婚約破棄、感謝!今日からただの愉快な隣人として生きていきます。

夏乃みのり

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「メーサ! これを見ろ! これこそが君に相応しい、真の『王道』の輝きだ!」


またしても、我が家のボロい門扉を蹴破らんばかりの勢いで、ジュリアン殿下が現れました。


今日の殿下は、一段と気合が入っていました。

背後には数人の従者が、これまた眩いばかりの「何か」を掲げて並んでいます。

私は庭の毒蔦に水をやる手を止め、深く、深いため息をつきました。


「殿下……。何度言えば理解していただけるのかしら。私は今、この泥にまみれた合理的な生活を愛しているの。その、目潰しのようなキラキラした物体をこちらに向けないでくださる?」


「ふっ、驚くのも無理はない。これは、私が特別にデザイナーに命じて作らせた『超・反射型スパンコールドレス・プロトタイプ』だ! これを着れば、夜会での注目度は一億パーセント間違いなしだぞ!」


従者たちが掲げたのは、もはや布というよりは魚の鱗を敷き詰めたような、物理的に重そうなドレスでした。

直射日光を反射して、私の網膜に深刻なダメージを与えてきます。


「……お嬢様。あれ、重量だけで十キロはありそうですね。着た瞬間に膝の皿が割れますわ」


アンナが冷静に分析し、私の隣で目を細めました。


「メーサ様! あんな非効率な衣装、計算上は『一歩歩くごとにスパンコールが三枚脱落する』という、とんでもない不良品です! 返品を強く推奨します!」


ララ様も、手にした帳簿を叩きながら叫びました。


「黙れ、男爵令嬢! これは私の愛の結晶だ! さあ、メーサ、このドレスを着て私と共に王宮へ戻るのだ! そして、この輝きに跪く民衆を二人で見下ろそうじゃないか!」


ジュリアン殿下は、私の返事も聞かずにズカズカと敷地内に踏み込んできました。

あろうことか、私の大事な『防犯サボテン』を靴の先で蹴飛ばそうとしたのです。


「あ……」


私が声を上げるよりも早く、隣の生け垣から「殺気」が噴き出しました。


「……殿下。そこまでにしていただけませんか」


低い、氷点下すら通り越して絶対零度に達したような声。


生け垣を静かに乗り越えて現れたのは、騎士団長カシムでした。

しかし、今日の彼はいつもの「苦労しているお隣さん」ではありませんでした。

抜剣はしていないものの、その右手が剣の柄にかけられた瞬間、周囲の空気がピリリと震え、従者たちが腰を抜かしてへたり込みました。


「カ、カシム……。また貴様か。邪魔をするなと言っているだろう。私は今、愛の対話をしているのだ!」


「『対話』……。これを対話と呼ぶのであれば、王宮の辞書をすべて書き換える必要がありますな」


カシムが一歩、殿下へ詰め寄りました。

その巨体から放たれる威圧感に、ジュリアン殿下も思わず後ずさります。


「殿下。私はこれまで、騎士として、そして臣下として、貴方の数々の奇行に目を瞑ってきました。スパンコールの強制も、執務の放棄も、婚約破棄という名のドミノ倒しも、すべて耐えてきました」


カシムの声が、一段と低くなりました。


「ですが……。この女性の『自由』を、これ以上貴方のくだらない妄想で汚すことは、このカシム・ヴォルガード、断じて許容できません」


「な、何だと……? 貴様、私に向かって『くだらない』と言ったか!?」


「ええ、言いました。何度でも言いましょう。……貴方のしていることは愛ではない。ただの『駄々』だ。仕事もできない、空気も読めない、挙句の果てに逃げた女の玄関先でゴミ同然のドレスを広げる。……情けないとは思わないのですか!」


カシムが、ジュリアン殿下の胸ぐらを……ではなく、その豪華な外套の襟元を、ギリリと掴み上げました。

殿下の体が、わずかに浮き上がります。


「ヒ、ヒィッ……! カシム、離せ! 不敬だぞ、死罪だぞ!」


「死罪で結構。……その代わり、今この瞬間をもって、私は貴方の『お守り役』を辞任させていただきます。これからは一人の『男』として、この家の平穏を守らせてもらう!」


カシムは、ジュリアン殿下をポイ、とゴミ袋を捨てるような無造作な動作で、門の外へと放り投げました。


「うわああああっ! ス、スパンコールがあぁぁぁ!」


殿下はドレスの山の上に重なり、文字通りキラキラと輝きながら地面を転がりました。


「二度と、ここへ来るな。……次は、騎士団の規律ではなく、俺個人の『合理的な拳』が貴方の顔面に着弾することになるぞ」


カシムの冷徹な宣告に、殿下は真っ青になり、従者たちに担がれて脱兎のごとく逃げ去っていきました。

豪華な馬車が、埃を巻き上げて遠ざかっていきます。


「……。ふぅ。……すまない、メーサ。少し感情的になった」


嵐が去った後。

カシムは肩の力を抜き、照れくさそうに首の裏を掻きながら私に向き直りました。


「……。カシム、あなた。今、私のことを『この女性』って言った?」


私は、これまでにないほど心臓がバクバクと言っているのを感じながら、彼を見つめました。

騎士団長としての義務ではない、個人の意志。

それがどれほど重い言葉か、合理主義者の私にだってわかります。


「……。聞こえていたのか。……まあ、嘘ではないからな。俺はもう、お前を『隣に住んでいる元令嬢』とだけ見るのは限界なんだ」


カシムが少しだけ顔を赤らめ、視線を逸らしました。


「お、お嬢様! 聞きましたか! 今の、今の聞きましたか!」


「メーサ様! これはもう、計算するまでもありません! カシム様の好感度は、今、測定不能の限界値を突破しました!」


アンナとララ様が、背後で野次馬のように騒ぎ立てます。


「……。うるさい、お前ら。……メーサ、とにかく、あいつは当分来ないはずだ。……安心しろ」


カシムはそう言い残すと、逃げるように自分の家へと戻っていきました。


私は、彼が投げ捨てたスパンコールの欠片が、夕日に照らされて小さく光っているのを見つめました。


「……。合理主義者の計算が、狂っちゃうじゃない」


私は、熱くなった頬を隠すように、残っていた水をごくごくと飲み干しました。

自由な生活は、どうやら王子の襲来よりも、隣人の一言の方が、私をパニックに陥らせるようです。


私は空になったコップを握りしめ、誰にも見られないように、小さく、本当に小さく、今日一番の恥ずかしさを込めてガッツポーズをしました。
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