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ガタゴト、ガタゴト。
リズミカルな振動が全身を揺さぶる。
私は微睡みの中で、夢を見ていた。
最高級のウォーターベッドに揺られ、羊が一匹、羊が二匹……と数えている夢だ。
しかし、三匹目の羊がなぜか軍服を着て敬礼したところで、私は違和感に気づいて目を覚ました。
「……硬い」
背中の感触が違う。
私の愛用する羽毛布団の、あの包み込むような柔らかさがない。
代わりに感じるのは、木の板と薄いクッションの無機質な感触。
そして、ひんやりとした冷気。
私は重たい瞼を持ち上げた。
そこには、見慣れた自分の部屋の天井ではなく、豪奢な馬車の内装があった。
そして目の前には、腕を組み、不愉快なほど整った顔立ちでこちらを見下ろす男が一人。
銀髪赤眼の魔王――もとい、ルーカス・ヴァン・ハール公爵である。
「目覚めたか。随分と深く眠っていたな」
「……おはようございます。あるいは、こんばんは。ここはいったいどこでしょう? 天国ですか?」
「残念ながら現世だ。正確には、バルディス帝国へ向かう国境付近の森の中だ」
「……」
私は無言で窓の外を見た。
漆黒の闇の中を、木々がものすごいスピードで後ろへ飛び去っていく。
夢じゃなかった。
「あの、確認ですが。私、パジャマなんですけど」
私は自分の姿を見下ろした。
シルクのネグリジェに、ナイトキャップ。
足元はスリッパ。
公爵令嬢にあるまじき、完全なるオフモードだ。
「問題ない。君がどんな格好であろうと、その頭脳に変わりはないだろうからな」
「いえ、そういう問題ではなく。TPOというものが……それに、寒い」
私が身震いすると、ルーカスは無造作に自分のマントを投げて寄越した。
分厚いファーのついた、やたらと高級そうなマントだ。
「使え。風邪を引かれては業務に支障が出る」
「業務……?」
聞き捨てならない単語が耳に入った。
私はマントに包まりながら(悔しいが温かい)、彼をジト目で睨みつけた。
「誘拐犯の方にお尋ねしますが、私をどうするおつもりで?」
「人聞きが悪いな。これは『ヘッドハンティング』だ」
「本人の同意のない引き抜きを、世間では拉致と呼びます」
「同意なら求めたはずだ。昨日の廊下で」
「断りましたよね!?」
「『疲れている』と言っていたな。つまり、労働環境への不満だ。だから我が国では、君の能力に見合った最高級の環境を用意することにした」
話が通じない。
この男、私の言葉をすべて「ポジティブな交渉材料」として脳内変換している。
「いいですか、公爵様。私は『働きたくない』と言ったんです。環境がどうこうではなく、労働そのものを拒絶しているんです」
「フッ……面白い冗談だ」
ルーカスは鼻で笑った。
「君のような才能の塊が、無為に時を過ごすことに耐えられるわけがない。君の昨日の手際――婚約破棄から慰謝料請求までの、あの神がかったスピード。あれは、常に最適解を計算し続ける脳が生み出した芸術だ」
「あれは、早く帰って寝たかったからです」
「謙遜は美徳だが、過ぎると嫌味になるぞ」
ダメだ。
何を言っても「有能な策士の謙遜」として処理される。
私は頭を抱えた。
そもそも、なぜ彼がここまで私を買い被るのか謎だ。
私はただの、合理主義という皮を被った怠け者なのに。
「とにかく、降ろしてください。今ならまだ、家出少女として誤魔化せます」
「不可能だ。我々はすでに国境を越えた」
「は?」
「ようこそ、バルディス帝国へ」
馬車が大きく揺れ、停車した。
窓の外を見ると、そこには雪が舞っていた。
嘘でしょ。
私の国は温暖な気候だったのに、一晩で冬の国まで連行されたというのか。
「降りろ。俺の城だ」
扉が開かれる。
冷気が容赦なく吹き込んできた。
私はマントをミノムシのように体に巻き付け、渋々馬車を降りた。
目の前に聳え立つのは、断崖絶壁の上に建つ黒い要塞。
華やかさのカケラもない、実用一点張りの無骨な城だった。
別名「氷の城」。
住んでいる人間も氷なら、家も氷か。
「……帰り、たい」
「諦めろ。中へ」
エスコートとは名ばかりの強制連行で、私は城の中へと引きずり込まれた。
* * *
通されたのは、装飾の一切ない殺風景な執務室だった。
壁一面に本棚。
机の上には、山のように積まれた書類、書類、書類。
インクの匂いと、紙の乾いた匂いが充満している。
(うわぁ……)
私はドン引きした。
ここは地獄か。
ブラック企業の社長室か。
「過労死」という概念が服を着て歩いているような部屋だ。
「座れ」
ルーカスが革張りのソファを顎で示した。
私は言われるままに腰を下ろす。
ふかふかだ。
このソファだけは評価できる。
このままここで寝てしまいたい。
「単刀直入に言おう。ダリア・ローズ、俺の補佐官になれ」
ルーカスが向かいの席に座り、脚を組んで宣言した。
「お断りします」
私は即答した。
コンマ一秒の迷いもない。
「なぜだ。給金は王国の宰相クラスの三倍出す」
「お金の問題ではありません。私は『何もしない』という贅沢を求めているのです」
「権力が欲しいのか? ならば俺の名代としての権限も与えよう」
「いりません。権力なんて持ったら、責任という不純物が付いてくるじゃないですか」
「……ほう」
ルーカスが目を細めた。
その瞳が、またしても怪しく輝き始める。
嫌な予感がする。
「金も、権力も欲しくない、か。……なるほど。君は、もっと高次なものを求めているのだな?」
「はい?」
「『国を動かす』という純粋な知的興奮。あるいは、難解なパズルを解くような達成感。君ほどの知性があれば、俗世の欲など取るに足らないということか」
「違います。私が求めているのは『睡眠』と『二度寝』と『おやつタイム』です」
「あくまでシラを切るか。……いいだろう。ならば、実力を見せてもらう」
ルーカスは机の上の書類の山から、一束を掴んで私の前に放り投げた。
ドサッ、と重たい音がする。
「これは?」
「我が軍の兵站(へいたん)管理の記録だ。現在、北部の砦への補給が滞っており、物資不足が深刻化している。担当官たちが一週間かけても原因が特定できず、頭を抱えている案件だ」
「はあ……」
「これを解決してみせろ。もし君がこれを処理できたなら、君の待遇について再考しよう」
「本当ですか!?」
私は身を乗り出した。
「もしこれを解決したら、私を解放してくれますか? 家に帰してくれますか?」
「……解放はせんが、君の『要望』には最大限耳を傾けよう」
(要望……つまり、『一日二十時間睡眠』とか『仕事はおやつを食べるだけ』とかでも通るってこと!?)
私の脳内で、計算機が高速回転を始めた。
今ここで駄々をこねて抵抗しても、この男は私を帰さないだろう。
ならば、一度だけ「能力」を見せて(といっても適当にやるだけだが)、さっさと自由なニート権を勝ち取る方が効率的だ。
「働きたくない」という権利を勝ち取るために、一瞬だけ働く。
矛盾しているようだが、これが最短ルートだ。
「分かりました。やります。その代わり、約束は守ってくださいね」
私は書類の束を手に取った。
パラパラとページをめくる。
数字の羅列。
物資の搬入記録、輸送ルート、天候データ、在庫リスト。
普通の人なら頭が痛くなるようなデータ量だ。
だが、私は「いかに楽をするか」を極めた女。
情報の「違和感」を見つけることにかけては、野生の勘が働く。
(……ん?)
開始から十秒。
私はある一点で手を止めた。
「これ」
私は指差した。
「はい、終わりました」
「……は?」
ルーカスが眉をひそめる。
「ふざけているのか? まだ書類を開いて十秒も経っていないぞ」
「見てください、ここ。A地区の倉庫の搬入記録と、Bルートの輸送記録。日付が一日ズレています」
「……何?」
「そしてここ。馬の飼料の消費量が、この日だけ異常に少ない。つまり、この日は輸送隊が動いていないんです。でも、記録上は『輸送完了』になっている」
私はあくびを噛み殺しながら解説した。
「横領ですね。中継地点の管理官が、荷物を横流しして、記録を改ざんしてます。でも数字の整合性を合わせるのが下手すぎて、バレバレです。小学生の計算ドリルじゃないんですから」
ルーカスが書類を引ったくり、私の指差した箇所を凝視する。
彼の赤い瞳が、驚愕に見開かれていく。
「……馬鹿な。たった一瞬見ただけで、膨大な数字の中から矛盾を見つけ出したというのか?」
「見れば分かりますよ。綺麗な数字の流れの中に、汚いノイズが混じってるんですから」
私が言いたいのは「気持ち悪いからさっさと整えてスッキリしたい」という潔癖に近い感覚なのだが、ルーカスにはどう聞こえたのか。
彼は震える手で書類を置き、私を見た。
その目は、まるで伝説の賢者を見るような崇拝の眼差しだった。
「……化け物か」
「失礼な。ただの『早く寝たい人』です」
「一週間……優秀な文官たちが一週間かけて解けなかった不正のトリックを、わずか十秒で看破するとは……」
ルーカスが立ち上がり、私の前に歩み寄ってきた。
そして、ガシッと私の両肩を掴む。
「ダリア! 君はやはり、俺が求めていた至高の逸材だ!」
「あの、約束は……」
「ああ、約束しよう! 君には最高待遇を用意する! 俺の隣に執務机を置き、共にこの腐りきった国を改革する権利を与えよう! どうだ、嬉しいだろう!」
「嬉しくない!!!」
私は絶叫した。
「話が違う! 要望を聞くって言ったじゃないですか! 私の要望は『定時退社』以前に『出社拒否』なんですけど!?」
「遠慮するな。これほどの才能を眠らせておくのは世界の損失だ。君がその気なら、宰相代理……いや、もう『公爵夫人』の座を用意してもいい」
「飛躍しすぎです! なんで仕事ができると求婚されるんですか! この国には労働基準法というものがないんですか!」
「愛しているぞ、俺の策士」
「人の話を聞けぇぇぇぇぇ!!」
私の悲痛な叫びは、冷たい石造りの城壁に虚しく反響した。
こうして、私のバルディス帝国での生活は幕を開けた。
ニート志望の悪役令嬢が、ワーカーホリック公爵の「右腕(兼婚約者)」として監禁されるという、最悪のスタートと共に。
「さて、次は外交文書の添削だ。君なら三分で終わるだろう?」
「……帰りたい」
私は涙目で、山積みの書類を睨みつけた。
やるしかない。
この仕事をマッハで終わらせて、絶対に昼寝の時間を確保してやる。
そう心に誓った瞬間、私の体から「社畜のオーラ」が立ち上るのを、私はまだ気づいていなかった。
リズミカルな振動が全身を揺さぶる。
私は微睡みの中で、夢を見ていた。
最高級のウォーターベッドに揺られ、羊が一匹、羊が二匹……と数えている夢だ。
しかし、三匹目の羊がなぜか軍服を着て敬礼したところで、私は違和感に気づいて目を覚ました。
「……硬い」
背中の感触が違う。
私の愛用する羽毛布団の、あの包み込むような柔らかさがない。
代わりに感じるのは、木の板と薄いクッションの無機質な感触。
そして、ひんやりとした冷気。
私は重たい瞼を持ち上げた。
そこには、見慣れた自分の部屋の天井ではなく、豪奢な馬車の内装があった。
そして目の前には、腕を組み、不愉快なほど整った顔立ちでこちらを見下ろす男が一人。
銀髪赤眼の魔王――もとい、ルーカス・ヴァン・ハール公爵である。
「目覚めたか。随分と深く眠っていたな」
「……おはようございます。あるいは、こんばんは。ここはいったいどこでしょう? 天国ですか?」
「残念ながら現世だ。正確には、バルディス帝国へ向かう国境付近の森の中だ」
「……」
私は無言で窓の外を見た。
漆黒の闇の中を、木々がものすごいスピードで後ろへ飛び去っていく。
夢じゃなかった。
「あの、確認ですが。私、パジャマなんですけど」
私は自分の姿を見下ろした。
シルクのネグリジェに、ナイトキャップ。
足元はスリッパ。
公爵令嬢にあるまじき、完全なるオフモードだ。
「問題ない。君がどんな格好であろうと、その頭脳に変わりはないだろうからな」
「いえ、そういう問題ではなく。TPOというものが……それに、寒い」
私が身震いすると、ルーカスは無造作に自分のマントを投げて寄越した。
分厚いファーのついた、やたらと高級そうなマントだ。
「使え。風邪を引かれては業務に支障が出る」
「業務……?」
聞き捨てならない単語が耳に入った。
私はマントに包まりながら(悔しいが温かい)、彼をジト目で睨みつけた。
「誘拐犯の方にお尋ねしますが、私をどうするおつもりで?」
「人聞きが悪いな。これは『ヘッドハンティング』だ」
「本人の同意のない引き抜きを、世間では拉致と呼びます」
「同意なら求めたはずだ。昨日の廊下で」
「断りましたよね!?」
「『疲れている』と言っていたな。つまり、労働環境への不満だ。だから我が国では、君の能力に見合った最高級の環境を用意することにした」
話が通じない。
この男、私の言葉をすべて「ポジティブな交渉材料」として脳内変換している。
「いいですか、公爵様。私は『働きたくない』と言ったんです。環境がどうこうではなく、労働そのものを拒絶しているんです」
「フッ……面白い冗談だ」
ルーカスは鼻で笑った。
「君のような才能の塊が、無為に時を過ごすことに耐えられるわけがない。君の昨日の手際――婚約破棄から慰謝料請求までの、あの神がかったスピード。あれは、常に最適解を計算し続ける脳が生み出した芸術だ」
「あれは、早く帰って寝たかったからです」
「謙遜は美徳だが、過ぎると嫌味になるぞ」
ダメだ。
何を言っても「有能な策士の謙遜」として処理される。
私は頭を抱えた。
そもそも、なぜ彼がここまで私を買い被るのか謎だ。
私はただの、合理主義という皮を被った怠け者なのに。
「とにかく、降ろしてください。今ならまだ、家出少女として誤魔化せます」
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「は?」
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馬車が大きく揺れ、停車した。
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嘘でしょ。
私の国は温暖な気候だったのに、一晩で冬の国まで連行されたというのか。
「降りろ。俺の城だ」
扉が開かれる。
冷気が容赦なく吹き込んできた。
私はマントをミノムシのように体に巻き付け、渋々馬車を降りた。
目の前に聳え立つのは、断崖絶壁の上に建つ黒い要塞。
華やかさのカケラもない、実用一点張りの無骨な城だった。
別名「氷の城」。
住んでいる人間も氷なら、家も氷か。
「……帰り、たい」
「諦めろ。中へ」
エスコートとは名ばかりの強制連行で、私は城の中へと引きずり込まれた。
* * *
通されたのは、装飾の一切ない殺風景な執務室だった。
壁一面に本棚。
机の上には、山のように積まれた書類、書類、書類。
インクの匂いと、紙の乾いた匂いが充満している。
(うわぁ……)
私はドン引きした。
ここは地獄か。
ブラック企業の社長室か。
「過労死」という概念が服を着て歩いているような部屋だ。
「座れ」
ルーカスが革張りのソファを顎で示した。
私は言われるままに腰を下ろす。
ふかふかだ。
このソファだけは評価できる。
このままここで寝てしまいたい。
「単刀直入に言おう。ダリア・ローズ、俺の補佐官になれ」
ルーカスが向かいの席に座り、脚を組んで宣言した。
「お断りします」
私は即答した。
コンマ一秒の迷いもない。
「なぜだ。給金は王国の宰相クラスの三倍出す」
「お金の問題ではありません。私は『何もしない』という贅沢を求めているのです」
「権力が欲しいのか? ならば俺の名代としての権限も与えよう」
「いりません。権力なんて持ったら、責任という不純物が付いてくるじゃないですか」
「……ほう」
ルーカスが目を細めた。
その瞳が、またしても怪しく輝き始める。
嫌な予感がする。
「金も、権力も欲しくない、か。……なるほど。君は、もっと高次なものを求めているのだな?」
「はい?」
「『国を動かす』という純粋な知的興奮。あるいは、難解なパズルを解くような達成感。君ほどの知性があれば、俗世の欲など取るに足らないということか」
「違います。私が求めているのは『睡眠』と『二度寝』と『おやつタイム』です」
「あくまでシラを切るか。……いいだろう。ならば、実力を見せてもらう」
ルーカスは机の上の書類の山から、一束を掴んで私の前に放り投げた。
ドサッ、と重たい音がする。
「これは?」
「我が軍の兵站(へいたん)管理の記録だ。現在、北部の砦への補給が滞っており、物資不足が深刻化している。担当官たちが一週間かけても原因が特定できず、頭を抱えている案件だ」
「はあ……」
「これを解決してみせろ。もし君がこれを処理できたなら、君の待遇について再考しよう」
「本当ですか!?」
私は身を乗り出した。
「もしこれを解決したら、私を解放してくれますか? 家に帰してくれますか?」
「……解放はせんが、君の『要望』には最大限耳を傾けよう」
(要望……つまり、『一日二十時間睡眠』とか『仕事はおやつを食べるだけ』とかでも通るってこと!?)
私の脳内で、計算機が高速回転を始めた。
今ここで駄々をこねて抵抗しても、この男は私を帰さないだろう。
ならば、一度だけ「能力」を見せて(といっても適当にやるだけだが)、さっさと自由なニート権を勝ち取る方が効率的だ。
「働きたくない」という権利を勝ち取るために、一瞬だけ働く。
矛盾しているようだが、これが最短ルートだ。
「分かりました。やります。その代わり、約束は守ってくださいね」
私は書類の束を手に取った。
パラパラとページをめくる。
数字の羅列。
物資の搬入記録、輸送ルート、天候データ、在庫リスト。
普通の人なら頭が痛くなるようなデータ量だ。
だが、私は「いかに楽をするか」を極めた女。
情報の「違和感」を見つけることにかけては、野生の勘が働く。
(……ん?)
開始から十秒。
私はある一点で手を止めた。
「これ」
私は指差した。
「はい、終わりました」
「……は?」
ルーカスが眉をひそめる。
「ふざけているのか? まだ書類を開いて十秒も経っていないぞ」
「見てください、ここ。A地区の倉庫の搬入記録と、Bルートの輸送記録。日付が一日ズレています」
「……何?」
「そしてここ。馬の飼料の消費量が、この日だけ異常に少ない。つまり、この日は輸送隊が動いていないんです。でも、記録上は『輸送完了』になっている」
私はあくびを噛み殺しながら解説した。
「横領ですね。中継地点の管理官が、荷物を横流しして、記録を改ざんしてます。でも数字の整合性を合わせるのが下手すぎて、バレバレです。小学生の計算ドリルじゃないんですから」
ルーカスが書類を引ったくり、私の指差した箇所を凝視する。
彼の赤い瞳が、驚愕に見開かれていく。
「……馬鹿な。たった一瞬見ただけで、膨大な数字の中から矛盾を見つけ出したというのか?」
「見れば分かりますよ。綺麗な数字の流れの中に、汚いノイズが混じってるんですから」
私が言いたいのは「気持ち悪いからさっさと整えてスッキリしたい」という潔癖に近い感覚なのだが、ルーカスにはどう聞こえたのか。
彼は震える手で書類を置き、私を見た。
その目は、まるで伝説の賢者を見るような崇拝の眼差しだった。
「……化け物か」
「失礼な。ただの『早く寝たい人』です」
「一週間……優秀な文官たちが一週間かけて解けなかった不正のトリックを、わずか十秒で看破するとは……」
ルーカスが立ち上がり、私の前に歩み寄ってきた。
そして、ガシッと私の両肩を掴む。
「ダリア! 君はやはり、俺が求めていた至高の逸材だ!」
「あの、約束は……」
「ああ、約束しよう! 君には最高待遇を用意する! 俺の隣に執務机を置き、共にこの腐りきった国を改革する権利を与えよう! どうだ、嬉しいだろう!」
「嬉しくない!!!」
私は絶叫した。
「話が違う! 要望を聞くって言ったじゃないですか! 私の要望は『定時退社』以前に『出社拒否』なんですけど!?」
「遠慮するな。これほどの才能を眠らせておくのは世界の損失だ。君がその気なら、宰相代理……いや、もう『公爵夫人』の座を用意してもいい」
「飛躍しすぎです! なんで仕事ができると求婚されるんですか! この国には労働基準法というものがないんですか!」
「愛しているぞ、俺の策士」
「人の話を聞けぇぇぇぇぇ!!」
私の悲痛な叫びは、冷たい石造りの城壁に虚しく反響した。
こうして、私のバルディス帝国での生活は幕を開けた。
ニート志望の悪役令嬢が、ワーカーホリック公爵の「右腕(兼婚約者)」として監禁されるという、最悪のスタートと共に。
「さて、次は外交文書の添削だ。君なら三分で終わるだろう?」
「……帰りたい」
私は涙目で、山積みの書類を睨みつけた。
やるしかない。
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