悪役令嬢の婚約破棄は「定時退社」です!

夏乃みのり

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翌朝。
私の目覚めは、人生で最高のものだった。

小鳥のさえずりが、まるで祝福のファンファーレのように聞こえる。
窓から差し込む陽光は、自由へのスポットライトだ。

「……おはよう、世界」

私はベッドの上で大きく伸びをした。
いつもなら侍女のアンナが「お嬢様! 起きてください! 遅刻しますよ!」と怒鳴り込んでくる時間だが、今日は静寂そのものだ。
なぜなら、今日から私は「王子の婚約者」ではない。
ただの「金持ちの娘(無職)」だからだ。

「お嬢様……起きていらっしゃいますか?」

控えめなノックと共に、アンナが顔を覗かせた。
その表情は、まるで葬式に参列するかのように沈痛だ。

「アンナ、おはよう。今日の朝食は何かしら?」

「えっ……お、お元気、なのですか? その、昨夜あのようなことが……」

「元気よ。むしろ、生まれ変わった気分ね」

私はベッドから軽やかに飛び降りた。
アンナがおずおずと差し出したガウンを羽織り、鏡の前に立つ。
そこには、目の下のクマが消え、肌ツヤが良くなった自分が映っていた。
ストレスフリー、万歳。

「さて、今日は大事な仕事があるわ」

「仕事、ですか? 謹慎なさるのではなく?」

「謹慎? まさか。鉄は熱いうちに打て、退職手続きは記憶が鮮明なうちに済ませろ、よ」

私はニヤリと笑った。
そう、昨夜の婚約破棄宣言は、いわば「口頭での解雇通告」に過ぎない。
正式にこのブラック職場(王家との縁)を辞めるには、書類上の手続きが不可欠なのだ。

「馬車の用意を。王城へ行くわ」

     * * *

王城の廊下を歩く私の足取りは、かつてないほど軽快だった。
すれ違う騎士やメイドたちが、私を見てギョッとした顔をする。
「昨日捨てられたばかりなのに」「なんて面の皮が厚いんだ」というひそひそ話が聞こえてくるが、BGMとしては悪くない。

私は迷わず、アレン王子の執務室へと向かった。
ノックもそこそこに扉を開ける。

「ごきげんよう、殿下」

「だ、ダリア!? 貴様、なぜここに……!」

執務室では、アレン王子とリリィが仲睦まじくティータイムを楽しんでいた。
まだ午前十時だぞ。
仕事をしろ、仕事を。
まあ、もう私の知ったことではないが。

「なぜ、とは心外です。昨夜の件について、事務的な手続きに参りました」

私は持参した鞄から、分厚い書類の束を取り出した。
ドサッ、と重たい音がテーブルに響く。

「な、なんだこれは」

「『婚約破棄合意書』および『慰謝料請求書』、それと『王妃教育免除に伴う引継ぎ資料』です」

「は……?」

王子の目が点になる。
無理もない。
普通、婚約破棄された翌日に、弁護士顔負けの書類セットを持参する令嬢はいないだろう。

だが、私は準備していたのだ。
いつか来るこの日のために、夜な夜なコツコツと書き溜めていた「退職願」ならぬ「破棄合意書」を。
昨夜、帰宅してから徹夜で仕上げた(アドレナリンが出ていたので眠気はなかった)。

「まずはこちら、合意書にサインをお願いします。これにより、私と王家の縁は法的に完全に切れます。後腐れなく、綺麗さっぱりと」

私は羽ペンを王子の手に握らせた。

「ちょ、ちょっと待て! 早すぎる! それにこの条文……『乙(ダリア)は甲(アレン)に対し、今後一切の関与をしない』だと?」

「はい。殿下も私の顔など二度と見たくないとおっしゃいましたよね? そのご意志を尊重し、半径五百メートル以内への接近禁止条項も盛り込んでおきました」

「接近禁止……私が、か?」

「お互いに、です。さあ、ここにサインを」

王子は狐につままれたような顔で、震える手でサインをした。
よし、第一段階クリア。

「次に、慰謝料についてです」

私は次の書類をめくった。

「い、慰謝料だと? 貴様、自分の立場が分かっているのか! 有責なのは貴様だぞ!」

リリィが横から口を挟んでくる。
私は彼女を「無」の表情で見つめた。

「有責? いいえ、法的には『一方的な婚約破棄』は、正当な理由がない限り破棄した側に賠償責任が生じます。私がリリィ様をいじめたという証拠は? 目撃証言のみで、物証はありませんよね?」

「そ、それは……みんなが見ていたし!」

「集団心理によるバイアスです。まあ、裁判で争ってもいいのですが……そうなると、殿下の『真実の愛』が法廷で晒されることになりますよ? 『次期国王が証拠もなく婚約者を切り捨てた』という事実は、外交上いささか不味いのでは?」

私は淡々と、事実だけを並べ立てた。
脅しではない。
裁判になれば長引く。
長引けば、私が領地でダラダラできる日が遠のく。
だから、ここで手打ちにしたいだけなのだ。

「ぐ……っ」

王子が言葉に詰まる。
彼は馬鹿だが、保身に関しては敏感だ。

「わ、分かった……。金なら払う。ドレスか? それとも宝石か? 王家の宝物庫から好きなものを持っていくがいい」

王子が投げやりに言った。
通常、貴族の慰謝料といえば、土地や宝石、あるいは権利書などが相場だ。
だが、私は首を横に振った。

「いいえ。現金でお願いします」

「……は?」

「ドレスも宝石も不要です。嵩張りますし、換金する手間がかかります。即金で、一括払いでお願いします。小切手でも構いませんが、できれば金貨が良いですね」

「げ、現金……?」

「はい。それと、今まで私が王妃教育に費やした時間への対価……いえ、労働賃金も精算していただきたく」

私は電卓(魔道具)を弾く真似をした。

「時給換算で……これくらいですね」

提示された金額を見て、王子とリリィが息を呑む。
高額ではない。
むしろ、王家の予算からすれば端金だ。
だが、公爵令嬢が「現ナマ」を要求するという生々しさに、彼らはドン引きしていた。

「き、貴様……守銭奴だったのか……」

「合理的と言ってください。それで、支払っていただけますか?」

「……分かった。財務官に伝えよう。これで終わりだな!?」

「はい、もちろんです!」

私は満面の笑み(営業スマイル)で頷いた。
サイン済みの書類と、支払い証明書を受け取る。
これで、私の老後……じゃなくて、ニート資金は確保された。

「では、これにて失礼いたします。お二人の末永い幸せ(と、私に関わらないこと)をお祈りしております」

私は深く一礼し、スキップしそうな足を抑えて執務室を後にした。

     * * *

廊下に出た私は、書類を胸に抱いて大きく息を吐いた。

「終わった……!」

完全勝利だ。
昨日の今日でここまでスムーズに事が運ぶとは。
私の事務処理能力、まだ衰えていなかったな。

「素晴らしい手際だ」

不意に、背後から低い声がかかった。
ビクリとして振り返ると、そこには壁に寄りかかった男がいた。

銀髪に赤眼。
昨日、バルコニーから視線を感じたあの男だ。
隣国の宰相、ルーカス・ヴァン・ハール公爵。

(げっ……一番関わっちゃいけない人がいる)

私は瞬時に「冷酷な公爵令嬢」の仮面を被り直した。
彼は「氷の公爵」と呼ばれる超仕事人間だ。
ここで無駄話をすれば、どんな厄介事に巻き込まれるか分からない。

「……ヴァン・ハール公爵。盗み聞きとは、良い趣味とは言えませんね」

「聞こえてしまったのだから仕方がない。それにしても、驚いた」

ルーカスは長い脚を動かし、私との距離を詰めてくる。
冷ややかな威圧感に、思わず後ずさりそうになるのを堪える。

「何がでしょう」

「あの書類。昨夜の今日で作成したものではないな? 以前から準備していた……いや、いつ婚約破棄されてもいいように、あらゆるパターンを想定して雛形を作っていたのか?」

(えっ)

図星だ。
いや、正確には「サボるために辞表を常備していた」だけなのだが。

「さらに、現金の要求。宝石や土地は足がつくし、管理に手間がかかる。国外へ逃亡……あるいは、潜伏して独自に勢力を築くつもりなら、流動性の高い現金こそが最強の武器になる」

ルーカスは私の顔を覗き込み、口角を吊り上げた。

「君は、王家を見限ったのだな? そして、その資金を元手に『何か』を始めるつもりだ」

(はい!?)

待ってほしい。
私はその金で、最高級の羽毛布団と、一生遊んで暮らせるお菓子を買うつもりなのだが。
なぜか壮大な野望があるように誤解されている。

「いえ、私はただ……」

「隠さなくていい。その徹底した合理主義、無駄を省く思考プロセス……実に美しい」

彼は私の手を取り、その甲に恭しく口づけを落とした。
冷たい唇の感触に、背筋がゾワリとする。

「ダリア・ローズ。君のような人材を、野に放つのはあまりに惜しい」

「は、はあ……(帰りたい)」

「どうだ、我が国に来ないか? 君のその才覚、俺の下で存分に発揮してみる気はないか」

スカウトだ。
しかも、一番行きたくない「超・実力主義」の国からの。

「お断りします」

私は即答した。

「私は疲れているんです。これからは領地で、草木を愛でながら静かに暮らす予定ですので」

「フッ……謙遜を。草木を愛でる? 君のような切れ者が、そんな隠居生活に耐えられるはずがない」

(耐えられる! むしろそれが本望!)

「才能ある人間は、相応の場所にいるべきだ。君も本音では、歯ごたえのある仕事を求めているのだろう?」

ルーカスの瞳が、怪しく光る。
ダメだ、この人。
私の言葉を何一つ「言葉通り」に受け取っていない。
全部「裏がある」と深読みして、勝手に評価を上げている。

「失礼します!」

私は彼の手を振りほどき、逃げるように走り出した。
これ以上会話を続けたら、本当に連れて行かれる気がする。

「あっ、待て!」

背後から声がするが、無視だ。
私はドレスの裾をまくり上げ、廊下を疾走した。
王妃教育で「廊下を走ってはいけません」と習ったが、知ったことか。
今は非常事態だ。

馬車に飛び乗り、御者に叫ぶ。

「出して! 今すぐ! 最高速度で!」

馬車が急発進する。
窓から後ろを確認すると、ルーカスが廊下の窓からこちらを見下ろしていた。
その表情は、獲物を見つけた狩人のそれだった。

(なんなのあの人……! 怖い!)

私は震えながら、懐の小切手を抱きしめた。
大丈夫、私は自由だ。
家に帰って、鍵を閉めて、布団に潜れば、あんな仕事中毒公爵なんて関係ない。

そう信じていた。
その日の夜、屋敷の寝室に見知らぬ黒服の男たちが現れるまでは。

「え……?」

パジャマ姿でナイトキャップを被った私の前に、屈強な男たちが整列する。
そして、真ん中の男が恭しく告げた。

「ダリア様。我が主、ルーカス・ヴァン・ハール公爵がお待ちです」

「……へ?」

「お迎えに上がりました。抵抗される場合は、多少手荒な真似をしても構わないと許可を頂いております」

「いやああああああああああああああああ!!」

私の悲鳴は、誰にも届くことなく夜の闇に消えた。
定時退社ライフ、開始一日目にして終了のお知らせである。
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