってたよね」
控えめな声でのクレースの言葉にカルセはもう一度、肯定を示す。それから藍色の瞳を伏せた。
そう。カルセが昼間に行っていたのは患者の家。長く病を患い、床に臥せっている少年の家。……その少年の病が一向に良くならない、もう長くないことはカルセもよく知っていた。
「……ねぇ、クレース」
「なぁに」
いつもの彼らしくない弱弱しい声での呼びかけに、クレースは少し驚きつつも、柔らかな声で返す。カルセは目を伏せたままに、まるで独り言のように呟いた。
「治らない病であることを伝えることと伝えないこと、どちらが残酷なのでしょう」
彼は、その患者に彼の病状の説明をしていない。もう治らないこと、先が長くないことを。無論彼の両親には伝えてある。出来うる限りのことをしてやってほしいと、そう言われていた。カルセはもちろん、そうするつもりでいて。
けれども思うのだ。彼に嘘をつき続けていることは、残酷なのだろうか……と。
もし本当のことを教えたならばどうなるだろうか。もしかしたらそれなりに覚悟も出来るのかもしれない。そう思うと話した方が良いのだろうか、と考える。
けれども相手は子供だ。そんな残酷な現実を伝えたところで、受け止めることが出来るのだろうか? そう思いカルセは"本当のこと"を言えずにいた。
元気になれるから。そう言いながら渡す薬はあくまでも、苦痛を和らげるためのもの。そうして嘘を吐き続けるのは、どうなのだろう。彼には、残酷なのではないだろうか……――カルセは、そう言った。
「んん……どっちかなぁ」
クレースはカルセの言葉に少し考え込む顔をする。彼もカルセと同じ医療従事者だ。人の命に関わるというのは簡単なことではなく、患者一人一人でするべき処置も処方すべき薬も違う。……患者への関わり一つとっても、一概に答えを出すことは出来ない。
けれど、一つ言えることがある。そう思いながら、クレースは苦悩する彼を見つめて、口を開いた。
「でもカルがそれを伝えてないのは、あの子に意地悪をするためではないでしょう?」
そう問いかけるクレース。カルセはそれを聞いて、こくりと頷いて、言った。
「……えぇ。でも、ただ彼を元気づけたいとか、落ち込ませたくないとか、ただそれだけでもないのですよ」
「そうなの?」
肯定。小さく頷いたカルセは何処か遠くを見るような顔をした。それから、ぽつりと、言う。
「治らない病があることを認めたくないのですよ、医者として」
そう言ったカルセは、固く拳を握っている。それが小さく震えているのが、クレースにもよくわかった。
確かに、患者のあの少年を傷つけたくないという思いはある。実際の病状を知ればがっくりすることだろうし、もしかしたら生きる気力を失ってしまうかもしれない。そういう想いもあるから話していないというのも、勿論ある。けれどカルセの中では、別の想いもあったのだ。
治せない病があることを認めたくない。だって、彼の病状を伝えるということは其れ即ち、彼の病がもう完治不可能であると認めることになる。治らないという現実を突きつけるだけでなく、自分自身も否が応でもそう理解してしまう。それが耐えられないのだと、カルセは言った。
無論、治せない病がない、なんて幻想であることはカルセも重々承知だ。けれども、それでも……
「きっと治せると、最後まで信じたい自分が居るのですよ。……酷いエゴですよね、それ故にあんな無垢な子供に嘘をつき続けるなんて」
自嘲気味にそういって肩を竦めるカルセは酷く辛そうで、クレースは眉を下げる。
彼……カルセは、真面目な騎士だ。そして真面目な医師だ。それ故にこうして思い悩むのだということは、一番近くで彼を見ているクレースにも痛いほど理解できる。
治らない病気が存在することを認めたくないのは決して彼のエゴなどではない。彼なりの優しさ、そして彼の医者としてのプライドだ。
「そんなことないよ、カル」
クレースはそう言いながらそっと、カルセの手を握った。強く握りしめすぎて白く血の気が引いてしまっている手を、温かいクレースの手が包み込む。
「きっとカルなら、そうした病気を治す方法を見つけられる。それに僕だって、同じだよ」
クレースはそう言いながら真っ直ぐに、カルセを見据えた。嘘を付けない蒼の目。彼は穏やかに微笑んで、いった。
「僕だって、治してあげたいって、そう思うんだもん。僕たちは、お医者様を目指す人間は、誰しもそう思うに決まってる。どんな怪我もどんな病気もきっと治せるって、治したいって、そう思うに決まってる。……だから、カルもね、一人でそんな風に悩む必要ないよ」
そう言いながらクレースはカルセの手をそっと握った。元気づけるようにそのまま二度、三度と彼の手を握ってから、クレースは眉を下げて、言った。
「カルは一人で頑張りすぎだよ。もう少しくらい弱い所見せてくれたって良いんじゃない?」
彼はしっかり者だ。優しく、頭が良く、周囲を良く見て、行動することが出来る。頼りがいのある騎士であり、医師である。それはクレースもよくよく知っている。
けれどそれと同時に、不安になるのだ。真面目でしっかり者、だからこそ弱みを他人に見せようとしない彼。一人で全てを抱え込んで、そのままいつか壊れてしまうのではないか、と。
「スファルもリスタも、心配してる。もちろん僕も心配だよ、カル。君の性格はよく知ってるけれど……」
彼はプライドが高い。弱っているところを他人に見られることを殊の外嫌うし、何より傷ついていないフリ、疲れていないフリが上手いのだ。親しい友人でも彼の疲れに気が付くことが出来ないくらいに。彼が弱っていることに気が付けない程に。それが原因で彼が倒れたことが一体何度あって、自分は何度そんな彼に説教をしただろう。
だからこそ、クレースは思っていた。自分はきっとそんな彼を休ませられるような、そんな存在になろうと。
「大丈夫だよ、カル。完璧じゃなくていい、大丈夫だから」
大丈夫だ。そう繰り返す彼の声にカルセはゆっくりと瞬きをした。それから、ふっと表情を綻ばせて、彼の肩口に頭を預けた。
「……ありがとうございます、クレース。 今は、少しだけ……休むことにしましょうかね」
そう呟くカルセの声は、少し震えていた。うん、わかったよ、と言いながら、クレースはそんな彼を抱き留めたまま、目を細める。
―― どうか。
ほんの少しでも彼の気持ちが和らぎますように。そう思いながらクレースはそっと、目を閉じたのだった。
***
良く晴れた空の下を歩いて、城に向かう。穏やかな青空。降り注ぐ陽射しは汗ばむようで、長い銀の髪を軽く束ね直してから、リスタはふぅっと息を吐き出した。
今日は珍しく昼間の仕事だ。早めに帰れそうだし今日はゆっくりしようか。そう思った時。
「あれ……?」
丁度、自分の少し前を歩く少年の姿に気が付いた。背まで伸びる長い、淡い青色の髪。長い白衣の裾が、緩い風に靡いている。見慣れた背中だ。そう思いながら、リスタは息を吸い込んだ。
「カルセ!」
そう呼び留めると、彼はくるりと振り向いた。声をかけてきたリスタに少し驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「あぁ、リスタも任務が終わったのですね。お帰りなさい」
そう言って微笑むカルセ。その表情に、リスタはいつもと少し違う雰囲気を感じ取る。しかしその正体が掴み切れないまま、リスタは小さく首を傾げて、彼に問うた。
「カルセも、任務だったのか?」
一人でいる辺り、戦闘任務ではないと思うけれど。そう思いながらリスタが問いかけると彼はゆっくりと首を振る。そして"仕事には仕事ですけれど"と言葉を紡いだ。
「患者のところに行って来たのですよ」
「あぁ、診察か」
それならば確かに任務、とは少し違うか。そう思いながらリスタは呟く。しかし、そんなリスタの言葉に彼は首を振った。
「え?」
では、一体何なのだろうと不思議そうに瞬きをする彼を見て、カルセはふっと微笑んで、言った
「……見送りに行っていました。私の患者だった子をね」
その言葉に、リスタは大きく目を見開いた。
「それって……」
リスタは掠れた声でそう呟く。彼の仕事上、その言葉が意味することはただ一つだ。
カルセはただ微笑んでいた。傷ついているのかもしれない。それでもそれを見せないのはやはり、彼の性格なのだろう。そう思いながら、リスタは短くそっか、とだけ返した。
「お疲れ」
そうとだけ言った。気の利いた台詞なんて思い浮かばない。こういった状況でかけるべき言葉なんて浮かばない。だから、自分なりの精一杯で、彼に声をかけたのだった。
そんなリスタの想いはきっと、カルセにも伝わったのだろう。彼は柔らかい笑みを浮かべて、頷いた。
「えぇ。……やはり、なかなか慣れませんね。医者としては、慣れざるを得ないのでしょうけれど」
そう言って、カルセはふっと微笑んだ。
ずっと診ていた、患者。元気になってほしいと願い、治療を続けてきた相手。その死というのはやはり、辛いものだ。慣れることが出来るようなものでもない。いつも明るく穏やかなカルセの表情も、やはり幾分曇っていた。
「やっぱり、大変……か?」
リスタは彼にそう問いかける。カルセは苦笑して、頷いた。
「楽な仕事ではありませんね。でも、それが私がしたいと思った仕事ですから……精一杯、頑張ろうと思いますよ」
そう言いながらカルセが微笑んで頷いた時、ふわりと風が吹き抜けていった。
傷ついていることを見せず、感じさせず、真っ直ぐに立つ彼は、美しく、勇ましい。それは、危険な魔獣の討伐に向かう戦闘部隊の騎士たちとは違う勇ましさであり、美しさであるとリスタは感じた。
「そっか。……カルセは、すごいなぁ」
そう言って目を細めるリスタ。自分より少し年上の、騎士としての先輩である、カルセ。彼は頼もしい騎士だと、医師だと、そう思うけれども、やはり……そういう心の強さが一番尊敬出来るな、とそう感じて。リスタがそういうと、カルセは少し目を見開く。それから、少し照れ臭そうに頬を赤く染めた。
「……何だか改めてそう言われると、照れてしまいますね」
はにかんだようにそう言うカルセ。それを見て、リスタは銀灰色の瞳を細めた。
「ははは、カルセでも照れたりするんだ」
そう言って笑いながら、リスタはぽんっとカルセの背を叩いた。そして、帰ろうと彼を促す。
「カルセも疲れてるだろうし、甘いものでも貰おうぜ」
「ふふ、そうですね」
早く帰りましょうか。そう言って二人は歩みを進める。
向かう先は、美しい城。自分たちが住む場所。自分たちの帰る場所。
―― ディアロ城を出て、一人立ちをする頃には……
きっと、もっと優れた医師になって見せよう。カルセはそう思いながらくっと、小さく拳を握ったのだった。
第二章 Fin
(エル・プレジデンテ:プライド)
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