婚約破棄、感謝!今日からただの愉快な隣人として生きていきます。

夏乃みのり

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「……ちょっと、カシム。動悸が激しいなら、今すぐ私の『薬草ハーブティー・特濃版』を淹れてあげるわ。動線的に言うと、隣のキッチンまで走れば三分以内に準備可能よ」


私は、自分を抱き寄せたカシムの腕の中から抜け出そうと、必死に「合理的な提案」を繰り出しました。


顔が熱い。耳の裏まで火が出そうに熱い。

これは、気圧の変化による毛細血管の拡張かしら。あるいは、何らかの未知の魔術攻撃を受けている可能性も……。


「……メーサ。お前、まだそんなことを言っているのか」


カシムが私の肩を掴み、無理やり視線を合わせさせました。

いつもは不機嫌そうに歪められている眉根が、今は悲しげに、そして決然と下がっています。


「お前の家の間取りがどうだとか、キッチンの配置が黄金比だとか、そんなことはどうでもいい。俺が言っているのは、家を繋ぐ話じゃない。俺たちの人生を繋ぐ話だ」


「人生の連結……。それはつまり、法的義務を伴う共同生活体、いわゆる婚姻関係への移行という理解で正しいかしら? 確かに、税制上の優遇措置や、将来的な相続における……」


「メーサ!」


カシムが吠えるように私の名前を呼びました。

私はびくりと肩を揺らし、口を閉じました。


「……いいか。一回しか言わないから、その回転の速すぎる脳みそを一旦止めて、耳だけで聞け」


カシムが私の両手を、自分の大きな手で包み込みました。

剣を握り続けてきた、硬くて温かい、頼りがいのある手。


「俺は、お前が公爵令嬢だった頃から、ずっとお前を見ていた。お前が夜な夜な王子の不始末に頭を抱え、隠れて木刀を振ってストレスを発散していたことも。お前の合理主義が、本当は誰よりも情に厚く、誰よりも責任感が強いことの裏返しだということも」


カシムの瞳に、夕日の光が反射して、琥珀色に輝いています。


「婚約破棄されて喜ぶお前を見て、俺は心の底から安心したんだ。これでようやく、お前をあの窮屈な檻から連れ出せると。……だが、お前は自由を手に入れても、相変わらず『合理主義』という新しい壁を作って俺を遠ざけようとする」


「遠ざけてなんて……。私はただ、効率を……」


「間取りの話はするなと言っただろう! 間取りじゃなくて、俺を見ろ。……俺は、お隣さんとしてお前に説教をしたいわけじゃない。一人の男として、お前を一生、俺の隣で笑わせていたいんだ」


カシムの言葉が、私の心臓にダイレクトに突き刺さりました。

それは、どんな緻密な計算式よりも正確に、私の「本当の気持ち」を導き出してしまいました。


「……カシム。あなた、それは……非常に、非合理的だわ」


私は震える声で答えました。


「私みたいな、毒蔦を育てて、串焼きを何十本も平らげて、王太子をゴミ扱いするような女。……そんなのを一生面倒見るなんて、コストパフォーマンスが悪すぎるじゃない。もっとこう、しおらしくて、家事能力が高くて、間取りにこだわらない令嬢の方が……」


「そんな女に、俺が薪割りの筋肉を見せびらかすとでも思っているのか?」


カシムが鼻で笑い、私の額に自分の額をコツンと当てました。


「お前がいいんだ。お前じゃなきゃダメなんだ。……俺の心拍数が上がっているのは、健康問題じゃない。お前への『愛』が溢れて、全身の筋肉が制御不能になっているせいだ。……わかったか?」


「……。愛……」


その言葉が、私の思考回路を完全に焼き切りました。


私は、ゆっくりとカシムの胸に顔を埋めました。

そこからは、彼の力強い鼓動が聞こえてきます。

私の心拍数も、今や彼のものとシンクロして、計測不能な領域へと突入していました。


「……わかったわよ。そこまで非合理的なことを言うなら、私も相応の覚悟を決めるわ」


私はカシムの背中に手を回し、その逞しい体をギュッと抱きしめ返しました。


「カシム。私の『これからの人生』を、あなたの間取りに連結してあげる。……ただし、私の毒蔦のスペースは確保してもらうわよ? あと、キッチンのリフォームも必須なんだから!」


「……。ああ、好きにしろ。お前の好きなように、俺の家を塗り替えてくれ」


カシムが安堵したような吐息を漏らし、私の髪に優しく口づけを落としました。


「……きゃあー!! アンナさん、見ました!? 今、騎士団長閣下がメーサ様の頭にチュッって! チュッてしましたわよ!」


「ララ様、落ち着いてください。……まあ、予想通りの着地点ですね。お嬢様の『合理的な照れ隠し』も、ようやく終わりを告げたようです」


背後の茂みから、凄まじい盛り上がりを見せるギャラリーの声が聞こえてきましたが、今の私にはどうでもいいことでした。


自由で、愉快で、少し騒がしい生活。

そこにはもう、「悪役令嬢」としての義務も、「追放者」としての不安もありません。


ただ、大好きな人の温もりと、これから始まる新しい設計図への期待だけがありました。


「カシム。……大好きよ。合理主義的に考えて、あなたが世界で一番のパートナーだわ」


「……。お前、最後までそれか。……まあ、いい。それがお前だ」


私たちは、夕焼けに染まる庭で、どちらからともなく笑い合いました。


婚約破棄されたあの日、私はガッツポーズをしました。

けれど今、私はガッツポーズをするのも忘れて、ただ目の前の幸せを噛み締めていました。


……いえ、やっぱり心の中で、史上最強に力強いガッツポーズを決めていましたけれど。
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