婚約破棄、感謝!今日からただの愉快な隣人として生きていきます。

夏乃みのり

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公爵邸を脱出して数時間。

東の空が白み始めた頃、私とアンナは下町の市場へと足を踏み入れました。


「見て、アンナ! これが市場の朝よ! 誰も私のドレスの裾を気にしないし、歩き方が優雅じゃないなんて怒鳴る家庭教師もいないわ!」


「お嬢様、声が大きいです。それと、その格好でも隠しきれない『ただ者じゃない感』が出ていますから、少し猫背気味に歩いてください」


私はアンナに言われた通り、少し背中を丸めてみました。

今の私は、動きやすさ重視の安価な綿のワンピースに、地味な茶色のマントを羽織っただけの姿です。

しかし、私の鼻はすでに、空気中に漂う「抗いがたい魔力」を察知していました。


「くんくん……。何かしら、この暴力的かつ魅力的な香りは。炭火で肉が焼ける匂い、そして焦げた醤油のような……」


「ああ、あそこの屋台ですね。朝から開いている、労働者向けの串焼き屋ですわ」


アンナが指差した先には、年季の入った屋台がありました。

ねじり鉢巻きをした体格の良い店主が、手際よく肉の串を網の上でひっくり返しています。

滴り落ちる脂が炭に触れ、じゅわっという小気味良い音と共に、食欲をそそる煙を上げていました。


「店主! その……『棒に刺さったお肉』を二本ちょうだい!」


「おう、姉ちゃん。威勢がいいな! はいよ、タレたっぷりの特製串だ!」


差し出されたのは、私の拳ほどもある大きな肉が三つも刺さった、重量感のある串でした。

私はそれを受け取ると、マナーも何も投げ捨てて、大きく一口かじりつきました。


「……っ!? な、何これ……!?」


「お、お嬢様? やはり口に合いませんでしたか? 毒見もせずに食べるから……」


「美味しい……!! 美味しいわ、これ! 口の中で脂が爆発して、塩気と甘みが脳髄を直撃するわ!」


私は感動のあまり、震える手で串を握り締めました。

王宮で出される洗練された、一切れの肉にソースが数滴かかったような、上品すぎて食べた気がしない料理とは対極にあります。

これは「生存」のための味です。

これは「自由」の味なのです。


「アンナ、あなたも食べてみて! これを食べれば、昨夜の寝不足なんて一瞬で吹き飛ぶわ!」


「はあ……。では、失礼して。……あら、本当。意外と癖になりますね、これ」


二人で屋台の隅に立ち、ハフハフと肉を頬張っていると、不意に背後から低く冷ややかな声がかけられました。


「……朝っぱらから、下町の路地裏で何を油まみれになっているんだ、お前たちは」


その声に、私は肉を口に含んだまま硬直しました。

ゆっくりと振り返ると、そこには黒い甲冑を身に纏い、腰に長剣を佩いた長身の男が立っていました。

鋭い眼光。整いすぎた容貌。そして、周囲を威圧するような圧倒的な存在感。


「……げっ、カシム」


「『げっ』とは何だ、レディ。せめて『騎士団長閣下、おはようございます』くらいは言えないのか」


そこにいたのは、私の幼馴染であり、現在は王宮騎士団の頂点に立つ男、カシム・ヴォルガードでした。

彼は私の実家の公爵家とも親交が深く、私にとっては唯一「化けの皮」が通用しない天敵のような相手です。


「騎士団長閣下、おはようございます。奇遇ですね。こんなところでゴミ拾いでもされていたのですか?」


私は慌てて肉を飲み込み、何食わぬ顔でカーテシーを……しようとして、自分が串を持っていることに気づいて途中で止めました。


「ゴミ拾いなわけがあるか。早朝の巡回中だ。それよりメーサ、その格好はどうした。アトラス公爵邸で強盗にでも遭って、服を剥ぎ取られたのか?」


カシムは私の頭からつま先までを、不審者を見るような目で見つめました。


「失礼ね。これは今流行の『ミニマリスト・ファッション』よ。それよりカシム、あなたも一本どう? 毒見なら私が済ませておいたわ。とっても美味しいわよ」


私は食べかけの串を、カシムの鼻先に突き出しました。

カシムは眉間に深い皺を刻み、私の手を軽く押し戻しました。


「……いらん。お前、昨夜の夜会で婚約破棄されたと聞いたぞ。ショックで放浪の旅にでも出たのかと思っていたが、まさか屋台の肉に夢中になっているとはな」


「ショック? そんなもの、昨日の夕食と一緒に消化してしまったわ。今の私は、人生で一番幸せな状態なの。見て、この足取りの軽さを!」


私はその場で、ぴょんぴょんと跳ねて見せました。

カシムは溜息をつき、私の肩をがっしりと掴んで動きを止めました。


「公爵閣下がお前を探している。昨夜、置手紙一つ残さずに消えたそうだな。誘拐の可能性も視野に入れて、騎士団に動員がかかりそうになっていたんだぞ」


「お父様ったら、大げさなんだから。私はただ、自分の人生を自分でプロデュースしたくなっただけよ。カシム、あなたからも伝えておいて。私は死んでいないし、むしろ以前より血色がいいって」


「……。お前が本気で逃げる時は、誰も捕まえられないことは知っているが。だが、レディが一人で下町をうろつくのは危険だ。アンナ、お前もついているなら、もう少し主人を制御しろ」


「無理をおっしゃらないでください、騎士団長閣下。このお嬢様を制御できる人間がいたら、今頃王宮の予算は黒字続きですよ」


アンナが淡々と答えると、カシムはさらに深い溜息をつきました。

彼はしばらく私を無言で見つめていましたが、やがて何かを諦めたように、腰のポーチから銀貨を一枚取り出し、屋台の店主に投げました。


「……店主、こいつらに一番いい肉をあと五本。それから、俺にも一本焼け」


「えっ、カシム、食べてくれるの?」


「お前がそんなに幸せそうな顔をして食うからだ。どんな麻薬が入っているのか、調査する必要があるだろう」


カシムは不機嫌そうに言いながらも、私の隣に並んで立ちました。

朝日を浴びながら、騎士団長と元公爵令嬢が、下町の屋台で串焼きを頬張る。

それは、これまでの私の人生では絶対にあり得なかった、最高にシュールで、最高に自由な光景でした。


「ねえ、カシム。私、この近くに家を買うことにしたの」


「……は?」


「お隣さんになったら、毎日毒見してあげるわね!」


「断る。絶対に、全力で、お断りだ」


カシムの力強い拒絶を、私は心地よいBGMのように聞き流しながら、二本目の串焼きにかじりつきました。

自由への第一歩は、どうやらとても香ばしくて、少しだけ脂っこい味がするようです。
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