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深夜の王宮、王太子執務室。
かつては常に誰かが控えていたその部屋で、ジュリアン王太子は、たった一人で「紙の連峰」と対峙していました。
昨日の大食い大会という名の地獄を終え、メーサに突きつけられた命令。
『一晩で未処理の書類をすべて片付けること』。
当初、ジュリアンは鼻で笑っていました。
「ふん、所詮は紙切れではないか。この私が本気を出せば、朝日が昇る前には終わっているはずだ」
しかし、現実という名の怪物は、王太子の想像を遥かに超える獰猛さで襲いかかってきました。
「……。この……『関税率の変動に伴う港湾使用料の再計算書』……? 何だこれは。なぜ数字がこんなに細かい。もっとこう、四捨五入して適当に丸められないのか……!」
ジュリアンはペンを握りしめたまま、震える声で呟きました。
彼は知らなかったのです。
これまでの人生で彼が「適当に」と言って済ませてきた仕事の裏で、メーサがどれほど緻密な計算を行い、ララがどれほど必死に整合性を取っていたのかを。
「おい! 誰かいないのか! ここの計算が合わん! 誰か説明に来い!」
ジュリアンが喉が張り裂けんばかりに叫びましたが、廊下からは冷たい風の音しか聞こえてきません。
かつてなら、彼が一声上げれば、有能な官僚たちが列をなして駆けつけ、メーサが「三秒で説明しますわ」と資料を広げたはずでした。
しかし今、王宮の官僚たちは、執務室の扉の前を通る際、申し合わせたように足早に去っていきます。
「……おや、殿下。まだ終わっていないのですか?」
扉が開き、一人の老官僚が顔を出しました。
以前なら彼も、殿下の機嫌を伺い、手伝いを申し出たことでしょう。
しかし今の彼の瞳にあるのは、深い軽蔑と、諦めの色でした。
「ああ、ちょうど良い! この書類の意味を教えろ! それと、喉が渇いた。最高級の茶葉で、いつものように適温の紅茶を淹れてこい!」
ジュリアンが尊大に命じると、老官僚は鼻で笑いました。
「教える? 殿下、それは三年前の基礎教育で学んだはずの内容ですよ。……それと紅茶ですが、殿下付きの侍女たちは皆、辞職いたしました。あのおバカ……失礼、あの殿下のわがままにはもう耐えられない、とね」
「……な、何だと!? 勝手な真似を! すぐに呼び戻せ! 命令だ!」
「無理です。彼女たちは現在、アトラス公爵家の……いいえ、メーサ様の『愉快なボロ家』で再就職するための試験を受けている最中だとか」
「メーサ!? またあの女か!」
ジュリアンは机を叩きました。
「……殿下。今の貴方は、ただの『仕事のできない若者』でしかありません。メーサ様がいた頃、貴方は『自分の力で国を回している』と錯覚されていたようですが、現実はこのザマです。……ご自分一人で、その紙の山と仲良く夜を明かされることですな」
官僚は慇懃無礼に一礼すると、冷たく扉を閉めました。
部屋は、再び重苦しい静寂に包まれました。
「……。クソっ! どいつもこいつも! 私が王になったら全員クビにしてやる!」
ジュリアンは憤りながらも、再び書類に目を落としました。
しかし、文字がかすんで見えます。
いえ、文字は読めるのですが、その意味が頭に入ってこないのです。
彼はふと、メーサがかつて言っていた言葉を思い出しました。
『殿下、この一行の数字には、数千人の国民の生活がかかっています。一文字も書き間違えないでくださいね』
その時の彼は、「たかが数字ではないか、堅苦しい女だ」と笑い飛ばしました。
しかし今、一人でペンを握り、静寂の中で書類と向き合っていると、その一枚一枚の紙の重みが、まるで鉄板のように感じられました。
「……メーサ。……ララ」
彼は無意識に、自分を支えてくれていた女性たちの名前を呼びました。
厳しいけれど、常に正解を導き出してくれたメーサ。
健気に自分を慕い、慣れない仕事に必死に食らいついていたララ。
彼が「愛」だの「輝き」だのと口走っている間に、彼女たちは泥臭い現実と戦い、自分を守ってくれていた。
その守り手を、自分は自らの手で放り出したのです。
深夜三時。
ジュリアンは、ついにペンを落とし、椅子からずり落ちました。
目の前の書類は、まだ一割も終わっていません。
「……寂しい。……怖い」
王太子の口から、情けない本音が漏れました。
誰もいない、自分を称賛する声も、自分を叱る声も聞こえない、冷たい部屋。
彼は自分が、どれほど脆い砂の城の上に立っていたのかを、骨の髄まで理解しました。
翌朝。
国王陛下が執務室を訪れたとき、そこには書類の山に埋もれて白目を剥き、よだれを垂らしながら寝ている、情けない姿の息子がいました。
「……。救いようがないな。……ジュリアン、お前にはしばらく、王太子の権限を停止し、王立図書館での『蔵書整理』の刑を言い渡す」
「……はっ!? ち、父上……! お助けを!」
「うるさい。メーサ嬢から、お前の教育方針について『合理的かつ厳しい』アドバイスの手紙が届いているのだ。それに従わせてもらうぞ」
ジュリアンは、絶叫しながら衛兵に引きずられていきました。
王宮の誰も、彼を助けようとする者はいませんでした。
むしろ、彼がいなくなったことで、王宮の空気はどこか清々しく、平和に満ちていました。
一方、その頃のメーサは、ボロ家の縁側で元気にガッツポーズをしていました。
「よし! これで王宮のゴミ処理は完璧ね! 朝ごはんは、また串焼きにしましょうか、ララ様!」
「はい、メーサ様! あ、でも今日は野菜も食べましょう、合理主義的に考えて!」
ジュリアンの孤独など露知らず、彼女たちの自由な一日が、今日もまた輝かしく始まろうとしていました。
かつては常に誰かが控えていたその部屋で、ジュリアン王太子は、たった一人で「紙の連峰」と対峙していました。
昨日の大食い大会という名の地獄を終え、メーサに突きつけられた命令。
『一晩で未処理の書類をすべて片付けること』。
当初、ジュリアンは鼻で笑っていました。
「ふん、所詮は紙切れではないか。この私が本気を出せば、朝日が昇る前には終わっているはずだ」
しかし、現実という名の怪物は、王太子の想像を遥かに超える獰猛さで襲いかかってきました。
「……。この……『関税率の変動に伴う港湾使用料の再計算書』……? 何だこれは。なぜ数字がこんなに細かい。もっとこう、四捨五入して適当に丸められないのか……!」
ジュリアンはペンを握りしめたまま、震える声で呟きました。
彼は知らなかったのです。
これまでの人生で彼が「適当に」と言って済ませてきた仕事の裏で、メーサがどれほど緻密な計算を行い、ララがどれほど必死に整合性を取っていたのかを。
「おい! 誰かいないのか! ここの計算が合わん! 誰か説明に来い!」
ジュリアンが喉が張り裂けんばかりに叫びましたが、廊下からは冷たい風の音しか聞こえてきません。
かつてなら、彼が一声上げれば、有能な官僚たちが列をなして駆けつけ、メーサが「三秒で説明しますわ」と資料を広げたはずでした。
しかし今、王宮の官僚たちは、執務室の扉の前を通る際、申し合わせたように足早に去っていきます。
「……おや、殿下。まだ終わっていないのですか?」
扉が開き、一人の老官僚が顔を出しました。
以前なら彼も、殿下の機嫌を伺い、手伝いを申し出たことでしょう。
しかし今の彼の瞳にあるのは、深い軽蔑と、諦めの色でした。
「ああ、ちょうど良い! この書類の意味を教えろ! それと、喉が渇いた。最高級の茶葉で、いつものように適温の紅茶を淹れてこい!」
ジュリアンが尊大に命じると、老官僚は鼻で笑いました。
「教える? 殿下、それは三年前の基礎教育で学んだはずの内容ですよ。……それと紅茶ですが、殿下付きの侍女たちは皆、辞職いたしました。あのおバカ……失礼、あの殿下のわがままにはもう耐えられない、とね」
「……な、何だと!? 勝手な真似を! すぐに呼び戻せ! 命令だ!」
「無理です。彼女たちは現在、アトラス公爵家の……いいえ、メーサ様の『愉快なボロ家』で再就職するための試験を受けている最中だとか」
「メーサ!? またあの女か!」
ジュリアンは机を叩きました。
「……殿下。今の貴方は、ただの『仕事のできない若者』でしかありません。メーサ様がいた頃、貴方は『自分の力で国を回している』と錯覚されていたようですが、現実はこのザマです。……ご自分一人で、その紙の山と仲良く夜を明かされることですな」
官僚は慇懃無礼に一礼すると、冷たく扉を閉めました。
部屋は、再び重苦しい静寂に包まれました。
「……。クソっ! どいつもこいつも! 私が王になったら全員クビにしてやる!」
ジュリアンは憤りながらも、再び書類に目を落としました。
しかし、文字がかすんで見えます。
いえ、文字は読めるのですが、その意味が頭に入ってこないのです。
彼はふと、メーサがかつて言っていた言葉を思い出しました。
『殿下、この一行の数字には、数千人の国民の生活がかかっています。一文字も書き間違えないでくださいね』
その時の彼は、「たかが数字ではないか、堅苦しい女だ」と笑い飛ばしました。
しかし今、一人でペンを握り、静寂の中で書類と向き合っていると、その一枚一枚の紙の重みが、まるで鉄板のように感じられました。
「……メーサ。……ララ」
彼は無意識に、自分を支えてくれていた女性たちの名前を呼びました。
厳しいけれど、常に正解を導き出してくれたメーサ。
健気に自分を慕い、慣れない仕事に必死に食らいついていたララ。
彼が「愛」だの「輝き」だのと口走っている間に、彼女たちは泥臭い現実と戦い、自分を守ってくれていた。
その守り手を、自分は自らの手で放り出したのです。
深夜三時。
ジュリアンは、ついにペンを落とし、椅子からずり落ちました。
目の前の書類は、まだ一割も終わっていません。
「……寂しい。……怖い」
王太子の口から、情けない本音が漏れました。
誰もいない、自分を称賛する声も、自分を叱る声も聞こえない、冷たい部屋。
彼は自分が、どれほど脆い砂の城の上に立っていたのかを、骨の髄まで理解しました。
翌朝。
国王陛下が執務室を訪れたとき、そこには書類の山に埋もれて白目を剥き、よだれを垂らしながら寝ている、情けない姿の息子がいました。
「……。救いようがないな。……ジュリアン、お前にはしばらく、王太子の権限を停止し、王立図書館での『蔵書整理』の刑を言い渡す」
「……はっ!? ち、父上……! お助けを!」
「うるさい。メーサ嬢から、お前の教育方針について『合理的かつ厳しい』アドバイスの手紙が届いているのだ。それに従わせてもらうぞ」
ジュリアンは、絶叫しながら衛兵に引きずられていきました。
王宮の誰も、彼を助けようとする者はいませんでした。
むしろ、彼がいなくなったことで、王宮の空気はどこか清々しく、平和に満ちていました。
一方、その頃のメーサは、ボロ家の縁側で元気にガッツポーズをしていました。
「よし! これで王宮のゴミ処理は完璧ね! 朝ごはんは、また串焼きにしましょうか、ララ様!」
「はい、メーサ様! あ、でも今日は野菜も食べましょう、合理主義的に考えて!」
ジュリアンの孤独など露知らず、彼女たちの自由な一日が、今日もまた輝かしく始まろうとしていました。
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