婚約破棄、感謝!今日からただの愉快な隣人として生きていきます。

夏乃みのり

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主(あるじ)を失った王宮の執務室は、まるで嵐が通り過ぎた後の惨状を呈していました。


かつてメーサが、そしてつい先日までララが座っていた机の上には、もはや「山」と呼ぶことすらおこがましい、巨大な「紙の連峰」がそびえ立っています。


「……なぜだ。なぜ、誰も来ない。なぜ、誰もこの書類を片付けようとしないのだ!」


ジュリアン王太子は、無人の執務室で孤独に叫びました。


これまで、彼がこの椅子に座れば、どこからともなくメーサが現れ、完璧に整えられた資料と適温の紅茶を差し出してきたものです。

メーサがいなくなってからは、ララが涙目になりながらも必死にペンを動かしていました。


しかし今、彼の隣には誰もいません。

ララは数日前、「ちょっと空気の美味しい場所へ行ってきます」という書き置き(と、空になった禍々しい薬膳ポーションの瓶)を残して失踪したからです。


「ララまで、メーサに毒されたというのか……。おのれ、メーサ! どこまで私の邪魔をすれば気が済むのだ!」


ジュリアンは拳を机に叩きつけました。

その衝撃で、一番上にあった「関税交渉に関する緊急提言書」がひらりと床に落ちましたが、彼はそれを拾うことすら思いつきません。


その時、控えめに扉がノックされ、一人の若い官僚が真っ青な顔で入ってきました。


「で、殿下! 失礼いたします! 例の、隣国の特使との会食の件ですが……」


「ああ、それならララに任せてある。彼女に聞け」


「そのララ様がいらっしゃらないのです! 特使はすでに広間に到着されており、『なぜ猫が放し飼いになっているのだ!』と激怒してクシャミを連発されております!」


官僚の叫びに、ジュリアンは面倒くさそうに耳をほじりました。


「猫くらいで騒ぐな。特使には『我が国の猫は友好的だ』と伝えておけ。それより、メーサとララの行方は掴めたのか?」


「……。殿下、今はそれよりも外交問題のほうが……」


「黙れ! 私にとっては、愛するララをメーサという魔女の手から救い出すことこそが最優先事項だ!」


ジュリアンは立ち上がり、マントを翻しました。


彼の脳内では、今ごろボロ家の中でメーサがララを鎖で繋ぎ、毎日「私のほうが殿下に愛されていたのよ!」と罵声を浴びせながら、泥水を飲ませている光景が鮮明に描かれていました。


「待っていろ、ララ! 今、真の愛を持つ私が助けに行ってやるぞ!」


「あ、殿下! 行かないでください! 特使が……特使が猫に囲まれて気絶されましたぁ!」


官僚の悲鳴を背に、ジュリアンは意気揚々と執務室を飛び出しました。


彼は、自分が原因で国が傾きかけていることなど、一ミリも考えていませんでした。

彼にあるのは、「自分は二人の美女に奪い合われている悲劇のヒーローである」という、鋼鉄よりも硬い自信だけです。


王宮の厩舎へ向かう途中、彼はふと足を止めました。


「……。そう言えば、カシムの奴も最近姿を見せんな。あいつもメーサの監視に行かせたはずだが、報告が一切ない」


ジュリアンは顎に手を当て、不敵に笑いました。


「まさか、カシムまであの女に懐柔されたわけではあるまい。……ふん、まあいい。あんな堅物、メーサのような毒婦には荷が重すぎるだろう」


ジュリアンは白馬に跨がり、都の北端を目指して駆け出しました。


一方、その頃のメーサの家では。


「……。はっ! なんか今、猛烈に不愉快な寒気がしたわ」


縁側でララと「下町の雷(いかずち)」の二日酔いに耐えながら、メーサが首をすくめました。


「私もです、メーサ様。……なんだか、ものすごく『無能』な風が吹いてきたような気がします……」


ララが青い顔で同意し、二人は仲良くお茶を啜りました。


二人の背後では、カシムが黙々と生け垣の修理をしており、アンナが庭の毒蔦を散髪していました。

そこにあるのは、平和と、ささやかな筋肉痛。


そんな楽園に、破壊神(自称:王子)が再び迫っていることを、彼女たちはまだ知りませんでした。


ジュリアンは、馬を走らせながら独り言を呟き続けます。


「メーサよ、後悔するがいい。お前がどんなにララをいじめ抜こうと、私の愛は揺るがない。そして、泣きじゃくるお前を冷たく突き放し、ララを抱き抱えて去る私の姿……。ああ、なんと美しい光景だろうか!」


王子の執念は、空回りという名のアクセルを踏み込み、全力で泥沼へと突っ込んでいくのでした。
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